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藤原定家とはどんな人?生涯・年表まとめ【百人一首や和歌も紹介】

藤原定家というと、平安時代後半から鎌倉時代に活躍した公家の歌人です。若い頃から歌の才能を見込まれ、歌壇会に多大な貢献を残しました。その中でもっとも有名な功績は「小倉百人一首」を編集したことでしょう。現在の私たちが和歌に触れることができるのも、小倉百人一首の影響が大きいです。

藤原定家

藤原定家本人も「美の鬼」・「美の使徒」と周りに言われるほど美しい物を追求しつづけ、結果として小倉百人一首を生み出す原動力になったと言えます。また彼はどちらかというと趣味人で、傍若無人な振る舞いも目だったといいます。当時の朝廷の権力者、後鳥羽上皇を怒らせて蟄居になったりと、性格に癖もあったといいます。

この記事では、そんな趣味人で変人だったとも言える歌人、藤原定家の人生を古典マニアの筆者が追ってみたいと思います。

藤原定家とはどんな人物か

名前藤原定家
誕生日1162年
没日1241年9月26日
生地山城国(京都府)
没地山城国(京都府)
配偶者藤原季能女・藤原実宗女
埋葬場所京都府京都市上京区相国寺

藤原定家の生涯をハイライト

藤原定家はどんな人だったのでしょうか。はじめに彼の生涯を簡単に説明したいと思います。

定家の父藤原俊成

藤原定家は1162年に御子左家と言われる和歌を得意とした家系に産まれました。藤原定家の父の、藤原俊成も有名な歌人です。父の藤原俊成は、後鳥羽上皇・色子内親王・藤原家隆など、新古今和歌集の時代に活躍をした歌人の先生だったのです。

そして1165年後白河天皇の時代に従5位下を賜り、朝廷への出仕を始めます。そして最初は、侍従として仕事をスタートさせました。しかし、元来の自身の病弱と父の出家が重なり出世は大きく遅れることになりました。父子ともに呼吸器疾患を患っていたらしく、それが元で神経質な子に育ったのではと推察されています。

定家が使えた九条兼実

1185年新嘗祭の最中に、源雅行に嘲笑されたため脂燭で顔を殴打するという事件を起してしまいます。これにより勅勘を受けて、朝廷の仕事を除籍処分を受けてしまいます。その後九条家の家司として和歌を教えたりして働き始めました。その後、後白河院の許しをもらい朝廷にも復帰しました。

1200年、後鳥羽院の院初度御百首の選者に選ばれました。その後も勅撰和歌集の選者に選ばれ、「新古今和歌集」を他の選者と共に完成させました。しかし、1220年政治の不満を書いた和歌を後鳥羽院に持参し、後鳥羽院の逆鱗に触れ公的な歌道活動を禁じられてしまいます。

1221年承久の乱が起き、後鳥羽院が隠岐に流されるとまた、公的な場に顔を出すようになりました。しかし気難しい性格から今度は九条道家の怒りを買い、役職を罷免されてしまったので今度は出家し、政界を退くこととなりました。

政界を引退後の1221年、後嵯峨天皇から「新勅撰和歌集」の編集の依頼を受け、単独で選出しました。そして1235年に宇都宮頼綱から嵯峨野の別荘の障子に、古来の歌人の歌を書いてほしいと要望され選んだ歌が、のちの「小倉百人一首」と呼ばれる歌集でした。その後、1241年に当時にしては高齢の80歳で生涯を終えたのです。

「日本最初の近代詩人」と評された歌人

妖艶とまで評された定家の作風

後世、藤原定家の歌に憧れた人に、「日本最初の近代詩人」と言われたといいます。定家の和歌について国文学者・風見景次郎が、「定家は平安朝生活の伝統を多分に承け、それにふさわしく繊細な神経で夢の世界を馳せ、その天性によって唯美的な夢の文学を完成した。彼はじつに夢の詩人で、理知の詩人で、そして言葉の詩人であった。」と称賛しています。

また石田吉貞は、「定家の美の中には、多くの非正常的・怪奇的なものがある。あまりに華麗幻燿にすぎて、人をたぶらかさずにはおかないこと、つよい阿片性・麻薬性があって、人を麻痺、昏酔させる毒性をもっている」と作品の妖艶さを賛美しています。

二人の評価からも、藤原定家の卓越した美への探求心を感じることができます。読み手によってかなり好みが別れる作風ですが、一首の麻薬的な耽美に取り込まれる作風と言われています。

新古今集調作風の代表歌人

新古今集は「神秘的」だった

新古今和歌集の歌風は「新古今調」と言われ、特徴は、唯美的・情調的・幻想的・絵画的・韻律的・象徴的・技巧的と言われます。藤原定家の父俊成が提唱した「幽玄」「有心」を発展させ、定家が発展させて「余情妖艶の美」に発展させたと評価されています。

作風は政治の実権を奪われた貴族社会の衰退の中で、滅びや自然への見方に哀調を感じることができます。また技法として、余韻・余情をかきたてる体言止め、七五調の初句切れ・三句切れなどが使われている特徴があります。

性格は頑固で気難しかった

怒りっぽい性格だった定家

同僚の源雅行と言い争い、源雅行を脂燭で打ちのめしたり、非常に怒りっぽかったといいます。藤原定家はこの出来事で、朝廷を除籍になってしまいました。また他人の歌を軽んじる傾向があり、「傍若無人、ことわりも過ぎたりき。他人のことばを聞くに及ばず」と後鳥羽院御言伝に記されています。

そしてどんなに後鳥羽院が褒めても、自詠の左近の桜の述懐の歌が自分では気に入らないからと、新古今に入撰することに頑強に反対するなど、折り紙付きの強情な性格だったといいます。こういったことが災いし、後鳥羽院の勅勘を受け謹慎を命じられる事態も起きています。

日記「明月記」は貴重な歴史資料となる

明月記

藤原定家が1180年~1235年の56年間を書き記した日記は、現在歴史を知る貴重な資料となっています。定家自身は「愚記」と言っていたようです。昔は有職故実を日記で記す「日記の家」という仕事があり、定家の家はその家ではなかったのですが自身が書き記すことになり、子孫が「日記の家」として重んじられることを期待したと言われています。

結果的にこの思惑は成功し、定家以降の「御子左家」は歌道・書道・日記の家という地位を確立することに成功します。また、この日記には定家自身が体験したことや過去に聞いた天体現象が記録されています。この記録は貴重であり、現在「日本天文遺産」に認定されています。

藤原定家の功績

功績1「新古今和歌集を選定したこと」

新古今和歌集

後鳥羽上皇の命により編集された、勅撰和歌集「新古今和歌集」の選者の一人に選ばれました。他に 源通具・六条有家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の計6人でした。序文には、「先ず万葉集の中を抽き、更に七代集の外を拾ふ」とあり、万葉集やそれまでの勅撰和歌集に選ばれなかった歌を選ぶとしました。

また新古今和歌集は、古今和歌集の伝統に習いつつも、当時流行していた連歌・今様の世界に浸食されないよう典雅な世界に復帰させようというコンセプトで作られたと言われます。後鳥羽院の院宣によって選出されることは歌人として最高の名誉であったと同時に、当時の歌壇会の代表と認められた証であったのです。

功績2「小倉百人一首を作ったこと」

小倉百人一首のかるた

藤原定家の功績でこれは外せないという功績は、やはり「小倉百人一首」を作ったことではないでしょうか。100人の歌人の和歌を1首ずつとり、100首選んで作りました。これは、京都の小倉山の山荘で選んだことから「小倉百人一首」と呼ばれています。

百人一首はかるたになり、正月の風物詩になりました。その歴史は古く、室町時代には和歌の入門書として使用されるようになり、江戸時代に現在のかるたの原型ができて庶民にも普及しました。現在でも和歌に触れる良いきっかけとなり、子供たちに親しまれています。

功績3「平安文学の保存に務めたこと 」

土佐日記

かねてから古典の愛好者であった藤原定家は、その生涯を「土佐日記」や「源氏物語」などを後世の人に伝えるために書き写していたといいます。現在、私たちが古典文学を親しめるのは定家の功績が大きいと言えます。

歌集や歌学書物などの書物集めにも熱心であり、現在定家の末裔である冷泉家にも定家が直接かかわった数々の写本が現存されているといいます。もし定家のこれらの写本が無ければ、現代の古典研究は大きく様変わりしているだろうと言われている程です。

藤原定家の名言

秋の夕暮れの美を描いた定家

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

藤原定家の歌でもファンが多い歌です。訳は「見渡してみれば、春の美しい花も秋の紅葉もここにはないことよ。海辺の苫ぶきの粗末な小屋のあたりの秋の夕暮れよ。」です。

この歌は、源氏物語の光源氏になったつもりで歌った歌と伝わっています。花や紅葉という言葉をあえて使うことで、華やかなイメージを上の句につけ、下の句に秋の寂しさを表現した対比が美しいと評価されています。

儚い夢と雲の調べが美しい歌です

春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰に別るる 横雲の空

訳は「春の夜の儚い夢から目覚めてみると、横にたなびく雲が、峰に分かたれて左右に別れていく、夜明けの空であることよ。」となります。

歌だけだといまいち意味が分かりませんが、実は恋の歌と聞くと読み解けてくる歌です。「春の夜の夢」「浮舟」「別るる雲」といった恋を連想させる言葉を盛り込んで夢幻的な歌に仕上がっています。

燃える恋を歌った定家

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや 藻塩の 身もこがれつつ

訳は「松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、私の身は来てはくれない人を想って、恋い焦がれているのです。」となります。

恋焦がれる心情を藻塩を焼く火に例えたのが斬新でもあり、「焼く」は「藻塩」「こがれ」の縁語です。百人一首にとられているので、定家の歌では一番有名かもしれません。

藤原定家にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1 「実は字が下手だった」

定家の筆跡

藤原定家の書を「定家様」といいます。父の藤原俊成が能筆家であり、父から「法性寺流」を学びますが、父の字とは違う極めて個性的な書を確立させました。当時の美意識から離れた書風でしたが、江戸時代には好まれ、この書風が大流行したといいます。

ただし江戸時代もどちらかというと「悪筆」が一周回って味があるといった評価だったようで、決して字が上手いという評価ではありませんでした。一見すると稚拙に見えますが、線は良く練れており、定家の強情な性格を表した結果と言えるでしょう。

都市伝説・武勇伝2 「初恋の相手は式子内親王だった!?」

式子内親王

変人だった藤原定家の初恋の相手は、式子内親王なのでは?という噂が生前からあったといいます。式子内親王が定家の父俊成から和歌を習っており、その縁で定家とも親しくなったというのです。
1181年正月に、体調を崩した式子内親王に見舞いをするため初めて式子内親王に会ったといいます。

能舞台の様子

以降も定家は内親王家の家司のような仕事をしていたといいます。定家亡き後、「明月記」を見て式子内親王の関係を想像し、能の「定家」が生まれたと言われます。この能が出来たのは室町時代なのでその頃にはそう捉えてる人が多かったのでしょう。

しかし、日記には式子内親王から歌を頂いたとか風邪を引いたと聞いて何度もお見舞いに行ったというような内容なので、少し深読みしすぎの感があり、都市伝説の域を出ません。

都市伝説・武勇伝3 「天文学オタクだった」

超新星の様子を事細かに記した定家

定家は日記「明月記」に天体の記録を事細かに記しています。明月記には多くの天文記録が載っていますが、中でも貴重なのが「超新星」の記録です。望遠鏡の無い時代に記録に残っているのは世界に7件だけで、その中の3件は定家の「明月記」だといいます。

記録には「この星朧々として光薄し。その勢い小にあらず」と記されており、当時の人々が不安に感じている様子も刻銘に記されています。この星に触発された定家は、家に出入りしていた陰陽師の安倍泰俊に、過去の客星の出現例を問い合わせたといいます。

占いをする陰陽師

当時は超新星は凶事の前兆と考えられており、過去の出現の際にどのような凶事が起きたのかを知ろうとしたということです。そして、泰俊は記録されていた過去の出現リストを報告書として定家に提出しており、定家の提出日の日記の末尾に記されることとなりました。

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