「こころ」、「三四郎」など数々の名作を生み出した夏目漱石。いろいろなキャラクターが物語の中に出てきますが、どの人物も個性的で面白いですよね。中には漱石自身をモチーフにしているキャラクターもいるようですが、実際の漱石はどんな性格だったのか、気になる方も多いはず。
20代後半から30代の外国へ留学していた際には神経衰弱に陥っていたという話もありますが、もっと若い頃にはとても負けず嫌いだったという記述もあります。東京帝国大学の首席を務めていましたから、負けず嫌いなのはなんとなく頷けるかもしれません。
高校時代に「こころ」を読んでからこれまでの間に漱石作品は全て読み終え、「こころ」に至っては5回以上も読了している筆者が、幼少期から晩年まで、夏目漱石の性格がどのような感じだったのかを解説していきたいと思います。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
夏目漱石の性格は?どんな人だった?
夏目漱石は繊細な作品を書くことからは想像がつきませんが、大まかに「負けず嫌い」「神経質」「短気」という性格だったようです。
- 幼少期から負けず嫌いで頑固
- イギリス留学の際には極度の神経衰弱に陥り、周囲に当たる
- 教え子に激情するほどの短気な性格
- 神経衰弱をこじらせ、胃潰瘍を発症するほどの神経質な性格
それではこちらの性格を細かく解説していきます。
幼少期の性格「負けず嫌い」
夏目漱石は1867年(慶応3年)2月9日に誕生します。生まれてすぐに養子に出され、9歳で養夫妻が離婚をするまで養子先で過ごしていました。その後は生家へ戻るのですが、実の父親と養父の折り合いが合わず夏目家への復籍は先延ばしになります。
幼少時からこのように波乱の人生を送ってきた漱石は他人にあまり馴染むことができず、学校も転校や中退を繰り返します。
そんな漱石でしたが、勉学に関しては非常に優秀で、どの年代においてもトップクラスの成績を納めていました。
そのため、非常に負けず嫌いな性格でした。
青年期の性格「精神的に不安定で短気」
学業面では優秀であった漱石は東京帝国大学(現東京大学)の英文学科に進学します。しかし、同時期に兄弟を亡くすことが相次いだため、次第に厭世的になっていったそうです。
大学卒業後、夏目漱石の活躍を目にした政府からイギリス留学の話が持ち込まれました。漱石はこれを承諾してイギリスへと発ちますが、留学中には極度の神経衰弱に陥ります。この時期は精神的に不安定で他人を怒鳴り散らしたり、妻や子供に暴力を振るうこともあったそうです。
また、教鞭をとっている際に生徒から「先生の言っていることは辞書と異なる」と指摘された際に「辞書が間違っているのだ」と逆上したというエピソードがあることからも、かなり短気な性格だということが伝わります。
小説家の時「神経質かつ頑固」
精神的に不安定な漱石を見かねた知人から、気を紛らわせるためにも小説を書いたらどうかと勧められ、「吾輩は猫である」を発表します。
小説を書き始めても神経衰弱はあまり改善せず、また、胃潰瘍も重なったことから鬱々とした気分になることが多かったようです。精神を悩ませて胃腸を壊してしまうとは、よほど神経質な性格だったのでしょう。
夏目漱石の「漱石」はペンネームなのですが、「漱石枕流」という故事からきているとされます。「漱石枕流」の意味は「自分の誤りを認めずに、負け惜しみから理屈の通らない言い逃れをすること」です。この言葉からも頑固で負けず嫌いな性格は変わっていないということがわかります。
夏目漱石の性格がよく分かるエピソード
ペンネーム”漱石”の意味は「失敗を認めない」
夏目漱石は負けず嫌いであったことが有名です。ペンネームの「漱石」が「自らの失敗を認めず、屁理屈を並べること」という意味なので、漱石自身も自覚していたのですね。
教鞭をとっている際に生徒に逆上したというエピソードは先ほども書きましたが、英語教師時代にはそれ以外にも逸話があります。
ある日、懐に片手を突っ込んで授業を聞いている生徒がいた際に、漱石が厳しく注意しました。すると、他の生徒が「彼は、片腕がないんです」と言ったそうです。それに対し、漱石は「私もない知恵を絞って授業をしているんだから、君もたまにはない腕を出したまえ!」と言い返しました。
神経衰弱に悩まされるが、自殺には否定的
夏目漱石は神経衰弱であったことも有名で、イギリス留学の際に顕著になります。イギリスで精神を病んだ理由としてはいくつか考えられますが、経済的困窮と英国人に対するコンプレックスが主な原因です。
イギリス留学はビスケットで飢えをしのぐほど生活に困窮していました。また、漱石は天然痘にかかった経験から顔が「あばた面」であり、なおかつ低身長であったことからイギリス人に対する見た目の違いにコンプレックスを抱えていたと言われています。
神経質であった漱石ですが、一方で自殺に対しては否定的でした。太宰治や芥川龍之介、川端康成など文豪は自殺をするイメージが強いですよね。しかし、漱石は教え子が自殺で亡くなった際も、自殺に対してマイナスな見方をしています。
屈強そうな男にも怒鳴り散らすほどの短気
漱石にはさらに短気という性格があります。愛煙家でもあった漱石は、タバコがないことがわかると、そばにあるタバコ盆を放り投げました。また、持参している懐中時計が止まっていて時刻が確認できなかった際に、時計を投げ捨てることもしました。
図書館の教授閲覧室で調べ物中に、事務員たちの声の大きさに激情し、顔を真っ赤にして「静かにしろ!」と怒鳴ったというエピソードもあります。後日、学長に抗議文書まで送ったそうです。
また、芥川龍之介と二人で銭湯へいった際も短気を発揮します。隣で激しく湯を浴びる屈強そうな男に、「馬鹿野郎!しぶきが飛ぶだろう!」と怒ったそうです。近くで見ていた芥川は内心ハラハラしていたそうです。
家族や友達思いな面も
夏目漱石と同じ時代に活躍した文豪は恋愛が派手なイメージがありますが、漱石はいたって真面目だったようです。29歳で妻・鏡子と結婚して以降は浮気もせず、一途に暮らしていました。鏡子によると、精神が落ち着いているときの漱石は非常に優しかったそうです。
また、漱石は多くの門下生や知人に慕われていました。「木曜会」という集まりには名だたる文豪が足を運んでいたようです。芥川龍之介、寺田寅彦、和辻哲郎、平塚らいてう、高浜虚子、森鴎外、菊池寛、武者小路実篤、内田百聞などそうそうたるメンツが軒を連ねています。
夏目漱石の性格形成に大きな影響を与えた人物
養子先の塩原昌之助
漱石は幼少時に養子に出されましたが、その行き先が塩原昌之助邸でした。漱石にとって初めての大人であり、お手本となるべき存在ですが、漱石が7歳の時に昌之助が日根野かつという女性と浮気をします。
それを機に養父母の仲が悪くなり、養子先の家庭は荒れ、漱石にとっては波乱万丈の人生の幕開けとなりました。その後は実家や養子先を行ったり来たりする日々が続き、漱石は「自分はいらない子なのでは」と感じたそうです。
この経験を機に人を簡単に信じることがなくなり、また、人の言うこと聞かない頑固な性格となりました。
正岡子規
正岡子規とは1888年の21歳の頃から交流がありました。二人は非常に親しくなり、正岡子規が書き上げた和漢詩文集「七草集」に漱石が批評を書き入れるようになる程です。漱石自身も正岡子規にアドバイスをもらいながら「木屑録」を執筆しています。
夏目漱石の作家名である「漱石」はこの時に生まれています。それだけ正岡子規とは深い仲であったことが伺われます。
しかし、漱石自身も神経衰弱に悩まされている最中の1902年に肺結核により正岡子規が亡くなり大きなショックを受け、神経衰弱を悪化させる出来事となります。
高浜虚子
漱石は高浜虚子とも親交が深く、「木曜会」で顔を合わせる間柄でした。高浜虚子は夏目漱石の神経衰弱を憂慮し、小説を書いてみたらどうかと勧めます。
高浜虚子に勧められて最初に書いた小説が「我輩は猫である」です。もしこの時に小説家に勧められていなければ、「こころ」も「坊ちゃん」もあらゆる名作がこの世に誕生していなかったことになります。そう考えると高浜虚子は多大な影響を与えていますよね。
小説を書き始めてから神経衰弱が治るところまではいきませんでしたが、イギリス留学以降に比較すると症状は和らいだようです。
兄弟、家族
20歳過ぎに夏目家の長男を次男を相次いで肺結核で亡くします。そのショックは多大なもので、漱石はそれ以後厭世的になりました。
また、漱石が44歳の時、五女・ひなが急死し漱石に大打撃を与えました。わずか一歳半での急逝でした。すぐに救急車を呼び、病院へ駆け込みましたが、原因不明のまま息を吹き返しませんでした。
長年悩まされていた神経衰弱も愛する家族の死によって再び重篤になっていくのでした。家庭では暴力的だとの逸話も多い夏目漱石ですが、心の底では家族を非常に愛していたのです。
まとめ
夏目漱石の性格は負けず嫌い、短気、神経質とあまりいいイメージはありませんが、一方で見る人が違うとその印象もだいぶ変わってくるようで、面倒見がよく、多くの人に慕われる人という良い一面も多くあったようです。
漱石の性格のエピソードを踏まえつつ、作品を読むとまた違った発見があるかもしれません。この記事をきっかけに夏目漱石についてさらに興味を持っていただけると幸いです。
っっっっっっっっ湯