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ルシタニア号とは?何が起きた?【事件の背景や沈没の理由、歴史についても解説

ルシタニア号とは、20世紀初頭に建造されたイギリス船籍の旅客船です。

イギリスの豪華客船ルシタニア号

2000人もの旅客を乗せることができるほどの規模を誇ったルシタニア号でしたが、第一次世界大戦中に凄惨な事件に巻き込まれて沈没してしまいます。

この記事ではルシタニア号の特徴や歴史について迫っていきます。

ルシタニア号とは

ルシタニア号はいつ造られた?

ルシタニア号は、1904年6月16日に建造が開始され1906年6月7日木曜日に進水した、当時のイギリス船の中でも最大の旅客船です。

ルシタニア号の設計図

イギリスの海運会社キュナード・ラインによって発注され、同国のジョン・ブラウン・アンド・カンパニーによって造船されました。ルシタニア号の姉妹船であるモーリタニア号もキュナード・ラインによって建造が発表されています。

また、イギリス政府はルシタニア号に対して、有事の際に軍が徴用し仮装巡洋艦として使用することを条件に維持費として15万ポンドを援助しました。

ルシタニア号の性能・特徴

ルシタニア号最大の特徴は、当時最速を記録した航行速度です。ルシタニア号のスピード記録はそれまでの客船の歴史を塗り替えました。

1907年9月7日に行われた処女航海では、わずか6日でリヴァプールからニューヨークまで航行し、大西洋を最速で横断した船に与えられる賞であるブルーリボン賞を獲得。同年10月には、東回り航路でもブルーリボン賞を手に入れます。

また、巡洋艦としての性能も求められていたため、当時ではかなり進歩的な防水隔壁が整備されていました。旅客定員に対して十分な数の救命ボートが搭載されていたのもその影響の1つでしょう。

ルシタニア号の名前の由来は?

ルシタニア号という船名は、古代ローマの属州の1つであった「ルシタニア」という地名が由来となっています。現在でいうポルトガルとスペイン西部の位置です。

古代ローマ時代のルシタニア属州の位置

ルシタニアに最初にやって来た人種はルシタニ族と呼ばれています。ルシタニ族は、紀元前6世紀にアルプスから移動してきたインド=ヨーロッパ語族という説が有力です。

ルシタニ族はローマ人の支配に抗いますが、最終的にルシタニアの地は古代ローマ帝国の支配下に入ることになりました。

ルシタニア号事件とは

ルシタニア号事件の背景

ルシタニア号の処女航海から僅か7年後、1914年に第一次世界大戦が勃発しました。

イギリスやフランスを含む連合国軍とドイツ軍が繰り広げた塹壕戦

第一次世界大戦が始まると、イギリスはルシタニア号を仮装巡洋艦として運用することを検討しました。しかし、ルシタニア号はあまりに大きいため攻撃の標的にされやすいという理由から、仮装巡洋艦として採用されず、イギリスとアメリカの間を結ぶ豪華客船として運用されることになります。

ルシタニア号が航海を続ける中、イギリス、フランスによる海上封鎖に不満を持っていたドイツ政府は、1915年に敵国に関係する船を無警告で攻撃する「無限潜水艦作戦」を宣言しました。

ルシタニア号事件はいつ起きた?

1915年5月7日、ルシタニア号はニューヨークからイギリスへ向かう航海の途中、ドイツの潜水艦Uボートによる攻撃を受け沈没。乗客1198人が犠牲になってしまいます。

1915年2月にドイツが無限潜水艦作戦を宣言した後、新聞にはドイツ大使館による被害を抑えることを目的とした警告文が掲載されていました。ルシタニア号の乗客や乗組員はこの警告文に恐怖しますが、経験豊富な船長はルシタニア号の速度ならばドイツの潜水艦に追いつかれることはないと説明します。

ルシタニアの広告に掲載されていた警告文

しかし、同年5月1日に出航したルシタニア号はドイツの潜水艦による魚雷攻撃を受け、アイルランド沖にて撃沈しました。

ルシタニア号はなぜ沈没した?

ルシタニア号がドイツの潜水艦によって沈められてしまった原因は、航路であったはずの海上を包んだ霧にありました。

魚雷攻撃を受けるルシタニア号

沈没する以前、ルシタニア号の航行速度はドイツの潜水艦Uボートよりも速く、追いつかれて攻撃される心配はないとされていました。しかし、航行中に霧に遭ったルシタニア号は減速し、進路を変更せざるを得なかったのです。

そこへ現れたのがUボート「U-20」でした。進路を変えたルシタニア号はU-20の攻撃射程に入ってしまい、攻撃を受けて沈没してしまいます。

ルシタニア号事件を受け、アメリカが戦争に参戦

多数の民間人を犠牲にしたとして、イギリスを含む連合国だけでなくアメリカや中立諸国によるドイツへの非難が高まりました。国際的な非難が強まると、ドイツは無制限潜水艦作戦を一旦停止します。

ルシタニア号事件に関して、特にアメリカが激怒していました。ルシタニア号に乗船していた139人のアメリカ人のうち、128人が死亡したのです。即時参戦には至りませんでしたが、1917年にドイツが無制限潜水艦作戦を再開すると、アメリカは正式にドイツに対して宣戦布告しました。

それまで孤立主義の伝統を守り、中立を保っていたアメリカ合衆国が連合国側に参戦したことで、第一次世界大戦は最終局面へと向かっていきます。

ルシタニア号の歴史年表

1907年 – 「処女航海」

ニューヨークに到着したルシタニア号

ルシタニア号の処女航海は1907年でした。リヴァプールからニューヨークへ向けて航行したルシタニア号は初航海で新たな記録を叩き出し、大西洋を最速で横断した船に与えられる賞であるブルーリボン賞を獲得しました。

同年10月には東回り航路で新たな記録を打ち出してブルーリボン賞を手に入れます。これによって、ルシタニア号は東西の航路において最速記録を保有することになりました。

1907年から1915年までの8年間で、ルシタニア号はリヴァプールとニューヨークの間を202回往復することになります。

1909年 – 「ハドソン・フルトン記念祭」

1909年の9月から10月にかけて、ニューヨーク市で開催されたハドソン・フルトン記念祭にルシタニア号が参加しました。

ハドソン・フルトン記念祭は様々な輸送手段の展示会です。ルシタニア号は当時最先端の蒸気船技術が使われており、イギリスの進歩した技術を表していたと言えます。

また、この時代に新しい交通手段として登場した飛行機の実演会も行われました。

1915年 – 「ルシタニア号事件」

ルシタニア号事件とは、ドイツの潜水艦Uボートによる攻撃を受け、ルシタニア号が沈没させられてしまった事件です。

ルシタニア号沈没後の様子

1915年2月、ドイツは敵国に関係する船を無警告で攻撃する無制限潜水艦作戦を発動。その中で豪華客船として運航していたルシタニア号はドイツの潜水艦の攻撃範囲に入ってしまい、1915年5月7日に魚雷攻撃を受けて沈みました。

この事件で出た犠牲者の多くは民間人であり、ドイツは国際的に強く非難されました。これを受けてドイツは無制限潜水艦作戦を一旦停止します。

1917年 – 「アメリカが第一次世界大戦に参戦」

第一次世界大戦においてはモンロー主義に基づいて中立の立場を取っていたアメリカ合衆国でしたが、1917年にドイツが無制限潜水艦作戦を再開すると、アメリカは連合国側としてドイツに宣戦布告します。

ドイツ海軍の潜水艦Uボート

アメリカが参戦することになった原因は、ルシタニア号事件をきっかけにアメリカ国内で反ドイツ感情が高まっていたことにありました。ルシタニア号事件において犠牲となった人々の中には128名のアメリカ人がいたのです。

アメリカの参戦は第一次世界大戦の大きな転換点となります。アメリカの協力により連合国側は西部戦線で前進し続けていたドイツ勢力を抑え、戦いは最終局面へと向かいます。

ルシタニア号に関するまとめ

今回はルシタニア号について解説しました。

ルシタニア号は、第一次世界大戦の時代に最速を誇った豪華客船でした。最先端の蒸気船技術を存分に発揮して活躍しましたが、最終的にはドイツの攻撃を受けて沈没してしまいます。

この記事ではルシタニア号の特徴や歴史について紹介しましたが、同じ時代に活躍した船舶について詳しく調べてみるのも面白いかもしれません。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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