サラエボ事件とは?起きた原因や場所、その後の影響をわかりやすく解説

「サラエボ事件って何だろう?」
「サラエボ事件はどこであった事件?」
「サラエボ事件の内容をわかりやすく知りたい」

この記事をご覧のあなたはそんな疑問を持っているかもしれません。サラエボ事件とは、1914年にボスニア=ヘルツェゴヴィナのサラエボでおきたオーストリア皇位継承者夫妻の暗殺事件です。

バルカン半島進出を進めるオーストリアが、セルビアが領有を熱望しているボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合したことが事件の原因となりました。サラエボ事件後、オーストリアとセルビアの関係は著しく悪化し戦争となります。この事件がきっかけとなり第一次世界大戦がはじまりました。

今回はサラエボ事件の内容や原因となったオーストリアのバルカン半島進出、サラエボ事件の流れやエピソードについてわかりやすく解説します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

サラエボ事件とは?

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サラエボ事件を描いた新聞の挿絵

サラエボ事件とは、ボスニア州の州都サラエボでオーストリアの皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公が暗殺された事件のことです。この事件ではフランツ・フェルディナント大公だけではなく、大公の妻であるゾフィー(ソフィー)も殺害されました。

フランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアを訪れた理由は、オーストリア皇帝からボスニアで行われる軍事演習を視察するよう命じられたためです。その後、大公夫妻はボスニア州都サラエボを訪問し、新設される国立博物館の開館に立ち会う予定でした。

しかし、大公夫妻はサラエボで待ち構えていたセルビア人の暗殺グループ「黒手組」の一員であるガブリロ・プリンツィブの手によって殺害されてしまいました。この事件が引き金となり、第一次世界大戦がはじまります。

サラエボ事件はいつ起きた?

サラエボ事件が起きたのは1914年6月28日でした。実は、この日はセルビア人にとって特別な日でした。もともと、6月28日は聖ヴィトゥスの日とよばれる祝日で、なんら暗殺事件と関係がない日です。しかし、セルビア人たちは昔からこの日を「何かが起こる日」と信じていました。

コソボ(コソヴォ)の戦いを描いた絵画

そのきっかけとなったのが1389年のコソヴォの戦いです。コソヴォの戦いはセルビア王国がオスマン帝国に敗北した戦いであると同時に、セルビア人暗殺者がオスマン帝国のスルタンであるムラト1世を殺害した日でした。

また、大公夫妻にとっても6月28日は結婚記念日でした。つまり、セルビア人にとっても大公夫妻にとっても6月28日は「いつもと違う日」だったのです。

サラエボ事件が起きた場所は?

サラエボ事件が起きたサラエボ市はバルカン半島にあるボスニア地方の中心都市です。オスマン帝国によるバルカン半島支配の重要拠点として発展しました。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの地図

1878年にボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権がオスマン帝国からオーストリア=ハンガリー帝国に移ると、サラエボもその支配下に入ります。そして、1908年にオーストリア=ハンガリー帝国の領土の一部となりました。

サラエボ市にあるセルビア正教のサラエボ大聖堂

この街は第一次世界大戦のきっかけになったサラエボ事件の発生地として有名ですが、1992年に始まったボスニア=ヘルツェゴヴィナ紛争の戦場となったことでも知られています。紛争後、サラエボは復興されボスニア=ヘルツェゴヴィナ連邦の首都となり現在に至ります。

暗殺者はセルビア人の青年

大公夫妻を射殺したセルビア人 ガブリロ・プリンツィプ

サラエボ事件でフランツ・フェルディナント大公夫妻を殺害したのはセルビア人の青年ガブリロ・プリンツィプでした。彼は1894年生まれで、サラエボ事件の19歳です。彼が生まれた時、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは既にオーストリア=ハンガリー帝国の統治下にありました。

彼に強い影響を与えたのはボスニア=ヘルツェゴヴィナ総督の暗殺未遂事件を起こし処刑されたボグダーン・ツェラジッチです。ボグダーンは、バルカン半島西部はセルビアが支配するべきとする大セルビア主義を主張しました。プリンツィプも大セルビア主義に傾倒します。

セルビアの民族主義者がつくった秘密結社「黒手組」のシンボルマーク

そして、プリンツィプは大セルビア主義を信奉するセルビア軍人のドラグーティン・ディミトリエビッチが組織する秘密結社「黒手組」の一員となりました。彼らはオーストリア=ハンガリー帝国の支配を打ち破るため、要人暗殺を計画し実行します。サラエボ事件はそうした計画の一つだったのです。

殺されたのはオーストリアの皇位継承者夫妻

オーストリア=ハンガリー帝国皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世

殺害されたフランツ・フェルディナント大公はオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者です。このころ、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝だったのはフランツ・フェルディナントの叔父のフランツ・ヨーゼフ1世でした。

彼の子で皇太子だったルドルフが急死し、その後、皇位継承者に指名された父のカール・ルートヴィヒが死去したため、フランツ・フェルディナントが皇位継承者となります。

フランツ・フェルディナント大公の妻となったゾフィー・ホテク

フランツ・フェルディナントが皇太子と呼ばれず、「皇位継承者」とよばれるのは、彼の結婚相手のゾフィーの身分が低く、彼とゾフィーの子は皇位継承権を持たないとされたからです。それでも、彼はゾフィーとの結婚にこだわりました。死の直前に彼が気にしたのは先に銃弾を受けた妻ゾフィーのことでした。彼と妻は身分の差と関係なく深い愛情で結びついていました。

原因はオーストリアのバルカン半島進出

バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」とよばれるほど利害関係が複雑に絡み合う場所でした。この地にオーストリア=ハンガリー帝国が進出したことが、大セルビア主義を掲げるセルビアやセルビアの後ろ盾としてバルカン半島に進出したロシアを刺激します。

オスマン帝国の衰退とバルカン諸国の独立

オスマン帝国は14世紀から20世紀にかけて存在したイスラム教スンナ派の帝国で、バルカン半島から小アジア、西アジア、北アフリカを支配しました。オスマン帝国のバルカン半島支配は、およそ400年に及びます。

露土戦争の激戦地となったシブカ峠(現ブルガリア領)

オスマン帝国のバルカン支配が大きく揺らいだのは19世紀に入ってからです。特に1878年の露土戦争での敗北はオスマン帝国のバルカン半島支配を大きく後退させました。露土戦争の講和条約である1878年のサン=ステファノ条約でセルビア・モンテネグロ・ルーマニアがオスマン帝国から独立し、ロシアの影響力がバルカン半島で拡大します。

ベルリン会議における各国代表団

同年、ロシアの勢力拡大を喜ばないイギリスやオーストリアとロシアの利害を調整するため開かれたベルリン会議では、セルビア・モンテネグロ・ルーマニアなどの領土が拡大される一方、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得し、ロシアの勢力拡大を抑えることに成功します。

ボスニア=ヘルツェゴヴィナの併合

1908年、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合し自国領土の一部としました。この地域はセルビアも領有権を主張していたため両国の対立が激しくなります。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナはバルカン半島の中央部に位置する地域です。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの北と西はクロアチア、東はセルビアと、南東はモンテネグロと境を接しています。この地域にはクロアチア人やセルビア人、ムスリム人が混在していました。

ローマ=カトリックとセルビア正教の教会が並び立つボサンスカ・プルカ(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領)の街並み

宗教的に見るとクロアチア人がカトリック、セルビア人がセルビア正教(ギリシア正教の一派)、ムスリム人がイスラム教を信仰しています。民族や宗教が複雑に入り組み、民族紛争が発生しやすい条件がそろっている地域だといえるでしょう。

オーストリアとロシアの対立

バルカン半島の支配をめぐり、オーストリアとロシアは対立関係にありました。オーストリアはドイツと手を組みバルカン半島のゲルマン化をはかるパン=ゲルマン主義を推し進めます。

一方、ロシアはセルビア人をはじめとするスラヴ系民族によるバルカン半島支配を目指すパン=スラヴ主義を掲げたため、オーストリアとロシアは激しく対立しました。

パン=ゲルマン主義

パン=ゲルマン主義を掲げたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世

オーストリアが掲げたパン=ゲルマン主義とは、ヨーロッパ各地のゲルマン民族の統合を図り領土を拡大しようという考え方です。もともとはドイツ帝国のヴィルヘルム2世が唱えたものでした。これに、同じドイツ民族が支配者層を占めるオーストリアが同調します。

19世紀末から20世紀にかけて、オーストリアはバルカン半島進出を加速させます。そして、領土をオーストリアからギリシア北部のサロニカ地方(現在のテッサロニキ)まで拡大しようと画策しました。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合はその一環だったのです。

パン=スラヴ主義

パン=スラヴ主義とは、バルカン半島のスラヴ人の独立と統合を目指す考え方のことです。バルカン半島のスラヴ系民族であるセルビア人などは長きにわたってオスマン帝国の支配下にありました。

パン=スラヴ主義を推し進めたロシア帝国の国旗

南方への進出をはかるロシアはセルビア人などの独立運動を積極的に支援します。ロシアとセルビアは同じギリシア正教を信じていたため、ロシアには「同胞への支援」という支援の大義名分がありました。

ロシアを後ろ盾にしたセルビアの反発

サラエボ事件が起きた時のセルビア王ペータル1世

セルビア人は1878年のベルリン条約でオスマン帝国から独立し、1882年にセルビア王国を建国します。1903年に親オーストリアの立場をとったアレクサンダル1世が暗殺され、かわって親ロシア派のペータル1世が即位します。

オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合すると、セルビア人が多く住む同地域の併合に対し、セルビア王国は激しく反発します。これによりバルカン半島をセルビア人中心の統一国家とするべきと考える大セルビア主義が強まりました。

1912年と1913年におきた2度のバルカン戦争でセルビアは勝者となり南方に領土を拡大します。その一方、単独で対抗しがたいオーストリアにはスラヴ民族の盟主的立場にあるロシアを後ろ盾として対抗しました。

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5 COMMENTS

アハハハ

犯人は、「黒手組」でなくフリーメイソンですね。
当時の裁判記録にもあります。

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アハハハ

犯人は、「黒手組」でなく「フリーメイソン」ですね。
当時の裁判記録にもあります。

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