アフリカ独立の契機となった3つの事柄
1960年に17カ国が一斉に独立国となったアフリカの年。とはいえ、一朝一夕に独立が達成できたわけではありませんでした。アフリカ独立の契機となった3つの事柄についてまとめます。
1.パン・アフリカ主義
19世紀後半に本格化したアフリカ分割により、エチオピア、リベリア、南アフリカを除くアフリカのほとんどの地域がヨーロッパ諸国の植民地とされました。この地域に住む人々は民族自決の権利を奪われ、貧困の中に身を置かざるを得なくなります。
こうしたアフリカの現状を変えようという考え方が1900年以降に広まりました。それがパン=アフリカ主義(パン=アフリカニズム)です。その出発点となったのが1900年にロンドンで開かれたパン=アフリカ会議の開催でした。
第一次世界大戦が終わると、自分たちの民族のことは自分たちで決めるべきだとする民族自決の考え方が意識されるようになりました。黒人指導者デュボイスは、1919年に開かれた第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議にあわせ、パリで会議を開きます。
彼は白人の人種差別に反対し、黒人の平等と権利を腫瘍しました。そのため、「パン=アフリカニズムの父」とよばれます。デュボイスの運動は黒人の自治権要求にとどまっていたため、独立要求には至りませんでした。
2.ガーナ独立
第二次世界大戦後、アフリカを支配してきた宗主国(イギリスやフランス、ベルギーなど)は大戦で受けた大きなダメージのため、植民地を維持する力を失いつつありました。イギリス政府は高まる独立要求を抑えるため、1946年にゴールドコーストに一定の自治権を与えることに同意します。
しかし、独立派はこれで満足せず、各地で暴動を起こします。これを好機と考え、ガーナ独立を達成したのがエンクルマです。
エンクルマは、イギリス領ゴールドコースト出身の黒人です。彼はアメリカやイギリスに留学しながら、パン=アフリカ主義の運動に参加します。そして、ゴールドコーストに帰国後、イギリスに「即時自治」を求めてストライキなどの非暴力闘争を展開しました。
エンクルマはイギリス政府と粘り強く交渉を進め1957年にガーナ共和国の独立を達成します。エンクルマによるガーナ独立は他のアフリカ諸国に希望を与え、1960年のアフリカの都市につながりました。
3.フランスの方針転換
アフリカ諸国が独立達成できた理由の一つにフランスの方針転換があります。大戦終結後の1954年、フランス植民地の一つアルジェリアで独立を求めた武力蜂起が発生しました。これによりアルジェリア戦争がはじまります。
この戦争は国民世論を二分し、フランス政府は身動きが取れなくなります。1958年、アルジェリアで反乱軍がド・ゴールを指導者にせよと主張したものたちがアルジェの政庁を占領するという事件が起きました。
反乱軍は強力な指導者による政府を樹立しフランス植民地を維持しようとしたのです。フランス政府や議会各派はこれに対応するすべを持たず、ド・ゴールに首相就任を要請します。
1958年10月の総選挙で勝利したド・ゴールは一転して反乱軍の要求を抑え、アルジェリア独立を容認します。その後、フランスはアフリカの植民地独立を容認する姿勢に転じ、アフリカの年のきっかけを作りました。
国連総会における動き
アフリカの年に独立した国々は、一国一票の投票権を持つ国連総会の場において大きな存在感を示すようになり、世界の国々はアフリカ諸国の主張に耳を傾け始めます。1960年にガーナのエンクルマが行った演説は大きな反響を呼び、同年12月の植民地独立付与宣言の採択に繋がります。
ガーナ大統領エンクルマの演説
1960年ガーナ大統領のエンクルマは国際連合の総会で演説を行いました。この演説の中で彼は、「アフリカは自由を望んでいる」として、アフリカ諸国が植民地状態から解放されるべきであると主張しました。
また、白人至上主義の政策をとり続ける南アフリカに対し、その政策を注視するよう要求します。白人至上主義とは文字通り、「白人」や肌が白い「コーカソイド」を優れた人種と定義し、他の人種に優越すると主張する人種差別思想のことです。
実際、南アフリカでは白人支配者が黒人を隔離・差別するアパルトヘイトを実行していました。また、同じころ、オーストラリアでは中国系などのアジア人の移民を制限する白豪主義が行われていました。こうした、白人を優越視する政策に対しエンクルマは反対の意思を表明したといえるでしょう。
植民地独立付与宣言の採択
エンクルマの演説は世界に大きな反響を与えました。これをうけ、国際連合は1960年12月4日に「植民地独立付与宣言」を採択します。この宣言の内容は、1948年に採択された「世界人権宣言」を踏まえ、植民地の人々にも民族自決の権利を認めるべきだということです。
国連総会で行われた採決は、賛成89カ国、反対0国、棄権9カ国という結果になりました。棄権したのは植民地を持つアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ベルギー、ポルトガル、スペイン、南アフリカの7カ国と、オーストラリア、ドミニカ共和国でした。
この宣言が採択されたことで、外国による征服・支配・搾取をもたらす植民地主義を速やかに終結させるべきだとの機運が高まりました。その結果、1990年までに60もの植民地が独立します。
アフリカ独立の問題点
2020年段階、ほとんどすべての地域が植民地から独立しました。しかし、独立によってすべての問題が解決したわけではありません。最大の問題はヨーロッパ列強が自分たちの都合で引いた国境線がそのまま残されたことです。
ヨーロッパ列強が国境を定めた時、国境線が人為的な直線によってひかれました。その結果、民族分布を無視する国境線となってしまいます。そのため、独立後の国境紛争・部族紛争の原因となりました。
また、独立したてのアフリカ諸国は経済基盤が弱く、インフラの未整備や教育の遅れなどにより社会的に不安定になりがちという弱点をもっていました。社会的不安定は内戦や独裁政権の温床となります。そのため、豊かな資源があるにもかかわらず国民生活が貧しいという矛盾した状態が現在まで続いています。
アフリカの年に関するまとめ
いかがでしたか?
今回はアフリカの年についてまとめました。アフリカの年とは、フランス・イギリス・ベルギーの植民地だったアフリカ大陸の17カ国が一斉に独立した1960年の別称です。
パン=アフリカ主義にもとづく自治運動は、やがて独立運動へと姿をかえました。第二次世界大戦後、アフリカ諸国の独立運動は本格化し1957年のガーナ独立やド・ゴール政権の方針転換などがあり、1960年のアフリカの年を迎えることができました。
この記事を読んで、アフリカの年とは何か、アフリカの年にどんな国々が独立したか、どうして、一斉にアフリカ諸国が独立することができた「そうだったのか」と思っていただける時間を提供できたら幸いです。