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【最強の軍師】武田信玄の生涯を年表付きで解説!上杉謙信との関係は?

武田信玄(たけだしんげん)は、1521年ー1573年の戦国時代に生きた武将です。甲斐(現在の山梨県)を支配している武田家の次男として誕生し、生涯をかけて隣国の信濃国や駿河などに領地を拡大していきました。「甲斐の虎」と呼ばれるほどの、百戦錬磨の優れた武将であったと後世まで語り継がれています。

武田信玄は、数々の歴史小説や大河ドラマで取り上げられるほど人気の偉人だといえます。あの魔王・織田信長が唯一恐れた人物であるとされ、徳川家康が何度も武田信玄に敗走しました。徳川幕府が成立した後に武田家が滅びなかったのは、「家康公を苦しませ、人間として成長させた武将」と評価され、家康自身も信玄の手法を参考にしていたからであるとされています。

そんな戦国最強と呼ばれた武田信玄の功績は、戦場における武勇だけではありません。甲斐国をより強い国にするために、さまざまな政策を打ち出したり、脅威となりえる戦国大名と同盟を結んだりなど、内政・外交の面で「武田家」の名前を確実なものにしていきました。長年の宿敵である「越後の龍」上杉謙信との奇妙な絆に関しても、戦国史ファンが熱く興奮できる要素なので、日本の歴史を学ぶなら武田信玄を知っておいて損はありません。

目次

武田信玄とはどんな人?

名前武田晴信
(信玄は出家後の戒名)
誕生日大永元年11月3日
(1521年12月1日)
生地要害山城
(山梨県甲府市上積翠寺町)
没日元亀4年4月12日(53歳)
(1573年5月13日)
没地信濃国駒場
(長野県下伊那郡阿智村)
配偶者正室:前妻が上杉の方、後妻が三条の方
側室:諏訪御料人、禰津御寮人、油川夫人
埋葬場所恵林寺
(山梨県甲州市塩山小屋敷)

武田信玄の強さは?

「甲斐の虎」、「戦国最強」……武田信玄を表す言葉は、戦国武将としての武勇を褒めるものばかりです。果たしてどれほどまでに、武田信玄は強かったのでしょうか。

残っている史料によると、武田信玄の戦歴は72戦49勝3敗20分とされています。そのすべての戦が、自分の甲斐国を守るための防衛戦ではなく、領土拡大のために他国に攻め入ったもので、引き分けた後も必ず攻め落としているのが特徴です。攻め落とした先の支配国に居を構えることはせず、常に甲斐国を本拠地にしていたことから、信玄にとって甲斐はかけがえのない居場所だったといえます。

武田家は強いという評判を得てもなお、信玄は富国強兵のために戦を進めます。城を攻め入ることができたということは、先手を打つような戦略を練るのが得意だったということです。信玄は武勇だけでなく、知略も兼ね揃えていました。また、甲斐は良馬で有名な土地。全盛期には約9,000頭の騎馬を保有していたといいます。

武田信玄の性格は?

武田信玄の詳しい人柄を説明している史料はあまり残っていません。しかし、少しでも甲斐の国が豊かになるようにと動いていたので、農民からは慕われ、家臣からの信頼も厚かったとされています。

手段を信玄は家督を継いだ直後に、政治方針や性格の不一致が原因で、家臣と結託して実の父親である武田信虎を国外追放しています。このエピソードからは、信虎よりも家臣の忠誠心を集めることができるほど信用されていることと、目的のためなら手段を選ばないという信玄の決断力をうかがうことができます。

また、信玄は有能な人材を家系や身分などを問わずに起用する合理的な考えを持っていたり、娘の安産や無病息災を祈願する親心を持っていたりと、有能な男・優しい父親としての人間くさい一面も垣間見ることができます。

武田信玄の名言は?

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり

戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる。
五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分はおごりを生ず

晴信(信玄)の弓矢は欲のためではなく、民百姓を安楽にするためだと
民に知らせれば、わしが軍を進めるのを待ち望むようになる

負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。
それがしに於いては天命とは思わず、みな仕様の悪しきが故と思うなり

武田信玄の死因は?

武田信玄は1573年、織田信長と直接戦う前に病気で命を落としました。正確な詳細が残されているわけではありませんが、もともと信玄は幼い頃から病弱で「肺結核」を患っていました。したがって、血を吐くことは生涯を通してたびたびあったそうです。

『甲陽軍鑑』によると、武田信玄の死因は「食道がん」あるいは「胃がん」だとされていました。しかし、近年の研究によると「日本住血吸虫症」が死因なのではないかともいわれています。この寄生虫は戦国時代から存在し、その生息地の一部には信玄が活躍した山梨県甲府盆地も含まれています。信玄の侍医が触診で、信玄の腹部が大きく腫れていたことを記録で残しています。「吐血」や「腹部の異状」は日本充血吸虫症の症状と一致しています。(※現在、日本住血吸虫症は1996年の山梨県の終息宣言により、撲滅されています)

武田信玄と上杉謙信の関係は?

武田信玄と上杉謙信は、因縁のライバルとして位置づけられ、2人の関係性は多くの歴史ファンが心躍らせてきました。2人が直接関わったのは「川中島の戦い」です。5回にも及ぶ合戦でしたが、両者互角で勝敗はついていません。(信玄も謙信もどちらも「自分が勝った」と言い張っています)信濃侵攻を着実に進める信玄にとって、信玄に負われた信濃の武将たちを匿って立ち向かってきた謙信は目障りだったでしょうが、5回にわたる合戦でお互いの実力を認め合うようになったとされています。

「敵に塩を送る」という有名なことわざの由来も、2人に関係しています。今川家を裏切ったことで塩の供給を断たれ、打撃を受けた信玄に、謙信は塩を送ります。窮地で困っている人を助けるという、謙信らしい振る舞いでした。(一説では、塩を通常より高値で売りつけて儲けていただけという見方もあります。謙信は商売上手でもありました)

信玄は亡くなる時、息子の勝頼に「困った時は越後の上杉を頼れ」と遺言を残しています。また、信玄の死を知らせを受け取った謙信も「我が生涯のライバルをなくした」と嘆き、涙を流して、家臣たちに3日間娯楽を禁止したといわれています。信玄と謙信には、武勇でつながった絆があったといえます。

武田信玄にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「武田信玄はトイレを改良した?」

武田信玄はトイレ空間が好きで、居城である躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に自分専用の水洗トイレを設置したとされています。躑躅ヶ崎館の裏から流れている水を利用したシステムで、信玄が合図を送ると、上流にいる家臣から順に水を流していくといったものでした。

また、武田家のトイレは広かったそうです。用を足している間に敵の襲撃にあうと身動きが取れずに反撃できないためでした。また、トイレにこもるのが好きな信玄は、そこで戦術を練ったり書状を書いたりするために、トイレ空間に机や硯を設置していたそうです。

都市伝説・武勇伝2「武田信玄は忍者を使っていた?」

武田信玄が優れた戦略を練り、先手を打って数々の合戦を勝利した理由は、彼が持つ情報量の多さだったと言われています。一国の領主が他国のことについて、どうしてそこまで詳しく知っていたのかは、忍者を使っていたからだとされています。

武田信玄が抱えていた隠密組織は「三ツ者」と呼ばれ(武田家について詳しく書かれた史料『甲陽軍鑑』では「素破」とも書かれています)、身寄りのない子どもたちを鍛えて忍びの術を仕込み、表面上では巫女として変装させて全国に送って情報収集していたそうです。忍者というのは漫画やアニメの世界ではなく、本当に使われていたということです。

武田信玄の略歴年表

1521年
甲斐国守護、武田信虎の次男として生誕
母は大井氏の娘・大井夫人で、幼名は太郎と名付けられました。教育係についての記録は残されていませんが、『甲陽軍鑑』では、武田家重臣の板垣信方だったとされています。
1536年
元服して晴信と名乗る
室町幕府第12代目将軍・足利義晴から「晴」の字をもらって晴信と名乗るようになりました。

この年には、公家の三条公頼の娘・三条夫人を妻として迎えたり、信濃国佐久郡の侵攻で初陣を飾ったりして、武家の男子としての役割を立派に果たしていきます。

1541年
父の信虎を国外追放して家督を継ぐ
父・武田信虎は甲斐国をまとめあげましたが、度重なる軍事的行動によって国内の民は疲れ切っていました。自分の民を犠牲にする父の傍若無人さを理由として、家臣たちと結託して父を追放したという説です。

これを機に、信玄は第19代当主として武田家の家督を継ぎました。

1553年
信濃国(北信地方を除く)を平定
家督を継いだ翌年から、信玄は隣国の信濃を侵攻し始めました。信濃諏訪領を治めていた諏訪頼重や大井貞隆、高遠頼継を短時間で打ち倒し、さらに強固な同盟関係を得るために、北条氏や今川氏と和睦します。(後の甲相駿三国同盟につながります)

途中、信濃北部を治めている村上義清に大敗を喫するという挫折はありましたが、11年かけて信濃の国を着実に平定していったのです。

1561年
第4次川中島の戦いで上杉謙信と激戦を繰り広げる
信玄の信濃平定により、追い詰められた村上義清らが越後の長尾景虎(上杉謙信)に救援を頼み、信玄と謙信は川中島で戦うことになります。川中島の戦いは5回に分かれて繰り広げられるほど勝負がつかず、これこそ武田信玄と上杉謙信が絶好のライバルだとされている理由です。

中でも第4次川中島の戦いが最も大規模なもので、ここで信玄は弟の武田信繁や軍師の山本勘助といった重要な家臣たちを失います。

1568年
駿河を平定
織田信長の台頭により、各国の外交情勢にも変化が訪れます。信長が桶狭間の戦いで今川義元を破り、信玄との友好関係を持ちかけたことによって、武田家と今川氏との同盟関係に亀裂が入りました。

この流れに乗じて、信玄は今川領の分割を約束した三河の徳川家康と駿河に侵攻しました。分割の件で徳川家康とは対立し、その後家康は今川氏と和睦を結びました。

1572年
三方ヶ原の戦いで徳川家康を破る
将軍・足利義昭が織田信長を討伐するように各国の武将に命令を出し、信長の勢いを良しとしなかった信玄はその呼びかけに応じます。まずは信長と同盟を結んでいる徳川家康を狙って、遠江に出兵しました。

その中で有名なのは、家康が大敗した三方ヶ原の戦い。家康は恐怖のあまり脱糞し、その屈辱を忘れないために着替えずに、しかめっ面のまま絵を描かせたと言われています。

1573年
甲斐に向かう三河街道で病死
織田信長の討伐のために出兵したあたりから、信玄はたびたび吐血するようになります。もともとの持病が悪化したため、療養のために甲斐に戻ろうとします。しかし、故郷に着く前の4月12日に道中で亡くなりました。

武田信玄の生涯具体年表

1521年 – 1歳「甲斐統一の最中に命を授かる」

甲斐国守護、武田信虎の息子として誕生する

甲斐では15世紀初めから有力な戦国武将が乱立していましたが、信玄の曽祖父にあたる武田信昌の時代からは徐々に国内統一が進み、父である武田信虎が1519年には統一を果たしました。母親は甲斐西部の有力な領主であった大井氏の娘・大井夫人です。誕生した信玄は、太郎という幼名を与えられます。

家族構成は以下の通りです。

父:武田信虎
母:大井夫人
兄:竹松
弟:犬千代、信繁、信基(信友?)、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎
姉妹:定恵院、南松院殿(穴山信友正室)、禰々、花光院(浦野氏室)、亀御料人(大井信為正室)、下条信氏正室、禰津神平(元直の長男)室、葛山氏室、菊御料人(菊亭晴季室)

※女姉妹についての資料が少なく、信玄との順番関係が残されていないので、姉妹としてまとめました。(定恵院だけは唯一、信玄の姉だったと記録があります)

信玄が長男だったとされることが多くありますが、兄である竹松が1523年に7歳で亡くなったことによって、信玄が嫡男になりました。

1533年 – 13歳「上杉の方を正室に迎える」

扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主の上杉朝興の娘と政略結婚

1520年代に父の信虎は扇谷上杉氏と結び、同盟関係を強化させるために扇谷上杉氏の当主・上杉朝興の紹介で、山内上杉氏の上杉憲房の後室を側室に迎えました。また、さらなる同盟の強化に向けて、信玄も上杉朝興の娘である上杉の方と政略結婚しました。

政略結婚ではありましたが、2人の夫婦関係は良好だったとされています。結婚して1年で上杉の方は妊娠しました。しかし、難産だったことから、上杉の方も赤ん坊もどちらも亡くなってしまいます。信玄は一度に2人の家族を亡くしました。

1536年 – 16歳「元服して名を晴信とする」

元服して名前を武田晴信にする

室町幕府の第12代将軍である足利義晴から「晴」の字をいただいて、信玄は「武田晴信」と名前を改めます。継室(後妻)として、左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えました。左大臣とは、朝廷の最高機関である太政官の役職の1つです。

新田次郎の歴史小説『武田信玄』やドラマの影響で、三条夫人は悪妻というイメージが植え付けられていますが、円光院の葬儀記録には、「大変にお美しく、仏への信仰が篤く、周りにいる人々を包み込む、春の陽光のように温かくて穏やかなお人柄で、信玄様との夫婦仲もむつまじいご様子でした」といった、快川和尚による記録が残っています。

また、元服した信玄の初陣は信濃国佐久郡の海ノ口城主・平賀源心攻めであったとされています。『甲陽軍鑑』では、信玄が城を一夜にして落城させたという伝承を記述していますが、英雄的な脚色ではないかと疑問視されています。

年1541 – 21歳「家臣たちと共謀して父を追放し、家督を継ぐ」

父である武田信虎を甲斐国から追放する

元服し、初陣もおさめた信玄は父の武田信虎の信濃攻めに従軍していました。しかし、6月に信濃から凱旋してきた信虎が娘婿である今川義元のところへ向かおうとした時に、板垣信方や甘利虎泰といった武田家の重臣たちの支持を受けた晴信は国境を封鎖し、父を強制隠居させようとしました。信虎はそのまま駿河に追放され、信玄は第19代目当主となります。

父を追放した理由としては、諸説あります。1つ目は、信玄の弟である信繁のことを父が大変可愛がり、信玄のことを蔑ろにするようになったという親子不仲説。2つ目は、今川義元との共謀説があります。どちらにせよ、武田家の重臣たちが信玄に加担したことから、信虎と信玄、家臣団との関係は悪かったとされています。また、『勝山記』といった文献によれば、信虎は度重なる軍事行動による財源の確保で、農民などに重い負担を課していたことから、民からも信虎は疎まれていたという推察もあります。

1542年 – 22歳「【信濃国平定①】桑原城の戦い」

桑原城の戦いで諏訪領を掌握

信玄は諏訪氏の分家である伊奈の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を始めます。諏訪頼重は武田氏へ断りを入れることなく、単独で上杉氏と講和を行い、領地の割譲を行いました。信玄はこれを盟約違反と見なし、諏訪領への侵攻を行ったと考えられている。

桑原城の戦いで諏訪家当主である諏訪頼重は、圧倒的な戦力の差を目の前にして和睦を申し入れました。和睦の条件は頼重の命を保証することでしたが、晴信はこの条件を破って頼重とその実弟の頼高を切腹させました。これにより、諏訪氏は事実上滅亡しました。

1547年 – 27歳「甲州法度之次第(信玄家法)を定める」

分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定めて領国秩序の維持を明文化

信濃攻めのかたわらで、信玄は内政にも力を入れていました。「甲州法度之次第」は、当初は55ヶ条の基本法からなる分国法です。(1554年に2ヶ条追加されて、合計57ヶ条になりました)

甲州法度は上下2巻から構成されています。上巻は主に法律規定についての項目で、下巻は論語・孟子など中国の古典をたくさん引用して、日常行為の規範とするべき道徳論的な家訓集となっています。前者は、領国内の階級秩序や掟、国人や地頭の土地所有や年貢収取を制限し、家臣としての臣従を強制しています。債権や土地所有に関する条項も多く見られます。

喧嘩両成敗の条項が有名ですが、これは成人の場合に限られています。13歳未満の場合、人を殺しても罪に問われることはありませんでした。山伏に関するものや、百姓や下人、奴婢に関する項目もあり、年貢の未納や郷村逃亡などを禁止していました。

1548年 – 28歳「【信濃国平定②】上田原の戦い」

上田原の戦いで村上義清に破れ、多くの重臣を失う

2月、信玄は信濃の北部を治めている葛尾城主の村上義清と上田原で激突します。当時の村上義清は猛将として有名であり、家督を相続して以来、信濃平定で連勝を続けていた信玄は、ここで初めて大敗を喫します。

敗因としては、信玄が度重なる連勝で驕っていたからとされています。戦の最中だというのに、今回も勝ちだと踏んで油断し、武田家に長く仕えていた板垣信方、甘利虎泰らをはじめ多くの家臣を失いました。信玄自身も負傷したので、甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたといわれています。

1550年 – 30歳「【信濃国平定②】砥石崩れ」

砥石城で村上義清に2度目の敗北

信玄は信濃中信地方の守護である小笠原長時を、塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で破ります。小笠原長時は戦意を喪失して城を放棄して、村上義清のもとに逃げ込みます。

勢いに乗った信玄は村上義清の砥石城を攻めようとしますが、ここで「砥石崩れ」と歴史に名を残すほどの敗北を経験します。砥石城は、東西は崖に囲まれ、攻めることができる場所はその名のとおり砥石のような南西の崖しかないという城でした。崖を登ってくる武田兵に石を落としたり煮え湯を浴びせたりして応戦していました。砥石城攻めの際の武田軍の兵力は7000人、対する砥石城の兵は500名ほどしかいませんでした。上田原の戦いで一度武田軍を退けたことによって、村上の軍勢の士気は非常に高かったとされています。

村上義清はその間に対立していた高梨氏と和睦を結び、2000人の本隊を率いて葛尾城から救援に駆けつけたため、武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃される形になりました。不利だと判断した信玄は撤退しようとしますが、村上軍の激しい追撃により、武田軍は1000人近い死傷者を出し、信玄自身も影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱するという有様であったとまでいわれています。

翌年、家臣の真田幸隆の謀略によって砥石城は陥落し、村上義清は越後国主の長尾景虎(上杉謙信ののもとに逃げ込み、信玄の信濃平定は達成されました。

1553年 – 33歳「【龍虎対決①】第1次川中島の戦い」

上杉謙信と川中島で初めて対決する

9月、武田信玄による信濃侵攻で被害をこうむった村上義清や信濃北信の豪族の要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)は、本格的な信濃出兵を始めます。この時は、景虎の軍勢に武田軍の先鋒を布施・八幡にて撃破されます。景虎は武田領内に深く侵攻しようとしましたが、信玄は決戦を避けました。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退します。

景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼を申し上げるために上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得ました。これにより、景虎と敵対する者は賊軍ということになり、武田氏との戦いの大義名分を得ます。

1559年 – 39歳「出家して名前を「徳栄軒信玄」と改める」


2月に長禅寺の住職である岐秀元伯を導師として出家し、「徳栄軒信玄」と名前を改めました。出家の理由としては、以下が考えられています。

①信濃国をほぼ平定したタイミングであること
②信濃守護に補任されたことが契機であること

また、同年に相模後北条氏で「永禄の大飢饉」を背景に当主氏康が家督を嫡男の氏政に譲って徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも、代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が高いと考えられています。

信玄が信濃守護に任命されたのは、1557年に室町幕府の将軍である足利義輝に、甲越和睦の御内書が下されたことがきっかけでした。越後の上杉謙信と和睦せよという命令です。これを受諾した景虎に対し、信玄は受託の条件として信濃守護職を要求したのでした。

1561年 – 41歳「【龍虎対決②】第4次川中島の戦い」

第4次川中島の戦いで重臣たちを失う

5回にもわたったとされる川中島の戦いのうち、1561年の4回目が最大規模だったといわれています。2回目、3回目は長尾景虎の上洛による謀略もあって、そこまで大きな合戦になることはありませんでした。

合戦に至った背景としては、上杉家と北条家が長く対立していたことがきっかけとされます。長尾景虎(上杉謙信)の養父である上杉憲政は1552年に北条氏康に破れて越後国に逃げ込みました。上洛の際に長尾景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許されます。その大義名分を掲げ、北条氏康を討伐しようとします(小田原城の戦い)が、危機を感じた北条氏康は同盟者である武田信玄に援助を要請します。これによって、信玄と景虎の対決がまた始まったのです。

第4次川中島の戦いでは両軍とも多数の死者を出し、信玄も長く軍師として仕えてくれた山本勘助や実弟である武田信繁を失いました。

1567年 – 47歳「義信事件が起きる」

嫡男である義信を廃嫡する

1560年5月に桶狭間の戦いにおいて、駿河の今川義元が尾張国の織田信長に敗れました。これにより、情勢が一気に転換期を迎えます。今川家当主は今川氏真に交代したものの、今川領国では、三河で徳川家康が独立するなど動揺が見られました。

信玄は義元討死の後にも今川との同盟維持を確認していますが、この頃には織田信長が信玄との関係性を模索していえる時期でした。武田家・織田家の同盟の印として、諏訪勝頼(後の武田勝頼)の正室として、信長の養女が迎えられています。川中島の合戦や桶狭間の戦いをきっかけとして、対外情勢が変化して武田と今川の同盟関係には緊張が生じました。

その証拠として、義信事件が起きます。義信事件の経緯は詳しく残っていませんが、義信の正室は今川氏真の妹で、武田家において義信は親今川派だったとされていたことが主たる原因とされています。10月15日には義信の教育係だった飯富虎昌が処刑、10月19日には甲府東光寺に幽閉されていた義信が自害しています。義信事件の背景には今川氏との外交関係を巡る武田家内部の事情が関係していると考えられています。

1568年 – 48歳「駿河を平定する」

徳川家康と一緒に駿河攻めを始める

信玄は12月、遠江で今川領の分割を約束していた三河の徳川家康と一緒に駿河攻めを始めました。薩埵峠の戦いで今川軍を破り、今川氏の居住地であった今川館を一時占拠します。

信玄は駿河侵攻に際して相模の北条氏康にも協力を呼びかけましたが、氏康は今川方を救援するために出兵して甲相同盟が解消されることになります。其の後、北条氏は越後の上杉氏と越相同盟を結び、武田領国へ圧力を加えようとしました。また、徳川家康と信玄は遠江領有の件で対立し、翌1569年5月に、家康は今川氏と和睦し、駿河攻めから抜けました。

この間、上洛していた織田信長と一緒に、信玄は室町幕府第15代将軍に就いた足利義昭を通じて、越後の上杉氏との和睦を試み、1569年8月には上杉氏との和睦が成立しました。
さらに信玄は越相同盟に対抗するため、常陸国の佐竹氏や下総国の簗田氏など、北・東関東の反北条勢力との同盟を結んで後北条領国へ圧力を加え、10月には小田原城を一時的に包囲します。撤退の際には三増峠の戦いで北条勢を撃退しました。そのままの勢いで、信玄は同年末には駿府を掌握しました。

1572年 – 52歳「織田信長を討伐するために出兵」

将軍足利義昭の信長討伐の命に従い、織田信長包囲戦に加担

信玄は、三河や遠江の領地をめぐって信長の盟友である徳川家康とは対立していたのに、織田信長自身とは外交関係が始まって以来、親族の政略結婚を通じて友好的な関係が続いていました。

1570年の段階にも、足利義昭は信長の討伐を諸家に命令していましたが、信玄は応じていませんでした。しかし、金ヶ崎の戦いで信長が妹婿である浅井長政によって敗北したことをきっかけに、各地の反信長勢力が結託し、第一次信長包囲網が作られます。この時も、まだ信玄に動きは見られませんでしたが、同年12月、信玄の義理の弟にあたり、信長包囲網の一角も担っていた顕如から援助の要請がきました。1571年に信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたことも、仏教に篤かった信玄はこの行為を非難しました。それらの信長の傍若無人な振る舞いを牽制しようと、信玄は信長討伐に加担することにします。

まず始めに、信長の同盟者である徳川家康を狙って遠江に侵攻し、各地の徳川の支城を次々と攻め落としました。これらの一連の動きによって、信玄と信長の友好関係は絶たれました。

1573年 – 53歳「三河攻めを断念して甲斐に帰る途中で病死」

徳川家康に対する侵攻の道半ばで病死

徳川軍に対する武田の軍勢の猛進はすさまじいものだったが、1573年2月に野田城を攻め落とした後から、信玄は吐血するようになります。一説によると、1572年月の三方ヶ原の戦いの首実検の段階から、吐血していたともいわれています。

信玄の病状が芳しくなく、武田軍の進撃は突然停止することになりました。これにより、信玄は長篠城において療養していましたが、4月初旬には遂に甲斐に撤退することを決めます。しかし4月12日、甲斐に戻る三河街道の道中で病死します。

『甲陽軍鑑』によれば、信玄は自身の死が敵陣に勢いをつけることを恐れ、遺言で「自分の死を3年間は隠すこと」や、嫡男の勝頼に対しては「信勝が継ぐまでの後見を務め、越後の上杉謙信を頼ること」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春らに後事を託したといいます。信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を隠したとされています。

関連作品

武田信玄に関連するおすすめ書籍・本・漫画

武田信玄 風の巻(文春文庫)

「武田信玄」という人物を詳細に知りたいなら、まずはこの歴史小説は外せません。山岳についての造詣が深い新田次郎氏が、甲斐国の地形や気候を細かく描写しながら描く武田信玄の人間味あふれた生涯を、読みやすい表現で描いています。

風林火山(新潮文庫)

2007年の大河ドラマになった歴史小説です。武田家の軍師・山本勘助が主人公ですが、家臣から見た主君としての信玄像が描かれています。細かい心理描写がされてあるので、武田家に関わる人間たちが生き生きと表現されていて、名作として読み応えがあります。

武田信玄―伝説的英雄像からの脱却 (中公新書)

「戦国最強の武将」と呼ばれた武田信玄を、さまざまな史料から冷静に分析しようとしている本です。英雄としてはなく、できる限り現実的な人物像を描くことを目標としているため、また違った武田信玄のイメージを学ぶことができます。

武田信玄に関連するおすすめおすすめ動画

「その時歴史が動いた~武田信玄・苦悩の生涯」

武田信玄が苦悩しながらも、血気盛んな家臣たちをまとめ、甲斐という国を広げていった経緯を取り上げています。「すべてが思うようにならない」と悩む人間味のある信玄が描かれているため、本はとっつきにくいけど信玄のキャラクターを知りたいという人にはオススメです。

武田信玄に関するおすすめ映画

風林火山

オススメの小説でも紹介した『風林火山』を映画化したものです。若き日の三船敏郎が主人公の山本勘助を、中村錦之介(後の萬屋金之助)が武田信玄を演じています。勘助と出会った時の信玄は平凡な若造でしたが、戦や統治を経験する中で大きく成長していきます。立派な主君へと成長していく過程に、思わず感情移入してしまうこと間違いなしです。

影武者

武田信玄が死んだことを敵将に知られてはまずいと判断した重臣たちが、盗人を武田信玄の影武者にするというストーリー。40年ほど前の古い映画ではありますが、映画界の巨匠・黒澤明監督の作品なので観る価値はあります。無関係な男が武田家に振り回されながらも、信玄という威光を守るために奮闘する姿に思わず心が震えます。

武田信玄に関するおすすめドラマ

武田信玄

1988年に放送されていた大河ドラマです。威厳と風格のある武田信玄を、中井貴一が見事に演じています。放送から30年以上経っていますが、今でも人気があり、名作だったと評価されています。戦国時代の「合戦」の描写や、父・信虎との確執の様子を丁寧に描いていて、さまざまな感情や思惑が絡み合う人間ドラマが表現されています。ストーリーを通して全体的に雰囲気が暗くはありますが、精度の高い時代考証のおかげで信玄の生涯を余すことなく味わうことができる作品です。

NHK 大河ドラマ 風林火山

こちらは2007年に大河ドラマとして放送していた作品です。主人公の山本勘助を内野聖陽、武田信玄を市川亀治郎が演じていました。最初は信玄を敵視していた勘助が、徐々に主君として崇拝するほどの懐の深い人物として信玄は描かれています。2人の友情もとい主従関係は強く、互いに信頼しあっているのが言葉はなくとも伝わってくるほどの名演技でした。ライバルの上杉謙信を演じている、歌手のGacktも見ものです!

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武田信玄についてのまとめ

武田信玄の53年間の生涯を振り返ってみると、猛将として家臣たちに慕われ、甲斐国を広く強いものにしていった指導者としての姿だけでなく、父を追放しなければならない葛藤や織田信長といった有名な武将たちとの関係に悩まされた人間としての姿が、イキイキと見えてくるのではないでしょうか。

大河ドラマや小説でも、疑いたくなるほど武田信玄は英雄として表現されていることが多いですが、群雄割拠する激動の戦国時代を生きた人物だからこそ、英雄のようなエピソードが生まれてくるのかもしれません。

武田信玄のことのみに限らず、武田家を取り囲む戦国時代の情勢変化について知りたい人は、この記事をぜひ参考にしてみてください。

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