「ジョンレノンはいつ亡くなったの?」
「ジョンレノン殺害の犯人は誰?」
「なぜジョンレノンは殺害されたのか知りたい!」
1980年12月8日の夜、ビートルズのメンバーだったジョン・レノンが自宅前で銃撃され殺害されました。犯人はテキサス州生まれの元警備員マーク・チャップマンでした。
マーク・チャップマンはなぜジョン・レノンを殺害したのでしょうか?全世界が深い悲しみに包まれたこの事件はどのようにして起きたのでしょうか?
この記事ではジョン・レノンの死因や当日の行動、犯人マーク・チャップマンの動機や人物像を解説します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ジョン・レノンの死因
銃撃されたことによる「出血性ショック」
ジョン・レノンの死因は拳銃で銃撃されたことによる「出血性ショック」でした。ジョンは病院に搬送された時にはもう手遅れの状態で、医師たちが蘇生処置を試みましたがそのまま息を引き取りました。
「出血性ショック」とはもともと「出血多量」と呼ばれていた症状のことで、体内の血液量が急激に減少したことによって血圧が急激に下がり、ショック状態を引き起こします。人は全血液量の30%以上を出血すると命の危険があると言われていますが、ジョンは銃撃によって80%以上を失っていたといいます。
ジョンを検視した病理学医は、どんなに素早く病院に搬送し処置を施していたとしても、数分も生存することは不可能だったと報告書に記しています。
撃ち込まれたのはホローポイント弾
ジョン・レノンの銃撃に使用されたのはチャーター・アームズ社の「アンダーカバー」という拳銃でした。リボルバーと呼ばれる回転式の拳銃で、犯人のマーク・チャップマンは装弾数の5発すべてを撃ち尽くし、内4発がジョンに命中しました。
また使用された銃弾はホローポイント弾と呼ばれ、非常に殺傷能力の高いものでした。銃弾の先端部分が空洞になっているため命中すると先端がつぶれ、貫通せず体内に留まるため深刻なダメージを与えます。
銃撃犯のマーク・チャップマンはどんな人物か
ジョン・レノンの狂信的なファンだった?
犯行当時、マーク・チャップマンはジョン・レノンの狂信的なファンだったと報道されましたが、実際は少し違ったようです。子供の頃にビートルズを聴いていたようですが狂信的と言えるほどではなく、14歳から24歳まではジョンに対しても特に興味を持っていませんでした。
事件を起こすまでジョンのレコードを1枚も持っていませんでしたが、事件当日には一度ジョンの前に当時の最新アルバムを持って現れ、サインを求めました。そのことがマーク・チャップマンがジョン・レノンのファンだと勘違いされた原因です。
精神的に不安定な人物
マーク・チャップマンは幼少のころ父親からの暴力に苦しみ、それが原因で精神的に不安定なところがある人物でした。暴力をふるう父親におびえる生活から身を守るため、寝室の壁の裏側に小人が住んでいると空想するようになります。
成長するにつれて小人たちは現れなくなり、勉強に打ち込んだり反抗期を迎えたり普通の学生生活を送りました。しかし大学では成績が振るわず、大人になってからも職場で周囲に溶け込めなかったため自殺願望を持つようになっていきます。実際に1977年に一度自殺を試みていますが失敗に終わりました。
1979年に結婚しますが過度な飲酒や精神不安から暴力的な異常行動を起こすようになり、自身の父親と同じような生活になっていきました。このころには空想上の小人も再び現れ始めていて、精神的にも不安定な状態に陥っていたと考えられています。
事件当日にジョン・レノンにサインをもらっている
ジョン・レノン殺害の犯人であるマーク・チャップマンは、事件当日にジョン・レノン本人からサインをもらっています。
事件当日の午後、ジョンはラジオ番組で放送されるインタビューを受けるためRKOラジオ・ネットワークを訪れています。収録が終わった後スタジオを出たジョンに、数人のファンが駆け寄りサインを求めました。その中の一人がマーク・チャップマンだったのです。
チャップマンはラジオ局に現れる前に当時最新作のアルバムだった1980年発売の「ダブル・ファンタジー」を購入し、それにサインを求めています。
このチャップマンがジョンにもらったサイン入りアルバムは、1999年にオークションに出品され15万ドル(約1,600万円)で落札されました。のちに2010年に85万ドル、2017年には150万ドルで売りに出されています。
ジョン・レノン殺害の動機は?
事件当時は暗殺説が囁かれていた
事件直後、ジョン・レノン殺害は暗殺だったのではないかという噂がありました。
ジョンは妻オノ・ヨーコとともに1960年代中ごろから、ベトナム戦争反対の反戦運動における中心人物となっていきます。そのため若者たちを左翼的な考え方で先導し、アメリカにとって不都合な運動を起こされないようCIAによって暗殺されたという説が浮上しました。
アメリカは永住権を取得したあと、連続して5年間滞在することで国籍を申請できます。ジョンがアメリカ国籍を取得できる1981年の直前の出来事だったことも、この説の根拠となっていたようです。
ジョンの死後から40年が経過した今でもジョンのファンの中には、この説を信じている人も少なくありません。
マーク・チャップマンの身勝手な単独犯行という結論に
現在、一般的にはジョン・レノンの殺害はマーク・チャップマンの単独犯行ということに落ち着いています。
チャップマンが精神的に不安定だったころにジョン・レノンの伝記を読み、自分との境遇の違いに怒りを覚えたことが、彼を犯行に駆り立てたきっかけでした。逮捕後には「有名になりたくてジョン・レノンを殺した」とも供述しています。
裁判でチャップマンは無期懲役の判決を受け、現在でもニューヨーク州にあるウェンデ刑務所に服役しています。事件から20年後の2000年から11回に渡って仮釈放の申請をしていますが、チャップマンに反省・更生の態度が見られないことや妻であるオノ・ヨーコらの反対などを理由に却下されています。
事件当日の出来事
自宅でローリングストーン誌の写真撮影
事件当日、写真家のアニー・リーボヴィッツはジョン・レノンの自宅を訪れ、雑誌「ローリング・ストーン誌」のための写真撮影を行いました。この時の写真が裸のジョンが妻ヨーコに絡みつく様子を写した有名な写真です。
もともとアニーはジョンだけを撮影する予定でしたが、ジョンの強い要望によってヨーコとのツーショット写真になりました。アニーは雑誌の表紙にヨーコが載ることを望んではいなかったといいます。
この写真はローリング・ストーン誌の1981年1月22日号の表紙として使用され、2005年に全米雑誌編集者協会が発表した「過去40年間(1965〜2005年)に発行された雑誌の表紙ベスト40」において第1位に輝きました。
デーヴ・ショリンによるインタビュー
写真撮影が終わった後、ジョンはRKOラジオ・ネットワークで放送予定のインタビューを受けます。インタビュアーはサンフランシスコのDJ、デーヴ・ショリンでした。
インタビューはジョンとヨーコの息子であるショーンを育てるため、ジョンが主夫をしていた時の話から始まります。インタビューの中でジョンは主夫としての生活を語り、ジョンなりの育児に対する考え方を知ることができます。
その後、5年間の主夫生活を終えたジョンの、音楽業界への復帰作となったアルバム「ダブル・ファンタジー」についてのインタビューに移ります。ジョンがまた音楽を作りたいという衝動に駆られたときの話など、興味深いエピソードがたくさん語られました。
「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミキシング作業をしていた
デーヴ・ショリンによるインタビューののち、当時レコーディング中だったオノ・ヨーコの楽曲「Walking on Thin Ice」のミキシング作業を行うためレコード・プラント・スタジオを訪れています。ジョンが銃撃された時、この楽曲の最終ミックスのテープを握っていました。
ミキシングとは録音されたそれぞれの楽器の音を、適切な音量バランスに調整する作業のことです。ジョンはこの楽曲でビートルズ時代から愛用しているリッケンバッカー325というギターを演奏しています。
1981年にシングルがリリースされたあと1992年にアルバムが発売され、オノ・ヨーコの最大のヒット作となりました。「ウォーキング・オン・シン・アイス」はエルビス・コステロなどのアーティストにカバーされています。
ジョン・レノンの殺害を描いた映画
『ジョン・レノンを撃った男』
2006年に公開された伝記映画です。アンドリュー・ピディングトンが監督を務め、ジョナス・ボールが銃撃犯のマーク・チャップマンを演じました。
犯行時チャップマンは何を思っていたのかを彼の証言をもとに再現し、2007年トライベッカ映画祭審査員特別賞受賞、2008年英国アカデミー賞新人賞にノミネートされた作品です。
『チャプター27』
2007年に公開された映画作品で、ジョン・レノン殺害に至るマーク・チャップマンの3日間にスポットを当てた作品です。
偶然にも殺人犯とファーストネーム、ラストネームが同じマーク・リンゼイ・チャップマンが、ジョン・レノン役を演じたことでも話題になりました。
ジョンレノン死因に関するまとめ
いかがでしたか?
世界中で知らない人はいない程のアーティストだったジョン・レノンの殺害は、多くの人々に衝撃と悲しみを与えました。またジョンが死亡したことを知って、少なくとも3人のファンが後を追って自殺するという痛ましい事件も起きています。
ジョンが住んでいた自宅の近くのセントラル・パークにはストロベリー・フィールズと呼ばれる区域が開かれたり、ビートルズを生んだイギリスのリヴァプール市では市内の空港を「リバプール・ジョン・レノン空港」と改称するなど、ジョンの平和を愛する精神は今でも生き続けています。
ぜひジョン・レノンの作品を聴いて、彼の思いに耳を傾けてみてください!