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戦国の七雄とは?場所や国ごとの特徴、覚え方まで分かりやすく解説

「戦国の七雄って何だろう?」
「戦国の七雄の国々についてもっと知りたい」
「戦国の七雄をどうやって覚えたらいい?」

この記事をご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか?戦国の七雄とは、中国の戦国時代に互いに争った有力な7つの国のことです。それぞれの国の指導者は王を名乗り、力を競い合いました。

かつて、中国は周(西周)によって統一されていました。周が紀元前770年に西方の異民族によって都を奪われてから、周の力は大きく低下します。かわって、各地を治める諸侯が力を持ちました。こうした諸侯の中で強大化した7つの国が戦国の七雄だといってよいでしょう。

今回は、戦国の七雄とは何か、戦国の七雄の成り立ち、戦国の七雄のそれぞれの特徴、この時代の外交政策、戦国の七雄の覚え方などについてわかりやすく解説します。

戦国の七雄とは

戦国の七雄の地図

戦国の七雄とは中国の戦国時代に有力だった7つの国の総称です。かつて、地方を支配する諸侯は中国全土を治める周王室に遠慮し、公などと称していました。しかし、周の力が衰えた戦国時代になると、七雄の指導者は王を名乗ります。

7つの国は「燕・斉・楚・韓・魏・趙・秦」の7カ国です。この7国は周辺の弱小国を併合します。その結果、戦国時代には春秋時代の小規模国家はほとんど姿を消し、戦国の七雄と衛や魯などの中規模国だけが残りました。

戦国の七雄は富国強兵を図りましたが、西方の秦の力が頭一つ抜け出す状態となりました。そして、最終的に秦が他の六国を併合して中国を統一します。

この戦国の七雄の時代を舞台にしたマンガが大ヒットした『キングダム』です。このマンガは、秦王政や政とそっくりの少年、秦の将軍李信らを主人公に、秦が戦国の七雄の国々と戦い天下統一するまでを描いた作品です。

もちろん、『キングダム』のすべてが事実ではありませんが、史実をもとのしたマンガで戦国の七雄の世界を十分に堪能できると思います。ぜひ、読んでみてください。

戦国の七雄の誕生

周の衰退と覇者の登場

紀元前770年、中国の西方に住んでいた異民族が周の都の鎬京を攻め落としました。周王は東の洛邑に逃れます。この敗北により、周の権威はがた落ちしました。

春秋の五覇の一人、斉の桓公と宰相の管仲

権威が低下した周王室に代わって中国全土に影響力を及ぼしたのが「春秋の五覇」です。斉の桓公や晋の文公などはその代表です。彼らは周の王室を尊重し、諸侯をあつめ盟約を結ぶ会盟を行い、結束を固めました。

下剋上の動き

諸侯が覇者のもとで結束し、周王室を立てる尊王攘夷の考えが強かった春秋時代に対し、戦国時代は実力で上位の者を打倒し、自ら成り上がる下剋上の風潮が見られた時代でした。下剋上の代表である晋の分割と斉のクーデタをみてみましょう。

大国「晋」の分割

春秋時代の晋は、中国の中央部である中原を支配する大国でした。文公の時代、晋は諸侯を束ねる覇者として強い力を誇ります。しかし、文公の死後、晋の君主は暗愚・酷薄なものが多く、人々の信頼を失いました。

暗愚な主君に代わり晋の実権握ったのは6人の有力豪族でした。その6豪族とは知・范・中行・韓・魏・趙の6氏のことです。このうち、知氏が勢力を急拡大させ、范氏と中行氏を滅ぼしました。これに脅威を感じた韓氏・魏氏・趙氏は紀元前453年に連合して知氏を滅ぼしました。

韓・魏・趙の「三晋」の領土

その結果、晋は韓氏・魏氏・趙氏によって分割統治されるようになります。そして、周王は紀元前403年にこれら3氏を諸侯に認定します。一般には、3氏が知氏を滅ぼした紀元前453年をもって戦国時代の始まりと考えます。

斉でおきたクーデタ

周王によって斉の地を与えられた軍師太公望

周王の謀臣として活躍した太公望の子孫は領土として斉の地を与えられました。春秋時代にはリーダーとなることが多く、斉の桓公は春秋の五覇の一人に数えられます。その桓公の死後、斉の政治は乱れてしまいました。

紀元前404年に即位した斉の康公は酒色にふけり政治を顧みませんでした。康公にかわって斉の政治を執り行ったのは宰相の田和です。紀元前391年、田和は康公を海上の孤島に追放し、斉の君主の座を奪い取りました。こうして太公望の子孫は斉を失い、かわりに田氏が斉の主となります。以後の斉を田斉とよびます。

戦国の七雄の成立

紀元前403年、かつての晋の領土を支配していた韓氏・魏氏・趙氏が周王によって諸侯と認められました。紀元前391年に田和が康公を追放し斉の君主となります。これに、以前から諸侯として各地を支配していた燕・楚・秦の7カ国が中国大陸の有力国となります。

こうして、いわゆる戦国の七雄が成立しました。これらの国は富国強兵を行い、周辺諸国を併合します。そして、中国全土から人材を募り自国の発展をはかりました。戦国の七雄の各国は独自の経済政策や軍事活動を行い他の国に負けないよう発展します。

各国の特徴

山東の強国「斉」

春秋時代の斉の都、臨淄

斉は現在の山東省の大部分を支配した王朝です。最盛期には河北省の東南部や河南省の東北部まで領土を拡大しました。斉の都である臨淄(りんし)は製鉄や銅の精錬、陶器の製造、織物業などの手工業などによって発展します。

商工業が盛んな斉では刀銭とよばれる青銅貨幣が使用されます。豊かな経済力を誇る斉は春秋時代も戦国時代も強国として大きな影響力を持ちました。しかし、紀元前284年に燕との戦いに敗れてから国力は衰退します。

長江流域を支配した「楚」

楚は長江中流域を支配した大国です。長江下流域にあった呉や越を滅ぼすことで勢力を拡大しました。戦国の七雄の中でも広大な地域を支配した楚ですが、その広さがマイナスに働き各地の支配者の自立傾向が強まるという弱点がありました。

素の国力を増大させ中央集権を目指した呉起

楚が国力を増大させたのは悼王が魏から亡命してきた呉起を登用してからです。呉起は宰相にあたる令尹となり法家思想に基づいた中央集権国家をつくろうとします。しかし、呉起の改革に反発する勢力は、悼王の死後に呉起を殺害します。呉起の死により楚の改革は頓挫し、貴族中心の門閥政治に戻ってしまいました。

西方の軍事大国「秦」

秦の都、咸陽で発見された兵馬俑を展示する博物館

周の時代、秦は西方の一部族国家に過ぎませんでした。春秋時代になると次第に力を強め、東方の晋と争うほどの力をつけます。

秦の力が増大したのは戦国時代に入ってからです。鉄製武器や巧みな騎馬戦術により他の6国に対し優位に立ちました。紀元前4世紀の孝公の時代、法家の商鞅を登用し新しい国家体制を作った秦はさらに国力を増します。

さらに、戦国時代末期の昭王は白起に軍を預け、趙を攻撃させます。そして、白起は長平の戦いで趙軍を壊滅させ、秦の軍事力を諸国に見せつけました。6国中最強の軍事力と経済力をつけた秦は諸国を圧倒する存在へと成長したのです。

三晋とよばれた「韓」・「魏」・「趙」

韓は河南省西部と山西省の一部を支配した国で戦国の七雄の中で最も小さな国でした。紀元前4世紀ごろ、宰相の申不害の活躍で国力を付けます。しかし、西方の秦の圧力の前に領土は削られ、紀元前230年に秦に滅ぼされました。

魏も河南省から山西省にかけて領有する国でした。魏の最盛期をつくったのは名君の誉れが高い文侯です。彼は孔子の弟子にあたる李悝(りかい)を登用し成文法を整備しました。この魏も韓と同様、秦の圧力で滅亡に追いやられます。

長平の戦いの関連地図

趙は邯鄲を都とする国で山西省から河北省にかけて領有する国でした。都の邯鄲は北方の騎馬民族と接する地域にあるため、早くから騎馬戦法を取り入れ軍備を増強しました。紀元前260年、趙は長平の戦いで秦の白起将軍に大敗し主力を失います。

最後まで生き延びた北辺の「燕」

戦国時代中期の燕の領土

燕は中国の西北辺境を領土とする小国でした。春秋時代は北方の遊牧民族と南にある斉の圧力のため弱小国にとどまります。戦国時代中期、燕の昭王は燕を強国にするため人材を募りました。応募してきた人材の中で最も優れていたのは楽毅です。

楽毅は燕にとって最も脅威となっていた南方の斉を攻撃します。国力に圧倒的な差があったにもかかわらず、楽毅は斉軍に連戦連勝し、国土の大半を征服しました。滅亡の危機にさらされた斉は謀略で楽毅と燕の恵王(昭王の子)の仲を裂きます。その結果、命の危険にさらされた楽毅は趙へ亡命しました。楽毅を失った燕軍は斉に敗れ占領地をすべて失います。

合従連衡の駆け引き

戦国時代の後期になると、秦の力は他の6国よりも強大になっていました。そのため、秦にどのように接するかということが戦国後期の主な外交テーマになります。

大同盟で秦に対抗する合従策

蘇秦が生まれた洛邑(現在の洛陽)の城門

戦国時代後期に活躍した蘇秦は、秦に対して一国で対抗するのは不可能であり、大同盟を結ぶことで秦に対抗するべきだと主張しました。彼の主張を「合従策」といいます。現代風に考えると、多国間で同盟を結ぶ集団安全保障といえるでしょう。

蘇秦は各国の指導者の下を訪問し、合従策に賛同してくれるよう説得。6国の同盟を成立させました。そのため、秦は15年にわたって他国を攻撃することができなくなりました。

蘇秦の合従策を打ち破りたい秦は、遠い国と和睦しつつ近い国を攻略する遠交近攻策をとりました。秦の攻撃にさらされる国と秦から遠く軍事的脅威が及ばない国の温度差を利用した策で、これにより蘇秦の合従策は崩壊してしまいました。

強大化する秦に従う連衡策

秦の軍事力を象徴する兵馬俑

蘇秦と同門の張儀は、各国が秦と同盟を結ぶことで生き残りを図るべきだと主張しました。彼の考え方を「連衡策」といいます。張儀は秦の恵王に用いられ宰相まで上り詰めました。

秦の政治の主導権を手にした張儀は各国に合従策を捨てて秦と同盟するよう働きかけました。このとき、張儀が目を付けたのは秦以外の六国も互いに領土問題などのトラブルを抱えていたということです。

張儀は利害関係が合わない国同士の同盟など長続きしないと説き、いざとなった時に頼れる力を持つ秦と手を結ぶべきだと主張したのです。遠交近攻策で友好関係が破綻していた六国は秦と同盟を結ぶ連衡策を採用しました。

秦による中国統一

大陸を統一した秦王政(のちの始皇帝)

紀元前247年、秦王政が即位しました。マンガ『キングダム』に登場する秦王政とは彼のことです。このとき、秦は強大な軍事力と高い農業生産力を誇る最強国家に成長していました。彼はこの力を用いて中国統一を図ります。

秦は紀元前236年から他の六国を攻め滅ぼす統一戦争を開始しました。紀元前230年に韓を、紀元前228年に趙を、紀元前227年に魏を滅ぼすことで秦は三晋を制圧します。紀元前223年、王翦率いる60万の大軍が楚を滅ぼします。そして、紀元前222年に燕、紀元前221年に斉を滅ぼし、大陸統一を成し遂げました。

戦国の七雄の覚え方

戦国の七雄の覚え方は、燕から南に、斉、楚、続いて三晋の韓、魏、趙、そして最後に秦と覚えるのがよいでしょう。ちょうど、燕から蛇のように蛇行させて覚えるやり方です。

もう一つは、燕から時計回りに、斉、楚、秦、趙、魏、韓ととぐろを巻くように覚えるやり方です。どちらのやり方でも覚えられますが、ゴロが良いのは最初の燕、斉、楚、韓、魏、趙、秦のほうではないでしょうか。

戦国の七雄に関するまとめ

いかがでしたか?

今回は戦国の七雄についてまとめました。戦国の七雄は紀元前403年から紀元前221年までの中国の戦国時代に各地を支配した有力な国々の総称です。

春秋時代の大国「晋」が家臣によって分割され、斉でクーデタがおき君主が交代するなど、戦国時代は下剋上の風潮が吹き荒れました。こうした状況下で、戦国の七雄は生き残るため熾烈な戦いと国内開発を進めます。

この記事を読んで戦国の七雄とは何か、戦国の七雄の成り立ち、戦国の七雄のそれぞれの特徴、この時代の外交政策、戦国の七雄の覚え方などについて「そうだったのか」と思っていただける時間を提供できたら幸いです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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