小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

アラゴンとは?どんな王国だった?歴史年表まとめ【特徴から社会、文化まで紹介】

アラゴン王国とは、中世においてイベリア半島に存在していたキリスト教国家です。現在はスペイン王国の一部となっており、サッカーやモータースポーツが盛んなため、スポーツに詳しい方なら聞いたことがあるかもしれません。

現在のスペイン・アラゴン州のサッカークラブ「レアル・サラゴサ」のホームスタジアムであるエスタディオ・デ・ラ・ロマレーダ

「アラゴン王国はいつできたの?」
「アラゴン王国の特徴や歴史を詳しく知りたい!」

この記事を見ているあなたはこのように思っているのではないでしょうか。そこで、アラゴン王国はいつできたのか、また、アラゴン王国の特徴や歴史などについて詳しく紹介していきます。

アラゴン王国の特徴から社会、文化まで迫っていきますので、ぜひ最後までご覧ください。

アラゴン王国とは

アラゴン王国はどこにあった?

アラゴン王国は、ヨーロッパ南西部に位置するイベリア半島にあった国家です。現在はスペイン王国のアラゴン州となっています。

ヨーロッパの地図

成立当時のアラゴン王国は、フランス王国、カスティーリャ王国、イスラム王朝のムワッヒド朝などの様々な国家と国境を接しており、特にムワッヒド朝とは国土回復運動の進展と共に激しく対立しました。

その後、アラゴン王国は周囲のキリスト教国家と連合王国や同君連合を形成します。その過程で、アラゴン王国は西地中海にある数々の島やイタリア半島の一部を領有し、海洋帝国を築きました。

地中海に領土を拡大したアラゴン王国の版図

アラゴン王国はいつ成立した?

アラゴン王国は、1035年にナバーラ王サンチョ3世の庶子であるラミロ1世がイベリア半島北東部に建国しました。

アラゴン王ラミロ1世

アラゴン王国が存在していた地域は、元々はイベリア半島の北東部に位置していたナバーラ王国の領土です。別名イベリア王とも呼ばれたナバーラ王サンチョ3世の死に際して、自身が保有していた領土を息子たちに分割しました。

ナバーラ王サンチョ3世の庶子であったラミロ1世は、サンチョ3世から受け継いだアラゴン川流域のチャカを中心に広がるアラゴン地方にアラゴン王国を建てたのです。

ナバーラ王サンチョ3世

アラゴン王国の特徴

アラゴン王国の社会・文化

アラゴン王国を構成する民族は、主にアラゴン語を使用するアラゴン人です。彼らはラテン系民族に分類されており、中世の時代からイベリア半島の中央部から北東部を居住地としてきました。

また、イベリア半島は中世においてヨーロッパ文化とイスラーム文化が交わる地域に位置しており、アラゴン王国はその最前線にいたため、両文化の影響を強く受けていたのです。

その結果、アラゴン王国の社会や文化には、料理や美術、哲学など様々な分野においてイスラーム文化の影響を見ることができます。

アラゴンの郷土料理ミガス

アラゴン王国の言語

アラゴン王国では、インド=ヨーロッパ語族イタリック語派ラテン・ファリスク語群に属する、ラテン語系の総称であるロマンス諸語に分類されているアラゴン語が使用されていました。

アラゴン語の起源は、ピレネー山脈におけるラテン語の方言から形成されたと言われています。また、アラゴン王国はカタルーニャと連合王国を築きましたが、アラゴン語はカタルーニャ語と統一されることはなく、アラゴン王国ではアラゴン語が使用され続けました。

その後、イベリア半島においてアラゴン王国とカスティーリャ王国が同君連合を結成。事実上の統一が成され、スペイン王国が誕生します。しかし、スペイン王国内においてカスティーリャの勢力が国家の中心となると、スペイン王国の国家語はカスティーリャ語となっていきました。

最終的に、スペイン語と呼ばれるようになったカスティーリャ語は貴族の象徴と言われる言語となります。一方で、アラゴン語は使用者が減り続け、後に政府による抑圧を受けることになりました。

アラゴン王国の宗教

アラゴン王国では、多くの人々がローマ=カトリック教会を信仰していました。その影響はレコンキスタと呼ばれる国土回復運動において強くみられます。

レコンキスタとは、再征服という意味を持つ国土回復運動の名称です。当時、キリスト教が主流であったヨーロッパでしたが、ヨーロッパの尾と呼ばれていたイベリア半島にイスラム教徒の侵入を許していました。彼らに奪われた領土を取り戻す戦いがレコンキスタなのです。

アラゴン王国はカスティーリャ王国などのカトリック教国家と協力しながらイベリア半島を南進します。最終的には、1492年にイベリア半島南部を領有していたイスラム教国であるナスル朝のグラナダ王国を攻略し、レコンキスタを成功させました。

レコンキスタにおけるグラナダ陥落を描いた絵画

アラゴン王国の歴史年表

1035年 ‐ 「アラゴン王国成立」

1035年、アラゴン川流域のチャカを中心に広がるアラゴン地方に、ラミロ1世がアラゴン王国を建国しました。アラゴンは現在のスペイン北東部に位置しています。

別名イベリア王とも呼ばれていた覇者ナバーラ王サンチョ3世は、死の間際に自身の息子たちへ領土を分割して与えました。そして、アラゴンの領域を与えられた庶子のラミロ1世は国王の称号を持つことを許され、アラゴン王国が成立したのです。

また、当時イベリア半島を支配していたキリスト教国家は、イベリア半島へ侵入してきたイスラム教徒に対して、レコンキスタと呼ばれる国土回復運動を行っていました。アラゴン王国もレコンキスタを行い、イスラム教徒からサラゴサの町を奪還。その後、サラゴサをアラゴン王国の都としました。

1137年 ‐ 「アラゴン連合王国成立」

アラゴン連合王国の領土

1137年、アラゴン王国はカタルーニャ君主国を中心とする君主国群と手を組み、同君連合として構成されたアラゴン連合王国を成立させました。

アラゴン連合王国はイベリア半島北東部を中心に、南イタリアや地中海の西側に位置する島々を領有。その結果、地中海国家として発展していったため、アラゴン連合王国はアラゴン地中海帝国とも呼ばれています。

また、アラゴン連合王国は各国の併合という形ではなかったため、アラゴン王国やカタルーニャ君主国などの国々は、独自の政治制度を維持したまま対等な連合関係を築きました。

1282年 ‐ 「シチリアの晩祷事件」

シチリアの晩祷事件の絵画

シチリアの晩祷事件とは、1282年に発生した住民による暴動です。晩祷を告げる鐘が鳴るのと共に暴動が開始されたため、シチリアの晩祷事件と呼ばれています。

当時、フランス王族であるアンジュー家のシャルル・ダンジューに支配されていたシチリア王国では、イタリア系住民の不満が高まっていました。その中で、アンジュー家の兵士がシチリア住民の女性に暴行したのをきっかけに、シチリアの住民が暴徒化。この事件で、およそ4000人ものフランス系住民が虐殺されたのです。

シチリア王シャルル・ダンジューは暴動の鎮圧を行います。しかし、そこへやってきたアラゴン王国のペドロ3世がシャルル・ダンジューの軍隊を破り、シチリア王に即位しました。アラゴン王国はシチリア島を支配した後、サルデーニャ島やマジョルカ島などの島々も領有し、地中海に海洋帝国を築いたのです。

アラゴン王ペドロ3世

1479年 ‐ 「スペイン王国成立」

1479年、アラゴン王国とカスティーリャ王国の同君連合が成立しました。この2国による同君連合国家は、いわゆるスペイン王国として名が知られています。

両王国が同君連合を結成する背景にあったのは、アラゴン王国の王太子フェルナンド(後のフェルナンド2世)とカスティーリャ王国の王女イサベル(後のイサベル1世)の結婚です。当時のローマ教皇アレクサンデル6世は、フェルナンド2世とイサベル1世を「カトリック両王」と呼びました。

また、この連合王国では各地方が持つ独自の自治制度が尊重されており、それぞれの自治体が身分制議会や法制度を持っていたのです。

カトリック両王が描かれた絵画

1492年 ‐ 「レコンキスタ終結」

1492年、イベリア半島において複数のキリスト教国家の協力のもと、8世紀頃から行われていたレコンキスタが終結します。

スペイン王国はイベリア半島に最後まで残っていたイスラム王朝のナスル朝を攻略。グラナダ王国は包囲され、ナスル朝は滅亡します。キリスト教国による国土回復運動は完了し、イベリア半島の再征服は成功に終わりました。

その後、アラゴン王国の勢力は地中海を中心に活躍していきますが、レコンキスタ終結と同年に航海者コロンブスがイサベル1世による支援の下で新大陸を発見。そして、スペイン国内のカスティーリャ勢力が大西洋に進出した結果、スペイン王国はカスティーリャ勢力を中心とした国家となっていき、アラゴン王国の地位は次第に低下していきました。

スペイン王国の国旗

アラゴン王国に関するまとめ

今回はアラゴン王国の歴史について解説しました。

アラゴン王国は、イベリア半島において様々な国々と連合や同盟を組みながら、イスラム教国からヨーロッパを取り戻した国家であり、ヨーロッパ史が中世から近世へ切り替わる転換期を築き上げた国の1つでもあったのです。

この記事ではアラゴン王国の歴史や社会、文化、宗教まで紹介しましたが、その後のスペイン王国がどのような歴史を築いていったのかについて詳しく調べてみるのも面白いでしょう。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

コメントを残す