「ピアノの詩人」と呼ばれるショパンは、繊細で叙情的な多くの名曲を残した作曲家です。ショパン自身、繊細な性格であったことから、それが作品にも色濃く表れていると言われています。
生まれ持った才能があった、繊細であるがゆえに神経質な性格であった、など性格については様々な説があります。ショパンは39歳という若さでこの世を去りますが、短い生涯の中で出会った人物によって彼の性格にも変化があったようです。
この記事では、実際のエピソードからショパンの性格から、性格形成に影響を与えた人物、性格が読み取れる作品を紹介していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ショパンはどんな性格だった?
幼少期から天才だった
ショパンは、1810年ポーランドのジェラゾバ・ボラという町に生まれますが、幼少期から音楽の才能に溢れていました。ショパンが天才であったことを伝える、数々のエピソードが残っています。
ショパンの両親はともに音楽好きで、父親はヴァイオリンやフルート、母親はピアノの演奏を得意としていました。両親の演奏を耳にするなかで音楽に興味を示すようになったショパンは、母親の弾くピアノの下にもぐってまで聴き入っていたそうです。そして、聴いた曲をすぐに再現できたと言われ、新たな音楽を作ろうと作曲にも興味を示すようになります。
6歳の時に本格的にピアノを習い始めたショパンは、その才能を認められ7歳の時には公演を行うようになり、最初の作品である「ポロネーズ」を作曲したことも分かっています。これをきっかけにショパンは神童として名を広めていくことになりました。
音楽の才能だけでなく、ものまねや絵を描くことも得意で、学校ではクラスの人気者だったそうです。幼少期から多彩な才能に恵まれていたショパンは、感受性豊かで表現力に長けていたことが分かります。
ショパンは神経質だった
ショパンは美しい旋律と柔らかい印象の曲が多いため、弱々しく繊細な人物であったというイメージが強いですが、神経質な性格であったとも言われています。誰かの何気ない一言で激しく傷ついたり、怒りをあらわにしたりなど、自分自身の妄想で感情が高ぶってしまうことも多かったようです。
ショパンは大きなホールでの演奏よりも、文人や芸術家が集うサロンでの演奏を好んでいました。ショパンの、「僕は演奏会を開くのに向いていない。大勢の前にでるのが怖い。みんなの息づかいに胸が苦しくなり、好奇に満ちた目に体が硬直して、知らない人たちの前では物も言えなくなる。」という言葉からも神経質さが読み取れます。
神経質な性格から音楽以外では、人との関わりをあまり持たなかったショパンですが、神経質で些細なことが気になってしまう性格が、作品の細やかな表現に繋がっていることは間違いありません。
ショパンは病弱だった
ショパンは音楽の才能に恵まれましたが、39歳という若さでこの世を去ります。死因は諸説ありますが、結核であったと言われており、19歳の頃のショパンが描かれた肖像画にはすでに結核を患っていたと思われる特徴が見られます。
幼少期は、体が弱く行動が制限されこともありましたが、ユーモアにあふれる性格で活発な一面もあったようです。しかし、年を重ねるごとに病気も進行していたのか、晩年にかけては表立った行動をすることが少なくなっていきます。
ショパンは生涯を通して病を抱えながら生活しており、その中で数々の名曲を生み出しました。常に病という不安を抱えていることが、もともとの内向的な性格に加え、ショパンの繊細な性格を形成していったのではないでしょうか。
ショパンの性格形成に影響を与えた人物
ジョルジュ・サンド
ショパンを知るうえで、欠かせない人物がジョルジュ・サンドという女性です。彼女との出会いと別れは、ショパンの性格や心情に大きな変化を与えました。
二人の性格は対照的で、繊細で神経質な性格であるショパンに対し、サンドは女性ながらも決断力や行動力に優れオープンな性格でした。人間的な魅力にひかれた二人は恋人関係になっていきますが、サンドはショパンが作曲に専念できる環境を整え献身的に支えました。この支えもあり、病を抱えたショパンも安定した環境の中で作曲活動に集中することができ、有名な英雄ポロネーズなどの名曲が生まれます。
しかし、病が進行するショパンの看病に疲れ、サンドとの距離は広がっていき、彼女の子供たちを巡る問題で別れを迎えます。サンドと別れたあとのショパンは、精神的なショックと持病の進行で徐々に情熱失い、わずか2年後に帰らぬ人となりました。
画家ドラクロワ
ショパンは画家のドラクロワとの親交が深く、ドラクロワの描いた絵にはショパンやジョルジュ・サンドの肖像画もあります。二人は12歳と歳は離れていましたが、友人であり、音楽、絵画とジャンルは違っても同じ芸術家としてお互いを尊敬しあう関係性でした。
ショパンとドラクロワは、フランスのノアンという地で共に作品を制作していた期間があり、この頃ドラクロワはショパンに対する称賛の言葉を多く残しました。この時期のショパンの作品は、力強く情熱的な印象のものが多く残されています。
病弱であったショパンもこの時期は体力的にも落ち着いており、ドラクロワとの尊敬しあえる関係性が、ショパンの情熱的な性格を引き出し作品にも反映されているのではないでしょうか。
ショパンの性格を表している楽曲
英雄ポロネーズ
通称「英雄ポロネーズ」と呼ばれる「ポロネーズ第6番変イ長調」は、ショパンの明るい側面や祖国を思う情熱的な性格が表れています。この曲を作曲した頃のショパンは、ジョルジュ・サンドとの関係性や体力的にも気力的にも安定し、最も多くの作品を残しています。
そういった中で作曲されたこの曲は、悲劇的な曲の多いショパンの名曲の中でも、ひときわ力強いリズムと勇壮なメロディーが印象的です。革命により祖国をなくしたショパンは、ポーランドに帰ることなく生涯を終えますが、常に祖国を思う強い気持ちがありました。ショパンの、祖国愛や情熱を強く感じられる1曲です。
雨だれ
「雨だれ」は、ショパン24の前奏曲の15番目にあたる曲です。この曲を作曲した時、ショパンはジョルジュ・サンドとスペインのマジョルカ島を訪れており、冬の間の静養も兼ねた旅だったものの旅先で持病が悪化してしまいます。宿泊地を見つけるまでに苦労したことや、悪天候も重なり、苦しい生活を送ることになります。
雨だれという名の通り、一貫して続く連打音が雨の音を表現しており、その中に甘く悲しい旋律が奏でられます。穏やかな曲調でありながらも、当時のショパンの抱えていた不安や悲しみが感じ取れる1曲です。
ショパンの性格に関するまとめ
ピアノの詩人と言われたショパンは、生まれ持った才能や性格だけでなく、短い生涯の中で出会った人々から影響を受け、多くの作品を残しました。
ショパンの作品は、現在でも多くの人から愛されています。彼の感受性豊かで繊細な性格から生まれた音楽には、優しさや喜び、悲しみなどが込められており、聴く人の気持ちに寄り添う音楽であることが愛される理由のひとつなのでしょう。
人物像や作品に込められた思いを知ることで、ショパンの音楽をより深く楽しむきっかけになれば幸いです。