インド帝国とは、イギリスが南アジアに建てた植民地帝国です。この時代は、ヨーロッパの列強諸国が自国の植民地を求めて積極的に海外進出していました。
「インド帝国と現在のインドはどう違うの?」
「インド帝国の特徴や歴史を詳しく知りたい!」
この記事を見ているあなたはこのように思っているのではないでしょうか。そこで、当時のインド帝国と現在のインドはどう違うのか、また、インド帝国の歴史などについて詳しく紹介していきます。
インド帝国の特徴や制度、重要人物について迫っていきますので、ぜひ最後までご覧ください。
インド帝国とは
インド帝国はいつ成立した?
インド帝国は1858年に成立しました。イギリス領インド帝国は、世界政策を推進していたイギリスにとって最大の植民地となります。
当初は副王の称号を持ったイギリス人総督がイギリス領インドの統治に当たっていました。その後、1877年にはイギリス国王であるヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任することになります。
インド帝国は、1858年に成立してから1947年に独立するまでの89年間をイギリスの植民地として過ごすことになったのです。
インド帝国はどこにあった?
イギリス領インド帝国は、インド洋に面する南アジアのインド亜大陸に位置していました。主にイギリスのアジア貿易における中心地となります。
イギリスによる植民地政策が始まる以前、インドにはムガル帝国やマラーター同盟、シク王国など様々な勢力が存在していました。これらの領土を植民地化しようと企むイギリスやオランダ、フランスの間では抗争が起こりますが、最終的にイギリスがインドの覇権を握ることになります。
また、イギリスは3度に渡るイギリス=ビルマ戦争においてインドシナ半島西部に位置するビルマを占領し、イギリス領インド帝国に併合しました。
インド帝国は現在のインドと違うの?
インド帝国と現在のインドでは政治体制に大きな違いがあります。
20世紀半ばに解体されたインド帝国はイギリスの支配下にありましたが、イギリスの支配から独立した現在のインドは共和制国家となっているのです。議会の上下両院と州議会議員で構成される選挙会によって選出された大統領が、内閣の助言に従って国務を行います。
また軍事的な面に関しては、隣接するパキスタンや中華人民共和国と対立していく過程で、世界で6番目の核兵器保有国となりました。
インド帝国はなぜ滅んだ?
第二次世界大戦後において戦勝国となったイギリスでしたが、国力が疲弊した結果、インド帝国を解体することになります。
しかし、国内におけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立は収まりませんでした。最終的に、解体されたインド帝国はインド連邦とパキスタンの2つに分離独立することになります。
共和政へと移行したインドとイスラム教国家であるパキスタンの対立は今も続いており、国境では紛争や混乱、難民の発生など様々な問題を抱えているのです。
インド帝国の特徴・制度
イギリスによる支配
インド帝国では、1858年からイギリスによる本格的な支配が開始されました。イギリスによる統治は、第二次世界大戦後にインド帝国が解体され、インド連邦とパキスタンとして分離独立するまで続くことになります。
インド帝国は、イギリス植民地の中でも経済的な意味で特に重要な場所となりました。イギリスによる帝国主義政策の経済的な基盤となったインド帝国では、綿花や茶、アヘンなどの商品作物が栽培されていきます。
しかし、イギリス領インド帝国の支配体制は搾取構造を作り上げ、民衆の間に深刻な飢饉を引き起こしました。この時代に多くの人々が飢えで命を落としています。
藩王国を利用した分割統治
イギリス政府はインド帝国において、藩王国を利用した分割統治を実行しました。
藩王国とは、イギリスの統治下において一定の支配権を認められていた藩王の持つ領土です。藩王国はイギリス政府と結んだ軍事保護条約により、防衛・外交権を除いた自治権を保有していました。
しかし、藩王国はあくまで傀儡勢力として保護された形であり、イギリスが派遣した政治顧問による内政干渉を度々受けることになります。
インド帝国の歴史上重要な人物
ヴィクトリア女王
ヴィクトリア女王とは、イギリスのハノーヴァー朝第6代国王であり、インド帝国の皇帝を兼任した人物です。1877年にインド帝国の初代皇帝になりました。
ヴィクトリア女王は、世界に植民地帝国を築いたイギリスを象徴する女王として知られています。その在位は63年7か月に及び、2020年現在のイギリス女王であるエリザベス2世に次いで2番目の長さです。
ヴィクトリア女王の統治下にあったイギリスは強力な軍事力と工業力をもって、「パックス=ブリタニカ」と呼ばれる繁栄の時代を築き上げ、国際社会に相対的な平和をもたらしました。
マハトマ・ガンディー
マハトマ・ガンディーとは、インド北西部のグジャラート州出身の弁護士であり、インド独立の父とも呼ばれる政治指導者です。インドでは親しみを込めて「父親」を意味する「バープー」と呼ばれることもあります。
インドの独立運動を指揮したガンディーは非暴力・不服従を提唱し、イギリス製品の不買運動や、塩の専売に反対して行った抗議運動である「塩の行進」などの平和主義的手法で、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が融合した統一国家の独立を目指しました。
第二次世界大戦後に念願の独立を達成しましたが、宗教的な対立は収まらず、インドはパキスタンとの分離独立の道を歩みます。その後もガンディーは両教徒の融和を目指して活動を継続しましたが、最終的にはヒンドゥー原理主義者に暗殺されてしまいました。
インド帝国の歴史年表
1857年 – 「インド大反乱」
インド大反乱とは、インド人傭兵が開始し、全インドへと拡大したイギリスの植民地支配に対する民族的抵抗運動です。
1857年、東インド会社が編成したインド人傭兵であるシパーヒーが反乱を起こしました。反乱軍はインド大反乱に正統性を持たせるために、北インドのムスリム国家であるムガル帝国の皇帝を担ぎ出します。しかし、反乱にはイスラム教徒だけでなくヒンドゥー教徒も多く参加していました。
最終的に、インド大反乱は東インド会社によって鎮圧され、ムガル帝国は滅亡に追い込まれます。そして、東インド会社を解散させたイギリスはインドを直接統治下に置きました。
1858年 – 「インド帝国成立」
1858年、イギリスの直轄植民地としてインド帝国が成立しました。
イギリスはインドを統治する上で、藩王国を傀儡勢力として保護し、分割統治に利用しました。藩王国は防衛・外交権を除いた自治権が認められていましたが、イギリスによる内政干渉を度々受けることになります。
また、インド大反乱を鎮圧したイギリス政府は、インド統治改善法を制定します。これにより、東インド会社が保有していた権限が全てイギリス国王に移されることになったのです。
1877年 – 「ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任」
1877年、イギリスのハノーヴァー朝第6代女王であるヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任し、インド帝国は同君連合体制となりました。
ヴィクトリア女王は、世界各地を植民地化・半植民地化した大英帝国(イギリス)を象徴する女王として知られ、その治世はヴィクトリア朝と呼ばれています。また、ヴィクトリア女王は保守党の首相ディズレーリによる帝国主義政策を全面的に支持していました。
インド帝国の女帝となったヴィクトリア女王でしたが、1度として本人がインドの地を踏むことはなく、生涯ヨーロッパを出ることはありませんでした。
1906年 – 「全インド=ムスリム同盟発足」
全インド=ムスリム同盟とは、インド帝国内に親英組織を作りたかったイギリスの働きかけで組織された、イスラム教徒による政治団体です。
20世紀初頭、イギリスは反英運動を展開していたインド国民議会に対抗するために、ベンガル分割令を出しました。ベンガル分割令とは、ベンガル地方をヒンドゥー教徒が多く住む西ベンガルとイスラム教徒が多く住む東ベンガルに分割し、イギリスへの民族運動を宗教運動へと転嫁しようというものです。
この法令に多数派であったヒンドゥー教徒は激怒しましたが、それまで少数派であったイスラム教徒は東ベンガル内で多数派になれると考え、親英派に傾きます。その結果、イギリスへの忠誠・ムスリムの利益の保護・他宗教との提携などを掲げる全インド=ムスリム同盟の発足に至りました。
しかし、インド国民議会による激しい反対運動は続き、その結果、1911年にベンガル分割令が撤回されたことで全インド=ムスリム同盟とイギリスの関係は悪化。その後、第一次世界大戦においてイギリスがイスラム教国家であるオスマン帝国と開戦したことも重なり、全インド=ムスリム同盟は親英から反英に転換していきます。
1919年 – 「ローラット法制定」
ローラット法とは、1919年にイギリス領インド帝国の植民地政府によって発布された治安法令です。ローラット法の名称は、制定する際の中心人物であったシドニー・ローラットの名前に由来します。
この法律は、テロなどの破壊活動の容疑者に対して、令状なしの逮捕や裁判なしの投獄を可能にする権限をインド総督に与えるというものであり、第一次世界大戦の間に高まっていたインド国民議会を中心とした反英運動を抑えつける目的がありました。
インドの多くの人々はローラット法に反対しますが、イギリスが強引に推し進めて成立。その結果、反英勢力を率いる新たな指導者であり、後に「インド独立の父」と呼ばれるマハトマ・ガンディーが民衆の前に現れることになります。
1930年 – 「マハトマ・ガンディーによる塩の行進」
塩の行進とは、1930年にマハトマ・ガンディーとその支持者たちによって行われた、イギリス植民地政府による塩の専売制度に対する抗議運動です。
イギリス植民地政府はこの運動を厳しく弾圧し、ガンディーを含む多くの参加者を逮捕しました。その結果、抗議運動はさらに激化し、最終的に妥協したイギリス政府は禁止していた塩の製造を許可することになります。
塩の行進はインドの独立運動において重要なポイントとなりました。しかしその背景には、イギリスの植民地政策に対する批判的な世論の圧力や、1929年に起こった世界恐慌による経済の落ち込みなどがあったのです。
1947年 – 「インド連邦とパキスタンが分離独立」
1947年、イギリス領インド帝国は解体され、インド連邦とパキスタンの2国が分離独立しました。当初インド連邦はイギリス連邦の立憲君主制国家でしたが、1950年に共和制へと移行します。
第二次世界大戦において戦勝国となったイギリスでしたが、もはや超大国とは呼べないほど国力が疲弊しており、植民地の解体を余儀なくされました。長期間にわたるイギリスの支配からようやく解放されたインド。しかし、当時のインド国内で対立していたヒンドゥー教徒とイスラム教徒は分離独立を望んでいたのです。
宗教的に対立していた両勢力が横並びで分離独立した結果、混乱や虐殺、難民の発生など様々な問題が起こりました。これを危惧して独立以前から両者の融和を説いてきたガンディーでしたが、ヒンドゥー至上主義団体から敵対視され、1948年に暗殺されてしまいます。
インド帝国に関するまとめ
今回はインド帝国の歴史について解説しました。
インド帝国はイギリスがインドに成立させた植民地帝国です。民衆は独立運動を長年続けますが、第二次世界大戦が終わるまで独立することはできませんでした。この時代に支配の手段として利用された宗教間の対立が、現在も色濃く残っていることを忘れてはいけません。
この記事ではインド帝国の特徴や制度、重要人物について紹介しましたが、その後のインドやパキスタンの動向について調べてみるのも面白いでしょう。
それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。