力道山の死因は?麻酔事故説や寿司による食中毒説の真相を解説

「力道山の死因はなんだったの?」
「死因とされる麻酔事故説って何?」
「手術後に寿司とアルコールを摂取したことが死因なの?」

力道山が亡くなった原因に関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?現在まで続く日本プロレスの礎を築き「日本プロレスの父」と称される力道山。1950年代、力道山のプロレスを観るため、たくさんの日本国民が街頭テレビに集まっている映像を見たことのある方も多いのではないでしょうか?

その一方で、力道山は衝撃的な事件により、不慮の死を迎えたことでも知られています。この記事ではそんな力道山が巻き込まれた事件の詳細や力道山が亡くなった本当の原因など、力道山の死因に関してわかりやすくお伝えしていきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

力道山の死因はなんだったのか?

チャンピオンベルトを腰に巻く力道山

力道山は、昭和38年(1963年)12月15日、39歳の若さで亡くなりました。一般的には刺殺されたという認識が広まっていますが、一方で刺された後の出来事に本当の原因があるとも言われています。以下より、力道山が刺された時とその後の状況を見ていき、いくつかある力道山の死因を確認していきましょう。

力道山刺殺事件とは

力道山の戦いを報じる街頭テレビに群がる視聴者たち

力道山刺殺事件は、昭和38年(1963年)12月8日に起こりました。午後10時30分頃、東京赤坂のナイトクラブで泥酔するほど飲んでいた力道山は、横を通りかかった暴力団の男に足を踏まれたことで激高しました。

しかし、暴力団の男は踏んでいないと主張したため口論に発展。暴力団の男が懐に手を入れたため、刃物が出てくると思った力道山は和解を申し出ました。しかし、聞き入れられなかったために力道山は暴力団の男に殴りかかり、さらに馬乗りになって殴打。身の危険を感じた暴力団の男は登山ナイフで力道山の左下腹部を刺しました。

刺された後の状況

大相撲時代の力道山

以上が力道山刺殺事件の大まかな流れですが、実はこの時に死亡したわけではなく、直後に応急手当をして自宅に帰っています。そして事件から2日たった後に症状が悪化し入院、それから数日後にはかなり回復していたと言われています。しかし、事件から7日後の昭和38年(1963年)12月15日、腹膜炎による腸閉塞になり再手術をしたものの、約6時間後に亡くなりました。死因は「穿孔性化膿性腹膜炎」と発表されています。

実際は刺された後に入院し回復の兆しを見せていたのですが、事件から約一週間後に症状が悪化して急逝してしまったのです。このような状況だったため、力道山の本当の死因については大きく2つの説が存在しています。

麻酔事故説とは?

1954年頃の力道山

一つ目の説は「麻酔事故説」、つまり医療事故です。現在はこの説が事実とされています。手術の際に麻酔を担当した医師が、力道山の気管へのチューブ挿管に失敗し窒息死してしまったというものです。元力士でプロレスラーでもあった力道山は体が大きかったため、通常の2倍の麻酔薬を投与したところ、筋肉が麻痺して呼吸困難になってしまいました。そして人工呼吸器を取り付ける際に、首も太かった力道山への気管内挿管に失敗しそのまま亡くなってしまったのです。

なお、力道山を刺した暴力団の男の裁判で提出されたカルテには麻酔に関わるものがなく、紛失したことを理由に最期まで提出されなかったとされています。

寿司とアルコール摂取が死因?

寿司を食べたことが死因という説もある

2つ目の説は「寿司とアルコール摂取説」です。腹部を刺された力道山は腹膜炎になっていて、飲食が厳しく制限されていました。しかし、空腹に耐えかねた力道山は付き人に寿司を注文させ、さらにはアルコールも買ってこさせ、これらを飲み食いしてしまったために患部に障り病状が悪化し亡くなった、という説です。この他にも、リンゴを食べたりコーラやサイダーを飲んでいる力道山の姿を、複数の見舞客が目撃していたそうです。また、力道山は回復力が早いことを自負していたため、その過信が仇となったとも言われています。

一方でこの説は、プロレスラーの豪快さを強調するために盛られたエピソードだという見方もあります。また、力道山の奥様も「自分や看護師が昼夜交代で付き添っていたので絶対にありません」と否定しているため、現在この説はあまり支持されていません。

アントニオ猪木氏の証言

アルコール摂取が死因という説もある

ついでながら、「寿司とアルコール摂取説」に関して、力道山の弟子の一人であるアントニオ猪木氏の証言があるので追記します。

刃物で刺された翌日に入院した病院が産婦人科だったため、外科的な措置が十分でなかった。血圧が落ちた時に使う薬もなかった。また、手術後にガスが大腸を通って体外に排出されなければいけなかったが、その前にお茶かジュースを飲んだのが決定的な死因になった。それを誰かが飲ませたという話もある。

この証言の真偽は定かではありませんが、力道山と親しい医師がいたため産婦人科が中心の病院に入院していたのは事実だったようです。また、最後の「それを誰かが飲ませたという話もある」という証言に関しても、事実「刺客が潜入し止めを刺した」とか、「影響力の強い力道山が南北朝鮮どちらを支持するかで国際情勢に大きく関わるために暗殺された」(※力道山は朝鮮人です)といった陰謀論もまことしやかに囁かれており、一種のミステリーとして注目を集めていたのも事実だったようです。

好戦的で粗暴な力道山の性格が招いた災い

試合中の力道山

以上のように、刺された傷が直接的な致命傷になったわけではなく、現在は医療ミスによって亡くなったとする説が最も有力になっています。しかしながら、そもそも刺された大きな要因は、力道山自身の酒癖の悪さや粗暴な性格に大きく起因していました。

力道山は感情の起伏が激しい人物としても知られており、暴力沙汰は日常茶飯事、その都度金で解決していたそうです。また暴力団とも度々トラブルになっており、命を狙われていたこともあったようです。弟子の一人であったジャイアント馬場は力道山に関して「人間として何一つ良いところの無い人でした」という言葉を残しています。

力道山亡き後のプロレス界

墓所にある力道山の胸像

このように、ある意味自業自得とも思える理由で亡くなってしまった力道山ですが、その後のプロレス界には多大なる功績を残しました。体の大きな外国人選手を空手チョップでバッタバッタとなぎ倒すその姿は、先の大戦による敗北で打ちひしがれる日本人を大きく勇気づけました。そして、日本では馴染みのなかったプロレスを一般に定着させ、業界の礎を築いたのです。

力道山亡き後は、弟子のジャイアント馬場とアントニオ猪木がプロレス界を牽引。全日本プロレスと新日本プロレスを旗揚げし、一時はゴールデンタイムの金曜夜8時に放送されるほどの大人気を博しました。その後、K-1や総合格闘技にその人気を奪われた時期もありましたが、新日本プロレスを中心に多くのスターレスラーを排出。今や「プ女子」と呼ばれる若い女性たちもファンに取り込み、子供から大人まで楽しめるエンターテイメントとしてその地位を確立したのです。

力道山の死因に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?力道山の死因は刺殺ではなく、入院先での医療事故だったのです。そしてその死因に関しては、傷の治りを過信し禁じられていた飲食をしてしまった、何らかの組織に暗殺されたなど、さまざまな説が錯綜していました。とは言え、その粗暴な性格が災いし、腹部を刺されたことが間接的な死因になっていることは間違いありません。

プライベートではいろいろ問題のあった力道山ですが、一方で日本プロレスの原点を作り上げた活躍は素晴らしいものでした。「日本プロレスの父」の異名が示す通り、力道山が日本のプロレス界に残した功績は現在まで輝き続けているのです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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