小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

【最強の軍師】武田信玄の生涯を年表付きで解説!上杉謙信との関係は?

武田信玄(たけだしんげん)は、1521年ー1573年の戦国時代に生きた武将です。甲斐(現在の山梨県)を支配している武田家の次男として誕生し、生涯をかけて隣国の信濃国や駿河などに領地を拡大していきました。「甲斐の虎」と呼ばれるほどの、百戦錬磨の優れた武将であったと後世まで語り継がれています。

甲斐の虎の名にふさわしい信玄の像

また武田信玄は、数々の歴史小説や大河ドラマで取り上げられるほど人気の偉人だといえます。あの魔王・織田信長が唯一恐れた人物であるとされ、徳川家康が何度も武田信玄に敗走しました。

徳川幕府が成立した後に武田家が滅びなかったのは、「家康公を苦しませ、人間として成長させた武将」と評価され、家康自身も信玄の手法を参考にしていたからであるとされています。

そんな戦国最強と呼ばれた武田信玄の功績は、戦場における武勇だけではありません。甲斐国をより強い国にするために、さまざまな政策を打ち出したり、脅威となりえる戦国大名と同盟を結んだりなど、内政・外交の面で「武田家」の名前を確実なものにしていきました。

長年の宿敵である「越後の龍」上杉謙信との奇妙な絆に関しても、戦国史ファンが熱く興奮できる要素なので、日本の歴史を学ぶなら武田信玄を知っておいて損はありません。

武田信玄とはどんな人?

名前武田晴信
(信玄は出家後の戒名)
誕生日大永元年11月3日
(1521年12月1日)
生地要害山城
(山梨県甲府市上積翠寺町)
没日元亀4年4月12日(53歳)
(1573年5月13日)
没地信濃国駒場
(長野県下伊那郡阿智村)
配偶者正室:前妻が上杉の方、後妻が三条の方
側室:諏訪御料人、禰津御寮人、油川夫人
埋葬場所恵林寺
(山梨県甲州市塩山小屋敷)

武田信玄の生涯をハイライト

武田信玄像

風林火山で知られ、戦国最強とまで言われた武田信玄。甲斐の虎と恐れられた彼は、どのような人生を送ってきたのでしょうか。まずは簡単にまとめたので見てみてください。

1521年に武田信玄は甲斐の領主、武田信虎の息子として生まれます。16歳の頃に元服し、海ノ口城主・平賀源心攻めで大勝利。奇襲を成功させ、華々しい初陣をおさめました。

21歳になると信玄は家臣たちの支持を得て、駿河に向かった父の信虎を国境を封鎖して甲斐国から追い出してしまいます。追放した理由は諸説あり、親子不仲説や今川との共謀説の2つが有名です。父の追放に成功した信玄は、武田の19代目当主となりました。

当主となった信玄は、軍事と政治に積極的に取り組みました。城を落として信濃国を平定し、政治面では「甲州法度之次第」と呼ばれる法を定めたり、今では「信玄堤」と呼ばれている堤防を築いたりします。1553年には初めて上杉謙信と対決。彼とは5回、川中島で戦うことになりました。

信玄と謙信の戦いは1569年に和睦が成立し、決着しました。信玄は徳川と駿河攻めをする間に、謙信との和睦を試みていたのです。交渉は成功し、8月に和睦が成立しました。

第4次川中島の戦いにて一騎討ちする武田信玄(左)と上杉謙信(右)

1572年まで、信玄は織田信長と良い関係を保っていましたが、比叡山延暦寺の焼き討ちをきっかけに関係が崩れます。仏教に親しんでいた信玄は、信長が延暦寺を焼いたことを非難し、織田信長包囲戦に加わりました。

信玄は信長の同盟相手であった徳川を狙って、三河へと攻め入ります。武田の侵攻はすさまじく、徳川の城を次々と攻め落としました。しかし、1573年2月に野田城を落としてから、信玄の体調が悪くなります。

武田軍の快進撃は続くことなく、無理がたたったのか、信玄は長篠城で療養することになりました。病状は良くならず、4月に甲斐へ戻る途中で病死しました。

武田信玄は文学青年だった

孫子の兵法を特に学んでいた

武田信玄は学問に熱心な文学青年でした。どれだけ熱心だったかというと、詩を作ることに熱中しすぎて仕事を怠り、家臣に怒られたぐらいです。

信玄は子どもの頃、禅宗の僧にさまざまなことを教わっていました。これが後に戦国最強と呼ばれる武将の基礎を作ります。禅宗の僧を通じて、信玄は仏教や儒教、道教といった中国の古典に興味を持ち、その知識を蓄えました。

信玄の特にすごいところは、蓄えた知識を応用したことです。信玄は孫子の兵法を軍事や政治に利用しました。信頼できる君主としての在り方を孫子に学び、実践した信玄は多くの優れた武将を従えることができ、彼の軍団は戦国最強と呼ばれるほどになったのです。

武田信玄が打ち立てた功績の数々は、学問に熱心だったことも大きく影響していると言えます。

武田勢力が傷を癒した「信玄の隠し湯」

武田信玄は戦国武将の中でも積極的に温泉を利用していた

戦国時代において、温泉は傷を負った兵士の療養に使われることが多くありました。そんななか、武田信玄は特に温泉を愛し、利用していました。

武田の領地は山梨や長野、静岡、岐阜と山が多い土地です。山の多さに比例して温泉もあちらこちらに湧き出ており、その効能も外傷や打身、骨折と兵士の治療に打ってつけのものでした。

そのため、信玄は戦の予兆があれば各地の温泉を点検し、修理や拡充を行っていつでも兵士が傷を癒せるようにしていたのです。

「信玄の隠し湯」という言葉はあとの時代になってできたもので、当時は療養中の兵を襲われないよう、場所を秘密にしていました。川浦温泉や嵯峨潮温泉、下部温泉など山梨と長野には、信玄が発見した温泉や傷を癒した秘湯が数多くあります。

興味のある方は実際に訪れてみてはいかがでしょうか。

武田の家紋の意味は「結束力・安定」

武田家の家紋

武田信玄の家紋には「結束力・安定」という意味が込められています。

信玄の家紋は「武田菱」と呼ばれ、4つの菱形で構成されています。安定した大きな菱形をギュッと中央に寄せている形は、安定した結束力を見た目で表しています。

人は石垣、人は城、人は堀

名言からもわかる通り、信玄は人を重視していました。他の武将が大きな城を立てて防備を固めるなか、信玄は小さな館を本拠にしています。立派な城よりも、強い武士こそが国を守ると確信していたのです。

4つの菱が互いに身を寄せ、1つの盾に見える紋は、武田信玄にふさわしい家紋と言えますね。

「風林火山」は武田信玄の戦略を表していた?

信玄が掲げていた「風林火山」の旗

武田信玄は「風林火山」という言葉でも有名です。ですが、風林火山は一体なにをさしているのでしょうか。

風林火山とは、孫子の兵法の一部を引用した言葉であり、戦における4つの心構えを表したものです。

「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」
疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し

攻めいるときは風のように素早く行動し、準備を整えて機会がくるのを林のように待ち、侵略するなら火のように勢いよく攻め、動かないと決めたなら挑発されても攻撃されても山のように落ち着いて守りなさい、という意味が込められています。

信玄は上記の言葉通りの戦略を行っています。各地に忍びを放って日本中の情報を集めるとともに、自領の国力増強に励んで準備を怠りませんでした。

諏訪への侵攻では、諏訪の領地が弱っていたのを見逃さず、諏訪領主に敵意を持っていたものを味方に引き入れて戦いにのぞんでいます。結果、ほとんど兵力を消費せずに勝利しました。

武田信玄の強さは戦国最強?

川中島の戦いでの信玄・強さに溢れている

「甲斐の虎」、「戦国最強」……武田信玄を表す言葉は、戦国武将としての武勇を褒めるものばかりです。果たしてどれほどまでに、武田信玄は強かったのでしょうか。

残っている史料によると、武田信玄の戦歴は72戦49勝3敗20分とされています。そのすべての戦が、自分の甲斐国を守るための防衛戦ではなく、領土拡大のために他国に攻め入ったもので、引き分けた後も必ず攻め落としているのが特徴です。

攻め落とした先の支配国に居を構えることはせず、常に甲斐国を本拠地にしていたことから、信玄にとって甲斐はかけがえのない居場所だったといえます。

武田家は強いという評判を得てもなお、信玄は富国強兵のために戦を進めます。城を攻め入ることができたということは、先手を打つような戦略を練るのが得意だったということです。信玄は武勇だけでなく、知略も兼ね揃えていたということですね。

また、甲斐は良馬で有名な土地。全盛期には約9,000頭の騎馬を保有していたといいます。

武田信玄の性格は?

信玄にはさまざまな面があった

武田信玄の詳しい人柄を説明している史料はあまり残っていません。しかし、少しでも甲斐の国が豊かになるようにと動いていたため、農民からは慕われ、家臣からの信頼も厚かったとされています。

信玄は家督を継いだ直後に、政治方針や性格の不一致が原因で、家臣と結託して実の父親である武田信虎を国外追放しています。

このエピソードからは、信虎よりも家臣の忠誠心を集めることができるほど信用されていることと、目的のためなら手段を選ばないという信玄の決断力をうかがうことができます。

また、信玄は有能な人材を家系や身分などを問わずに起用する合理的な考えを持っていたり、娘の安産や無病息災を祈願する親心を持っていたりと、有能な男・優しい父親としての人間くさい一面も垣間見ることができます。

武田信玄の死因は「がん」だった?

信玄も病には勝てなかった?

武田信玄は1573年、織田信長と直接戦う前に病気で命を落としました。正確な詳細が残されているわけではありませんが、もともと信玄は幼い頃から病弱で「肺結核」を患っていました。したがって、血を吐くことは生涯を通してたびたびあったそうです。

『甲陽軍鑑』によると、武田信玄の死因は「食道がん」あるいは「胃がん」だとされていました。しかし、近年の研究によると「日本住血吸虫症」が死因なのではないかともいわれています。

この寄生虫は戦国時代から存在し、その生息地の一部には信玄が活躍した山梨県甲府盆地も含まれています。信玄の侍医が触診で、信玄の腹部が大きく腫れていたことを記録で残しています。

「吐血」や「腹部の異状」は日本充血吸虫症の症状と一致しています。(※現在、日本住血吸虫症は1996年の山梨県の終息宣言により、撲滅されています)

武田信玄と上杉謙信は因縁のライバル

上杉神社所蔵の上杉謙信像

武田信玄と上杉謙信は、因縁のライバルとして位置づけられ、2人の関係性は多くの歴史ファンが心躍らせてきました。

2人が直接関わったのは「川中島の戦い」です。5回にも及ぶ合戦でしたが、両者互角で勝敗はついていません。(信玄も謙信もどちらも「自分が勝った」と言い張っています)

信濃侵攻を着実に進める信玄にとって、信玄に負われた信濃の武将たちを匿って立ち向かってきた謙信は目障りだったでしょうが、5回にわたる合戦でお互いの実力を認め合うようになったとされています。

「敵に塩を送る」という有名なことわざの由来も、2人に関係しています。今川家を裏切ったことで塩の供給を断たれ、打撃を受けた信玄に、謙信は塩を送ります。窮地で困っている人を助けるという、謙信らしい振る舞いでした。(一説では、塩を通常より高値で売りつけて儲けていただけという見方もあります。謙信は商売上手でもありました)

そして信玄は亡くなる時、息子の勝頼に「困った時は越後の上杉を頼れ」と遺言を残しています。また、信玄の死を知らせを受け取った謙信も「我が生涯のライバルをなくした」と嘆き、涙を流して、家臣たちに3日間娯楽を禁止したといわれています。

信玄と謙信には、武勇でつながった絆があったといえますね。

武田信玄の功績

功績1「大群で落とせなかった城を落とし、初陣で大勝した」

長野県南佐久郡南牧村に位置する海ノ口城後

武田信玄は、1ヵ月総攻撃を仕掛けて落とせなかった城を、策をろうして1日で落としました。

信玄の初陣は海ノ口城攻めです。信玄は信虎と共に、海ノ口城へ侵攻しました。信虎は8000の兵に総攻撃を命じましたが、城を守る大将平賀源心は強く、一月経っても落とせません。

兵は傷を負い、さらには雪まで降ってきました。信虎はこれ以上は不利と見て、退却を命じます。退却時、信玄は父の信虎に、自分が最後尾を務めると申し出ました。信虎は渋々うなずきます。

こうして退却した武田軍ですが、国境までくると信玄は密かに選んでいた300の兵を休ませて、海ノ口城へ奇襲を仕掛けました。このとき、大将の平賀源心は武田軍が撤退したことに安心し、ほとんどの兵を家へと返してしまっていました。さらに勝利の美酒を味わっていたのです。

信玄の奇襲は源心らの隙を完全につく形となり、8000の兵でも落ちなかった海ノ口城を300の兵で一夜のうちに落としてしまいました。信玄は孫子の兵法を応用し、初陣で見事大勝したのです。

功績2「孫子の兵法を学び、戦わずして勝つを実践していた」

武田家を支えた武将たち

戦国最強の武将と名高い武田信玄の真価は、戦場ではなく日常にあります。

信玄は孫子の兵法を学び、そのまま使うのではなく応用して、自国の力を蓄えることに専念していました。また、正確な情報を得て、相手の思惑を利用し、自軍を有利に導いています。

具体例としては西上野・箕輪(みのわ)城の攻略があります。信玄は攻略する前に、箕輪城内の有力な将を利用して内部工作を行いました。結果、城を守っていた長野氏は滅亡へと追い込まれています。

信玄は常日頃から、良い君主として振る舞うよう心がけていました。良い君主がいることによって、もし戦いが始まっても国が一体となって行動でき、堅固な守りに成ると考えていたからです。

事実、信玄の包容力はたくさんの有能な人物を引きつけました。彼の指導者としての在り方は、今もなお学ぶべき点が多くあります。

功績3「信玄堤を作って水害をなくした 」

1975年に撮影された信玄堤。写真右側の帯状の緑地が堤防

武田信玄は武だけでなく、政治にも優れた手腕を発揮しています。

武田領の甲府盆地は、4つの河川から水が流れこむため水害に悩まされていました。信玄はこの問題を、自然を利用して解決したのです。

川の流れの途中に岩を置いて水流を2つに分けたり、水量によって決壊の場所が異なるのを計算に入れて堤防を築いたり、と信玄は水の力を使って水を制御しました。こうしてできた堤防は見事、甲府盆地から水害を追放したのです。

その堤防は「信玄堤」と呼ばれ、今も残っています。信玄の治水術は急流や大河に最適な方法として後世に伝えられました。

1 2 3

コメントを残す