「狭山事件ってどんな事件だったの?」
「結局犯人は誰だったの?」
「なんでこんなに長い間問題になっているの?」
あなたはこのような疑問を抱いているのではないでしょうか。狭山事件とは1963年当時高校1年生だった少女が下校途中に行方不明となり、3日後に遺体で発見された事件です。
遠い昔に起こった事件であるにも関わらず、狭山事件について聞いたことがあると言う人は多いでしょう。世間では度々問題にされてきましたが、その内容までは詳しくは知られていないかもしれません。
今回は狭山事件がどんな事件で、なぜこれほど長い間問題になってきたのかを明らかにしていきます。
今回は狭山市と深い縁がある私が、狭山事件の詳細や真犯人、被害者家族、そして事件にまつわる謎についても詳しく解説していきます。
この記事を書いた人
狭山事件とは
事件名 | 狭山事件 |
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事件内容 | 強盗強制性交殺人事件 |
発生日時 | 1963年5月1日 |
発生場所 | 埼玉県狭山市 |
犯人 | 石川一雄 |
罪状 | 強盗強制性交 強盗殺人 死体遺棄 恐喝未遂 |
狭山事件の流れを簡単に解説
1963年の5月1日、埼玉県狭山市で、当時高校1年生だった少女が帰宅途中で行方不明となりました。必死で探す家族には身代金を要求する脅迫状が届けられました。被害者の姉が犯人の言う通りに指定場所に向かいましたが、無残にも少女は3日後に遺体で発見されます。
犯人として逮捕されたのは、同じ狭山市内に住む当時24歳の青年でした。
狭山事件の犠牲になったのは、市内の農家の四女・中田善枝(16歳)でした。5月1日は高校に登校、午後3時23分に目撃された後に行方がわからなくなったのです。
身代金を要求された家族は5月2日の深夜、要求どおりに指定場所に向かいました。そこで犯人に遭遇、会話までします。しかし、警察の張り込みに気づいた犯人は逃走し、4日に善枝は遺体で発見されるという最悪の結末を迎えたのです。
その後5月23日に別件で逮捕された市内に住む石川一雄が、狭山事件の犯人として再逮捕されました。
被害者宅に届いた脅迫状が大きな証拠に
犠牲者となった善枝が行方不明になってすぐに、兄が車で高校に様子を見に出かけました。結局善枝の居場所はわからずじまいだったのですが、高校から帰宅した後、自宅のガラス戸に白い封筒が挟んであるのに気が付きます。
それが身代金を要求する脅迫状で、状況から犯人が直接被害者宅に届けたものと思われますが、それを家族の誰も目撃していないことが不自然にも感じられます。しかし、自筆の脅迫状は事件の大きな証拠となりました。
犯人として逮捕された人物とは
犯人として逮捕されたのは、石川一雄という24歳の青年でした。中学校を除籍処分となった石川は職を転々としていましたが、1962年から63年にかけて市内の養豚場で住み込みで働いていました。この養豚場の関係者の筆跡鑑定をおこなったところ、石川の筆跡が脅迫状と一致したのです。
石川は乱暴で粗野な性格だと言われており、前科はついていなかったものの、ケンカや窃盗を繰り返していたため、評判は芳しくありませんでした。その上、事件の犯人の血液型がB型だと発表されると、自らの血液型がBであるにも関わらず、A型だと偽りました。
石川は周りから見ると、どこまでも疑わしい存在だったのです。
拭いきれない冤罪の可能性
中学校を除籍処分となった石川一雄。彼がきちんと学校に行ったのは、小学5年生までと言われています。そのため、事件当時石川は満足に読み書きができなかったと主張しています(石川によれば1967年頃から独学で読み書きを学んだそうです)。そのため脅迫状の筆跡と石川の筆跡が同じだと判断されたことには、疑問が残ります。
また、石川の自供により、被害者のカバン、腕時計、万年筆が発見されましたが、腕時計は警察側からの発表とはまったく別のものが発見されました(警察側の発表はシチズン・コニー。実際に発見されたのはシチズン・ペット)。
被害者が使っていた万年筆のインクはブルーブラックでしたが、自供により発見された万年筆のインクはライトブルーでした。これでは、犯人をでっちあげたと考える人がいても不思議ではありません。
警察の捜査における問題点
1963年3月に発生した「吉展ちゃん誘拐事件」で警察は犯人を取り逃がしています。そのわずか2カ月後に再び犯人を取り逃がした警察には、世間の厳しい声が寄せられました。被害者の遺体が発見されると、警察庁長官が引責辞任をせざるを得ない状況に追い込まれたのです。
埼玉県警は165名体制の捜査本部を発足させましたが、それでも捜査は難航していました。なんとしてでも警察は狭山事件の犯人を逮捕、自供をさせたかったはずです。その強い思いは、冤罪を生んでしまったのかもしれません。
当時の捜査陣は石川に対して、罪を認めれば10年で出所できるようにはからうと持ちかけたそうです。石川には余罪がたくさんあるため、殺人の罪を認めなくても10年くらいは刑務所から出られない、それならば殺人を含めても10年で出所できるなら、良い話ではないかということだったようです。
石川一雄にもさまざまな問題があったようですが、こうして見ると警察の捜査にも問題点があったのではないでしょうか。
真犯人はいるのか?
石川一雄が逮捕された理由
名前 | 石川一雄 |
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生年月日 | 1939年1月14日 |
生地 | 埼玉県狭山市 |
配偶者 | 石川早智子 |
埼玉県狭山市に生まれた石川一雄。彼は狭山市内の被差別部落の出身でした。事件当時、市内の人々の部落への偏見は大きいものでした。女子高生が行方不明になり、遺体で発見されるという痛ましい事件は部落の人々に関係があるのだと考えられてしまったのです。
その差別意識と、どうしても犯人を逮捕したい警察の思惑が結びついて石川一雄という犯人を生み出してしまったのかもしれません。
江戸幕府で作られた身分制度・士農工商のさらに下に位置する、賤民と呼ばれる人々がまとまって住む集落のこと。この人たちは、住む地域や他の身分の人との交流を厳しく制限された。明治時代になり、この身分制度は撤廃されたが、差別は残ってしまった。
被害者の兄にも疑いが?
事件当日、妹を心配して高校まで様子を見に行っていた長兄。彼が真犯人であるという説は根強く囁かれています。理由は財産を独り占めするためと言われています。
被害者が生まれた中田家では、女子で進学をしたのは善枝だけでした。このため善枝が後々財産の相続にも文句をつけるようになるのでは、という危機感が長兄に芽生え、事件につながったとも考えられます。
犯人からの脅迫状には、警察に知らせるなとありましたが、長兄はためらうことなく警察に事件の発生を知らせています。また、犯人が脅迫状をわざわざ被害者宅に届けてきたのに、それを家族の誰も目撃していないばかりか、気づいてもいなかったことも不自然であり、結果として脅迫状を発見した長兄に疑いがかかることになりました。
長兄はまだ存命です。犯人かどうかは別にしても、事件に関することを知っているのではないかと思われます。
被害者とその家族について
狭山事件の被害者・中田善枝とは
狭山事件の被害者・中田善枝は1947年5月1日に埼玉県狭山市上赤坂で、父・栄作、母・ミツのもとに四女として生まれました。長姉は狭山事件の9年ほど前から働くために家を出ており、三番目の女の子は幼い時に亡くなっていたため、中田家の娘は実質次姉と善枝の2人だけでした。
事件当時、善枝は川越高校・入間川分校の別科に入学したばかりでした。1952年に開設された別科は和洋裁と調理を中心に学ぶのが目的であり、生徒は女子だけの花嫁学校のような存在でした。別科は2年間で卒業でき、高卒の資格はもらえなかったということですが、中学を卒業してすぐに家の手伝いをしていた姉と比べても、善枝は特別待遇を受けていたことがわかります。
善枝さんの父・中田栄作とは
中田善枝が生まれた中田家は、百万円様という名で呼ばれるほどの裕福な農家でした。父の栄作は1905年に生まれ、地区の区長を務めたこともある地元の名士でしたが、明治生まれならではの考えを持っていました。それが女子に教育は必要ないということでしたが、なぜか善枝は進学を許されました。
女子なのに進学が許されたこと、事件の後に善枝の弟が他家に養子に出されたことから、善枝と弟は父親(または母親)が違うのではないかなどと、中田家に対するさまざまな憶測が飛び交ったのです。
善枝を含めると7人の子どもたちが中田家に誕生しますが、母のミツは1953年に脳腫瘍のために亡くなっており、苦労も多かったことが推測されます。
また、母のミツが嫁入りをしたときには、近所の人に嫌がらせをされた(墓石が投げ込まれていたとも、庭に土が盛ってあった(土葬に見立てていた)ともいいます)という話も残っており、中田家と周りの住民たちとの関係も考えさせられます。
なお、父の栄作が亡くなったのは、平成時代(1990年)になってからのことです。裕福でありながら、苦しみの多かった人生を思うと複雑な気持ちになります。
善枝さんの姉・中田登美恵とは
次姉の登美恵は1940年生まれで、父の栄作の考え通りに中学を卒業した後は家の手伝いをして生活していました。事件当時は長兄の同級生と婚約しており、1年後には入籍をしていますが、その直後に彼女は亡くなります。
登美恵の死にはこの後もう一度触れますが、妹の死でノイローゼになったと言われています。しかし彼女は事件の折、犯人に身代金を渡すために、実際に指定場所に出向き、犯人と会話までしています。決して彼女は妹の死でノイローゼになってしまう女性ではなかったと思われるのです。
妹の死にショックを受けたことの他に、登美恵には何か理由があったのではないでしょうか。
事件発生から逮捕・起訴までの経緯
1963年5月1日 – 「中田善枝が行方不明に」
行方不明になった当日、中田善枝はいつもどおり登校しました。そして午後3時23分に下校するところを同級生に目撃されています。
その後、善枝は郵便局に立ち寄り、午後4時前に西武新宿線のガード下でも目撃されましたが、6時を過ぎても帰宅することはありませんでした。
1963年5月23日 – 「犯人として石川一雄が逮捕される」
行方不明になった当日、犯人から身代金を要求する脅迫状が中田家に届けられます。善枝の兄はすぐに警察に知らせ、その指示通りに犯人との接触をはかります。
身代金を受け取るために犯人が指定した場所には40名の警察官が張り込んでいましたが、犯人に気付かれ、取り逃がしてしまいます。
このときの捜索で浮上したのが、市内の養豚場でした。この養豚場は被差別部落の出身者が経営しており、部落出身の従業員も多くいたということです。また、不良のたまり場として近隣の住民から警戒されていました。そして、この養豚場をきっかけに犯人として注目されたのが石川一雄だったのです。
1964年3月11日-「死刑判決が出る」
逮捕された石川一雄は1963年6月13日に窃盗、森林窃盗、傷害、暴行、横領の罪で起訴されました。さらに翌月の9日には強盗と強制性交、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂で追起訴されました。
9月に始まった裁判では、一貫して罪を認めていますが、これは警察側の罪を認めれば10年で刑務所から出すという言葉(警察側はそんな事実はなかったと否定しています)を信じたためだと言われています。
1964年3月11日には、浦和地裁から死刑判決を受けますが、石川はこれに控訴し、東京拘置所に送られました。そしてその年の9月に始まった控訴審では、それまでとは一転、無罪を主張すると同時に、自白を強要されたとも告白します。
1994年12月21日-「仮出獄」
1977年8月、石川一雄の無期懲役刑が確定します。それまでに前科前歴がなかったことと、事件の証拠も石川の犯行を決定づけるまでには至らなかったことを考えると、石川に死刑判決は重すぎると考えられたようです。
翌月千葉刑務所に収監された石川は31年7カ月を過ごし、1994年12月21日に仮出獄をします。通常仮出獄は受刑者が自らの犯罪を悔い改めている場合にしか認められません。石川のように無罪を主張しながら仮出獄が認められるのは異例のことでした。
1996年には徳島県の被差別部落出身の女性と結婚。実家付近にマンションを建てて、不動産収入を得ながら生活をしているそうです。
2005年3月16日-「再審請求するが…」
出獄後、石川一雄は裁判のやり直しを求めましたが、2005年3月16日に最高裁はこれを退けました。この直前にはテレビ朝日「見えない手錠をはずして! 狭山事件42年ぶりの真実」という特集番組で石川のロングインタビューが放送されたばかりでした。
2006年にも再度裁判のやり直しが求められましたが、石川一雄の無罪は今も立証されていません。
2010年、2015年と石川の自白を録音したテープ、検察庁に保管されている証拠品279点、事件現場の航空写真112枚などが開示されました。これらを受けて、弁護団が調査を始めたそうですが、この先進展があるのかが気になるところです。
狭山事件にまつわる謎・逸話
謎・逸話1「狭山事件は中田善枝の兄妹も自殺に追い込んだ?」
狭山事件の被害者である中田家では、事件の後も悲しい出来事が続いています。まず、善枝の次姉・登美恵が亡くなっていることです。彼女は1964年7月14日に農薬を飲んで自ら命を絶っています。
この4カ月前に石川一雄に死刑判決が出ています。身代金を渡すために指定場所に出向いた登美恵は真犯人が誰なのか気が付いていたとも考えられています。彼女は死刑判決を受けてしまった石川への罪の意識に耐えきれなかったのではないか、と考える人もいたようです。
登美恵の死から14年後の1977年10月4日に善枝の次兄・中田喜代治がやはり自ら命を絶っています。経営していた中華料理店がうまくいっていないことを苦にしていたと言われていますが、実際はどうだったのか、今では確かめる術もありません。
謎・逸話2「石川一雄には仲間もいた?」
1963年5月11日、3人組の不審者を目撃したという情報を警察に提供した男性が、包丁で胸を刺して自殺をしています。この人は石川一雄の競輪仲間で、名前は田中のぼる(登、昇のどちらかだと思われます)。警察に共犯扱いをされて悩んでいたと言いますが、あまりにも早い自殺でした。
また、1966年10月24日には石川が勤務をしていた養豚場の経営者の長兄が踏切に侵入、自殺をしています。
この事件に関しては元使用人だった奥富玄二も農薬を飲み、井戸に飛び込んで命を絶っています。彼らの自殺が事件に関係があるという確証はありませんが、こうまで石川一雄の周辺人物が自殺をしていると、何らかの関係を疑ってしまいます。
謎・逸話3「ジブリ映画『となりのトトロ』と関係がある?」
「となりのトトロ」は狭山事件をモデルに作られたという都市伝説は今でもまことしやかに囁かれています。
- 主人公の姉妹・メイとサツキ、どちらの名前も狭山事件が起きた5月を意味している
- メイが作中で迷子になり、みんなが必死に探し回る様子
- 作中の引っ越しのシーンに出てくる茶箱に「狭山茶」の文字が見える
これらが事件を連想させる証拠だと言われています。
しかし、昔から子どもが事故や事件のためにいなくなることは多く、神隠しなどという言葉までありました。名前に関しても5月に生まれたのなら、メイとサツキは不自然ではないでしょう。
茶箱もかつては衣装ケースの代わりとしてよく使われていましたし、つい最近まで関東では、狭山茶が一般的でしたから、狭山茶と書いてあっても何の不思議もありません。これらは事件とは関係ないでしょう。
この都市伝説は狭山事件が遠い昔のことになったためにできたような気がします。「となりのトトロ」で表現されている、昔の日本の暗闇の深さが、私たちに事件を連想させるのではないでしょうか。
狭山事件に関連する作品
最終推理 狭山事件――浮かびあがる真犯人
作者はさまざまな可能性を落とすことなく検討して、改めて狭山事件の真犯人に迫っています。未だに決着していないこの事件、犯人は本当に石川一雄さんかもしれません。しかし、冤罪の可能性がある以上は事件について調べるのを諦めてほしくないと強く感じました。
自分が犯した罪を償うのは仕方がありませんが、犯していない罪まで被せられたとしたら、と考えて怖くなりました。
狭山事件の真実
事件の報道ではどこまでも疑わしく感じられた石川一雄さんですが、この本では出獄後にロングインタビューを行い、事件の真実に迫ろうとしています。読後には石川さんが無罪であると確信できると思います。
それにしても疑わしきは罰せずという言葉はどこかに行ってしまったのかと、考えずにはいられません。
狭山事件に関するまとめ
狭山事件の経緯と被害者の中田善枝、そして犯人として逮捕された石川一雄について解説してきました。この事件は女子高生が殺害された痛ましい事件に、根強い差別問題が絡んでいることがわかりました。
被害者を殺害した犯人は1人だけかもしれませんが、犯人の裏には差別をしていた大勢の普通の人たちが居たのではないでしょうか。だからこそ、この事件を題材、モデルとした作品も数多く作られています。
恐ろしい事件を生み出す背景にはいったい何があったのか、私たちはそれを知らなくてはなりません。そうでなくては、第2第3の狭山事件が発生するかもしれません。事件の全容が明らかになることを願って止みません。
ほへ〜…みなさん凄い……
あと、被害者宅の次兄が自殺したのは事件と無関係です。経営する中華料理店は「行列が出来る大繁盛店」でした。彼は実家と絶縁しており、重い肝臓病にも苦しんでいて、アルコール中毒患者でした。また、妻とは離婚が成立しかけていました。悩み、苦しんだ末の自殺でした。
誤りが多数見受けられるので訂正させて頂きます。
・被害者兄が真犯人の可能性は100%ありません。彼は事件発生後、死体発見までずっと警察官と一緒にいます。
・「遺産独り占め」は動機になり得ません。あの付近は市街化調整区域で土地の切り売りは出来ず、また長子の一括相続は常識になっていました。そもそも、それならなぜ高校に進学したばかりの妹を真っ先に殺さなければならないのか、説明が付きません。
・進学が許されたのは善枝さんだけではありません。末弟は駒澤大学まで卒業しています。
・田中「のぼる」の漢字は「昇」です。
・被害者母が嫁入りの際、「墓石が投げ込まれていた」は間違いです。実際は墓(土葬)を模した「土まんじゅう」が造られてありました。
・証拠品は全て、明らかな捏造によるものです。被害者カバンは、死体発見前に畑の中で発見されています。
・トトロのデマは、匿名掲示板「2ちゃんねる」でデタラメの書き込みをした人間がいて、その内容が広まったものです。
次女が自殺したのは事件から約一年後
呆れて物も言えないようなしょうもない文章で読んだ自分が可哀そうになる。時間をつぶしたくないがこれだけ指摘しておく。被害者の少女の鎮魂の意を込めて。
近くの養豚場が部落出身者の所有だったから警察が目につけたと言い切っているが、全く違う。警察が取り逃がした犯人の足跡を追ったからここが浮かび上がった。石川はここで働いた経験があり、ここの友人だった。
自白を強要されたかもというが、「やった」「やらない」の話ならわかるが、犯人しか知らない通学カバンの埋められている場所を、どう強制自白するのか、ユリゲラーじゃあるまいし。
姉が要求金を渡しに行った時は妹はまだ生きていると思っていた。だから言うとおりに出かけた。当然でしょう。この時点でノイローゼになるわけがない。こんなこともわからないのか。妹を残虐に殺害されたがゆえに精神異常に至ることもある、当然。また、この姉は犯人と片言の会話をしているが石川の声がそっくりだ、と同行の男性とともに証言している。こういう事は完全に無視して「石川が無罪であることを知っての罪悪感か」などとのたまう。
少女の魂は狂暴な殺人者が部落出身というだけで英雄視されているのを見て無念と察する。
改めて鎮魂を祈る