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徳川家康家紋とその意味は?由来から秀吉・信長の家紋との違いまで解説

「徳川家康の家紋はどんな形なの?」
「葵の御紋にはどんな意味があるの?」
「信長や秀吉の家紋との違いは?」

徳川家康は約260年もの泰平の世を築いた江戸幕府の初代将軍で、その家紋は「三つ葉葵」や「徳川葵」と呼ばれよく知られています。時代劇の水戸黄門で格さんが「控えおろう!」と印籠の葵紋を見せつけるシーンを見たことがある人も多いはずです。

印籠に描かれている「三つ葉葵」

この「葵紋」は植物の葵をモチーフにしていて、三つ葉葵以外にもいくつかの種類があります。徳川家康は葵紋を特別に扱うことで家紋の格式を高め、徳川家の絶対的な権力の象徴としました。

この記事では徳川家康の家紋「三つ葉葵」の意味や発祥、家紋にまつわる逸話と信長や秀吉との家紋の違いを紹介します。

徳川家康の家紋は「三つ葉葵」

徳川家康

「三つ葉葵」の意味は?

原型は京都・賀茂神社の神紋「二葉葵」

二葉葵

徳川家康の家紋には植物である「葵」がモチーフとして使用されていますが、実際には三つ葉葵という種類の葵は存在しません。三つ葉葵に描かれているのは、「フタバアオイ」という種類の葵を基に作られた架空の植物です。

「フタバアオイ」を使用した家紋は京都の賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)の神紋「二葉葵」で、これが三つ葉葵の原型だと言われています。この二つの神社に関わる京都を代表する祭りである「葵祭」の名前に使われるほど、賀茂神社にとって「葵」は重要な植物でした。

徳川家の基になった三河国の土豪である松平家は、元をたどれば賀茂神社の賀茂氏と深い関りがありました。そのため徳川家の家紋も葵に関連した物が多く、家康は「丸に三つ葉葵」を使用していました。

植物としてのフタバアオイ

地面に生えるフタバアオイ

「フタバアオイ」はウマノスズクサ科の植物で、ハートの形をした葉を二枚つけるのが特徴です。賀茂神社の神紋に使用されていることから「カモアオイ」とも呼ばれています。いわゆる普通の草であり、北は東北から南は九州まで分布しています。

葵のような野草は家紋としてよく使用されています。地面に根を生やし強く育つ様子を、家の発展に重ね合わせ家紋として使用した例は少なくありません。十大家紋に選ばれている家紋の中にも葵以外に片喰(かたばみ)や沢瀉(おもだか)などがあります。

徳川一門それぞれの三つ葉葵

三つ葉葵の種類

徳川将軍家と徳川御三家(尾張、紀州、水戸)など徳川一門の家紋は「丸に三つ葉葵」が用いられますが、時代や地域によって微妙にデザインが異なります。

将軍家の家康、秀忠、家光の三代将軍まではほぼ同じ「丸に三つ葉葵」を使用していましたが、四代目以降はそれぞれ少しずつデザインが変更されています。三代目までは葉一枚に33本の模様が描かれていましたが数がだんだんと減り、江戸幕府最後の将軍・慶喜の時には13本になっていました。

江戸時代後期の三つ葉葵

徳川御三家の家紋は外枠の太さや、葉っぱの模様の数などが少しずつ違っています。それぞれの地域の名前を使い「尾州三つ葵」、「紀州三つ葵」、「水戸三つ葵」などと呼ばれました。

他にも会津松平家が用いた「会津三葵」や、御三家が戦の際に軍旗に使用していた葉に模様のない「丸に三つ裏葵」などがあります。

丸に三つ裏葵

信長や秀吉と違う家紋の捉え方

戦国時代の三英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康

戦国時代の三英傑と呼ばれた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、それぞれ家紋に対して異なった考え方を持っていました。

織田信長は家紋を七つも持っていて一番有名なのは「木瓜紋」です。その他にも足利家の「二つ引両」やもともと平氏が使用していた「揚羽蝶」、皇室に使用を許可され「桐紋」や「菊紋」も使用していました。

織田信長の木瓜紋

豊臣秀吉が使用していたのは「立ち沢瀉(おもだか)紋」という家紋です。その後、織田信長から賜った桐紋の「五三桐紋」や「五七桐紋」などに変化し、最終的に「五七桐紋」を簡略化した「太閤桐」という家紋を作り出しています。

豊臣秀吉の太閤桐

それに対して徳川家康は生涯に渡って葵紋を使用しています。朝廷は家康にも信長や秀吉のように桐紋や菊紋を与えようとしましたが、家康はこの申し出を辞退しています。家康の葵紋に対する想いは相当だったのでしょう。

「三つ葉葵」に関する逸話

徳川家以外の使用を禁止した

徳川吉宗の三つ葉葵

徳川家の家紋である三つ葉葵などの葵紋の使用はとても厳しく制限されていました。徳川家と関係の深い松平家にも使用を遠慮させたほどです。「葵紋」に関する禁令が数多く出され、無断使用はもちろんのこと粗末に扱う事さえも許されませんでした。

享保八年(1723年)に浪人だった山名左内が三つ葉葵を無断で羽織に刺繍し、詐欺を働いたとして役人に捕まり死罪となっています。これにより三つ葉葵の無断使用が禁止され厳罰化しました。

また江戸城大奥の女中が自分の信仰する寺に葵紋入りの仏具を勝手に寄贈していたことから、幕府は明和五年(1768年)に再び法令を出し厳しく取り締まりました。

これにより三つ葉葵は徳川家の絶大な権力の象徴として、厳格化され怖れられるようになっていきます。

ポルトガルで葵紋が発見される

ボルサ宮で発見された三つ葉葵

2015年2月、ポルトガルのボルサ宮で壁画の修復が行われていたところ、ドイツのザクセン家の紋章の下に「三つ葉葵」が描かれているのが発見されました。

ボルサ宮とは19世紀にポルトガル北部の都市ポルトに建てられた商業組合本部であり、証券取引所として使用されていました。修復作業を行っていた「紋章の間」にはポルトと当時商業的に関係が深かった19か国の紋章が描かれて、三つ葉葵が見つかったことで20か国となりました。

1860年に江戸幕府はポルトガルとのあいだに修好通商条約を結んでいます。1865年に幕府が派遣した使節団が、旧クリスタル宮殿で開催されたポルト国際博覧会に出席した際に描かれたのではないかと推測されています。

朝廷の菊紋より影響力があった

菊紋の形をした和菓子

徳川家康は自らの家紋である「葵紋」の使用を禁止した代わりに、武家以外の一般人に朝廷の家紋である「菊紋」を自由に使用できるようにしました。現在でも和菓子などに菊の形をした物や、菊の模様が描かれた物があるのはそのためです。

家康はこの政策で「葵紋」の重要性を一般人にも植え付けることに成功し、反対に朝廷の「菊紋」の持つ力を弱めることにも成功しました。

しかし幕末になると「菊紋」は再び権威を取り戻し始めます。尊王思想が広がり始めると、幕府を倒して新しい政権を作ろうという活動が活発になっていきました。そしてついに1868年から始まった戊辰戦争において、朝廷の「菊紋」が幕府の「葵紋」を破ることになるのです。

「三つ葉葵」以外の徳川家に関係する家紋

立ち葵

本多立ち葵

「立ち葵」は松平家と同じく三河国の土豪だった本多氏が使用していた家紋で、本多氏は家康に「葵紋」を使用することを認められた数少ない家臣の一族です。本多氏が使用していることから「本多立ち葵」とも呼ばれています。

立ち葵の歴史は古く、家康が使用した三つ葉葵よりはるかに昔からあるとされています。本多家の祖先は二葉葵を神紋とする賀茂神社の神官だったため、立ち葵の紋を使用していました。

家康は家臣だった本多忠勝にも葵紋の使用を控えるように通達しましたが、「私の家の先祖は賀茂神社の神官です」と譲らず家紋も変更しませんでした。それだけではなく家康に「大殿こそ別の紋に変えたらどうか」と反論もしたといいます。

一つ引両

丸に一つ引両

徳川家の祖先といわれている新田家の家紋のひとつで、丸に一本線というとてもシンプルなデザインの紋です。引両紋には新田家の「一つ引両」や足利氏の「二つ引両」などが存在します。

三河国宝飯郡竹谷の竹谷松平家が使用していてましたが、現在のその地域は愛知県蒲郡市となり「一つ引両」は市章にも採用され蒲郡市のシンボルになっています。

大中黒

大中黒

新田家の「一つ引両」が変形してできたのが「大中黒」で、「新田一つ引」とも呼ばれています。足利家とライバル関係にあった新田家は足利家の「二つ引両」よりも優れた家紋にするため、真ん中に太い一本線を引いて「大中黒」を作ったと言われています。

徳川家康家紋に関するまとめ

いかがでしたか?

徳川家康の「三つ葉葵」を始めとする「葵紋」は、京都の賀茂神社の「二葉葵」を起源とする家紋でした。家康は徳川家と自分の認めた一部の一族にのみ使用を認める事で、「葵紋」に絶大な影響力を持たせました。

さらに各世代の将軍や、水戸や紀州など地域の徳川家によっても「三つ葉葵」は少しずつ違っています。

今度もし江戸時代の時代劇を見ることがあれば、「三つ葉葵」を気にしながら見るのも面白いかもしれませんよ。

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