徳川家康家紋とその意味は?由来から秀吉・信長の家紋との違いまで解説

「徳川家康の家紋はどんな形なの?」
「葵の御紋にはどんな意味があるの?」
「信長や秀吉の家紋との違いは?」

徳川家康は約260年もの泰平の世を築いた江戸幕府の初代将軍で、その家紋は「三つ葉葵」や「徳川葵」と呼ばれよく知られています。時代劇の水戸黄門で格さんが「控えおろう!」と印籠の葵紋を見せつけるシーンを見たことがある人も多いはずです。

印籠に描かれている「三つ葉葵」

この「葵紋」は植物の葵をモチーフにしていて、三つ葉葵以外にもいくつかの種類があります。徳川家康は葵紋を特別に扱うことで家紋の格式を高め、徳川家の絶対的な権力の象徴としました。

この記事では徳川家康の家紋「三つ葉葵」の意味や発祥、家紋にまつわる逸話と信長や秀吉との家紋の違いを紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

徳川家康の家紋は「三つ葉葵」

徳川家康

「三つ葉葵」の意味は?

原型は京都・賀茂神社の神紋「二葉葵」

二葉葵

徳川家康の家紋には植物である「葵」がモチーフとして使用されていますが、実際には三つ葉葵という種類の葵は存在しません。三つ葉葵に描かれているのは、「フタバアオイ」という種類の葵を基に作られた架空の植物です。

「フタバアオイ」を使用した家紋は京都の賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)の神紋「二葉葵」で、これが三つ葉葵の原型だと言われています。この二つの神社に関わる京都を代表する祭りである「葵祭」の名前に使われるほど、賀茂神社にとって「葵」は重要な植物でした。

徳川家の基になった三河国の土豪である松平家は、元をたどれば賀茂神社の賀茂氏と深い関りがありました。そのため徳川家の家紋も葵に関連した物が多く、家康は「丸に三つ葉葵」を使用していました。

植物としてのフタバアオイ

地面に生えるフタバアオイ

「フタバアオイ」はウマノスズクサ科の植物で、ハートの形をした葉を二枚つけるのが特徴です。賀茂神社の神紋に使用されていることから「カモアオイ」とも呼ばれています。いわゆる普通の草であり、北は東北から南は九州まで分布しています。

葵のような野草は家紋としてよく使用されています。地面に根を生やし強く育つ様子を、家の発展に重ね合わせ家紋として使用した例は少なくありません。十大家紋に選ばれている家紋の中にも葵以外に片喰(かたばみ)や沢瀉(おもだか)などがあります。

徳川一門それぞれの三つ葉葵

三つ葉葵の種類

徳川将軍家と徳川御三家(尾張、紀州、水戸)など徳川一門の家紋は「丸に三つ葉葵」が用いられますが、時代や地域によって微妙にデザインが異なります。

将軍家の家康、秀忠、家光の三代将軍まではほぼ同じ「丸に三つ葉葵」を使用していましたが、四代目以降はそれぞれ少しずつデザインが変更されています。三代目までは葉一枚に33本の模様が描かれていましたが数がだんだんと減り、江戸幕府最後の将軍・慶喜の時には13本になっていました。

江戸時代後期の三つ葉葵

徳川御三家の家紋は外枠の太さや、葉っぱの模様の数などが少しずつ違っています。それぞれの地域の名前を使い「尾州三つ葵」、「紀州三つ葵」、「水戸三つ葵」などと呼ばれました。

他にも会津松平家が用いた「会津三葵」や、御三家が戦の際に軍旗に使用していた葉に模様のない「丸に三つ裏葵」などがあります。

丸に三つ裏葵

信長や秀吉と違う家紋の捉え方

戦国時代の三英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康

戦国時代の三英傑と呼ばれた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、それぞれ家紋に対して異なった考え方を持っていました。

織田信長は家紋を七つも持っていて一番有名なのは「木瓜紋」です。その他にも足利家の「二つ引両」やもともと平氏が使用していた「揚羽蝶」、皇室に使用を許可され「桐紋」や「菊紋」も使用していました。

織田信長の木瓜紋

豊臣秀吉が使用していたのは「立ち沢瀉(おもだか)紋」という家紋です。その後、織田信長から賜った桐紋の「五三桐紋」や「五七桐紋」などに変化し、最終的に「五七桐紋」を簡略化した「太閤桐」という家紋を作り出しています。

豊臣秀吉の太閤桐

それに対して徳川家康は生涯に渡って葵紋を使用しています。朝廷は家康にも信長や秀吉のように桐紋や菊紋を与えようとしましたが、家康はこの申し出を辞退しています。家康の葵紋に対する想いは相当だったのでしょう。

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