「ワシントン海軍軍縮条約はなぜ結ばれたの?」
「ロンドン海軍軍縮条約との違いはなに?」
「なぜ日本は条約から脱退したの?」
史上はじめての軍縮条約として有名なワシントン海軍軍縮条約。しかし同様のロンドン海軍軍縮条約もあり、混乱しがちです。
今回は、人類初の軍縮条約である「ワシントン海軍軍縮条約」について、その背景や条約をむすぶこととなった経緯・内容と、その後の結末までを解説したいと思います。なお、ロンドン海軍軍縮条約についてはこちらをご覧ください。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ワシントン海軍軍縮条約とは
簡単に説明すると?
1922年にワシントン会議の結果結ばれた、各国の海軍をコンパクトにするための条約です。対象となったのは主力艦。主力艦には、当時戦局を左右する最強兵器として認識されていた戦艦と未知なる最新兵器として空母が含まれていました。
主要国の保有する主力艦である戦艦と空母の総トン数の比率を制限し、あわせて10年間の建造を禁止することを骨子に条約が作られています。アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの間で5:5:3:1.75:1.75とすることが提案されたのです。なお、フランス・イタリアの割合は交渉を経てそれぞれ1.67に変更されました。
きっかけは第一次世界大戦
条約締結のきっかけは大きく2点あり、第一次世界大戦とその後の世界情勢が関係しています。一つには、第一次世界大戦の規模があれだけ広範囲かつ大規模になってしまったのは各国の海軍建設競争が原因であると考えられたためです。もちろんこれは大航海時代から帝国主義の台頭という歴史の副産物でもあったわけですが、世界規模の戦争を経験したことでそれを見直そうという機運が高まります。
もう一つは、第一次世界大戦後の世界情勢として戦勝国による軍艦の建造競争がはげしくなる傾向がみられたことにあります。各国ともに国家予算に占める軍艦の建造費・維持費の割合が高く、くるしい経済事情を抱えていました。
第一次世界大戦の反省にたち世界平和を考えるためにも、また各国の国家予算を大きく圧迫する軍艦建造をクールダウンさせるためにも、一定のルールづくりが有効と考えられたのでした。
条約の内容は?
会議冒頭、アメリカ全権の国務長官ヒューズが建造中の大型戦艦15隻の廃棄を表明し、イギリスもこれに呼応する意思を表示します。主力艦・航空母艦の建造禁止と、その保有比率を決めることの2本立てで議論が進められました。また、日本の提案により太平洋地域の新たな要塞建築を制限する条項も採用されています。
なぜ戦艦が対象とされたのか。当時の世界各国の軍備の中で戦艦が最強とされたことに理由があります。世界規模の大戦においては、制海権の確保が至上命題でした。海上交通は物資や兵員の輸送だけでなく、艦砲射撃などにより陸戦にも影響力を持ったためです。現代でいえば「核兵器」に相当する最強兵器だった戦艦にスポットライトがあたるのは当然のことでした。
戦艦の保有比率(アメリカが提案)
新たな艦の建造は、むこう10年間(つまり1932年まで)凍結すること、現有する主力艦、航空母艦の数と、その排水量の合計を制限することの2本柱でした。なお、現在の建造計画は取りやめること、すでに着工中の場合は廃棄することもあわせて決めています。また、例外的に艦齢20年以上の軍艦を退役させる場合は、代替艦の建造を認めることとされました。このほか、主砲口径や排水量にも制限が加えられています。
国名\項目 | 主力艦 | 主力艦比率 | 航空母艦 | 航空母艦比率 |
---|---|---|---|---|
イギリス | 52.5万トン | 5 | 13.5万トン | 5 |
アメリカ | 52.5万トン | 5 | 13.5万トン | 5 |
日本 | 31.5万トン | 3 | 8.1万トン | 3 |
フランス | 17.5万トン | 1.67 | 6万トン | 2.22 |
イタリア | 17.5万トン | 1.67 | 6万トン | 2.22 |
※基準排水量(一艦あたり) | 3.5万トン | 2.7万トン(二艦に限り3.3万トン) | ||
※備砲口径 | 16インチ以下 | 8インチ以下 |
要塞化禁止条項(日本が提案)
太平洋における各国の本土と本土にごく近接した島嶼以外の領土について、現在存在する要塞を除き、新たな要塞建築を制限することが決められました。
国名\項目 | 要塞化禁止 | 対象外 |
---|---|---|
イギリス | 香港、東経110度以東 | カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール(東経103度) |
アメリカ | フィリピン、グアム、サモア、アリューシャン諸島 | アラスカ、パナマ運河、ハワイ諸島 |
日本 | 千島諸島、小笠原諸島、奄美大島、琉球諸島、台湾、澎湖諸島 | 奄美群島(奄美大島以外)、対馬(太平洋に面していないため) |
対米英7割を主張した日本と「陸奥」
戦艦の保有比率について、対米英6割では不利という意見が日本海軍を中心に唱えられました。このため日本は対米英7割を主張しますが、調整は難航します。また、この会議において、各国の建造中戦艦リストが示され、その中に日本の「陸奥」がありました。これらは条約が発効すれば廃棄処分となります。しかし日本側はすでに完成していると主張、会議は紛糾してしまいます。
最終的に、日本は保有比率を対米英7割に引き上げることはできませんでした。その代わり「陸奥」に関しては完成されたとみなし廃艦を逃れることに成功しています。なお、この結果各国の保有割合に調整が入り、フランス・イタリアはそれぞれ比率1.75から1.67へと修正されました。
条約の影響は?
イギリス海軍の凋落と実利をとった日本
条約を結んだことによりもっとも多くの艦船を破棄したのがイギリスです。イギリスは全権バルフォアの言葉どおり「世界最大の海軍国としての伝統的地位を放棄」するかたちになりました。対米英6割という比率への批判はありましたが、米英の主力艦を日本の1.7倍に制限できたことは、やはり日本に実利があったと考えられます。
なお、当時16インチ砲を備えた戦艦は、日本の「長門」、アメリカの「メリーランド」でした。日本が「陸奥」を加えることとなったので、アメリカは建造中だったコロラド級戦艦2隻を完成させ、イギリスはネルソン級戦艦2隻を新造することとなります。威容を誇る7隻の戦艦は、敬意を込めて「ビッグ7」と呼ばれました。
巡洋艦バブルと条約の拡張
ワシントン海軍軍縮条約が締結された1922年からロンドン海軍軍縮条約が廃棄された1936年までをさす言葉として「海軍休日」「建艦休日」などと呼ばれました。それほど当時の戦艦建造競争はし烈を極めていたということができます。例えば当時の日本では海軍費は歳出の3分に1にまで達していました。
ただ、戦艦や空母が建造されない代わりに、ワンランク下の巡洋艦がさかんに建造されるようになります。巡洋艦は戦艦よりもすばやさがあり、駆逐艦よりも航続距離が長いことが特徴。条約発効後、各国はそれぞれ特徴ある巡洋艦を作ったため「条約型巡洋艦」と呼ばれました。
初の軍縮条約として注目を集めたものの、結局は戦艦に代わり巡洋艦建造競争を呼んでしまったワシントン海軍軍縮条約。各国は1927年にジュネーブ海軍軍縮会議をひらき補助艦(巡洋艦など)の規制に乗り出しますが、フランス・イタリアの辞退やアメリカ・イギリス間の対立もあり、条約締結には至りませんでした。そのため1930年にロンドン海軍軍縮会議まで問題は持ち越されることとなります。
ワシントン海軍軍縮条約はいつ失効した?
日本は1933年3月に国際連盟を脱退すると、1934年12月に条約の破棄を通告しました。これにより1936年12月に条約が失効しています。
日本は軍縮条約から脱退すると、条約で禁止されていた規模の戦艦「大和」を建造しました。主砲は18インチ、排水量は6.4万トン。ワシントン海軍軍縮条約に照らしても相当な規模であることが分かります。
ワシントン海軍軍縮条約に関するまとめ
今回は、ワシントン海軍軍縮条約について、背景や条約をむすぶこととなった経緯、条約の内容と、その影響などについて解説をしました。大戦の反省と各国の軍事費抑制をめざして軍縮条約を結んだところはよかったのですが、その後の世界恐慌をはじめとする経済情勢や国家間・民族間の対立から、世界は第二次世界大戦へと歩みはじめてしまいます。
日本もまた、他国同様に世界恐慌のために苦しんだ上に台頭する国家主義・軍国主義を抑えることができませんでした。執筆しながらも、戦争することの容易さ、平和を築くことの難しさについて思うところが多い記事となりました。あなたは、どのように感じられたでしょうか。