ワールシュタットの戦いとは?原因や結末、影響を分かりやすく解説

「ワールシュタットの戦いって何?」
「ワールシュタットの戦いはどこでおきた戦い?」
「ワールシュタットの戦いのエピソードは?」

このページに来てくれたあなたはそのような疑問を持っているかもしれません。

ワールシュタットの戦いとは、ポーランド西部のシロンスク(ドイツ名でシュレジェン)地方にあるリーグニッツの草原でおきたモンゴル軍とドイツ・ポーランド連合軍の戦いです。軽装騎兵中心のモンゴル軍が、ドイツ・ポーランドの重装騎兵を翻弄しシュレジェン公ハインリヒ2世を敗死させました。

戦いの結果はすぐにヨーロッパ全土に知れ渡り、ヨーロッパ諸国は激しい恐怖の艦上に包まれました。しかし、モンゴル軍はそれ以上進撃せず、ヨーロッパから風のように立ち去りました。

今回はモンゴル軍がドイツ・ポーランド連合軍に大勝したワールシュタットの戦いについて解説します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

ワールシュタットの戦いとは?

ワールシュタットの戦いを描いた絵画

ワールシュタットの戦いとは、バトゥ率いるモンゴル帝国の西方遠征軍と、ドイツ・ポーランド連合軍がリーグニッツ(ドイツ名ワールシュタット)で激突した戦いです。戦いの前、ロシア諸公国を蹂躙したモンゴル軍はさらに西方のポーランドやハンガリーに侵入し各地を攻撃し大きな被害を与えていました。

これに対し、ポーランドの諸侯はドイツの諸侯や宗教騎士団の支援を受け3万の大軍を編成し、モンゴル軍を迎え撃ちました。

しかし、モンゴル軍の軽装騎兵によるかく乱戦術などによって連合軍は動揺し、大敗を喫してしまいます。その後、モンゴル軍は西進することなく撤退してしまいました。

戦いの原因となったモンゴル軍の西方遠征

世界を席巻したモンゴル騎兵

バトゥによる西方遠征の始まり

遠征軍を率いたバトゥ

チンギス・ハンが築いたモンゴル帝国は2代目の大ハーン、オゴタイの時代になっても拡大を続けます。オゴタイは兄ジョチの子のバトゥに西方遠征を命じました。この遠征はモンゴル帝国にとって重要なものとされ、多くの有力者が参加します。

バトゥが手始めに攻撃したのはヴォルガ・ブルガールでした。この地を征服したモンゴル軍はさらに西方に住む遊牧民族のキプチャク族を攻撃し服属させました。この時点でバトゥの軍団は15万人に達します。

モンゴル軍が東欧侵略するまでの流れ

モンゴル軍に攻撃されたルーシの位置

兵力を増強したモンゴル軍は現在のロシアにあった中小国家(ルーシ諸公国)を攻撃対象とします。このころ、ロシアにあったキエフ公国などの諸公国はモンゴル軍に蹂躙され、ノヴゴロド公国などはモンゴルに服従します。

さらに、遠征軍は西へと向かいキリスト教に帰依していたハンガリーやポーランドを襲撃しました。すると、攻撃された国々は周辺のキリスト教諸国に援軍を求めます。

ルーシ諸公国の征服

モンゴル軍が攻め込んできたころ、現在のロシアにあたるルーシに統一国家はなく、キエフ公国をはじめとする中小の公国がありました。これらの国々は互いに争い、衰退しつつあったといいます。

ちょうどその時、モンゴル軍が東から現れます。1237年、モンゴル軍は有力な公国の一つであるリャザン公国を攻め落とし破壊しつくしました。

バトゥの侵略で破壊され、その後再建された
ウラジーミルの生神女就寝大聖堂

くわえて、北東ロシアにあったウラジーミル公国もモンゴル軍に攻撃されました。そして、激しい戦いの末、ウラジーミルは陥落し、ウラジーミル大公とその家族は燃え盛る聖堂の中で全員殺されます。

その後、モンゴル軍はルーシ諸公国を次々と攻め落とし、最大の公国であるキエフ公国も1240年に陥落し、滅亡しました。ルーシ諸公国の中で生き延びたのはモンゴルに服従したスモレンスクやノヴゴロドなどだけです。こうして、モンゴルによるルーシ征服は終わりました。

モンゴル人の徴税官がロシアの市場を訪れた様子
(タタールのくびきの象徴)

これ以後、ロシアではバトゥとその子孫がたてたキプチャク・ハン国による支配が続きます。これを「タタールのくびき」といいます。

バトゥ本隊のハンガリー侵攻

キエフ公国を滅ぼしたバトゥはさらに西方のポーランドやハンガリーに進撃を開始します。彼は配下の軍団を分け、東欧全体を攻撃させました。

モンゴル軍に敗れたハンガリー王ベーラ4世

軍団を分散させた後、バトゥ率いるモンゴル軍の本隊はハンガリーに侵攻しました。彼はハンガリー王ベーラ4世に降伏を勧告しますが、ベーラ4世は拒否します。これを知ったモンゴル軍はハンガリーのペシュト市を攻め落としました。

このペシュト市は、現在のブダペストのドナウ川東岸地域にあたります。モンゴル軍に攻め込まれ重要都市を失ったハンガリー王ベーラ4世は、モヒー平原に軍を展開しバトゥと対決します。

西方遠征で活躍したモンゴルの宿将スブタイ

この時、モンゴル軍の宿将スブタイはベーラ4世の本陣を奇襲しました。驚いたベーラ4世は一目散に逃げだします。こうして、ハンガリーはモンゴル軍の制圧下におかれます。

別動隊のポーランド侵攻

バトゥの本隊から離れた別動隊は北西方向のポーランドに向かいます。1241年、モンゴル軍はルブリンを略奪します。それからすぐ、ヴィスワ川を越えてさらにポーランド奥地に侵攻しました。

クラクフ市のフロリアンスカ通り

怒涛の勢いで進撃を続けるモンゴル軍は、シロンスク地方の都市ヴロツワフやポーランド南部のクラクフなどを攻撃しました。モンゴル軍が来ると知ったクラクフの市民は街を捨てて逃亡したため、モンゴル軍はほぼ無人のクラクフを破壊します。

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