徳川家康はたくさんの城に足跡を残した武将です。家康が江戸幕府を開いたのが61歳。それまでの家康の人生は、人質に出されていたり、織田信長の同盟者として戦に駆り出されたり、豊臣秀吉に国替えを命じられたりと、一箇所に留まることが少なく、苦労の連続だったからです。
徳川家康にゆかりが深い城は、今も地元の方々や観光客に愛され、大事にされています。この記事では、それらの城の場所や家康との関係について紹介しています。関わった城の変遷を見ていくと、家康がどれだけの苦難を乗り越えて天下人となったのかがよくわかるはずです。
徳川家康にゆかりのある城10選
岡崎城
1542年に徳川家康が生まれたのが岡崎城です。6歳より人質生活で岡崎からしばらく離れますが、1560年、桶狭間の戦いで今川義元が亡くなってのち、岡崎城へ戻り、三河地方の平定に尽力しました。
1570年に家康は浜松へ移り、岡崎城は息子の信康に任せました。家康の天下平定へのスタートを切った城としても知られています。1959年に復興され、日本100名城の一つになりました。
浜松城
浜松城(静岡県浜松市)は徳川家康が武田信玄との決戦に備えて築城しました。本丸を城郭の片隅に置き、周囲を他の曲輪で囲む梯郭(ていかく)様式の城です。しかし武田と対峙した三方ヶ原の戦いでは生涯最大の敗戦を喫してしまいます。
明治時代になって城郭は取り壊されましたが、野面積みの石垣は残されており、昭和時代になって天守閣が再建されました。江戸時代には浜松城主だった者が多く幕府の要職に就いていたことから、出世城とも呼ばれています。
駿府城
駿府は徳川家康が幼少期と大御所時代を過ごした場所です。もともと駿府には今川氏の館があり、家康は人質としてそこで暮らしていましたが、まだ駿府城はありませんでした。
駿府周辺の領主となった家康は、駿府城の築城を始めます。しかし、豊臣秀吉による国替えで江戸へ移ることになりました。江戸時代になり、息子の秀忠に将軍職を譲ると、大御所政治を行うために駿府城を修築します。秀忠の政治を見守りながら10年近くを駿府城で過ごしました。家康が息を引き取ったのも駿府城でした。
掛川城
掛川城(静岡県掛川市)は、徳川家康が武田氏に対する防御の拠点とした城です。もともとは今川氏が遠江を治めるために築城した掛川城ですが、今川氏真(うじざね)を追い詰めた徳川家康が、城を包囲したことで開城させました。家康が関東へ国替えとなる1590年までは家康の配下の者が城代を務めています。
小牧城
徳川家康が織田信長の次男信雄を助けて豊臣秀吉と戦った、1584年の小牧・長久手の戦いの舞台になった城が小牧(小牧山)城です。家康は小牧山に陣取りました。この戦いは決定的な勝敗がつかないままに終わります。秀吉の天下統一への道が明確になるとともに、家康の政治的な存在感が際立つ結果となりました。
大阪城
大坂城は徳川家康が豊臣氏を滅ぼした大坂の役の舞台となった城です。もともとは蓮如が建てた石山本願寺があった場所に、豊臣秀吉が大坂城を築城しました。難攻不落の城と呼ばれましたが、家康が1614年、大坂冬の陣の講和条件に堀を埋める条項を入れていたため、大坂城は裸同然の城にされてしまいます。
1615年の大坂夏の陣で豊臣家滅亡とともに大坂城も落城しました。その後徳川秀忠により再築されます。大坂城が再び歴史の表舞台に出るのは幕末の動乱期です。第14代将軍徳川家茂は大坂城で病により亡くなり、第15代徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いで敗けて大坂城に入城するのです。
なお、現在は「大阪城」と表記されていますが、江戸時代までは「大坂城」という表記です。
元離宮二条城
二条城は1603年、徳川家康が京都御所の守護と将軍が上洛した際の宿泊所として築城しました。1611年に家康が豊臣秀頼と会見したのも二条城です。第15代徳川慶喜が大政奉還を宣言した場所としても知られています。
二条城にある二の丸御殿は、江戸時代初期の寛永期に改修されたものが残されている、国内でも珍しい城郭遺構として国宝に指定されています。
伏見城
伏見城は徳川家康が将軍宣下を受けた城です。もともとは豊臣秀吉が隠居所として築城しましたが、秀吉は伏見城で息を引き取りました。その後、関ヶ原の戦いの前哨戦と言われる伏見城の戦いが起き、家康の側近であった鳥居元忠が覚悟の籠城戦を行い、討ち死にしました。その時に血に染まった床板などが今も京都や奈良の寺院に保存されています。
近畿における徳川氏の拠点として伏見城は再建され、家康だけではなく秀忠、家光と3代にわたって将軍宣下が行われます。しかし一国一城令により徳川幕府によって廃城とされ、建物の一部は二条城など各地の城に移築されました。
江戸城
江戸城は徳川家康が居城とし、江戸幕府が置かれた城です。1457年に城作りが得意な太田道灌によって築かれましたが、家康は大改築を行います。将軍の命令で全国の大名を動員して行われた「天下普請」で築城され、総構えの周囲の長さは約16kmと日本最大規模の城となりました。
家康は江戸城の大きさで徳川の威光を示します。以後約250年にわたり江戸幕府が置かれましたが、戊辰戦争の際、西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城は無血開城されました。現在は皇居となっています。
名古屋城
名古屋城は、1610年に徳川家康が大坂の豊臣家に対する備えとして築城した城です。ここにはもともと家康が幼少期に織田家で人質時代を過ごした那古野城がありました。金の鯱をいただいた天守や豪華な本丸の御殿などが見事で、日本の100名城の一つにも選ばれています。
江戸城と同じく天下普請だったため、石垣には手がけた武将の名前が刻まれ、今でも確認できます。家康の九男義直が入城し、江戸時代を通じて尾張徳川家の居城となりました。
徳川家康の城攻めを紹介
勝ち戦3選
1.丸根砦の戦い
丸根砦の戦いは、織田信長が今川義元の首をとった桶狭間の戦いの前哨戦と言われます。1560年、今川方の武将として徳川家康は、丸根砦に立て篭もる織田家家臣の佐久間重盛と戦います。鉄砲を巧みに用いた家康が勝利しました。
丸根砦には建物はないものの、今も郭の一部や濠が残っており、国の史跡に指定されています。
2.高天神城の戦い
高天神城の戦いは1574年と1581年に起きた、徳川家康と武田勝頼との戦いです。家康の家臣が遠江地域を治めるために城主をしていた城でしたが、1574年に武田勝頼が開城させます。
1575年に長篠の戦いで武田軍を破ると、家康は高天神城も奪還するべく兵糧攻めを行い、最後は城を焼き払いました。高天神城から援軍を求められた武田勝頼でしたが、援軍を出さずに見殺しにしてしまいます。武田家が滅亡するのは翌年のことです。
3.大坂の陣
徳川家康が豊臣家を滅亡させたのが大坂の陣です。豊臣秀吉が築いた難攻不落と言われた大坂城を、家康は冬と夏の2回に分けて攻め、少しずつ有利な状況に持ち込んで見事に陥落させました。
最大の負け戦
三方ヶ原の戦い
三方ヶ原の戦いは1572年、京都を目指して進軍していた武田信玄軍と、織田信長・徳川家康連合軍が遠江の三方ヶ原で激突し、武田軍が圧勝した出来事です。家康は命からがら生き延びますが、この戦いで多くの忠臣を失うなど、人生最大の敗戦となりました。
家康が、武田軍を追わずに浜松城に籠城していたら、結果は違っていたのではないかと言われています。
徳川家康は城攻めが苦手だったのか
徳川家康は城攻めが苦手だったのではないか?と言われることがありますが、史実を見る限りでは何とも言えません。確かに、関ヶ原の戦いに代表されるように、野戦において勝利を収めることが多く、どちらかといえば城攻めより野戦が得意だった可能性はあります。
司馬遼太郎が、斎藤道三と織田信長を扱った歴史小説「国盗り物語」で、家康のことを城攻めが苦手と書いています。これによって家康は城攻めが苦手というイメージがついたようです。
徳川家康の城に関するまとめ
東京に住んでいると、江戸城の一部を目にする機会が多くあります。桜が美しい外濠公園は、江戸城の外濠の土手を利用したものですし、北の丸公園にある武道館に近い田安門は、1636年に建てられた、江戸城の遺構として最古のもので、今も通行することができます。徳川家康は今から400年以上前の武将ですが、城の一部を通して家康の生きた時代を感じられる気がします。
江戸城以外にも、家康の時代の息吹を感じられる城や遺構が数多くあります。この記事を通して興味を持ち、実際に訪れて、家康の生きた歴史を感じてもらえたら嬉しいです。