「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」など、人智を超えた自然の力を美しく描いた童話の数々で知られる宮沢賢治。国語の教科書などで作品を読んだことがある人も多いでしょう。
作品を読んでいくうちに、「そういえば、宮沢賢治には今でも子孫がいるの?」と興味をもった人もいるのではないでしょうか?この記事では、宮沢賢治の子孫のことを賢治の恋愛観や女性関係、さらに弟さんについて解説します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
宮沢賢治に子孫はいるのか?
最初に結論をいうと、宮沢賢治は生涯を独身で通し、子どもをもちませんでした。そういうわけで賢治の直系の子孫はいないのですが、弟さんの子孫を辿ることができます。兄弟の話は後にとっておくとして、まずは賢治の恋愛観や結婚話についてみてみましょう。
宮沢賢治の恋愛観
宮沢賢治というと、菜食主義者で禁欲的な生活をした人というイメージをもっている人も多いでしょう。確かに、賢治はある時期から肉や魚を食べず、過度に節制をしていました。それでは、女性関係はどうだったのでしょうか?
賢治には確かに女性との恋愛関係を絶っていた時期があります。友人に「性欲を戒めなければいい仕事はできない」と話し、自身の欲求と戦っていたといわれています。しかし、晩年には禁欲的な生活について「何もならなかった」という結論に達したようです。
ちなみに、賢治は盛岡中学を卒業した18歳のときに、岩手病院の看護婦さんに初恋をしたといいます。さらに、盛岡高等農林学校の学生だったころには後輩の保阪嘉内と親しくなり、「恋人」と呼び合ったり親密な感情をしたためた手紙を送ったりしていました。女性にも男性にも恋愛(に近い)感情を抱いていたようです。
宮沢賢治と結婚話のあった女性
宮沢賢治は農学校の教員だったころ、たくさんの見合い話を持ち込まれています。そのどれも断ってしまったのですが、退職後に強く結婚を迫ってきていたのが高瀬露(たかせ つゆ)という女性です。
高瀬露は当時花巻にあった小学校の教員で、宮沢賢治とは農業の講習会や音楽サロンを通じて知り合いました。賢治も最初は彼女のことをありがたがっていたのですが、露の情熱に気おされたのか次第に迷惑がるようになります。3年ほどそのような関係が続いていたのですが、1930年の秋ごろに終わりを告げました。
その後、知人の妹である伊藤チエとの見合いもあったのですがこちらも実を結びませんでした。賢治はあまり結婚というものが眼中になく、それよりも自分のやりたいことや表現したいものに意識がいっていたようです。
宮沢賢治の弟の宮沢清六さんの子孫について
宮沢賢治は5人兄弟の長男で、弟が1人と妹が3人います。宮沢清六さんは賢治より8つ年下の弟で、賢治作品の出版に大きく貢献しました。賢治が亡くなるとき、そばにいて未出版の原稿を託されたのが清六さんです。
清六さんは2001年に亡くなりましたが娘さんがいて、さらにお孫さんもいます。お孫さんは宮沢和樹さんといい、JR花巻駅近くで「林風舎」というカフェを開いています。賢治の名作「注文の多い料理店」に出てくる「山猫軒」をイメージしたカフェで、賢治作品にまつわるメニューのほかグッズも販売しています。
和樹さんは賢治の作品に対する清六さんの思いを受け継ぎ、講演活動も行っています。2015年に宮沢賢治記念館がリニューアルしたときは展示監修に携わりました。宮沢賢治の作品は脈々と受け継がれていっています。
宮沢賢治 子孫に関するまとめ
宮沢賢治の子孫について、彼の恋愛や弟の清六さんのことを交えながらご紹介してきました。いかがでしたでしょうか。
「文学作品は作品のみを味わうもの」という考え方もあるかもしれません。けれども、筆者は宮沢賢治についてのエピソードを知れば知るほど作品への理解が深まっていくのを感じました。花巻や和樹さんのカフェ「林風舎」を訪れるとまた違った理解の仕方も生まれるかもしれません。
お気に入りの作家や文学作品があったら、ぜひ色んな楽しみ方をしてみてください。この記事のように作家の子孫を辿ってみるのも面白いでしょう。きっと今までと違った見方が生まれてきます。