ルール地方はドイツ連邦共和国のルール川下流域に広がる大都市圏です。代表的な都市として、サッカーで有名なドルトムントがあります。
この記事で取り上げるルール地方と言っても、ヨーロッパの歴史や地理、プロサッカーリーグ等に興味がある人でなければ知っている人は少ないかもしれません。
しかし、ルール地方はドイツが重工業を発展させる過程で中心となった地です。近代から第二次世界大戦後にかけては、西洋史でも特に重要な工業地域として注目されます。
この記事ではルール地方の歴史や特徴について迫っていきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ルール地方とは何か?
ルール地方はどこにある?
ルール地方はドイツ連邦共和国のノルトライン=ヴェストファーレン州を流れるライン川右岸の支流であるルール川下流域に広がる大都市圏です。
実はルール地方は公的な呼称ではありません。1920年に成立したルール石炭地区連合に加盟している都市が集まっている地域がルール地方とされています。この連合の本部が置かれているのは、ルール工業地帯として発展した都市の1つであるエッセンです。
また、ルール地方の南部には同じノルトライン=ヴェストファーレン州の都市であるデュッセルドルフ、ケルン、レーヴァークーゼン、ボンなどが位置しており、ルール地方はそれらライン川流域の都市群と合わせて「ライン・ルール大都市圏」と呼ばれています。
ルール地方の特徴
ルール地方はドイツ屈指の工業地帯として有名です。産業革命後に起きたドイツの近代化や帝国主義国家化はルール地方の発展と共にありました。
元々は農業が盛んな地域で、都市が形成されたのは9世紀半ば頃です。ルール地方の地下に炭層があるとわかると、13世紀には石炭の採掘が始まりました。
そして18世紀後半に始まった製鉄業は、ルール地方が屈指の工業地帯として有名になるきっかけとなります。ドイツを代表する重工業地域として発展した結果、ルール地方の人口は爆発的に増加しました。現在でも生産活動を活発に行っており、オランダのロッテルダム港と直通の貨物列車も通っています。
ルール地方の歴史上重要な出来事
ドイツ帝国の発展
近代ドイツ史は19世紀に誕生したドイツ帝国の急速な発展と共に進んでいきます。
1870年に起こった普仏戦争で、プロイセンを盟主としたドイツ連合軍がナポレオン3世が率いるフランス帝国に勝利。パリへ入城したプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となり、ドイツ帝国が成立しました。
ドイツ帝国が鉄鉱石の産出地であるアルザス=ロレーヌ地方をフランスから奪ったことで、製鉄業が盛んなルール地方は更なる発展を遂げることになります。ルール地方を中心に工業力を高度な水準まで推し進めた結果、ドイツ帝国は一流の帝国主義国家となりました。
ルール占領
ルール占領とは、1923年にドイツの隣国であるフランスとベルギーがルール地方を占領した事件です。当時のルール地方はドイツにとって経済の心臓部ともいえる重要な地域となっており、この事件はドイツ経済にとって大きな痛手となります。
第一次世界大戦に敗れたドイツ帝国では革命が起こり、多額の賠償金を背負った状態でヴァイマル共和国が成立しました。隣国のフランスは復興のためにヴァイマル共和国に対して賠償金の催促を行いますが、ヴァイマル共和国も自国の復興をしなければならなかったため、支払いは滞ります。
そこでフランスがベルギーと共にルール工業地帯を占領し、賠償金の督促を行いました。この占領によってルール工業地帯からドイツ国内への物資の供給が止まってしまい、物資不足に陥ってしまいます。
ドイツ経済は破綻状態に追い込まれますが、経済を回すために政府は紙幣の印刷を止めませんでした。その結果、ドイツ経済はハイパーインフレーションに陥ります。
ルール地方の歴史年表
1871年 ‐ ドイツ帝国誕生
1870年に普仏戦争が起こり、ナポレオン3世率いるフランス帝国にヴィルヘルム1世率いるプロイセン王国を盟主とするドイツ連合軍が勝利しました。その翌年にヴェルサイユ宮殿で皇帝戴冠式が行われ、ドイツ帝国が成立します。
フランクフルト講和条約を締結した際に、鉄鉱石の産出地であるアルザス=ロレーヌ地方をフランスから奪った結果、製鉄業が盛んなルール工業地帯は大きく発展することになりました。
世界第2位の経済力を築き上げ、一流の帝国主義国家となったドイツ帝国では兵器開発も進み、ルール地方はドイツ経済の心臓部とも言える重要な地域となっていきます。
1918年 ‐ ドイツ革命
中央同盟国側として第一次世界大戦に参戦したドイツ帝国。長期化した大戦は1918年のドイツ革命を招く結果となり、ドイツ帝国は崩壊します。
1918年11月3日に発生したキール軍港の水兵の反乱をきっかけに起こったドイツ革命は大衆的蜂起へと拡大しました。戦場にはならず無傷だったルール地方でも兵士や労働者によるストライキや大規模な反乱が発生し、不安定な情勢が続きます。
最終的にヴィルヘルム2世は廃位となり、第一次世界大戦は終結。ドイツ帝国は滅亡し、新たにヴァイマル共和国が誕生しました。
1923年 ‐ ルール占領
第一次世界大戦に敗戦したヴァイマル共和国は多額の賠償金を背負うことになります。戦勝国への賠償金の支払いだけでなく、自国の復興もしなければならなかったため、ヴァイマル共和国は苦しい再スタートとなりました。
しかし、苦しいのは戦場となった戦勝国フランスも同じでした。ヴァイマル共和国に対して賠償金の支払いを催促するフランスは、ベルギーと共にルール地方を占領してしまいます。
ルール工業地帯を占領されてしまったことでドイツ国内への物資の供給は停止し、ドイツ経済は破綻状態に追い込まれてしまいました。それでも紙幣の印刷止めなかった結果、ヴァイマル共和国はハイパーインフレーションに陥ってしまいます。
1939年 ‐ 第二次世界大戦
1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。アドルフ・ヒトラーが支配するナチス時代においてもルール地方は重要な工業地帯であり続けます。
第二次世界大戦期、兵器開発などが行われていた要所であったルール地方は米英軍による爆撃の対象となりました。工場がある都市だけでなく輸送機関も攻撃対象となったため、工業地帯としての機能は完全に停止してしまいます。
最後にはアメリカ、イギリス、反ナチス・レジスタンスによって構成された連合軍によって包囲され降伏。第二次世界大戦もドイツは敗戦国として終戦を迎えます。
1948年 ‐ ルール国際機関の設置
第二次世界大戦に敗北したドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4か国によって分割統治されることになります。しかし、同時期にソビエト連邦と西側諸国の対立が始まってしまった結果、ドイツは東西に分断された国家となってしまいました。
1948年にはルール国際機関が設置されます。その際、ルール地方の国際管理は占領中の一時的なものであると決定されました。その翌年、西ドイツ政府が正式に発足し、ルール国際機関に参加することになります。
ベルリンやドレスデンなどの東側の工業地域を失った西ヨーロッパでは、相対的にルール工業地帯の重要性が増していきました。その結果、20世紀後半の西ヨーロッパはルール地方を中心に急速な復興が進んでいくことになります。
ルール地方に関するまとめ
今回はルール地方について解説しました。
ルール地方は西ヨーロッパを代表する工業地帯であり、近代ドイツの歴史を見ていく過程では絶対に無視できない重要な地域なのです。
この記事ではルール地方の主な役割、特徴、歴史について紹介しましたが、他の国々における産業的に重要な地域を調べてみるのも面白いかもしれません。
それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。