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マリーアントワネットの子供たちはどんな人?革命後の末路を紹介

マリー・アントワネットに子供いたの?」
マリー・アントワネットの子供は可哀そうだったって聞いたけど…」

マリー・アントワネットは18世紀のフランスの王ルイ16世の王妃です。恐らく日本では最も知られているフランスの女性の一人であり、浪費を行い最後はフランス革命で悲劇的な最後を遂げたことでも有名です。そんなマリー・アントワネットは現在でも映画や、ミュージカルの題材で多く取り扱われます。

マリー・アントワネット王妃とマリー・テレーズ王女とルイ・ジョセフ王太子

そのマリー・アントワネットには早世した子供を含めると4人の子供がいます。その中でフランス革命を経験したのは二人の子供ですが、革命時に過酷な扱いを受けています。華やかで憧れる人も多いフランスには、悲惨な歴史も潜んでいます。この記事では「マリー・アントワネットの子供」に焦点を当ててフランスの歴史を振り返ってみます。

革命に翻弄されたマリー・アントワネットの子供たち

フランス革命の画

ルイ16世とマリー・アントワネットには4人の子供がいました。そのうちの二人が早世しています。革命を経験したのは、長女「マリー・テレーズ」と王太子「ルイ・シャルル」です。

マリー・アントワネットの子供たちはフランス革命の渦に巻き込まれ、今までの王子女とまったく違う人生を辿らざるえませんでした。そんな子供たちを簡単に紹介していきます。

ルイ17世(ルイ・シャルル)

ルイ17世

ルイ16世とマリー・アントワネットの次男であり、兄が早世した為にドーファン(王太子)となりました。テュイルリー宮殿を襲撃され、家族と共にタンプル塔に監禁されました。父ルイ16世の処刑により、王党派には名目上のフランス国王として即位したものとされていました。

幼少ながら目鼻立ちも整い、赤みがかったブロンドの髪に碧眼を持つ美しい少年で、母マリー・アントワネットからは「愛のキャベツ」と呼ばれ愛されていました。活発で宮廷の人々を魅了したそうです。しかし6歳の頃にタンプル塔に閉じ込められ、劣悪な環境の中病に侵され、自身が即位していたことも知らずに10歳で短い人生を閉じています。

マリー・テレーズ

マリー・テレーズ

ルイ16世と、マリー・アントワネットの長女であり、祖母である「マリア・テレジア」をフランス語形にした名前が付けられました。幼少時はプライドが高く、こまっしゃくれた性格だったと伝わっていますが、「マダム・ロワイヤル」と呼ばれ愛されました。

しかし11歳の時にフランス革命でタンプル塔に閉じ込められ、2年近く1人で生活させられました。弟の健康状態を気にかけて弟に治療を施すように、国民公会に何度も手紙を送っています。回想によると、マリー・テレーズは下の階の弟の泣き声がよく聞こえてきたといいます。

タンプル塔から救い出されたころのマリー・テレーズ

後に国民の同情感情も高まり、比較的待遇は良くなりましたが、その頃には2年近く言葉を発していないために発声異常を起こしてしまい、「がりがりしたしゃべり方」は生涯治ることはなかったそうです。

早世した二人の王子女

ルイ王太子

王と王女には、フランス革命を迎える前に早世した「ルイ=ジョセフ・ド・フランス」という王太子と、「ソフィー・ド・フランス」という王女がいました。王太子のルイは待望の男子の誕生に、フランス国内は非常な喜びに包まれたそうです。しかし、7歳半の時に脊椎カリエスにより、早世してしまいました。

ソフィー王女

そして娘のソフィー王女は、1986年に生まれますが、ルイ王太子や、マリー・テレーズ王女のように盛大な祝賀はなかったそうです。その背景には、国民の怒りが王家一家に集中していたために、民衆に関心を持たれず、宮廷もそれどころではなかったという背景があります。既にこの頃にはフランス革命の序章が始まっていたのです。ソフィー王女も10か月で結核により早世しました。

悲惨な待遇を受けたルイ17世

子供たちへの虐待は惨いものだった

タンプル塔に収監された子供達の中でも、特に「ルイ17世」に対する待遇は陰惨を極めました。現在なら幼児虐待で罰せられる程の惨さです。簡単に、ルイ17世のタンプル塔での様子を紹介します。

タンプル塔でのルイ17世の待遇

タンプル塔に監禁されるルイ17世

タンプル塔でのルイ17世の待遇は、目に余るものがありました。タンプル塔でルイ17世は「良い市民」となるために再教育が行われました。教育係として付けられた「アントワーヌ・シモーヌ」という靴屋の男は、ルイを貴族的な性質を取り除くという名目で、革命党員の服を着せて、食事の給仕や靴を運ぶ雑用を強要したといいます。

それだけでなく、8歳のルイ17世に飲酒をさせて娼婦をあてがったといわれています。そして日常的な罵声や暴力は日常茶飯事だったそうです。その背景には、「王家の人間」に「普通の男」が権力を持ったことで「支配欲」にかられたのだろうと推察されています。

礼儀正しいポール・バラスに代わって待遇がやっと改善された

しかしこのアントワーヌ・シモンも権力争いで処刑されてしまいました。シモンが去った後にルイの後見人はなく、6か月間不潔な部屋に放置されてしまいます。この時ルイ17世は人との接触を禁止され、洗濯もしてもらえず、部屋には便器も置かれていなかったので、部屋は糞尿にまみれていたといいます。そして、新たな後見人がポール・バラスに変わってから部屋を掃除してもらえ、入浴もできるようになりました。しかしこの頃には、当然ですがルイ17世の体は長い虐待によって心身共に衰弱しきっていました。

ルイ17世の死因

結核は古来から現在まで恐れられている病気の一つである

待遇が改善されて、ルイ17世は少しづつ快方に向かったものの10歳の時に結核で死去しました。しかし「死因」は病気の結核ではありますが、死後遺体を解剖したときに、多くの虐待の痕跡が残っていました。解剖をした医者によると、

胃は非常に膨らんでいた。右膝の内側に我々は腫瘍を発見した。そして左手首の近くの橈骨に小さな腫瘍があった。膝の腫瘍は2オンスの灰色がかった物質を含んでいたが、それは膿とリンパ液でいっぱいだった。手首の腫瘍にも同じような物質を含んだが、もっと濃い色をしていた。

と報告しています。その他に両肺付近や肺にも大小様々な腫瘍が残っていたそうです。これらの身体的な不調は、短期間での悪化とは考えにくく、長い虐待の末の監禁生活がルイ17世をいかに弱らせていたかが伺えます。死因は「結核」ですが、もう一つのルイ17世の死因は「劣悪な環境と人々の悪意」です。

残虐な行為はどんな毒薬も敵わないだろう

後にルイ17世は毒殺されたという説も浮上したものの、姉のマリー・テレーズ王女は「弟を殺害した唯一の毒は、捕え人の残虐な行為である」と述べています。

マリー・アントワネットの処刑後、子供たちはどうなったのか?

二人の子供がタンプル塔に軟禁されていたころ父ルイ16世と母マリー・アントワネットは処刑された

前述の通り、ルイ17世は「結核」で死去し、マリー・テレーズ王女は言葉に後遺症が残ったものの革命を生き延びました。この二人の子供たちはフランス革命が終わった後も色々な革命の傷跡が広がっていき、歴史に影響を与えることになります。

ルイ17世の生存説が浮上

フェルセン伯爵はマリー・アントワネットの愛人でルイ17世と会ったことがある人物だった

ルイ17世が死去した後に、多くの「ルイ17世生存説」が浮上します。タンプル塔に収監されている頃から重病の少年がいて、本物のルイ17世は逃亡しているという噂が流れていました。これはタンプル塔の看守は宮殿の頃のルイ17世を知っている人は皆無であり、独房で幽閉されている姿を見たものもごくわずかだったからです。

そのためブルボン家の財産を狙って、ヨーロッパだけでなくアフリカ大陸やセイシェル諸島にまで出没したそうです。その中でも有名なのは、フランス北部にいたジャン・マリー・エルヴァゴーで、牢番がかごに入れ脱出させたルイ17世だという噂が流れ、総裁政府やフェルセン伯爵まで振り回される始末でした。

特に虐待に関わったものは、酷く罪悪感に苛まされたという

また偽王太子の中でも、ドイツに現れたカール・ヴィルヘルム・ナウンドルフという人物も有名ですが、DNA鑑定の結果、マリー・アントワネットとは何の関係もなかったとされています。こうした噂が出る理由は、ブルボン家の遺産目当てだけでなく、虐待に関わった人たちの罪悪感もあるといわれています。革命が終わった後に冷静になったフランス国民は「やりすぎた」と思わずにいられなかったのでした。

ルイ17世の心臓は2004年にやっと先祖が眠るサン=ドニ大聖堂に安置された

そして2000年に、マリー・アントワネットの遺髪と、ルイ17世の心臓のDNA鑑定を行われました。鑑定は心臓の状態が悪かったために時間を要しましたが、結論は「心臓はルイ17世で間違いない」といったものでした。2004年に遂に長かったルイ17世の生存説の謎に終止符が打たれ、心臓はフランス王家の墓地がある「サン=ドニ大聖堂」に安置されたのです。

復讐の王女といわれたマリー・テレーズ王女

フィリップ1世は、ナポレオンの後に王となった

革命後のマリー・テレーズ王女は過酷な経験から、地味な服装で非常に不機嫌な印象を与える女性になったといいます。マリー・テレーズは神聖ローマ帝国と、フランス共和国の人質交換により、タンプル塔を出ることができました。その後はオーストリア・ロシア・ポーランド・イギリスと居住地を転々とし、王政復古後の1814年にようやくフランスに戻ることができました。

マリー・テレーズは辛酸を舐めたテュイルリー宮殿を嫌い、ナポレオン時代の新興貴族には決して気を許しませんでした。彼女は父ルイ16世から「憎しみを捨てるように」と諭されましたが、生涯ナポレオンとルイ・フィリップへの憎しみが付きまとい、超王党派となり完全な国王主権とブルボン家の再興を目指していました。

1827年のマリー・テレーズ

また過激で無慈悲な白色テロを扇動し、「復讐のためにフランスに戻ったと王女」と揶揄されるようになりました。しかしフランスで7月革命が起き、マリー・テレーズは再度長い亡命生活に入ります。イギリスやチェコ等を転々とし、最後はオーストリアで1851年に肺炎により死去しました。享年73歳でその波乱の人生に幕を閉じたのです。マリー・テレーズには子供がいなかったので、ここでルイ16世とマリー・アントワネットの血筋は途絶えることとなりました。

マリー・アントワネットの子供に関するまとめ

この記事では「マリー・アントワネットの子供」に焦点を当てて執筆してみました。筆者は「ベルサイユのばら」という漫画に憧れて、フランスに憧れた1人ですが、煌びやかな世界の中にもこのような事実があったということを知ったときに、驚きを隠せませんでした。

市民の不満が爆発として起こった「フランス革命」は、不満が王侯貴族全般に向けられ、幼い子供でも例外なく犠牲になったのです。母マリー・アントワネットがもっと市民に気持ちを寄りそって行動をすれば、また違った結果があったのかもしれないと筆者は感じました。これもまたフランスの歴史の一面として、知っていただけたら幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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