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3C政策とは?どこの国で何の目的で行われた?【経緯からその後の影響まで紹介】

3C政策とは、イギリスが推し進めた植民地政策です。この時代にはイギリスだけでなく、ロシアやフランス、ドイツなど様々な強国が植民地や海上覇権を求めて競っていました。

帝国主義時代のヨーロッパ

「3C政策って具体的にどんな内容なの?」
「3C政策の目的や影響を詳しく知りたい!」

この記事を見ているあなたはこのように思っているのではないでしょうか。そこで、当時の大英帝国(イギリス)はどのようにして3C政策を展開したのか、また、3C政策は他の列強諸国にどのような影響を与えたか、などについて詳しく紹介していきます。

3C政策の経緯からその後の影響までの歴史について迫っていきますので、ぜひ最後までご覧ください。

3C政策とは

3C政策はいつ始まった?

3C政策が始まったのは19世紀の終わり頃です。19世紀後半から20世紀前半にかけてイギリス帝国の植民地政治家であるセシル・ローズが推進していきました。

イギリスの植民地政治家セシル・ローズ

熱心な帝国主義者であったセシル・ローズは、アングロサクソン人こそが最も優秀な民族であり、イギリスが世界を支配することは人類の幸福につながると信じていた人種差別主義者です。

イギリス帝国が積極的に海外進出していたこの時代、同じように世界政策を唱えるドイツ帝国も帝国主義政策を展開していました。

3C政策の目的とは

帝国主義政策を推し進めるイギリス帝国が3C政策を展開した目的は、東アフリカからインド洋にかけての通商貿易の独占と制海権を獲得することにありました。

帝国主義時代の勢力図

3C政策とは、インドのカルカッタ・エジプトのカイロ・南アフリカのケープタウンを結ぶ三角形地帯です。この三角形の領域内を抑えることがイギリス帝国の狙いでした。

しかしイギリスの3C政策は、ドイツの3B政策やロシアの南下政策、フランスのアフリカ横断政策など列強各国の植民地政策と衝突することになります。

3C政策に関わった都市

3C政策における3Cとは、カルカッタ・カイロ・ケープタウンを指します。

カルカッタ・カイロ・ケープタウンを繋ぐ3C政策

カルカッタとは、インドの西ベンガル州に位置する世界屈指の大都市です。イギリス領インド帝国の時代には首都として機能していました。独立後には、イスラム教徒とヒンドゥー教徒による武力衝突など様々な困難にぶつかりましたが、現在では首都デリーやインド最大の都市ムンバイを超える人口密度を有した都市となっています。

エジプトの首都であるカイロは、アラブ文化圏で最も人口の多い都市であり、世界的にも影響力があるグローバル都市です。カイロの中心都市はナイル川の東側に位置しますが、ナイル川を挟んで対岸の西側にはクフ王のピラミッドや大スフィンクスで知られるギーザの町があります。

ケープタウンは南アフリカ共和国の都市です。元々は17世紀にオランダがアジア進出する際に建設した補給港で、イギリスの占領下に入ったのは19世紀初頭のことでした。現在ではアフリカ有数の世界都市となっています。

3C政策の名前の由来

3つの都市の頭文字をとった

3C政策という名称は、カルカッタ・カイロ・ケープタウンの3つの都市の頭文字である「C」を取って名付けられました。

また、3C政策の推進者であったイギリスの植民地政治家セシル・ローズの名をとって「セシルの夢」と呼ばれることもあります。

この時代、ドイツ帝国はベルリン・ビザンティウム・バグダードの3つの都市の頭文字「B」をとって名付けられた「3B政策」を展開していました。

3C政策の経緯

イギリスのアジア進出

イギリス領インド帝国の地図

17世紀頃、イギリス東インド会社はインドに商館を設置し始めます。インド貿易が順調に進むと、商館を置かれた都市は要塞化し、インドにおけるイギリスの影響力も次第に強まっていきました。

さらに支配を拡大したイギリスは、当時のインドにおける最大勢力であったマラーター同盟を解体。インド北西部を支配していたシク王国を滅亡させ、ムガル帝国を傀儡化しました。

そして、1857年に起こったインド大反乱をきっかけにムガル帝国は滅亡。イギリスはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させました。その後イギリスは勢力を東南アジア・東アジアに拡大し、最終的には中国に至る航路のすべてに拠点を持つことになります。

イギリスのアフリカ進出

帝国主義政策を推進するイギリスは、19世紀頃から本格的にアフリカ進出に乗り出します。

アフリカ支配を目指す植民地首相セシル・ローズ

1875年、当時オスマン帝国領であった北アフリカのエジプトは財政破綻に陥っていました。この隙を見逃さなかったイギリスは、スエズ運河株式会社の株式を取得し筆頭株主となります。イギリスは、東西の交易ルートとして重要なスエズ運河の支配権を獲得した上で、エジプトを保護国化しました。

1889年には、ケープ植民地首相であるセシル・ローズ主導の下で、イギリスは南アフリカ会社を設立。ケープタウンを含む南アフリカの地域を植民地化しました。

3C政策の影響

3B政策との対立

ベルリン・ビザンティウム・バグダードを鉄道で結ぶ3B政策

イギリスが3C政策を推進する際に邪魔となったのがドイツの3B政策です。当時のドイツは3B政策を展開し、ベルリンからビザンティウム、バグダードを結ぶ鉄道を敷設しようとしていました。

ドイツ帝国のヴィルヘルム2世が推し進めた3B政策は、東アフリカからインド洋までの広範囲の支配力を高めようと企んでいたイギリスを強く刺激することになります。

両国間に妥協が成立しないまま帝国主義国家同士の対立は続きました。その結果、世界的規模にまで拡大した第一次世界大戦を引き起こす一因となってしまいます。

ファショダ事件

ファショダ事件とは、3C政策の過程でアフリカ縦断政策をとっていたイギリスと、アフリカ横断政策をとっていたフランスが軍事衝突しかけた事件です。

ファショダ事件における英仏の進路

イギリス領であるケープタウンとカイロを繋ぐ縦の直線と、フランス領であるセネガルとジブチを繋ぐ横の直線は、スーダンのファショダで交差しており、アフリカの植民地化を推し進める両国にとって重要な地点となっていました。

戦争か撤退かという状況まで追い込まれたイギリスとフランスの間で緊張が高まります。しかし、イギリスとの関係を悪化させたくなかったフランスが譲歩し、軍事衝突には至りませんでした。その後、長年対立関係にあったイギリスとフランスは融和へ向かい、英仏協商を結びます。

三国協商の成立

三国協商とは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、イギリス・フランス・ロシア帝国の三国間で締結された協調関係です。

ドイツ帝国の台頭に対抗するための協調関係でしたが、三国協商の形成はドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟との対立を深刻化させることになりました。

世界の勢力を二分にした列強諸国による勢力均衡政策は、結果的に第一次世界大戦の対立構造となってしまいます。

第一次世界大戦の勃発

第一次世界大戦とは、1914年に起きたサラエボ事件をきっかけに勃発した世界大戦です。主に三国協商と三国同盟の2陣営に分かれて戦闘が繰り広げられました。

第一次世界大戦において繰り広げられた塹壕戦

経済力や人員、工業技術力が軍事的に大規模動員された第一次世界大戦では総力戦の末、イギリスを含む三国協商側の勝利に終わります。

1919年のパリ講和会議において講和条約が結ばれ、第一次世界大戦は正式に終結。同時に戦後の国際秩序が築かれますが、敗戦国となったドイツに対して行われた厳しい報復は後の第二次世界大戦を引き起こす一因となります。

第一次世界大戦後のイギリス帝国領

3C政策に関するまとめ

今回は3C政策の歴史について解説しました。

3C政策は、世界中へ勢力を拡大したイギリスによる帝国主義政策の一環として行われました。しかし、ドイツ帝国の3B政策と衝突。第一次世界大戦を引き起こす原因の1つとなってしまいました。

この記事では3C政策の歴史について紹介しましたが、同じ時代の日本で起こっていた出来事について詳しく調べてみるのも面白いかもしれません。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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