『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』など、現在でもその作品が国語の教科書に必ず載っている宮沢賢治。賢治の紡ぎ出す豊かなファンタジーに心を奪われた人も多いのではないでしょうか。
実は、宮沢賢治は37歳の若さでこの世を去っています。なぜそんなに早く亡くなってしまったのか、宮沢賢治の死因を当時の時代背景などとともに解説します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
宮沢賢治の死因は?
死因は「急性肺炎」
1933年9月21日、宮沢賢治は37歳にして故郷の岩手県稗貫郡花巻町(現在の花巻市)にあった実家で息を引き取りました。死因は「急性肺炎」。ウイルスや細菌などが口や鼻から体内に入り込んで起こる病気です。
なぜ肺炎にかかったのか?
「羅須地人協会(らすちじんきょうかい)」の解散後、賢治は花巻で米作りの指導や肥料相談に東奔西走していました。そのような日々を送っていた1928年の8月、突然高熱で倒れ、病院で「両側肺浸潤(はいしんじゅん)」の診断を受けます。この病気は現在でいうレントゲンを撮ったときに肺に影が見られる状態のことで、当時は肺結核の初期症状と見られていました。
その後2年ほど自宅で療養をしていたのですが、1930年になると体調が回復し東北砕石工場の技師になります。一生懸命に働き始めたのですが、仕事で上京していたときに再び高熱を出し、翌日には花巻に戻って療養生活を再開しました。有名な詩『雨ニモ負ケズ』が書かれたのはこのころです。
病床では詩を書いたり作品の推敲をしたりしていました。病院にはかからず、薬としてビール酵母と竹の皮を煎じて飲んでいたというから驚きです。元農学校教員で植物などの効能に知識があった賢治だからこその療法だとは思いますが…。
1933年9月に地元の神社で祭りが行われ、賢治も玄関先に椅子を出して神輿の行列などを見物します。体調が急変したのはその翌日のことです。その9月20日に「急性肺炎」の診断が下され、次の日には亡くなってしまったのでした。
長引く療養生活で免疫力が弱っていたところに、お祭りを見物したことで他の人からウイルスや細菌がうつってしまったのでしょうか。いずれにしても、さまざまな才能に溢れる若者の早すぎる死でした。
1930年代当時、肺炎は「不治の病」だった
厚生労働省の統計によると、1930年代当時「肺炎及び気管支炎」は日本人の死因の第2位となっています。さまざまなウイルスや細菌によって引き起こされる病気なので、その原因菌に打ち勝てる薬がないといけません。
当時は薬の種類も少なく、また病院設備も未発達だったことから肺炎は「蔓延しやすい、危険な病気」だったことが考えられます。
ちなみに、1930年代当時の日本人の死因第1位は「胃腸炎」です。少し意外な感じがいますね。
死の間際まで優しかった宮沢賢治
1933年9月20日、「急性肺炎」の診断が下った後も賢治は農民の相談に乗っています。呼吸すら苦しいなか、寝巻きだった服を着替え1時間も相談に応じたというから驚きです。農民の帰った後、すぐに2階にある寝室に運ばれました。
20日の晩は賢治の弟・清六が付き添っていました。賢治は自分の書いた原稿を清六に託し、「もし出したいという本屋があるなら出版してもいい」と言ったそうです。賢治が存命中に出版された童話集・詩集は2冊だけなのですが、死の翌年から詩人・草野心平らの尽力により続々と出版されるようになります。
21日午前11時、賢治はとうとう血を吐きます。自分でお経を唱え、父・政次郎に日本語版の妙法蓮華経を1000部作ってくれるように頼みました。政次郎は賢治の信仰心の厚さに感嘆し、それを褒める言葉を残しています。
生前、日蓮宗の賢治と浄土真宗の政次郎は互いの宗教観の違いから何かと対立することが多い関係でした。その父親に褒められた賢治は清六に「俺もとうとう父さんに褒められた」というような感慨深げな言葉を残しています。その日の午後1時半、賢治は息を引き取りました。
賢治の死から18年後、宮沢家は日蓮宗に改宗し、お墓を花巻市にある身照寺に移しました。そのとき国柱会から賢治は「真金院三不日賢善男子」という法名をもらっています。賢治らしい法名、と感じるのは筆者だけでしょうか。
宮沢賢治の妹「トシ」の死因は?
トシの死因は「結核」
宮沢賢治は5人兄弟の長男で、弟が1人と妹が3人いました。そのなかでも特にトシという妹を可愛がっていたことで知られています。
トシは優秀な女性で東京に進学していたのですが、在学中に肺炎を発症してしまいます。一命は取り留めたものの、花巻に帰った2年後の1921年、結核を発症。翌年の11月に亡くなりました。
賢治は深く悲しみ、葬儀の後半年間は詩を書かなかったといわれています。
『永訣の朝』
トシの葬儀が行われたのは亡くなった2日後のことなのですが、その2日間で賢治は3つの詩を書いています。その1つが「永訣の朝」です。
けふのうちに
とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ
みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
このように始まる「永訣の朝」からは、トシを見送る賢治の気持ちが痛々しいほど伝わってきます。時折挟まれる「(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)」「(Ora Orade Shitori egumo)」などの東北弁も胸に刺さります。ぜひ読んでみてください。
まとめ
宮沢賢治の死因について、当時の時代背景や賢治の人柄に触れながら解説してきました。いかがでしたでしょうか。
先ほどご紹介した『永訣の朝』をはじめ、賢治の詩や童話には「死」を描いたものが多くあります。文学作品で「死」を描くということは、逆説的ですが「生」を描くことにほかなりません。私たちは「死」を描いた文学を読むことで「生きるとはどういうことか」「よく生きるとは?」などと思いをめぐらせることができます。
ぜひ、宮沢賢治の書いた作品を読んでみてください。そして「生きるということ」を改めて考えてみてもらえたら、とても嬉しいです。