アナトリア半島はアジア地域最西部に位置する地域です。小アジアとも呼ばれており、現在はアイスやケバブで有名なトルコ共和国のアジア部分がアナトリア半島全域に広がっています。
この記事で取り上げるアナトリア半島と言っても、世界史や世界地理にあまり触れたことがない方の中には聞いたことがない人もいるかもしれません。
しかし、アナトリア半島はかつて大国同士の戦争や土地の奪い合いが何度も起こった場所であり、アジアとヨーロッパを繋ぐ大役も果たしていました。歴史的に重要な意義を持つアナトリア半島は歴史好きにとって非常に魅力的な地域です。
この記事ではアナトリア半島の地理や文化、歴史、民族について迫っていきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
アナトリア半島とは何か?
アナトリア半島はどこにある?
アナトリア半島は広大なアジアの最西部に位置しています。現在のトルコ共和国がある場所をイメージするとわかりやすいかもしれません。
アナトリア半島西部は黒海、マルマラ海、エーゲ海、地中海に面しています。東部は陸続きで、ジョージア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと多くの国々と接しています。
実はアナトリア半島と呼ばれている範囲がどこからどこまでなのかは曖昧で、アナトリア半島の西側は海が境界となっていますが、東側はトルコ共和国の国境までをアナトリア半島とする見方が多いです。
アナトリア半島の特徴
アナトリア半島の地勢は大部分が高地性であり、海岸部分にのみ平地があります。伝統的に農業が盛んで、地中海に面している西部と首都近郊以外の地域では農業人口が多く見られるのが特徴です。
また、アナトリア半島は先史時代より様々な文明の発祥地になっており、多くの遺跡が発見されています。2018年に世界遺産として登録されたギョベクリ・テペは新石器時代に建てられた遺跡で、この構造物が建てられた目的ははっきりとわかっていません。
歴史的に重要な地点に位置しているアナトリア半島。大昔から続いてきた人類の謎を紐解くヒントが隠されているのかもしれません。
アナトリア半島の名前の所以
アナトリア半島は元々は単純に「アジア」と呼ばれており、アジアがより東方に広がっているとわかると「小アジア」として区別されるようになりました。
アナトリアという名前の所以は東ローマ帝国の時代にまで遡ります。
東ローマ皇帝コンスタンティノス7世の時代、アナトリア半島西部のエーゲ海沿いに設置された軍管区が、ギリシャ語で日出る処という意味を持つ「アナトリコン」と名付けられました。この「アナトリコン」に由来して、アナトリアと呼ばれているのです。
アナトリア半島の歴史上の重要な出来事
ヘレニズム時代の到来
マケドニア王国のアレクサンドロス大王の死亡からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年をヘレニズム時代と呼びます。
アレクサンドロス大王が急逝すると後継者争いが巻き起こり、ギリシアからアナトリア半島を含むアジア地域にまで跨る巨大帝国はアンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアの3つに分裂しました。
そして、オリエント世界にギリシア文化が伝播し融合したことでヘレニズム文化が誕生します。その後ヘレニズム文化がキリスト教と融合した結果、「ビザンティン文化」が生まれることとなりました。
東ローマ帝国とイスラム帝国の攻防
4世紀末からアナトリア半島を支配していた東ローマ帝国は常に東方諸国の脅威に晒され続けていました。当初はササン朝ペルシアと領土を争っていましたが、7世紀頃になるとイスラム帝国が出現します。
イスラム帝国との抗争中に最盛期を迎える東ローマ帝国でしたが、11世紀にはトルコ人が建てたイスラム系のセルジューク朝に敗北し、アナトリア半島のほぼ全域を奪われてしまいました。
ローマ教皇の助けも借りて一時は領土の回復に成功しますが、その後ルーム=セルジューク朝に惨敗したことで東ローマ帝国の国際的信頼は地に落ちてしまいます。
オスマン帝国の出現
1299年に建国されたオスマン帝国は、600年以上もの長い年月の間アナトリア半島を支配し続けます。
1453年に東ローマ帝国の大都市コンスタンティノポリスを包囲し、滅亡に追い込みました。最盛期には中央ヨーロッパにまで遠征し、オーストリアのウィーンを包囲してヨーロッパ世界に対して国力と影響力を見せつけます。
アナトリア半島を中心に栄えたオスマン帝国は、東西の交易路を抑える大帝国に成長し、中世から近世にかけての世界史に大きな影響を与えました。
アナトリア半島に住んでいる民族とは
現在のトルコ共和国の民族構成
現在のトルコ共和国の民族構成の大部分はトルコ人とされています。
しかし前身のオスマン帝国が多民族国家であり、民族間の対立や領土紛争を誘発する可能性など様々な問題発生を危惧した結果、国内の民族構成に関する調査は長年実施されていませんでした。
そのためトルコ共和国は、国内に居住するトルコ国民は皆トルコ語を母国語とするトルコ人であると考えた上で、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人の非イスラム系の3民族を国内における少数民族であると定義しています。
ギリシャ人との関係
ギリシャを南端とするバルカン半島とアナトリア半島は隣接しており、古代から双方に民族が混ざり合っていました。ヘレニズム時代には文化の融合も成されています。
しかし1923年に「ギリシャとトルコの住民交換の合意書」が調印されました。住民の信仰に基づいてトルコ国内のギリシア正教徒をギリシャへ、ギリシャ国内のイスラム教徒をトルコへ強制移住させるという内容です。
この強制的な住民交換は事実上故国から国籍を剥奪され追放されるというものであり、多くの難民を生み出す結果となってしまいました。