アイルトン・セナの死因となった事故はなぜ起きた?原因の真相を解明

アイルトン・セナは1980〜1990年代前半にかけて活躍した、自動車レースF1のドライバーです。卓越したドライビングテクニックと、マシンの状態を瞬時に把握する天才的なセンシング能力で、3度のワールドチャンピオンに輝きました。今でも世界中から愛されているセナですが、日本との関係も深く、ホンダの創業者である本田宗一郎が唯一愛したドライバーとしても知られています。

アイルトン・セナ

そんなアイルトン・セナは1994年5月1日、サンマリノグランプリ決勝レースで大クラッシュを起こし、帰らぬ人となりました。レースは中継で世界中に放送されており、その衝撃的なシーンに多くの人が悲しみに打ちひしがれました。

なぜ事故が起きたのか?アイルトン・セナはなぜ命を落としたのか?クラッシュしたのが天才ドライバーのセナであるだけに、原因が単純な運転ミスとは考えがたく、事故当初からさまざまな憶測が飛び交いました。しかし今も明確な原因はわかっていません。

そこで、この記事ではアイルトン・セナの死亡事故について解説するとともに、現在まで挙がっている事故原因や事故による影響についても取り上げます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

アイルトン・セナの死亡事故とは?

事故の概要

イモラサーキットのタンブレロコーナーにあるアイルトン・セナの銅像

1994年5月1日、イタリアのイモラサーキットで行われたF1シリーズ第3選、サンマリノ・グランプリ決勝レース中、アイルトン・セナが大クラッシュを起こして亡くなりました。享年34歳でした。グランプリ最中に死亡事故が起きたのは12年ぶりのことでした。

セナの事故を報道した新聞記事

ホンダエンジンと共にスターダムにのし上がったアイルトン・セナは日本人に人気が高く、F1ブームとなっていた日本でもこのニュースは大きく報道されました。祖国ブラジルでは国葬が執り行われ、100万人以上のブラジル人がセナの亡骸を迎えるために沿道に集まりました。

事故レースとなった1994年サンマリノ・グランプリ

トップを走っていた事故直前のセナ

1994年のサンマリノ・グランプリは、たった3日間で世界最高峰のレーサーが2人も命を落とし、1人も一時意識不明の重体に陥りました。のちに「呪われた週末」と呼ばれることになります。

ルーベンス・バリチェロの事故

クラッシュで宙を浮くバリチェロのマシン

4月29日予選1回目が始まった直後のことでした。ルーベンス・バリチェロが走行中に壁に激突、2回横転するという大クラッシュを起こします。一時は意識不明となりましたが、結果的に鼻と肋骨の骨折で済み、不幸中の幸いと言われました。

アイルトン・セナは、同じブラジル出身のバリチェロを弟のように可愛がっていたこともあり、バリチェロの容体を心配して病院に見舞いに訪れています。

ローランド・ラッツェンバーガーの死

予選2日目の ローランド・ラッツェンバーガー

4月30日に行われた予選2回目には、ローランド・ラッツェンバーガーが超高速コーナーで壁に激突します。時速310km以上出ていたマシンは大きく破損しました。救出後、コース上で蘇生処置が行われるも、ほぼ即死状態でした。

ラッツェンバーガーの事故映像を見たアイルトン・セナは、予選出場を取り止めます。F1の安全性向上に意識が高かったセナは事故現場に向かい、友人でもある医師のシド・ワトキンスと話をします。その際、セナがひどく動揺していることを感じたワトキンスは、レースに出るのを止めるように助言します。しかしセナは、今止めるわけにはいかないと語ったそうです。

レースディレクターに無断で事故現場を視察した行動を叱責されたこともあり、セナは予選で最速のラップタイムを叩き出して決勝のポールポジションをとりながらも、恒例の記者会見やメディアの取材を全てキャンセルし、サーキット場を去りました。

運命の決勝レース

セナのマシンが壁に激突した直後の写真

5月1日決勝レース7周目、トップの座を死守していたアイルトン・セナは、タンブレロコーナーに差し掛かったところで大クラッシュを起こします。

時速300km以上出ていたマシンに異常が起きたと0.2秒で気づいたセナは、減速してマシンのコントロールを取り戻そうとする天才的な判断力を見せました。咄嗟に最小限のダメージとなるよう最善を尽くしましたが、時速200km以上を保ったままマシンは壁に激突してしまいました。14時17分のことです。

クラッシュして大破したアイルトン・セナのマシン

クラッシュ時の映像では一瞬セナの頭が動いたように見え、助かるのではないか?と思った視聴者も多くいました。一方、あのクラッシュを目にしたF1関係者は、セナの生存は絶望的だと天を仰ぎました。現在では、アイルトン・セナは即死状態であったと考えられています。

しかしセナは救命処置が施され、コース上にヘリコプターを呼んで病院へ搬送するという異例の対応が取られました。運ばれたマッジョーレ病院では微弱ながら脈が再開したようです。

内臓の手術は成功したものの、残念なことに脳の損傷が激しすぎて手の施しようがありませんでした。18時40分にアイルトン・セナの死亡が公式に発表されました。死因は事故で折れたサスペンションがヘルメットを貫通してセナの脳に突き刺さったことと考えられています。

ミハエル・シューマッハは1994年にドライバーズタイトルを獲得します。

レースはセナの搬送後に再開されました。最終的にはセナの直後を走っていたミハエル・シューマッハが優勝しましたが、表彰台に立っているにも関わらず、セナ重篤の知らせに涙ぐむ姿がTVに映し出されます。恒例のシャンパンファイトも行われませんでした。

事故の原因は何だったのか?

セナの最後のオンボード映像

事故原因については今日までさまざまな説が出され、1997年と1999年には裁判も行われました。しかし、訴えられたフランク・ウィリアムズをはじめとするウィリアムズチームのトップには無罪判決が出ています。

決定的な原因は未だわかっておらず、これから挙げる要因が重なったことにより引き起こされた、複合事故という見方が現在では主流です。

ハイテクシステムの禁止

技術開発競争が激しさを増す中、よりエキサイティングなレース展開を見たいという思惑もあり、1994年のシーズンはハイテクシステムが禁止されました。1993年まで搭載されていた、ドライバーの運転とマシンの挙動を電子制御していたシステムが外されます。

ウィリアムズ・ルノーでチームを組んでいたデーモン・ヒル(左)とアイルトン・セナ(右)

アイルトン・セナが乗っていたウィリアムズのマシンは、ハイテクシステムの分野で抜きん出ていたため、それが取り外されたマシンは扱いづらく、セナはシーズン当初からドライビングにストレスがあると訴えていました。

セナ以外のドライバーも、この挙動不安定なマシンに対して不安を漏らしていました。実際、フェラーリのジャン・アレジはテスト中に事故を起こした影響で、サンマリノ・グランプリの出場を見合わせていました。深刻な事態が起きる前にこの件に対処すべきだと、セナは4月28日に発言しています。

タンブレロコーナー

セナの事故が起きたタンブレロコーナー(丸で囲った部分)

イモラ・サーキット上にあるタンブレロコーナーは、超高速コーナーとして知られていました。トップスピードのままマシンがコーナーを走り抜ける様子を見られるというのは、観客にとって面白いことですが、その一方でマシンがより速く走れるように技術改良されるに伴い、ドライバーの危険性は増していきました。

アイルトン・セナのクラッシュ以前にも、F1チャンピオンにも輝いたことのあるネルソン・ピケなど3人のレーサーがここで事故を起こしています。セナは事前に視察するなどしてタンブレロコーナーの危険性を認識し、警鐘を鳴らしていたのです。

イモラ・サーキット上の段差

写真でもはっきりわかるイモラサーキットのバンプ

レースが始まる前から、イモラ・サーキットの路面状態が悪いことは指摘されていました。アスファルトの表面を削る工事が行われた関係で、今まで見たことのないバンプがあり、その段差を走るマシンから、地面とマシンが接触することで起こる火花が散っているシーンが何度も見られました。タンブレロコーナーにも3箇所の段差がありました。

F1のマシンは繊細でハイスピードを出すため、ちょっとしたバンプでも大きな事故に繋がりかねません。そういう意味で、1994年のサンマリノGPは、イモラ・サーキット自体がF1レースを行える路面状態ではなかったと言われています。

ステアリング

ステアリング・シャフト

金属疲労によるステアリング破損が事故の原因とも言われます。アイルトン・セナは大径のステアリングを好んでいたので、ウィリアムズはこれまでの小径のステアリングと入れ替えるなど、改造を行っていました。その際、強度の足りないステアリング・シャフトを使用し、それが破損したというのです。

1994年から、ウィリアムズはパワー・ステアリング・システムを導入していました。通常、ドライバーの操縦の手助けをしてくれるこのパワステが、セナのクラッシュ当時、逆にステアリング・シャフトに負担をかけてしまい、破損に加担したとも考えられています。

裁判ではこの点について争われましたが、ウィリアムズ側はこれを否定していました。しかしセナの事故後、同じウィリアムズマシンに乗っていたデーモン・ヒルに、パワステを解除するように指示を出していることから、ウィリアムズがステアリング周辺に不安要素を抱えていたことは確かなようです。

タイヤのパンク

スタート時に起きたJ.J.レートとペドロ・ラミーのクラッシュ映像

サンマリノGP決勝レーススタート時、マシン同士の接触でコース上で事故が起きていました。アイルトン・セナのマシンは、その事故で飛び散った破片を踏んだことで右リヤタイヤがパンクし、それがクラッシュの原因になったとも考えられています。

ヘルメット

セナは母国ブラジルの国旗の色である黄色と緑のペイントが入ったヘルメットを愛用していました。

アイルトン・セナのヘルメットと同じ黄色いペイントが、事故現場の壁についていたことから、ヘルメットが直接壁に激突したとも考えられます。当時のヘルメットは軽量化するために強度不足であった可能性も否定できません。実際、セナはヘルメットで頭部が守られなかったために亡くなっているので、ヘルメットが原因という説も一理あります。

アイルトン・セナの事故が与えた影響

セナは1994年度のGPDA会長でした。2017年には現役ドライバー全員が加盟するに至ります。

アイルトン・セナの死は、F1レースでの安全性向上が急務であることを大きな衝撃をもって訴えるものとなりました。マシン自体の安全性の向上はもちろん、サーキットの安全性、医療体制、ドライバーによる選手会組織(GPDA)団結強化など、これまで指摘されていながら棚上げになっていた問題が次々に改善されていきます。

シーズン中にもかかわらず、スピードを抑えるための大幅なレギュレーション変更やコースレイアウトの変更が実施されたのは、関係者の危機意識の表れでしょう。皮肉にも、モータースポーツの安全性に一番敏感であったアイルトン・セナが亡くなったことで、F1はより安全性を重視するようになったのです。

ジュール・ビアンキの事故は2014年の日本GPで発生しました。

結果、2014年にジュール・ビアンキが事故を起こすまでの20年間、ドライバーの死亡事故は起きませんでした。セナが身をもって訴えたF1の安全性は、年を経るごとに高まっていきます。

アイルトン・セナの死亡事故に関するまとめ

日本でセナ死亡の速報が入ったのは日付が変わってからでした。解説の今宮純さんが涙を堪えてお話をしていたのをよく覚えています。

当時の筆者はまだ事故の原因など理解できる年齢ではなく、今回この記事を書くにあたって資料にあたり、改めてアイルトン・セナという偉大な天才ドライバーの喪失と向き合いました。クラッシュ時の映像を見ると、当時抱いた感情が瞬時に呼び起こされました。

アイルトン・セナは、子供たちがどんな境遇でも夢を追いかけられる世界を作りたいと、慈善活動にも積極的でした。彼の死がこれほどまでに惜しまれるのは、伝説的なF1ドライバーとしてだけでなく、その人間としての魅力の大きさもあるように思います。そんな彼の生き様は、これからも語り継がれることでしょう。

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