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ワールシュタットの戦いとは?原因や結末、影響を分かりやすく解説

「ワールシュタットの戦いって何?」
「ワールシュタットの戦いはどこでおきた戦い?」
「ワールシュタットの戦いのエピソードは?」

このページに来てくれたあなたはそのような疑問を持っているかもしれません。

ワールシュタットの戦いとは、ポーランド西部のシロンスク(ドイツ名でシュレジェン)地方にあるリーグニッツの草原でおきたモンゴル軍とドイツ・ポーランド連合軍の戦いです。軽装騎兵中心のモンゴル軍が、ドイツ・ポーランドの重装騎兵を翻弄しシュレジェン公ハインリヒ2世を敗死させました。

戦いの結果はすぐにヨーロッパ全土に知れ渡り、ヨーロッパ諸国は激しい恐怖の艦上に包まれました。しかし、モンゴル軍はそれ以上進撃せず、ヨーロッパから風のように立ち去りました。

今回はモンゴル軍がドイツ・ポーランド連合軍に大勝したワールシュタットの戦いについて解説します。

ワールシュタットの戦いとは?

ワールシュタットの戦いを描いた絵画

ワールシュタットの戦いとは、バトゥ率いるモンゴル帝国の西方遠征軍と、ドイツ・ポーランド連合軍がリーグニッツ(ドイツ名ワールシュタット)で激突した戦いです。戦いの前、ロシア諸公国を蹂躙したモンゴル軍はさらに西方のポーランドやハンガリーに侵入し各地を攻撃し大きな被害を与えていました。

これに対し、ポーランドの諸侯はドイツの諸侯や宗教騎士団の支援を受け3万の大軍を編成し、モンゴル軍を迎え撃ちました。

しかし、モンゴル軍の軽装騎兵によるかく乱戦術などによって連合軍は動揺し、大敗を喫してしまいます。その後、モンゴル軍は西進することなく撤退してしまいました。

戦いの原因となったモンゴル軍の西方遠征

世界を席巻したモンゴル騎兵

バトゥによる西方遠征の始まり

遠征軍を率いたバトゥ

チンギス・ハンが築いたモンゴル帝国は2代目の大ハーン、オゴタイの時代になっても拡大を続けます。オゴタイは兄ジョチの子のバトゥに西方遠征を命じました。この遠征はモンゴル帝国にとって重要なものとされ、多くの有力者が参加します。

バトゥが手始めに攻撃したのはヴォルガ・ブルガールでした。この地を征服したモンゴル軍はさらに西方に住む遊牧民族のキプチャク族を攻撃し服属させました。この時点でバトゥの軍団は15万人に達します。

モンゴル軍が東欧侵略するまでの流れ

モンゴル軍に攻撃されたルーシの位置

兵力を増強したモンゴル軍は現在のロシアにあった中小国家(ルーシ諸公国)を攻撃対象とします。このころ、ロシアにあったキエフ公国などの諸公国はモンゴル軍に蹂躙され、ノヴゴロド公国などはモンゴルに服従します。

さらに、遠征軍は西へと向かいキリスト教に帰依していたハンガリーやポーランドを襲撃しました。すると、攻撃された国々は周辺のキリスト教諸国に援軍を求めます。

ルーシ諸公国の征服

モンゴル軍が攻め込んできたころ、現在のロシアにあたるルーシに統一国家はなく、キエフ公国をはじめとする中小の公国がありました。これらの国々は互いに争い、衰退しつつあったといいます。

ちょうどその時、モンゴル軍が東から現れます。1237年、モンゴル軍は有力な公国の一つであるリャザン公国を攻め落とし破壊しつくしました。

バトゥの侵略で破壊され、その後再建された
ウラジーミルの生神女就寝大聖堂

くわえて、北東ロシアにあったウラジーミル公国もモンゴル軍に攻撃されました。そして、激しい戦いの末、ウラジーミルは陥落し、ウラジーミル大公とその家族は燃え盛る聖堂の中で全員殺されます。

その後、モンゴル軍はルーシ諸公国を次々と攻め落とし、最大の公国であるキエフ公国も1240年に陥落し、滅亡しました。ルーシ諸公国の中で生き延びたのはモンゴルに服従したスモレンスクやノヴゴロドなどだけです。こうして、モンゴルによるルーシ征服は終わりました。

モンゴル人の徴税官がロシアの市場を訪れた様子
(タタールのくびきの象徴)

これ以後、ロシアではバトゥとその子孫がたてたキプチャク・ハン国による支配が続きます。これを「タタールのくびき」といいます。

バトゥ本隊のハンガリー侵攻

キエフ公国を滅ぼしたバトゥはさらに西方のポーランドやハンガリーに進撃を開始します。彼は配下の軍団を分け、東欧全体を攻撃させました。

モンゴル軍に敗れたハンガリー王ベーラ4世

軍団を分散させた後、バトゥ率いるモンゴル軍の本隊はハンガリーに侵攻しました。彼はハンガリー王ベーラ4世に降伏を勧告しますが、ベーラ4世は拒否します。これを知ったモンゴル軍はハンガリーのペシュト市を攻め落としました。

このペシュト市は、現在のブダペストのドナウ川東岸地域にあたります。モンゴル軍に攻め込まれ重要都市を失ったハンガリー王ベーラ4世は、モヒー平原に軍を展開しバトゥと対決します。

西方遠征で活躍したモンゴルの宿将スブタイ

この時、モンゴル軍の宿将スブタイはベーラ4世の本陣を奇襲しました。驚いたベーラ4世は一目散に逃げだします。こうして、ハンガリーはモンゴル軍の制圧下におかれます。

別動隊のポーランド侵攻

バトゥの本隊から離れた別動隊は北西方向のポーランドに向かいます。1241年、モンゴル軍はルブリンを略奪します。それからすぐ、ヴィスワ川を越えてさらにポーランド奥地に侵攻しました。

クラクフ市のフロリアンスカ通り

怒涛の勢いで進撃を続けるモンゴル軍は、シロンスク地方の都市ヴロツワフやポーランド南部のクラクフなどを攻撃しました。モンゴル軍が来ると知ったクラクフの市民は街を捨てて逃亡したため、モンゴル軍はほぼ無人のクラクフを破壊します。

ポーランドとドイツは連合軍を結成しモンゴルに対抗

ドイツ騎士団の国旗

モンゴル軍の襲撃にさらされたポーランドでは、最も勢力が強かったシロンスク公ヘンリク2世が中心となって連合軍を結成します。また、聖ヨハネ騎士団やテンプル騎士団、ドイツ騎士団もポーランド連合軍に加わりました。

ヘンリク2世に率いられたポーランド・ドイツ連合軍は合計2万5千人前後と考えられています。彼はレグニツァでボヘミア王ヴァーツラフ1世の援軍を待つことにしました。これを知ったモンゴル軍はポーランド・ドイツ連合軍とボヘミア軍の合流を阻止するためレグニツァに向かいました。

ワールシュタットの戦いの戦闘経過

シロンスク公ヘンリク2世

ヘンリク2世率いるポーランド・ドイツ連合軍は、中央に主力となるドイツ騎士団などの重装騎兵を配置し、その後方に歩兵を配置しました。彼らの狙いは重装騎兵による中央突破です。

これに対し、モンゴル軍は前列中央に軽装騎兵、その両側にも軽装騎兵を配置します。中央に配置された軽装騎兵は陽動の訓練を積んだ部隊でした。そして、最後列に重装騎兵を配置します。

ワールシュタットの戦いを描いた絵画
(右がドイツ・ポーランド軍、左がモンゴル軍)

戦闘開始直後、連合軍の騎兵が中央突破を図りモンゴル軍の軽装騎兵に襲い掛かります。軽装騎兵は一度、連合軍の騎士たちを撃退した後、偽装退却しました。そうとは知らない連合軍の騎士たちは軽装騎兵を追いかけて突撃します。

すると、両側にいた軽装騎兵が馬上から射撃を行い、騎士たちを混乱させます。突撃の勢いを失い混乱する騎士たちに、後方に控えていたモンゴル重装騎兵が襲い掛かりました。このとき、モンゴル軍は騎士と後方の歩兵の間で煙幕をたき、騎士と歩兵を分断します。

混乱状態の騎士たちはモンゴル軍の重装騎兵に追い散らされて敗走し、その様子を見た歩兵たちも雪崩を打って潰走しました。モンゴル軍は敗走する連合軍を追撃し、おびただしい数の兵士を殺戮しました。

ワールシュタットの戦いに関するエピソード

モンゴル軍が敵兵の耳を切り取ったって本当?

戦闘終了後、モンゴル軍は倒した敵兵の耳を切り落とし袋詰めします。耳を詰めた袋は大袋で9つにもなったといいます。

朝鮮出兵時に切り取った朝鮮兵の耳や鼻を葬った耳塚

戦争において、敵を討ち取った証拠として首や耳を切り落とすことが良く行われていました。切り落とした耳は敵を倒した武勲の証となったわけです。

ワールシュタットの戦いでは多くの兵士が戦死しました。そのため、討ち取った敵の耳も膨大な数になったのでしょう。この地は、殺された兵士の遺体が山と積まれ、その様子から死体の山(ワールシュタット)と呼ばれるようになったといいます。

ヴロツワフ城の兵士に
ヘンリク2世の首を見せつけるモンゴル軍

ちなみに、シロンスク公ヘンリク2世は耳ではなく首を取られ、槍の先端に突き刺され、見せしめとされました。

ワールシュタットの戦いは本当はなかった?

モンゴル軍の西方遠征の一環として行われたとされるワールシュタットの戦いは実際になかった、あるいはあったとしても小規模だったとする説があります。

ワールシュタットの戦いについて
書き残したヤン・ドゥウゴシュ

その根拠は、同時期の史料にワールシュタットの戦いの記録がほとんどみつかっていないからです。では、誰が戦いの記録を残したのでしょうか?戦いの記録を残しているのは15世紀にクラクフの司教座に勤めていたヤン・ドゥウゴシュという人物です。

彼の書いた年代記に、現在我々が知っているワールシュタットの戦いのことが書かれています。ということは、モンゴル軍のポーランド襲撃から200年以上たって書かれた資料だということになります。

現在となっては、ヤン・ドゥウゴシュの記録が正しいのか、それとも民間伝承の寄せ集めなのかは定かではありません。もし、存在しなかったとなれば歴史の教科書が書き換えられるかもしれません。

モンゴル軍が突如退却した理由は?

西方遠征中に急死した大ハーンのオゴタイ(オゴデイ)

モンゴル軍が突如退却した理由は、モンゴル帝国の大ハーンであるオゴタイが急死したからです。モンゴル帝国の重要人物たちは次の大ハーンを決めるクリルタイ(部族会議)に出席しなければなりません。

そのため、バトゥや彼に従うモンゴル帝国の要人たちもクリルタイが開かれる東方に戻らなければならなくなったのです。

今にもモンゴル軍が現れ、殺戮を繰り返すのではないかと恐れていたヨーロッパ諸国は胸をなでおろしたことでしょう。もし、オゴタイの死が数年遅ければ、世界史は別の展開となったかもしれません。

ワールシュタットの戦いに関するまとめ

いかがでしたか?

今回は、モンゴル軍がヨーロッパに攻め込んできたワールシュタットの戦いについてまとめました。ワールシュタットの戦いの背景にあったのはモンゴル帝国の西方遠征です。

バトゥに率いられた西方遠征軍はルーシ諸公国を滅ぼしさらに西に向かいました。バトゥの本隊がハンガリーを攻める一方、別動隊はポーランドを略奪します。これに対抗しようとしたのがポーランド南部を治めていたシロンスク公ヘンリク2世でした。

ところが、ヘンリク2世や味方したドイツ騎士団はモンゴル軍に大敗し、死体の山を築きます。モンゴル軍はさらに西に攻めると思われましたが、オゴタイ・ハンの急死により遠征は中止となり、バトゥは東に帰りました。

ワールシュタットの戦いとは何か、ワールシュタットの戦いのエピソードを知りたいといったことについて「そうだったのか」と思える時間を提供できたら幸いです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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