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アナトリア半島とは?どこにある?歴史や民族との関係まとめ【古代から現代まで紹介】

アナトリア半島はアジア地域最西部に位置する地域です。小アジアとも呼ばれており、現在はアイスやケバブで有名なトルコ共和国のアジア部分がアナトリア半島全域に広がっています。

トルコ共和国最大の都市イスタンブール

この記事で取り上げるアナトリア半島と言っても、世界史や世界地理にあまり触れたことがない方の中には聞いたことがない人もいるかもしれません。

しかし、アナトリア半島はかつて大国同士の戦争や土地の奪い合いが何度も起こった場所であり、アジアとヨーロッパを繋ぐ大役も果たしていました。歴史的に重要な意義を持つアナトリア半島は歴史好きにとって非常に魅力的な地域です。

この記事ではアナトリア半島の地理や文化、歴史、民族について迫っていきます。

アナトリア半島とは何か?

アナトリア半島はどこにある?

ヨーロッパとアジアを繋ぐ場所に位置するアナトリア半島

アナトリア半島は広大なアジアの最西部に位置しています。現在のトルコ共和国がある場所をイメージするとわかりやすいかもしれません。

アナトリア半島西部は黒海、マルマラ海、エーゲ海、地中海に面しています。東部は陸続きで、ジョージア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと多くの国々と接しています。

実はアナトリア半島と呼ばれている範囲がどこからどこまでなのかは曖昧で、アナトリア半島の西側は海が境界となっていますが、東側はトルコ共和国の国境までをアナトリア半島とする見方が多いです。

アナトリア半島の特徴

アナトリア半島の地勢は大部分が高地性であり、海岸部分にのみ平地があります。伝統的に農業が盛んで、地中海に面している西部と首都近郊以外の地域では農業人口が多く見られるのが特徴です。

また、アナトリア半島は先史時代より様々な文明の発祥地になっており、多くの遺跡が発見されています。2018年に世界遺産として登録されたギョベクリ・テペは新石器時代に建てられた遺跡で、この構造物が建てられた目的ははっきりとわかっていません。

アナトリア南東部に位置するギョベクリ・テペ遺跡

歴史的に重要な地点に位置しているアナトリア半島。大昔から続いてきた人類の謎を紐解くヒントが隠されているのかもしれません。

アナトリア半島の名前の所以

アナトリア半島は元々は単純に「アジア」と呼ばれており、アジアがより東方に広がっているとわかると「小アジア」として区別されるようになりました。

アナトリアという名前の所以は東ローマ帝国の時代にまで遡ります。

東ローマ皇帝コンスタンティノス7世の時代、アナトリア半島西部のエーゲ海沿いに設置された軍管区が、ギリシャ語で日出る処という意味を持つ「アナトリコン」と名付けられました。この「アナトリコン」に由来して、アナトリアと呼ばれているのです。

アナトリア半島の歴史上の重要な出来事

ヘレニズム時代の到来

紀元前200年頃のヘレニズム諸国

マケドニア王国のアレクサンドロス大王の死亡からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年をヘレニズム時代と呼びます。

アレクサンドロス大王が急逝すると後継者争いが巻き起こり、ギリシアからアナトリア半島を含むアジア地域にまで跨る巨大帝国はアンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアの3つに分裂しました。

そして、オリエント世界にギリシア文化が伝播し融合したことでヘレニズム文化が誕生します。その後ヘレニズム文化がキリスト教と融合した結果、「ビザンティン文化」が生まれることとなりました。

東ローマ帝国とイスラム帝国の攻防

アナトリア半島に興ったルーム=セルジューク朝の支配領域

4世紀末からアナトリア半島を支配していた東ローマ帝国は常に東方諸国の脅威に晒され続けていました。当初はササン朝ペルシアと領土を争っていましたが、7世紀頃になるとイスラム帝国が出現します。

イスラム帝国との抗争中に最盛期を迎える東ローマ帝国でしたが、11世紀にはトルコ人が建てたイスラム系のセルジューク朝に敗北し、アナトリア半島のほぼ全域を奪われてしまいました。

ローマ教皇の助けも借りて一時は領土の回復に成功しますが、その後ルーム=セルジューク朝に惨敗したことで東ローマ帝国の国際的信頼は地に落ちてしまいます。

オスマン帝国の出現

オスマン帝国が築き上げた最大領土

1299年に建国されたオスマン帝国は、600年以上もの長い年月の間アナトリア半島を支配し続けます。

1453年に東ローマ帝国の大都市コンスタンティノポリスを包囲し、滅亡に追い込みました。最盛期には中央ヨーロッパにまで遠征し、オーストリアのウィーンを包囲してヨーロッパ世界に対して国力と影響力を見せつけます。

アナトリア半島を中心に栄えたオスマン帝国は、東西の交易路を抑える大帝国に成長し、中世から近世にかけての世界史に大きな影響を与えました。

アナトリア半島に住んでいる民族とは

現在のトルコ共和国の民族構成

現在のトルコ共和国の位置

現在のトルコ共和国の民族構成の大部分はトルコ人とされています。

しかし前身のオスマン帝国が多民族国家であり、民族間の対立や領土紛争を誘発する可能性など様々な問題発生を危惧した結果、国内の民族構成に関する調査は長年実施されていませんでした。

そのためトルコ共和国は、国内に居住するトルコ国民は皆トルコ語を母国語とするトルコ人であると考えた上で、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人の非イスラム系の3民族を国内における少数民族であると定義しています。

ギリシャ人との関係

ギリシャとトルコの国境

ギリシャを南端とするバルカン半島とアナトリア半島は隣接しており、古代から双方に民族が混ざり合っていました。ヘレニズム時代には文化の融合も成されています。

しかし1923年に「ギリシャとトルコの住民交換の合意書」が調印されました。住民の信仰に基づいてトルコ国内のギリシア正教徒をギリシャへ、ギリシャ国内のイスラム教徒をトルコへ強制移住させるという内容です。

この強制的な住民交換は事実上故国から国籍を剥奪され追放されるというものであり、多くの難民を生み出す結果となってしまいました。

アナトリア半島の歴史年表

紀元前1680年頃 ‐ 「ヒッタイト王国誕生」

ヒッタイト王国の中心地ハットゥシャにあるライオンの門

ヒッタイト王国はヒッタイト人が「赤い河」を意味するクズルウルマックの周辺に建国した国家です。元々は紀元前1680年頃に興ったヒッタイト王国でしたが、古王国、中王国、新王国の3つの時代を経て500年近くアナトリア半島を支配していました。

そして、古王国時代には古バビロニア王国を滅ぼし、メソポタミアにまで勢力を拡大します。中王国時代の記録はあまり残っていませんが、その後の新王国時代には全盛期となりました。

しかし紀元前1200年を過ぎた頃にヒッタイト王国は滅びの時を迎えます。通説では民族分類不明の「海の民」による襲撃が原因とされていますが、内紛や食糧難による国力の低下という説も有力です。

紀元前525年 ‐ 「アケメネス朝ペルシアが古代オリエント世界を統一」

紀元前525年、エジプトを併合したことでアケメネス朝ペルシアによるアナトリア半島を含む古代オリエント世界の統一が完了しました。

古代オリエントを征服したアケメネス朝ペルシアが次に狙ったのは、隣接するギリシア。紀元前500年から始まったペルシア戦争で何度もギリシアに侵攻しますが、ギリシア連合軍の前に敗北が続き失敗に終わりました。

その後マケドニア王国のアレクサンドロス大王に攻め込まれます。敗れたアケメネス朝最後の王ダレイオス3世は逃亡中に殺害され、アケメネス朝ペルシアは滅亡しました。

紀元前334年 ‐ 「アレクサンドロス大王のペルシア遠征」

巨大帝国を築き上げたアレクサンドロス大王

紀元前334年にマケドニア王国のアレクサンドロス大王がペルシアへの遠征を開始しました。

アレクサンドロス大王はイッソスの戦い、ガウガメラの戦いでダレイオス3世が君臨するアケメネス朝を倒し、ペルシアを征服。その後アナトリア半島を越えてインドまで進軍しますが、紀元前323年に32歳の若さで急逝してしまいます。

アレクサンドロス大王が築き上げた帝国は後継者争いの末にアンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアの3つに分裂しました。

紀元前31年 ‐ 「古代ローマが地中海世界を統一」

後に初代ローマ皇帝となるオクタウィアヌスが、共和政ローマ末期に訪れた混乱期「内乱の1世紀」を終結させ、地中海世界を統一しました。

アナトリア半島を支配していたセレウコス朝は、紀元前63年に共和政ローマの司令官グナエウス・ポンペイウスがシリアを属州としたことで滅亡。紀元前31年にはアクティウムの海戦でオクタウィアヌスがプトレマイオス朝エジプトを征服したことで、アレクサンドロス大王が築き上げた帝国は完全に終わりを迎えました。

それ以降、帝政ローマによるアナトリア半島を含めた地中海世界の支配がしばらく続くことになります。

395年 ‐ 「ローマ帝国が東西に分裂」

東西に分裂したローマ帝国

ローマ帝国を実質的に単独で支配したテオドシウス帝の死後、ローマ帝国は東西に分裂してしまいました。そして、アナトリア半島を含む地中海世界の東半分を、東ローマ帝国が支配することになります。

東ローマ帝国は古代ローマ帝国の政治体制や法律を受け継ぎ、キリスト教を国教としていました。しかし国内は非常に不安定で、北方民族の侵入や東方の国境線で起こったササン朝ペルシアとの領土争いが長く続きます。

9世紀にバシレイオス1世の治世を迎えると、東ローマ帝国は中央集権・皇帝専制による政治体制を確立して最盛期を迎えます。コンスタンティノープルは東西の交易ルートを繋ぐ大都市として繁栄しました。

1077年 ‐ 「ルーム=セルジューク朝が誕生」

1077年、イランで興ったセルジューク朝の地方政権であるルーム=セルジューク朝が、アナトリア半島にて独立しました。

1071年に起こったマラズギルトの戦いで、セルジューク朝に敗北した東ローマ帝国は、アナトリア半島に保有していた領土を大量に失ってしまいます。アナトリア半島の支配権を勝ち取ったスライマーン・イブン・クタルミシュが独立を宣言し、ルーム=セルジューク朝が成立しました。

1096年に始まったキリスト教世界による十字軍運動を迎え撃つ中でルーム=セルジューク朝は最盛期を迎えます。しかし13世紀にモンゴル帝国の侵入を受け、1278年にはイル=ハン国の属国になってしまいました。そして1308年には滅亡に追い込まれることになります。

1299年 ‐ 「オスマン帝国の建国」

1299年、始祖オスマン1世がアナトリア半島北西部にてオスマン帝国を建国しました。オスマン帝国は建国から600年以上アナトリア半島を支配し続けることになります。

オスマン帝国の最盛期を築いたスレイマン1世

オスマン帝国はスレイマン1世の時代に最盛期を迎え、1529年に行った第一次ウィーン包囲ではヨーロッパ世界に強い衝撃を与えました。しかしスレイマンの治世が終わると、オスマン帝国は欧州諸国や南下を狙うロシア帝国との戦いの中で徐々に衰退していくことになります。

1914年、オスマン帝国は第一次世界大戦に同盟国側で参戦しましたが、劣勢を覆せずに敗北。オスマン帝国政府はトルコ大国民議会と対立し、最終的に帝政の廃止に追い込まれ滅亡しました。

1924年 ‐ 「トルコ共和国が誕生」

オスマン帝国を滅亡に追い込んだトルコ大国民議会は共和政を宣言し、1924年にトルコ民族の国民国家であるトルコ共和国を建国しました。

トルコ共和国は西洋化によって近代化を目指し、イスラム世界で初めての世俗主義国家となりました。第二次世界大戦後には欧州連合への加盟を望むなどして西側諸国への接近を試みますが、ヨーロッパ諸国に根付く反イスラム感情が障害となっている現状があります。

トルコ共和国が目指す西洋化の過程には、イスラムの復活を望む反体制的な勢力を強権的に政治から排除してきたという背景もあることを忘れてはいけません。

アナトリア半島に関するまとめ

今回はアナトリア半島について解説しました。

アナトリア半島は地理的に民族の入れ替わりが激しく、争いも絶えない土地であるため非常にややこしくわかりにくいですが、世界史を楽しむ上での魅力がたくさん詰まった地域でもあります。

この記事ではアナトリア半島の地理や文化、民族、そして大まかな歴史について紹介しましたが、より広い視点でアナトリア半島を中心とした東西に跨る歴史を見てみるのも面白いかもしれません。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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