芥川龍之介の死因は自殺?その理由や最期の様子、周りに与えた影響を解説

芥川龍之介の死因は、『ベロナール』と『ジェノアル』という「睡眠薬」の多量摂取によるものです。1927年の7月(当時35歳)のことでした。ただ、この事実はあくまで通説であって、当時の科学捜査技術では正確な死因は”わからない”とされています。

死因の主要因となったのは睡眠薬。ちなみにマリリンモンローも自殺の際にこの睡眠薬を利用した。

非常に多くの作品を遺し、教科書に採用されるような短編小説の名手として現在でも有名な彼ですが、その一方で35歳という若さで突然この世を去ったことでも知られています。

当時の文壇におけるスター作家だった彼の死は、非常に多くの読者や、後の世の”ある文豪”の性格形成に大きな影響を与えたようです。もしかすると芥川は、現在でいう所の”アイドル”や、もしかすると”教祖”のような存在だったのかもしれません。

芥川龍之介

この記事では、そんな”アイドル小説家”だった芥川龍之介の「死」について、深掘りしていきたいと思います。「芥川龍之介の死因」や「その死が周囲に与えた影響」を中心に解説していきます。

この記事を書いた人

Webライター

ミズウミ

フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。

芥川龍之介の死因は何?

芥川の死因が「服毒自殺」であるということは、この記事に興味を持って読んでくださっている皆様のほとんどが知っていることだと思います。

遺作となる『続西方の人』を書き上げた芥川は、まだ夜も明けやらぬ未明に、自らの部屋でひっそりと服毒。雨が降りしきる未明の自室で、文豪はひっそりとその短い生涯を終えたのです。

となると、「自殺がなければ、芥川は更に長生きして作品を量産できたのに」と思う方がいらっしゃるのも必然でしょう。ですが筆者としては、その考えに首を縦に振ることはできません。

芥川龍之介

自殺当時の芥川は、神経衰弱や腸カタルを患っており、「余命いくばくもない」というほどではないものの、けっして作品を量産できる状況ではなかったと言えます。事実として、この時期の芥川の作品数は目に見えて減少しており、彼の体調を心配する作家仲間からの手紙も、この時期になると一気に数が増加しています。

更に悪いことに、保険金詐欺の濡れ衣を着せられた義兄の自殺もこの時期に重なっていたため、この時期の芥川が、肉体的にも精神的にも追い込まれていたというのは、想像に難くありません。

ですので、この自殺については「起こるべくして起こった事柄」だと捉えるのが妥当なようにも思えます。けっして肯定できることではない、非常に残念な事件ではありますが、『河童』や『歯車』などの晩年の傑作を読んでいくと、これが”芥川龍之介という人物”に訪れる、ある意味で必然の結末だったのかもしれない、とも感じられるのです。

死因は服毒による自殺

先のトピックで示した通り、芥川の死因は「服毒自殺」です。

しかし一口に「毒」と言っても様々な種類があり、実際、芥川が自殺に用いた薬品については、現在も見解が分かれている部分となっています。当時は現在ほど科学捜査技術が進んでいなかったため、その部分の真相は、現在の我々にとっては”藪の中”となってしまっているのです。

芥川の使用した薬品について、通説では「ベロナール」と「ジェノアル」という睡眠薬だとされています。

睡眠薬を飲んで死んだ芥川

その理由としては、精神科医である斎藤茂吉(さいとうもきち)と芥川には交友があったこと。晩年の芥川は不眠症を患っていたため、比較的簡単に睡眠薬を手に入れやすい環境にあったことなどが上げられます。そのような状況証拠や、晩年の芥川の言動や行動などから考えても、自殺に睡眠薬が用いられたと考えるのは非常に妥当な考えのようです。

一方で、芥川の主治医だった下島勲(しもじまいさお)の日記を根拠として、「青酸カリ」による服毒自殺であるという説も根強く残っています。「ベロナール」等と比べると、手に入れるのが難しい劇薬ではありますが、芥川が計画的に自殺を企てていたと見られる手記の記述などから、この説も決して荒唐無稽な説だとは言い切れません。

重ねて言いますが、芥川の自殺の真相は、現在でもわかってはいませんし、おそらく未来永劫、確定的な結論が出ることはないでしょう。

しかし、こういった一種の”謎”を遺していったからこそ、芥川龍之介の文名は現在も高まり続けているとも言えます。決して歓迎できる事件ではありませんが、芥川龍之介という作家を語るうえで、その死に際した謎は、欠かすことのできないファクターの一つなのです。

自殺直前の芥川


自殺直前、とりわけ晩年の芥川の気性は、この記事のような解説文を読むよりも、『河童』や『歯車』などの作品を読んだ方がつかみやすいかと思われます。特に『河童』は、晩年の芥川の”病”的な心境を最も深く表した作品として、物語としてだけでなく研究資料としても使われているほどの作品です。

元々「夢と希望に満ちた物語」を描くタイプの作家ではない芥川でしたが、晩年の作風はより陰鬱なもので、とりわけ「死」について扱う作品が急増しています。

友人への手紙や手記なども、自殺をほのめかす文章があったり、「死」についての考えが記されていたりと、晩年の彼の思考の片隅に、いつも「死」という考えが纏わりついていたことは、その頃の文章自体に端的に示されているのです。

他にも、自殺直前に芥川と会っていた友人であり作家仲間の内田百閒(うちだひゃっけん)は、「大量の睡眠薬でべろべろになっていた」「起きたと思ったらまた眠っているような状態だった」と、芥川の異常な状態を手記に記録しています。恐らく、体を睡眠薬に慣らして、苦痛なく死ねるように準備していたのでしょう。

一方で、自殺の直前には妻や友人たちに”自殺をほのめかす言葉”を数多く残しているため、「狂言自殺のつもりだったが、失敗して本当に死んでしまった」という説も存在しています。

はた迷惑な話にも感じますが、当時の芥川の状況を考えると、あり得ないとも言いきれない非常に不思議な説となっています。事実、芥川は自殺直前に一度、不倫相手と自殺未遂騒動を起こしているため、「狂言自殺のつもりだった」という説も、あながち否定しきることはできません。

どちらにせよ、死の真相は”藪の中”。現在の我々に出来るのは、仮説を立てて思考実験をすることしかありません。

なぜ自殺したのか?

これに関しては、”芥川龍之介”という人物の人生全てをひっくるめて解説する必要が出てくるため、このトピックでは簡単な解説のみとさせていただきます。

芥川の自殺の理由についてですが、一般的には遺書にある「ただぼんやりとした不安」という言葉が、その自殺の理由にあたるとされています。

言葉の内容同様、非常に”ぼんやり”として内容がつかみにくい言葉ですが、作品の中に現れている芥川の思想や、幼少期からの来歴、手記の記述などを総合的に考えていくと、芥川の精神が追い詰められていった理由を表すには、これ以上ない言葉だと言えるでしょう。

ですので、ここでは「『ただぼんやりとした不安』を抱えて、芥川龍之介は自殺した」ということだけ覚えておいていただければと思います。

この「ただぼんやりとした不安」については、別の記事で解説を予定していますので、続報をお待ちください!

芥川の死が周囲に与えた影響

家族と映る芥川龍之介

ともかく、「ただぼんやりとした不安」の末に、人気絶頂期に突如として自殺を選んだ芥川龍之介。その死はやはり、多くの人物に多大な影響を与えたようです。

作家仲間だった室生犀星(むろうさいせい)は、自殺直前の芥川に訪ねられたが、ちょうど入れ違いで会うことができず、「その時に会っていれば、自殺を思いとどまらせられたかもしれない」という悔恨の気持ちを抱いたことを手記に残しています。また、犀星は晩年に、芥川の作品『河童』にちなんだ句を遺しており、芥川の死が犀星に与えた影響の深さを物語っています。

また、芥川の妻である芥川文は、芥川の遺体に「お父さん、よかったねぇ」と声をかけたというエピソードを遺しています。出典が明確ではない噂話ですが、もしかすると龍之介と文の間には、夫婦でしかわからない何かがあったのかもしれません。

ともかく、文壇や人物だけでなく、非常に広い範囲に影響を与えた芥川の自殺事件。

以降のトピックでは、芥川の死に特に影響を受けたと思える事柄をいくつかピックアップし、解説していきます。

文豪「太宰治」の原型

芥川に大きく影響を受けた太宰治

芥川の後に分断を席巻することになる文豪・太宰治が、熱烈な(そして若干気持ち悪いほどの)芥川フリークだったことは文豪好きの間では有名です。

事実、晩年の太宰の迷惑三昧の奇行は、ある意味で芥川の晩年の振る舞いとも少し似ているため、太宰が芥川の振る舞いに非常に強い影響を受けていたと考えるのも、けっして間違ってはいないでしょう。

なかでも、芥川の自殺を知った太宰が「作家とは、このように死ぬのが本当だ」と口にしていたと言うエピソードが、太宰の芥川リスペクトを示す最たるエピソードでしょう。事実として、太宰も芥川と同様に自殺によってこの世を去っているため、そういった「死に様」に芥川から影響を受けたというのは、ほとんど間違いないと言えそうです。

とはいえ、恵まれた生い立ちの太宰と、幼少期に精神的な負担が多かった芥川など、二人の間には明らかに違う点も見て取ることができます。それぞれの生い立ちなども考えると、太宰の行動はあくまで「芥川龍之介の”外形”をなぞったもの」とも受け取れそうです。

芥川に勝るとも劣らない文才で名を馳せた、偉大な文豪である太宰治ですが、その一方で「芥川の厄介オタク」とも言える側面を持ち合わせていた、「少々はた迷惑気質なファン」だったとも言えるかもしれません。

熱狂的な芥川ファン・”芥川宗”

「芥川の自死」に影響を受けたのは、太宰治や室生犀星などの、文壇の作家たちだけではありません。

自殺当時の芥川は、まさに押しも押されぬ大人気作家。人気絶頂期の人物が突然この世を去ったときに何が起こるのか。思い当たるニュースがある方も、決して少なくないのではないでしょうか?

結論から言うと、芥川の死からしばらくの間、若者たちの自殺事件が急増しました。芥川の文学作品に熱狂し、非常に強い影響を受けていた彼らは、芥川龍之介という作家の死に強いショックと影響を受け、次々と自らの命を絶ったのです。

そんな彼らは「芥川宗」と呼ばれ、一躍社会問題ともなりました。今も昔もファン心理というものは変わらず、一歩間違えるだけで非常に厄介なものとなります。「聖地巡礼」などが話題になる昨今ですが、何かの「ファン」を名乗るのであれば、周囲や家族・子孫などにも配慮した、節度を持った行動を心がけたいものです。

その命日・”河童忌”と、芥川賞

芥川の晩年の作品にちなんだ「河童忌」

芥川の命日である7月24日は、現在では「河童忌」と名付けられ、芥川に縁のある場所では様々な催しが行われています。

この「河童忌」は、芥川の晩年の作品であり、その思想が最も色濃く反映されている『河童』という作品に由来しています。単純な物語としてはもとより、晩年の芥川の陰鬱な思想がよくわかる作風となっていますので、宜しければ挑戦してみてください。

また、日本有数の文学賞である「芥川賞」も、芥川の業績を記念して、彼の死後に友人の菊池寛が立ち上げた文学賞です。1年に2回の発表が行なわれるこの賞は、既に150回目を超えており、日本有数の偉大な文学賞として、芥川が文壇に与えた強い影響を物語っています。

芥川龍之介の死に関するまとめ

日本を代表する文豪として、今も衰えない有名と人気を保ち続ける芥川龍之介。

その死は「若くしての服毒自殺」「不明瞭な動機」というセンセーショナルさも相まって、当時の社会に非常に大きな影響と爪痕を遺したようです。

肉体的にも精神的にも追い込まれ、自殺へと傾いてしまった芥川ですが、その生い立ちや苦しみに満ちた心境などを知ると、その選択もある意味で「仕方のない結末だった」と思えて仕方ありません。

「まだ作品を作り続けてほしかった」というファンとしての願望と、「やっと苦しみから逃れられたようでよかった」というある種の安堵が交錯する、一ファンからしても非常に複雑な事件こそが、「芥川龍之介の死」という日本文学史上の大事件なのです。

それでは、本記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました。

「ただぼんやりとした不安」についての解説は、続報をお待ちくださいませ!