アラゴン王国とは、中世においてイベリア半島に存在していたキリスト教国家です。現在はスペイン王国の一部となっており、サッカーやモータースポーツが盛んなため、スポーツに詳しい方なら聞いたことがあるかもしれません。
「アラゴン王国はいつできたの?」
「アラゴン王国の特徴や歴史を詳しく知りたい!」
この記事を見ているあなたはこのように思っているのではないでしょうか。そこで、アラゴン王国はいつできたのか、また、アラゴン王国の特徴や歴史などについて詳しく紹介していきます。
アラゴン王国の特徴から社会、文化まで迫っていきますので、ぜひ最後までご覧ください。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
アラゴン王国とは
アラゴン王国はどこにあった?
アラゴン王国は、ヨーロッパ南西部に位置するイベリア半島にあった国家です。現在はスペイン王国のアラゴン州となっています。
成立当時のアラゴン王国は、フランス王国、カスティーリャ王国、イスラム王朝のムワッヒド朝などの様々な国家と国境を接しており、特にムワッヒド朝とは国土回復運動の進展と共に激しく対立しました。
その後、アラゴン王国は周囲のキリスト教国家と連合王国や同君連合を形成します。その過程で、アラゴン王国は西地中海にある数々の島やイタリア半島の一部を領有し、海洋帝国を築きました。
アラゴン王国はいつ成立した?
アラゴン王国は、1035年にナバーラ王サンチョ3世の庶子であるラミロ1世がイベリア半島北東部に建国しました。
アラゴン王国が存在していた地域は、元々はイベリア半島の北東部に位置していたナバーラ王国の領土です。別名イベリア王とも呼ばれたナバーラ王サンチョ3世の死に際して、自身が保有していた領土を息子たちに分割しました。
ナバーラ王サンチョ3世の庶子であったラミロ1世は、サンチョ3世から受け継いだアラゴン川流域のチャカを中心に広がるアラゴン地方にアラゴン王国を建てたのです。
アラゴン王国の特徴
アラゴン王国の社会・文化
アラゴン王国を構成する民族は、主にアラゴン語を使用するアラゴン人です。彼らはラテン系民族に分類されており、中世の時代からイベリア半島の中央部から北東部を居住地としてきました。
また、イベリア半島は中世においてヨーロッパ文化とイスラーム文化が交わる地域に位置しており、アラゴン王国はその最前線にいたため、両文化の影響を強く受けていたのです。
その結果、アラゴン王国の社会や文化には、料理や美術、哲学など様々な分野においてイスラーム文化の影響を見ることができます。
アラゴン王国の言語
アラゴン王国では、インド=ヨーロッパ語族イタリック語派ラテン・ファリスク語群に属する、ラテン語系の総称であるロマンス諸語に分類されているアラゴン語が使用されていました。
アラゴン語の起源は、ピレネー山脈におけるラテン語の方言から形成されたと言われています。また、アラゴン王国はカタルーニャと連合王国を築きましたが、アラゴン語はカタルーニャ語と統一されることはなく、アラゴン王国ではアラゴン語が使用され続けました。
その後、イベリア半島においてアラゴン王国とカスティーリャ王国が同君連合を結成。事実上の統一が成され、スペイン王国が誕生します。しかし、スペイン王国内においてカスティーリャの勢力が国家の中心となると、スペイン王国の国家語はカスティーリャ語となっていきました。
最終的に、スペイン語と呼ばれるようになったカスティーリャ語は貴族の象徴と言われる言語となります。一方で、アラゴン語は使用者が減り続け、後に政府による抑圧を受けることになりました。
アラゴン王国の宗教
アラゴン王国では、多くの人々がローマ=カトリック教会を信仰していました。その影響はレコンキスタと呼ばれる国土回復運動において強くみられます。
レコンキスタとは、再征服という意味を持つ国土回復運動の名称です。当時、キリスト教が主流であったヨーロッパでしたが、ヨーロッパの尾と呼ばれていたイベリア半島にイスラム教徒の侵入を許していました。彼らに奪われた領土を取り戻す戦いがレコンキスタなのです。
アラゴン王国はカスティーリャ王国などのカトリック教国家と協力しながらイベリア半島を南進します。最終的には、1492年にイベリア半島南部を領有していたイスラム教国であるナスル朝のグラナダ王国を攻略し、レコンキスタを成功させました。