武田信玄の死因は?有力とされている説や最後の様子を紹介

武田信玄の死因ってなんだろう?」
「大河ドラマで見たけど、詳しい最期を知りたい!」

武田信玄は戦国時代の甲斐(現:山梨県)の守護大名です。恐らく日本史ファンが好きな戦国武将の中でも、人気トップ5には確実に入るであろう武将です。戦の天才といわれており、数々の逸話からも武田信玄の天才的な戦術センスを感じることができます。

武田信玄
出典:Wikipedia

そんな戦国時代を彩る武将の一人である武田信玄の死因は何だったのでしょうか?この記事では武田信玄の死因と最期に焦点を当てて紹介していきます。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

武田信玄の死因は何だったのか?

武田信玄と上杉謙信像、勇猛果敢な武将たちも死は平等に訪れる
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武田信玄の死因は何だったのか、色々な説が考えられているのでご紹介します。

肺結核や胃癌説が有力

肺結核は、死亡率が高く恐れられた病だった
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武田信玄の死因は、肺結核説や胃癌説が有力です。まず肺結核は信玄が若い頃から患っている病気で、何度か“血”を吐いたこともあったといいます。そして戦の緊張と疲れによって持病が悪化したのではないかといわれているのです。

信玄の侍医を務めていた御宿監物の書状によると、呼吸するたびに苦しんで吐血していたといいます。そういった症状も肺結核を連想させます。江戸時代に書かれた「江戸事記」で死因は結核と記されています。

信玄は恐らく酷い腹痛に悩まされたのではないだろうか

そして胃癌説も有力です。信玄の部下、高坂弾正が残した「甲陽軍鑑」に死因は「胃癌」または「食道がん」と記されているからです。胃癌も進行すると吐血症状があるために、こちらの説も説得力がありそうです。

日本住血吸虫病という説もあり…

日本住血吸虫の卵
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また信玄の死因は、日本住血吸虫症だったという説もあります。寄生虫の一種で、寄生されると発熱・腹痛を引き起こして、肝硬変を起こしお腹に腹水がたまり腹部膨満が起きるのが特徴です。また消化器障害も起こすために、症状が信玄の病状と合致し説の一つとなっています。

武田信玄の最後の様子

信玄の最期を描いたといわれる作品
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武田信玄の死は、最後の将軍足利義昭の要請により反織田信長として立ち上がり、西に向かっている途中で病状悪化するという非常に信玄にとって心残りであろう結果となりました。詳しい状況を見ていきます。

亡くなった場所は信濃国駒場が有力説

長野県下伊那郡、ここで武田信玄は死去した
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武田信玄が亡くなった場所は信濃国駒場である説が有力です。ただし資料により、場所にばらつきがあり、波合や根羽とする説もあります。ただ現在の長野県下伊那郡近郊で亡くなったことは間違いないようです。

信玄は、徳川軍の野田城を落とした直後から、吐血するようになり進撃を一時停止しています。そして長篠城で療養していましたが、結局病状悪化に伴い甲斐に撤退することを決定します。そして甲斐に向かう三河街道上で死去したのです。

息を引き取った最後の状況

信玄が火葬されたと伝わる長岳寺
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武田信玄は1573年の2月頃から病状が悪化し、3月に一度自分で歩けるほど回復したといいますが、再度悪化。歩くのも困難な状況になったために、急遽甲斐に戻ることとなりました。帰路途中に危篤状態になり、長岳寺に運ばれそこで息を引き取ったといいます。

信玄の菩提寺・恵林寺
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信玄の死後後を継いだ武田勝頼は、死を隠匿しています。駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、1779年に甲府の円光院で1779年に甲府代官が発掘すると、信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発掘されたという記録が残されています。このことから死の直後に火葬して、遺骸を保管していたことも考えられるそうです。菩提寺は甲州市の恵林寺で、享年51歳でした。

武田信玄の遺言と辞世の句

諏訪湖に遺骸を沈めるように遺言したという
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“甲陽軍鑑”によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」と、嫡男勝頼には、

「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」

と遺言しています。この言葉から宿敵と言われた二人ですが、上杉謙信のことを義が厚いと認めていたことがわかります。

上杉謙信、武田信玄のライバルだった
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【最強の軍師】武田信玄の生涯を年表付きで解説!上杉謙信との関係は?

そして亡骸を諏訪湖に沈める以外の遺言は守られました。武田勝頼は遺言通り3年経ってから葬儀を行っています。信玄の辞世の句は、

「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」

だったといいます。訳は「この世の中は流れにのって生きていくべきだ。その中で自分を見つけ、そして死んでいく。見せかけを飾って生きるな。本音で生きるのが最も楽で、もっともかっこいいものだ」という心でしょうか。戦国を駆け抜けた信玄らしい、実にのびのびとして力強い辞世の句です。

武田信玄の死因に関するまとめ

今回武田信玄の死因に焦点を置いて執筆しましたが、ドラマで見ても伝記を読んでも、志半ばで他界した信玄を残念と思うと同時に上杉謙信を信頼し、辞世の句から自分らしく生きたのだなと思ったものです。

病気が進行しながらもぎりぎりまで戦い抜いた武田信玄。もし病気が無かったらどうだったのかと考えてしまうのも歴史のロマンなのかもしれません。この記事を読んで、武田信玄の死因と最期を知ることが出来たという人がいたら嬉しく思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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