インノケンティウス3世は、ローマ教皇の全盛期に生きた人物です。ローマ教皇権を強大なものにして、自分の意向にそぐわないヨーロッパ中のたくさんの王や皇帝を破門しました。その権力をわかりやすく表した彼の名言である「教皇は太陽、皇帝は月」はあまりにも有名です。
また、同時期に行われていたイベリア半島のレコンキスタ(再征服運動)がうまくいっていませんでした。そこでインノケンティウス3世は、ヨーロッパのキリスト教国家に一致団結を呼びかけ、士気を上げることに貢献しました。そのかいあって、1212年にムラービト朝に勝利してイスラム教より優位に立ちます。
インノケンティウス3世は、キリスト教やローマ教皇の権威を不動のものにすることに生涯かけて取り組んでいました。南フランスで、カタリ派と呼ばれるキリスト教異端が発生した際は、アルビジョワ十字軍を編成して根絶やしにしようとするほど、正統派カトリックにこだわっていました。
その反面、アッシジのフランチェスコという青年と謁見し、清貧と説教でキリスト教的隣人愛を広める役割のフランチェスコ会の発足を認めました。当時、グループを作ることは異端を生み出す可能性もあったため認められていませんでした。彼の寛容さが表されているエピソードです。
今回は、歴史的に宗教の力でヨーロッパ各地の権力者を屈服させていたローマ教皇に憧れ、歴代のローマ教皇について研究していた私はお伝えします。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
インノケンティウス3世の来歴は?
名前 | インノケンティウス3世 (本名はロタリオ・ディ・コンティ) |
---|---|
誕生日 | 1161年 |
没日 | 1216年7月16日 |
生地 | ガヴィニャーノ (イタリア中部アナーニ近郊) |
没地 | ペルージャ (イタリア中部アッシジ近郊) |
インノケンティウス3世の生まれは?
インノケンティウス3世の本名はロタリオ・ディ・コンティ。コンティ家は、イタリアの中でも裕福な伯爵家であり、彼を含めて9人の教皇を輩出しているくらいの権力を持っていました。
パリ大学で神学、ボローニャ大学で法学を学び、1190年に若くして枢機卿になるというエリートコースを歩みます。1198年1月8日に37歳で教皇に選出されました。
インノケンティウス3世が破門にした人物は?
インノケンティウス3世が破門にした人物は、フランス王フィリップ2世(破門は1198年)、イギリスのジョン王(1209年)、神聖ローマ皇帝オットー4世(1210年)です。
それぞれ破門にされた理由として、フィリップ2世は自身の離婚問題で教皇に反抗したため、ジョン王はカンタベリー司教の選出の件で対立したため、オットー4世はイタリア南部に侵入して勢力を拡大しようとしたためでした。ジョン王にいたっては、教皇の許しを得るためにイングランドを献上したことで国内で内乱が起きる事態になりました。
インノケンティウス3世の性格は?
彼の人柄が詳細に記載された文献は残っていませんが、1202年に提唱した第4回十字軍が、聖地回復という本来の目的から外れてビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻撃・占領した事実に対して激怒したり、フランス南部で盛んになっていたキリスト教異端派を根絶させようと躍起になったりしたことから、自分なりの正義感が非常に強い人物だったことが読み取れます。
ローマ教皇という立場は、唯一の「キリストの代理者」であるため、キリスト教の正しい教えを世界に広める責任があります。その責任をまっとうしようとする想いが強かったのではないでしょうか。
インノケンティウス3世は一体何がすごいのか?
すごさ1.「神聖ローマ帝国内の争いに介入した」
当時の大帝国であった神聖ローマ帝国では、1197年に皇帝ハインリヒ6世が急死。ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家で後継を争い、二重国王選挙が行われる事態に。教皇はヴェルフ家のオットー4世を推しましたが、皇帝派の推薦によりハインリヒ6世の弟であるホーエンシュタウフェン家のフィリップが次の皇帝になりました。
しかしインノケンティウス3世は調停者として間に入り、1202年には国王の世襲制を否定したり、裁判権を要求したりなど介入を続けます。その後、皇帝フィリップの勢力拡大を恐れて、教皇派の勢力と謀って1208年にフィリップの暗殺を実行したといわれています。
すごさ2.「異端派を徹底的に取り締まった」
11世紀から13世紀にかけて、キリスト教世界は異端の時代だったといわれるほど、ヨーロッパ各地では異端派が数々発生していました。中でもフランス南部のトゥールーズ地方ではカタリ派という異端が精力を爆発的に拡大していました。
それに対して、インノケンティウス3世はアルビジョワ十字軍を招集したり、各地に異端審問官を派遣したり、カタリ派を根絶させようと躍起になりました。インノケンティウス3世の異端根絶運動により、カタリ派は迫害を受けることになります。
インノケンティウス3世のの名言は?
「教皇は太陽。皇帝は月」
インノケンティウス3世の生涯歴史年表
1161年「イタリアのガヴィニャーノに誕生」
ロタリオ・ディ・コンティ、後のインノケンティウス3世はイタリア中部にあるアナ―二の近郊、ガヴィニャーノに生を受けました。コンティ家は非常に裕福で権力があったため、ロタリオは幼い頃から政界の要人になるべく英才教育を受けていたと見られます。
パリ大学で神学、ボローニャ大学で法学を学び、1190年に29歳の若さで枢機卿になります。
1198年「第176代ローマ教皇に選出される/フランス王フィリップ2世を破門する」
順調にエリートコースを歩み、枢機卿になった8年後にローマ教皇に選出されます。彼は同年のうちに、ローマ帝国領であったスポレート公国、アンコーナ、トスカーナ辺境伯への占有回復権を使って、11月に亡くなった王母コスタンツァのあとを受け、シチリア王フリードリヒ(後の皇帝フリードリヒ2世)の後見となりました。1201年に、これらの帝国領はローマ王オットー4世によるノイス条約によって、正式に教皇領になりました。
また、同時期にフランス王フィリップ2世の離婚問題が浮上していました。フィリップ2世は妻インゲボルグのことを気に入らずに勝手に離婚を言い渡し、他の娘と結婚しましたが、当時のキリスト教世界において離婚は教義に反しているとされていました。
先代の教皇ケレスティヌス3世はフィリップ2世に他の娘との結婚を無効とし、インゲボルグと死別しない内のフィリップ2世の再婚を禁止します。フィリップ2世はこれに抵抗したため、1198年に新教皇インノケンティウス3世はフィリップ2世を破門し、フランスを聖務停止とします。
1202年「第4回十字軍を提唱する」
イスラム勢力の中心であるアイユーブ朝のアル=アーディルが即位し、キリスト教への反撃を伺わせる動きがあったため、インノケンティウス3世は第4回十字軍を提唱します。しかし、この十字軍は「聖地回復」という本来の目的から逸脱していきます。
十字軍は海路の輸送をイタリア・ヴェネツィアに頼りましたが、支払う輸送料を賄えませんでした。 ヴェネツィア商人たちの利益を優先する形で進軍し、キリスト教徒の町であるザーラを襲い占領して略奪を行いました。これに激怒したインノケンティウス3世は十字軍を全て破門します。
この十字軍はさらに東ローマ帝国の帝位争いに介入し、1204年にコンスタンティノープルを征服して、ラテン帝国が建国されてしまうことに。11世紀半ばに分裂したままだった東西教会の合同を実現させるために、インノケンティウスは破門を取り消してラテン帝国を承認します。
1209年「アルビジョワ十字軍を提唱/イギリスのジョン王を破門する」
11世紀の教皇であったグレゴリウス7世が行った教会刷新運動の影響で、ヨーロッパ諸国では異端派の動きが活発化していきました。中でもひときわ勢力が強かったフランス南部のカタリ派(アルビ派)はカトリック教会を脅かす恐れがあると見られていました。
カタリ派の弾圧を目的としたアルビジョア十字軍を招集したり、異端審問官を各地に派遣して異端派の捜索に尽力したりと、インノケンティウス3世は正統派カトリックの普及に努めます。
また、1205年にカンタベリー大司教が亡くなると、修道士達が選んだ候補とイングランド王と司教が推薦した候補が共にローマへ行き、カンタベリー大司教の座を争いました。教皇権の強化を狙っていたインノケンティウス3世は両者とも認めず、代わりに彼が選んだ枢機卿をカンタベリー司教に任命します。ジョンはこれを認めず、これを支持する司教たちを追放して教会領を没収したため、1207年にインノケンティウス3世はイングランドを聖務停止とし、1209年にジョンを破門しました。
1210年「神聖ローマ帝国の後継者争いに介入してオットー4世を破門する/フランチェスコ会発足」
当時のヨーロッパ諸国では、インノケンティウス3世が発足した十字軍の遠征に伴って、国内で継承争いが勃発しました。インノケンティウス3世は神聖ローマ帝国の帝位継承争いに介入し、ヴェルフ家のオットー4世の帝位を推しました。
皇帝派によって、次の神聖ローマ皇帝は先代の弟フィリップになりましたが、インノケンティウス3世は策略によってフィリップを暗殺し、オットー4世を帝位に就けたといわれています。しかし後に、オットー4世がイタリア南部に侵入して勢力を拡大しようとしたためにに破門し、自分が暗殺した前帝フィリップの甥のフリードリヒ2世を帝位に就けてオットー4世を廃帝に追い込みました。
また、同年にイタリア・アッシジから来たという青年フランチェスコと教皇は謁見します。フランチェスコは隣人愛で結ばれた兄弟団を結成して清貧と説教によって、キリストの正しい教えを普及させてほしいという要求のためにローマに来ました。当時、異端派の動きもあって新しいグループの結成は警戒されていましたが、インノケンティウス3世は彼に可能性を感じて、カトリック教会の命令に従うという条件でフランチェスコ会を認めました。
1215年「第4回ラテラノ公会議を開く」
インノケンティウス3世は325年のニカイア公会議のような、古代の偉大な公会議に匹敵する会議をローマに実現したいと望み、多くの参加者を招きます。ドイツ、フランス、イングランド、アラゴン、ハンガリーや東方十字軍諸国の国王たちの使節、南フランスの領主、イタリア都市の代表者など、400人を越える司教、800人以上の修道院長など1500人以上が出席する大規模な公会議になりました。
インノケンティウス3世が掲げた公会議の目的は、正統信仰の保護、十字軍国家の支援、俗人による聖職者叙任権への介入の排除、異端の根絶、新たなる十字軍の編成でした。
そこで彼は歴史に残る有名な言葉を残します。「教皇は太陽、皇帝は月」という名言は、当時のローマ教皇の権力が最高潮に達していたことを端的に表しています。
1216年「イタリアのペルージャで死亡」
ローマ教皇の絶大な権力を誇示していく最中に、インノケンティウス3世は55歳で亡くなりました。イギリス、神聖ローマ帝国、フランスの君主を破門にし、政治を意のままに操れていた彼の功績もむなしく、以降のローマ教皇は盛りを過ぎたのか権力を徐々に落としていくことになります。
以後コンティ家はグレゴリウス9世、アレクサンデル4世、インノケンティウス13世と3人の有名な教皇を輩出していきました。
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ローマ教皇史 (ちくま学芸文庫)
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剣と清貧のヨーロッパ 中世の騎士修道会と托鉢修道会 (中公新書)
騎士修道会と托鉢修道会の成り立ちや役割、歴史などについて書かれた書籍。第6章から始まる托鉢修道会の1つであるフランチェスコ会の発足にはインノケンティウス3世が関わっているため、どうして修道会を認めたのか、どういう役割を与えたのかという部分で、彼の思惑や願いを垣間見ることができます。
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関連外部リンク
インノケンティウス3世についてのまとめ
インノケンティウス3世はローマ教皇権の最盛期に活躍した人物ですが、800年以上も前もラテン語文献しか残されておらず、皇帝や王とはちがって、「イエス・キリストの代理人」という神秘的な存在意義があったからこそ、その人物像など詳しいことまではわかっていません。彼が成し遂げた数々の功績から推測・判断していくしかありませんが、そこに歴史のロマンを感じられるのではないでしょうか。
インノケンティウス3世以外にも、有名なローマ教皇はたくさんいます。これを機に、世界史にローマ教皇がどのように関係してくるのか調べてみると面白いかもしれません。