多くの武将が覇を競い合い、多くの英雄英傑が生まれた戦国時代。
そんな時代の中、自身の知恵と頭脳を武器に立ちまわった「軍師」という存在は、武将とはまた違う魅力的な存在として、戦国マニアや歴史好きの心を掴んで離しません。
そんな「軍師」の中でも一等有名な人物の一角が、秀吉に仕えた天才軍師・竹中半兵衛。
内部犯としてとはいえ、あの織田信長が攻め落とせなかった城を数名程度の手勢で制圧する智謀の冴えを見せ、秀吉の腹心として数々の献策を行いながら、病によって秀吉の大成を見届けることなく散った半兵衛の生涯は、現在でも様々な物語の題材として描かれ、多くの人に感動を与えています。
ですが、竹中半兵衛の事を「病没した天才軍師」とは知っていても、「何の病気に倒れたのか」まで知っている方は意外と少ないのでは?
ということでこの記事では「竹中半兵衛の死因」について説明していきたいと思います。
この記事を書いた人
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フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。
竹中半兵衛の死因はなんだったのか?
その生涯のドラマ性もあって、ドラマやゲームなどで良く取り上げられる人物でもある半兵衛。そんな半兵衛の病の描写としては「咳き込んで血を吐く」という描写が成されることが一般的です。
この描写は歴史書にも根拠がある描写であり、半兵衛の体を蝕んだ病は、一般的には「肺の病である」とされています。
とはいえ、元々記録自体が多くはない人物なだけに、その病状がどうだったのか、いつ頃に発病したのかについては、僅かな資料を頼りに類推するしかないのが現状です。
ということで、ここでは現在通説だとされる説と、その反証として根強い説を紹介していきたいと思います。
通説は肺結核
半兵衛の体を蝕んだ病として、現在通説とされている病です。
後の世の英雄である沖田総司、高杉晋作らの命を奪った”死病”であり、「喀血を伴う重度の肺病」であることから、半兵衛の病の条件としては確かに当てはまる病だと言えるでしょう。
当時の価値観からすると「治る見込みの全くない病」であったことからも、半兵衛が「死期を悟って」療養を辞して陣に戻ったことも、彼を蝕んでいた病が肺結核だったと考えれば、筋道が通ることになります。
とはいえ、「半兵衛の病=肺結核」と断じるには、「発病が明らかになってから(隠し切れなくなってから)、病没するまでの期間が短すぎる」と言う反論も存在しています。
半兵衛の病没は、病が隠し切れない状況になってから僅か2か月もしない間の事であり、病を隠していたとしても「そもそも隠し通すことができるのか?」という疑問も生じます。
元々「線が細く、女性のように肌が白かった」という記述がされていた半兵衛ですが、肺結核の症状が出ていたなら、おそらく誰かしらがその異常事態に気づいていたのではないかとも思えますし、いくら半兵衛がやせ我慢で病状を隠していたとしても、それにだって限度があったことでしょう。
部下や親しい武将たちになら「内緒にしておいてほしい」と頼むことだってできたかもしれませんが、見た目に痩せてくる肺結核の場合、そもそも誰でも見た目に異常を理解できてしまいます。
以上の点から、肺結核というのは確かに通説ではありますが、「確定」というにはもう一歩証拠が足りない説だとも言えるでしょう。
肺炎だったという説も
「肺結核説」に対する反証として主張される、これも有力な説の一つです。
半兵衛を冒していた病が「肺(胸)の病」というのは先述している通りですが、これは「発病から病没までの間が短く」「病状を隠すことも不可能ではなかった」という部分から主張されている説だと言えるでしょう。
記録上、半兵衛の病は「いきなり隠し切れなくなった」という形で明らかになっているため、「最初は持病的に持っていた咳として誤魔化していたが、肺炎の悪化によって喀血が始まり、それによって隠し切れなくなった」と考えれば、確かに説として無理があるわけではありません。
しかし、半兵衛の死因を肺炎だとするならば、療養に向かった半兵衛が「自分の死期を悟って戦場に戻った」という部分に、少しだけ疑問が生じる事にもなります。
肺炎は確かに苦しい病で、重症化すれば命に係わる病気ではありますが、それでも当時からしても「治る病」ではありました。「死期を悟った」というのが半兵衛の早とちりであったとすれば筋は通りますが、竹中半兵衛という人物の冷静さを考えると、若干違和感の残る説でもあります。
そもそも、竹中半兵衛という人物は、秀吉に仕える以前から「線が細く病弱」と記述が成されている人物ですので、その記述から考えても「いきなり発病する肺炎」よりは、「徐々に体を蝕んでいく肺結核」と考えた方が、筋が通りやすいと考えることも可能です。
ですので、「肺炎説」も「肺結核説」と同様に、「有力ではあるが事実とは言い切れない説」の一つであると言えそうです。
半兵衛、最期の2か月間
ともかく、先のトピックで説明させていただいた通り「肺(胸)の病」でこの世を去ることになった、天才軍師・竹中半兵衛。
ともあれ、実は半兵衛の死に際には、途方もないドラマ性と半兵衛の凛としたカッコよさがよくわかるエピソードが残されています。
このトピックでは、そんな半兵衛の「最期の2か月間」を簡単に紹介していきたいと思います。
記録上は「いきなり発病」
半兵衛の発病が明確に記録されたのは、秀吉が三木城攻めをしている際の陣中。それまでの間、少なくとも歴史書に半兵衛の病矢喀血については記録されておらず、この点が半兵衛の病の正体の特定を難しくしている一因となっています。
元々咳き込むことは多く、「病弱で線が細い」と記録されていた半兵衛でしたが、この陣中で彼は初めて明確に血を吐いて倒れ、集まっていた諸将を動揺させたのだと言います。
とはいえ、秀吉の三木城攻めの最中と言えば、あの黒田官兵衛が荒木村重に囚われている最中。つまり、半兵衛が陣を抜けることは、秀吉を支える頭脳の二大巨頭が不在になることを示しています。
そんな事情もあってか、目覚めた半兵衛は何食わぬ顔で陣に戻り、軍務に戻ろうとしました。しかし、そんな彼を訪ねてきた秀吉は、「京都で療養をしてはどうだ」と提案するのです。
その言葉を何食わぬ顔で躱そうとする半兵衛でしたが、秀吉はそれを許さず、半兵衛に対して何度も療養を勧めます。これに関しては「半兵衛という「戦力」を失えない」という思惑もあったかもしれませんが、どちらかと言えば「半兵衛に対する友情」を感じさせる振る舞いです。
そして、そんな秀吉の説得についに折れた半兵衛は、京都で療養することを承諾。最低限の献策だけを残して、一度は三木城攻めの陣を去ることになるのです。
療養を辞して戦場に散る
こうして京都での療養生活に入った半兵衛。しかし病状は良くならず、むしろ悪化の一途をたどっていったようです。
そして、そんな孤独な病との戦いが始まってから一か月が経った頃、半兵衛はひそかに京都を出立。そして、三木城攻めの陣幕に戻ってきてしまったのでした。
戻ってきた半兵衛の姿を見て、秀吉は驚いてようです。「もっとしっかり養生せよ」「こちらはなんとかやれているから、心配はいらない」と、秀吉は彼を京都に送り返そうとします。
しかし、半兵衛はその言葉を聞きませんでした。
どうせ死ぬのなら、私は武士として戦場で死にたいのです
そう言い切った半兵衛に、秀吉は何も言えなかったのでしょう。そうして戦線に復帰した半兵衛は、三木城攻めのみならず、その後に控えるだろう戦の策や、囚われた黒田官兵衛の息子を救うための方策までもを残して、そのまま陣中でこの世を去ったのです。
享年は36歳。辞世の句すら残っておらず、半兵衛は戦の最中の忙しさの中で――けれど、彼自身が望んだ状況で、病によってこの世を去ったのでした。
戦国最高の軍師の死は、秀吉の陣中に大きく動揺を与えたらしく、特に秀吉は半兵衛の死を知ると、人目もはばからずに大きく声をあげて泣き、彼の死を悼んだのだといいます。
そして、半兵衛の死からしばらくして救出された黒田官兵衛は、半兵衛の遺した方策によって、「殺された」と聞かされていた息子・松寿丸と再会。
息子を救ってくれた半兵衛に深く感じ入った官兵衛は、形見として渡された軍配と軍団扇を終生大事に扱った他、半兵衛の息子が元服するまで面倒を見、様々な事柄の相談役になるなど、竹中家を常に気に掛けていたと言う逸話が残されています。
病によって早逝してしまった半兵衛ですが、彼の遺志は黒田官兵衛を筆頭に、様々な人々に受け継がれていったのです。
竹中半兵衛の死因に関するまとめ
戦国時代きっての頭脳を持ちながら、病によって志半ばでこの世を去ってしまった竹中半兵衛。
そんな彼の命を奪った病の正体は、現在でも「ハッキリとはわかっていない」と言うしかなく、様々な研究機関による新たな発表を待つことしか、我々にできることはありません。
とはいえ、肺結核にせよ肺炎にせよ、呼吸器系の病に伴う苦しみの中でも、主君の天下統一のために、竹中半兵衛が自分の命を燃やし尽くしたことは事実。
期間こそ短かったとはいえ、半兵衛の存在なくして「秀吉の天下統一」は存在しなかったというのは、ほとんど確定的だと言っても良いのではないでしょうか?
それでは、本気にお付き合いいただきまして、誠にありがとうございました。
宜しければ「竹中半兵衛について」解説した記事もご覧になっていただけると光栄です…!