林銑十郎は戦前の陸軍大将です。満州事変が起きた際に、強硬派の意見に流されて軍を派遣しています。後に内閣総理大臣になりましたが、すぐに解散した為、「何もせんじゅうろう内閣」と呼ばれました。
とは言え総理大臣として全く功績がないわけではなく、膨張する軍事費に歯止めをかけるよう尽力する等、実は行動的な一面もあるのです。
戦前は軍部、政党政治、そして世界情勢が目まぐるしく変わります。林銑十郎を取り巻く環境を知る事で、複雑な情勢を知る事が出来るのです。
今回は昭和初期の歴史を詳しく学んだ筆者が、林銑十郎の生涯と共に、全然の日本の状況についてお伝えします。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
林銑十郎とはどんな人物か
名前 | 林銑十郎 |
---|---|
誕生日 | 1876年2月23日 |
没日 | 1943年2月4日 |
生地 | 石川県金沢市 |
没地 | 東京都 |
配偶者 | 林初治 |
埋葬場所 | 東京都多磨霊園 |
林銑十郎の生涯をハイライト
林銑十郎は1876年に石川県金沢市小立野で生まれます。陸軍士官学校に入学した後、日露戦争に従軍しました。戦争後は陸軍大学校の校長に就任しています。
銑十郎は豪快な髭が特徴ですが、周囲の意見に流されやすく、軍部の強硬案を鵜呑みにしがちでした。石原莞爾や永田鉄山等の若手閣僚は、銑十郎を通じて自分達の意見を反映させようと画策します。
1931年に石原莞爾ら盧溝橋事件を起こした際、銑十郎は内閣の許可なく軍を派遣。満州の占拠に一役買いました。その後も陸軍大臣等の役職を歴任し、若気閣僚の意見を反映させていきました。
1937年には内閣総理大臣となります。石原莞爾らの意見が通らないと分かると彼らを駆逐。銑十郎は独自の予算を組み立てる等の行動を起こすものの、すぐに衆議院を解散させ「食い逃げ解散」と批判されました。
総理大臣退任後は大日本回教協会会長等の役職を歴任。1943年に脳溢血で死去しました。戦後に東京裁判が行われるものの、銑十郎は死去しており、満州事変の責任を問われる事はありませんでした。
林銑十郎の家族構成や子孫
銑十郎は加賀藩士の林孜々郎の長男として生まれます。孜々郎は後に礪波郡(現在の富山県高岡市周辺)の首席書記として活躍。銑十郎の弟として、富山県知事や鳥取県知事を歴任した白上佑吉がいます。
銑十郎は11歳歳下の妻である初治と結婚。全員が初治との子どもかは不明ですが、六男四女と子沢山でした。
長女の純子は北陸銀行頭取の中田勇吉に嫁ぎ、四男二女をもうけます。四女の禌子は昭和石油取締役の斎藤吉彦二に嫁ぎ、一男一女をもうけます。銑十郎の血筋は現在にも脈々と続いているのです。
林銑十郎の内閣時代のあだ名や政策
銑十郎は祭政一致(宗教と政治が一体化しているという古代の思想)という時代錯誤なスローガンを掲げ、国民を困惑させます。少数の閣僚が大臣を兼務していた為、人員は少なく二人三脚内閣と呼ばれました。
銑十郎内閣は予算を成立させた後、突如内閣を解散。予算成立というご馳走だけを食べたと揶揄され、食い逃げ解散と呼ばれます。
その後の総選挙で与党だった昭和会と国民同盟は大惨敗し、林内閣は総辞職。予算通過以外にヘレンケラーの晩餐会位しか功績がなく、名前をもじって「なにもせんじゅうろう内閣」と呼ばれました。
林銑十郎の死因
銑十郎の死因は脳溢血でした。1943年1月に風邪をこじらせ、19日に下痢を起こします。25日には体調不良から脳溢血を発症。療養するものの、2月4日午後11時過ぎに死亡しました。享年66歳です。
銑十郎は当時渋谷区千駄ケ谷に住んでいた為か、お墓は多磨霊園に建てられました。石川県にある大乗寺にも銑十郎のお墓があります。
林銑十郎の功績
功績1「日露戦争で活躍した」
銑十郎は陸軍大臣や総理大臣のイメージが強いですが、日露戦争にも従軍しています。歩兵第6旅団の副官に任命され、旅順攻囲戦に参加しました。
配下の歩兵第7連隊は、3人のうちの2人の大隊長が戦死する等、激しい戦いが繰り広げられますが、旅順の占領に成功しました。
功績2「軍事予算の削減に尽力した」
軍部の強い意向で総理大臣になった銑十郎ですが、意外にも陸軍の意見を無視した人事配置を行います。
蔵相に結城豊太郎を起用し、前任の馬場鍈一の立てた予算案を修正。馬場は際限ない増税と軍備費の拡大を指示した人物として今でも評価は悪いです。
結城は財界と軍部の調整を図る「軍財抱合財政」を展開。予算案の減額と増税の修正を行う事で国民や企業の負担を緩和したのです。
何もせんじゅうろう内閣と呼ばれてはいるものの、馬場財政を修正した事は評価に値するでしょう。
功績3「実はイスラム教の第一人者 」
総理大臣退任後の1938年銑十郎は大日本回教協会の会長に就任。大日本回教協会はイスラーム圏との交流・広報活動、調査研究など多岐に亘る活動を行っていました。
銑十郎はイスラム教組ではなく、就任した経緯は不明です。協会自体は軍国主義な色彩の強いものではなく、戦後のイスラム研究の礎となりました。
林銑十郎の名言
矯激を排し、因循を戒しめ、時世に適合したる革新を断行する
矯激とは「過激」、因循は「古い習慣に囚われる事」を言います。銑十郎は祭政一致と言う言葉には、実は神に仕えるつもりで誠心誠意政治に取り組むという意味がありました。この言葉から彼の真面目さが分かります。
何もかも、君のいう通りになってしまった。何とも申しわけがない
晩年、銑十郎は真崎甚三郎邸を訪れて深く謝罪しました。結果的に日本を混乱させた事をずっと悔いていたと言われます。銑十郎の実直さが分かる言葉ですね。
林銑十郎の人物相関図
こちら2.26事件の頃の相関図ですが、銑十郎は含まれていません。彼が時局に合わせて立場を変えていたからです。皇道派に近い時もあれば、統制派に近づいた時もあります。
林銑十郎にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「髭をとても大切にしていた」
総理大臣退任後も銑十郎は一定の権力を保持しています。国民生活に口を出し、坊主の推奨やパーマネント禁止を提案。国民からは反感を買い「林大将の怪しげなカイゼル髭は良いのか」と言われます。
当時の新聞を見ても銑十郎は常に立派なカイゼル髭を蓄えており、髭を大切にしていた事が分かります。国民の生活を制限しても自身の髭は剃る事はありませんでした。
都市伝説・武勇伝2 「石川県初の総理大臣」
銑十郎は石川県初の総理大臣となり、石川県民はとてと喜び北國新聞では連日銑十郎の功績を掲載します。あまりにも連日記事にした為に、話題がなくなり素麺で一息した事が書かれたそうです。
ちなみに退陣した時の北國新聞の記事には「越境将軍らしい退陣ぶり」と褒め言葉なのか分からない事が書かれています。地元の総理大臣を応援しようと、ライターも書き方に苦心していたのでしょうか。
都市伝説・武勇伝3 「総理大臣を続けていれば日米戦争は回避できた?」
銑十郎が総理大臣に推挙されたのは、陸軍参謀の石原莞爾の意向です。石原は「日本は満州で国力を蓄えるべきであり、10年は戦争をすべきじゃない」と考えていました。
石原は銑十郎を総理に立てて、自分の意向を反映するよう画策するものの、内閣は4ヶ月で解散。次の近衛文麿内閣時に日本は中国と戦争を開始しました。
銑十郎が石原の構想通りに動いていれば、戦争せずに国力を蓄える事が出来たのかもしれません。
林銑十郎の簡単年表
林銑十郎は1876年石川県金沢市小立野で林孜々郎の長男として誕生。次弟は記録には残されていませんが、末弟は佑吉と言い、後に白上俊一の養子となり白上姓を名乗ります。
1931年に満州事変が勃発した際、銑十郎は朝鮮軍司令官を務めています。銑十郎は強硬派の進言を鵜呑みにして、天皇や内閣の許可を得ないまま軍を満州に進駐。世間は銑十郎を賞賛し、越境将軍と持て囃します。
広田弘毅内閣が退陣すると銑十郎が総理大臣に任命されますが、予算成立後に銑十郎は突如衆議院の解散を発表。在位123日と当時では最短であった為、「史上最も無意味な内閣」と呼ばれてしまいました。
林銑十郎の年表
1876年 – 0歳「石川県金沢市で誕生する」
林銑十郎誕生
林銑十郎は1876年2月23日に石川県金沢市小立野にて生まれます。父親は林孜々郎と言う元加賀藩士でした。
後に礪波郡(現在の富山県高岡市周辺)の首席書記として活躍しており、1884年には弟の佑吉が誕生しました。
陸軍士官学校に入校
元藩士の子と言う事もあり、国立の金沢市尋常師範附属小学校に入学。更に地元で多くの著名人を輩出した旧制第四高等学校に進学しました。
しかし1894年に日清戦争が勃発すると、銑十郎は四高を中退。陸軍士官学校に入校したのです。
1904年 – 28歳「日露戦争に従軍」
旅順占領に貢献する
1903年に陸軍大学校を卒業します。1904年に勃発した日露戦争では歩兵第6旅団の副官に任命されます。歩兵第6旅団は旅順攻囲戦に参加。激しい戦いが繰り広げられますが、旅順の占領に成功しました。
出世を重ねる
この功績が認められ、1908年には歩兵少佐に昇進。銑十郎は長官の仲間入りを果たし、出世を重ね、1927年には陸軍大学校の校長に就任しました。
一夕会に担ぎ上げられる
明治後期から大正にかけて陸軍は山県有朋等の影響から長州藩出身者が要職を歴任。若手閣僚は結束し、閥族打破を掲げます。この時にキーマンになったのが銑十郎でした。
1929年には永田鉄山による二葉会と、鈴木貞一や石原莞爾らによる木曜会が合流して一夕会を結成。彼らは満州問題に関心を寄せると共に、自分達の意見を反映させる為に盛り立てる将軍を探します。
彼らは荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の3人を見出します。銑十郎は加賀出身でしたが、中将の地位にありました。周囲に流されやすく強硬論を鵜呑みする性格もあり、意見を反映させやすいと考えたのでしょう。
1930年 – 55歳「満州事変勃発」
許可なく満州に進駐する
1931年に関東軍の石原らが柳条湖事件を起こします。銑十郎は強硬論を鵜呑みにして軍令を無視し、内閣の許可も得ないまま満州に進駐。関東軍は満洲の占領に成功し、後に満州事変と呼ばれました。
銑十郎の行動は明確な憲法違反であり、処刑されてもおかしくありませんでしたが不問とされます。当時の中国への融和政策に不満を持つ国民も多く、新聞は銑十郎の事を越境将軍と持て囃しました。
陸軍大臣就任
1932年に一夕会に担がれた荒木が犬養内閣の陸軍大臣となります。その際に露骨な人事を行い、永田は左遷されました。軍部は荒木率いる皇道派、永田率いる統制派に分かれます。銑十郎は当初は皇道派に近い立場でした。
1934年に荒木が大臣を辞任。銑十郎が後任となりました。銑十郎は既に皇道派を見限っており、永田を呼び戻します。銑十郎は永田の思うまま人事を行い、皇道派は一掃されました。
皇道派の重鎮真崎も銑十郎は更迭した為、永田は皇道派の相沢三郎に惨殺されます。銑十郎は責任を取り大臣を辞任。永田は「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される人物であり、陸軍にとっては痛手でした。
1937年 – 61歳「内閣総理大臣就任」
石原の後ろ盾を自ら断ち切る
1937年2月2日に銑十郎は第33代内閣総理大臣に就任します。石原は日本は満州で国力を蓄える構想を立てており、銑十郎なら自分の意向で動いてくれると考えていました。
銑十郎はここでも変わり身の早さを見せつけます。最初は石原の意向で閣僚を選びますが、軍部からの許可が得られなかった為、自分を推挙してくれた石原達を駆逐しています。
軍材抱合体制
銑十郎は前任に決まった馬場財政の予算修正に努めます。大蔵大臣に結城豊太郎を起用し、軍事予算を減らします。与党(昭和会・国民同盟)は衆議院466議席中わずか35議席であった為、野党の反発も受けています。
食い逃げ解散
予算通過後の3月31日に銑十郎は衆議院を解散。法案審議時の野党の態度が理由でしたが、世間の態度は冷たく、食い逃げ解散と呼ばれます。
続く選挙で与党は更に数を減らしたものの、銑十郎は政権維持に努めます。四面楚歌のまま内閣は5月31日に総辞職しました。政局の混乱は国民を不安にさせ、続く近衛内閣に過度な期待を抱かせる事になります。
1943年 – 66歳「銑十郎死去」
脳溢血で死去
退陣後は軍人としては一線を退き、大日本回教協会や大日本興亜同盟総裁を歴任。晩年には更迭した真崎の元を訪れて謝罪しています。
1943年に脳溢血で66歳で死去します。後に東京裁判で満州事変を先導した板垣征四郎がA級戦犯で死刑になっています。存命だった場合、独断で兵を派遣した銑十郎も処罰があったかもしれません。
林銑十郎の関連作品
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満州事変日誌
銑十郎が朝鮮軍司令官を務めていた頃の日誌です。参謀総長から「命令が出るまで増援はしてはいけない」と言われたものの「意外なる命令あり」と記す等、満州事変の当時の情勢を学ぶには良い本です。
歴代総理の通信簿 間違いだらけの首相選び
歴代総理大臣の業績、時代背景の中での対応力からA〜Eでランク付けした本です。当時の世界情勢や日本の現状をある程度学んでから読む事で、他の総理大臣との比較が出来ます。ちなみに銑十郎は残念ながらEの評価ですが、対応を見ると仕方がないでしょう。
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林銑十郎 演説 国民諸君ニ告グ
食い逃げ解散直後な銑十郎が国民に向けて、その意味を説明した演説です。予算通過に向けた与野党の攻防、逼迫した状況が伝わってきます。この解散についでも彼なりの大義があった事が分かりますね。
関連外部リンク
林銑十郎についてのまとめ
今回は陸軍大将の林銑十郎について紹介しました。日露戦争で活躍はしたものの、その変わり身の早さで政局を度々混乱させています。
とは言え彼には彼の信念を持ち行動していた事は間違いありません。何もせんじゅうろう内閣と揶揄されますが、軍事予算を削減した事も忘れないで欲しいですね。