安倍晴明に子孫はいる?家系図付きで解説【安倍元総理との関係も紹介】

「安倍晴明の子孫ってどんな人?」
「安倍晴明のお墓が大変とネットで見たけど…」

数年前の京都新聞に「安倍晴明の子孫の墓がピンチ!」という衝撃的な見出しで書かれた記事に驚いた人もいるのではないでしょうか?。筆者も実はネットで記事を見て、当時かなり調べた一人です。

近年ブームのなった安倍晴明の子孫はどうなったのか?

「陰陽師」で有名な安倍家なら誰か子孫もいらっしゃるだろうと思い、調べてみたら知らなかった事実を知ることもあり非常に興味深くもありました。この記事ではそんな安倍晴明のご子孫と、付随する歴史の事実を記していこうと考えています。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

安倍晴明に子孫はいるのか?

結論から言うと、安倍晴明の子孫はいます。安倍晴明には二人の息子がいてその二人から続く家系があります。室町時代から邸宅があった「土御門」を名乗り、長らく陰陽道を家業としていました。そんな土御門家についての新聞記事が以下のように出ていました。

新聞にお墓の記事が…

梅小路の土御門邸のすぐそばにあったという梅林寺

2017年2月10日の京都新聞に次のような記事がのりました。この記事はYahoo!のトップニュースにもなり、歴史好きを中心に話題になっています。

土御門家は江戸時代、京都の梅小路周辺に邸宅や私塾を構え、暦の作成や陰陽師の統括、天皇や公家の祭祀(し)や占いを行った。太陰太陽暦から太陽暦に変更された明治期以降は東京に移ったが、梅林寺の墓所には18世紀から大正期に建てられた一族の墓20基が残る。宝暦暦を作った土御門(安倍)泰邦や、天保暦の施行に関わった晴雄(はれたけ)ら歴代の当主や家族が眠っている。
しかし現在は、長年の風雨にさらされて墓石にひびが入り、碑銘も剝がれ落ちるなど傷みが激しい墓もある。同寺によると、土御門家の関係者との連絡が途絶えており、毎年盆などには読経や供え物をささげているが、一族と協議ができないままでは補修することも難しいという。数年前、土御門家に仕えていた先祖を持つ人が墓参に来たが、子孫の消息は分からなかった。
江戸幕府の天文方として活躍した渋川春海の出身地でもある京都は日本天文学の先進地。土御門家は、天文観測に基づき占星術を扱う天文博士や陰陽師を養成する陰陽博士を担った。梅林寺は一般に公開していないが、泰邦が作ったとされる日時計のような観測装置「大表」の土台も残り、天文学や陰陽道の研究者らが墓参に訪れている。
日本の暦や易学の歴史に詳しい大阪府立大客員研究員の水野杏紀さんは「土御門家は中国の天文・暦法や陰陽思想を一般庶民に広めた。その功績を伝えるお墓は史料的にも貴重」と語る。同寺の太田俊明副住職は「宗教と人文社会科学、自然科学を融合させ、重要な役割を担った土御門家のことを考えると、今のままでは心苦しい。子孫がどこかにおられる可能性もある。お墓の現状を知ってもらえれば」と話している。

京都新聞

安倍晴明の子孫にはどんな人がいるのか?

土御門家の家系図(近年の人物は載っていない)

安倍晴明の子孫の墓が、半世紀ご子孫と連絡が取れていないということに驚きです。しかし安倍家は神代の時代から名を残す古い家です。歴史に埋もれてしまうには土御門家は格式が高く、追える範囲で筆者はご子孫の足取りを調べてみました。近世の土御門家を紹介します。

江戸時代までの土御門家

土御門家の家紋「アゲハ蝶」

安倍晴明から時代は下っていくと、家は幾つかに分裂していきました。そして本家扱いが「土御門家」です。室町時代位から土御門を名乗り始め、代々朝廷の陰陽道を司る家として江戸時代まで仕えていました。

邸宅を公家が多く暮らす御所周辺では無く、梅小路に研究所を兼ねた大きな邸宅を作り、天皇即位や征夷大将軍の宣下の儀式の時に天曹地府祭の祈祷を行っていました。江戸時代に陰陽道が流行し、陰陽師免状の資格を得るには、土御門の門下生になる必要があったといいます。

春雄の息子の土御門晴栄は貴族院議員も務めた

新聞にお墓が載っていた「土御門晴雄」は、江戸末期の幕末と明治時代を生きた土御門陰陽道の事実上の最後の当主といわれています。新しい明治政府になり、引き続き天文学や暦を司ることに成功させますが、政府の優先順位は低く、晴雄が1869年(明治2年)に43歳で死去すると、陰陽寮は翌年の1970(明治3年)には解体されてしまいました。土御門晴雄は、京都の梅林寺に眠っています。

土御門 藤子

土御門藤子に扮する女性

幕末から明治初期に活躍した土御門家の女性です。土御門藤子は女官で、和宮親子内親王が将軍徳川家茂と結婚の際に、和宮付きで江戸に下っています。江戸城大奥では「桃の井」と称し、和宮の側近として活躍しました。

1868(明治元年)年に、新政府軍の江戸への進軍が決まると、和宮の使者として和宮の直書と徳川慶喜の嘆願書を京に届けています。この書に対する朝廷の対応はもめたものの、結局「徳川家が従順に尽くすなら」と存続の内旨を得ることに成功し、江戸に帰っています。

大政奉還の陰の立役者だった

これにより、幕府側も安心して「大政奉還」を行うことができたのです。勝海舟と西郷隆盛が、無血開城で評価されていますが、実は和宮と土御門藤子の力で無事に無血開城を行えたという状況でした。そんな時代の陰での立役者の土御門藤子も、倒幕後は京で暮らし、死去すると京都の梅林寺に「邦子」という名前で葬られています。

土御門 凞光

父・土御門晴善は貴族院議員を務めた

大正から昭和にかけての土御門家の当主です。社団法人大日本陰陽会(後の日本易学連合会)の副総裁を務めていました。父の土御門晴善は貴族院議員を務めています。日本陰陽会の副総裁として、易学や陰陽道の再興を目指していましたが、志半ばで1944年に26歳という若さで早世してしまいました。

子供がいなかったために弟の土御門憲忠が継ぎますが、華族制度が廃止され、戦後は土御門家の地行だった福井県大飯郡に住んでいたということです。その土御門憲忠は1994年に死去し、現在娘の土御門善子一人がご存命で、他の親族と連絡が取れずに墓の劣化が進んでいるということでした。

なぜ土御門(安倍)家は衰退したのか?

先述したことが現在わかる範囲の内容ですが、「安倍晴明」の子孫がどうして苦労をしたのか?詳しい事情は私たちでは図り知れませんが、時代背景で考察することは可能です。その背景を掘り下げていきます。

明治以降衰退の一途を辿る

日本は文明開化と富国強兵で陰陽道どころではなかった

陰陽道は江戸時代までは、土御門家が公的な儀式を行い、全国の陰陽師に免状を発行する権利を有し支配権をもっていました。しかし明治時代になると、1870(明治3)年に「天社禁止令」を発し、陰陽道は迷信として廃止しました。そして日本では、「富国強兵」や「殖産興業」に力をいれていて、天文学や暦法に関する関心が極端に低くなってしまったのです。

そして、天文や測量は科学の礎でありまた陸海軍の円滑な運営にも欠かせないという正確な認識が広まると共に、それらが古い陰陽寮に縛られる事への危惧や、非科学的な陰陽道が日本の近代科学導入の障害になる事が指摘されるようになり、「天社禁止令」とともに「陰陽寮」も解体されてしまいました。

土御門家は貴族院議員に所属していた

これにより土御門家は陰陽道を手放し、朝廷における編暦の権限も失ったために通常の政治家として活動していました。それも戦後の貴族院廃止に伴って、特権を失ってしまったのです。

戦後陰陽道や安倍晴明が見直された

「六曜」はカレンダーに書かれることが多い

第二次世界大戦後、かつて陰陽師が使用していた「六曜」が好まれ手帳やカレンダーに記入されるようになりました。また占いで、「九星占術」が多く見られるようになります。しかし「陰陽師」はいなくなったものの、平安時代の宗教化・呪術化した陰陽師のオカルト的要素が創作作品に多く見られるようになりました。

そしてとりわけ1990年~2000年くらいの間に、陰陽師ブームが到来し、多くの「陰陽師」を題材にした作品が世に出ることになりました。これにより、一躍「安倍晴明」は注目されるようになったのです。現在でもフィギアスケートの演技に登場したり、私たちが「安倍晴明」を題材にした作品を多く見ることになりました。

安倍元総理は安倍晴明の子孫という噂は本当?

安倍元総理は陸奥安倍氏の末裔と称している

安倍元総理が「安倍晴明」の子孫という噂が流れていますが、本当のようです。安倍元首相は2013年に岩手で演説を行った際に、「自身の出自は岩手であり、安倍晴明の子孫である」といっています。

その演説を参考にすると、「安倍氏」→「阿部引田臣系」→「陸奥安倍氏」→「安東氏/秋田氏」→「安倍氏」という流れで安倍晴明の子孫であるということになります。陸奥安倍氏は、土御門家の分家筋で陸奥で活躍した一族でした。もし本当であれば子孫は全国各地に点在し、今も各方面で活躍しているのです。

安倍晴明の子孫に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?筆者の感想は、たまたま京都新聞の記事を見て「土御門家が連絡が取れないとかそんな!?」と思い、個人的にかなり調べて今回の記事の内容がわかりました。直系の子孫は現在福井県におられるということですが、親族との連絡が取れず困っているということでした。その情報も、2017年時点なので、現在は改善されていることを願う次第です。

思うことは家系の根は広く、多くの地で活躍しまた立場を変え仕事を変え頑張っているのだなと感じています。「陰陽道」の裏側が見えて面白い執筆でした。最後までお付き合い頂きありがとうございました。

2 COMMENTS

音羽 千

阿部晴明神社が大阪にあります。
昔、明治生まれの叔母が住んでおり、偶然行く事になり行きました。
阿部晴明と渋川春海を調べていたら、また、偶然、この記事に出会えました。
大変参考になりました。
ありがとうございました。

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