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岩倉具視の生涯・年表【功績やお札になった背景など】

岩倉具視は1825年に京都の下級公家の息子として京都に生まれ、憲法体制の基本方針を定めた政治家です。非常に優れた政治力を持っていたと言われています。

下級公家だったため、最初は政治にあまり関わることはありませんでしたが、幕末の時代に入ると和宮の降嫁の準備などを行い台頭してきました。

途中で攘夷派の公家たちによって失脚に追い込まれてしまいますが、王政復古の大号令の後は明治新政府の重要なメンバーの一人として政治に関わっていくことになります。

また、外務卿をしていた時には岩倉使節団のリーダとして欧米に来訪。ここで日本と西洋の違いを痛感し、日本の近代化を推し進めるきっかけを作っていくようになります。

岩倉具視の最大の特徴といえば明治時代に入り没落していた公家の中で政府としての重鎮としていたことだと思います。普通公家たちは華族という身分にはなったものの、政治に関わることはなくなりました。

しかし、岩倉具視は政治に積極的に参加したことを見ると明治時代においても非常に重要な存在だったのではと思います。

岩倉具視とはどんな人物か

名前岩倉具視
誕生日1825年10月26日
生地山城国京都
没日1883年7月20日
没地京都府京都市
配偶者岩倉誠子・岩倉槇子
埋葬場所東京都品川区海晏寺

岩倉具視は幕末〜明治時代をかけて活躍した政治家・公家で岩倉使節団のリーダーとして海外に渡ったことでも有名です。

政治体制や文化がガラリと変わった明治時代の日本において旧体制を支持していた京都の公家たちは厄介払いを受けるようになりましたが、岩倉具視は左大臣となり、実力主義の明治時代において公家でここまでのし上がれたのは太政大臣となった三条実美と彼しかいないと言われるぐらい政治の重鎮として亡くなる時まで活躍していました。

海軍卿であった勝海舟は岩倉のことを「度胸があって公卿のくせに俺にも平気で政治に口出しできた大した奴」と評しており、伊藤博文も彼が建武の新政の時に生きていてもば朝廷中心の政治体制を確立できていた評価しているのです。

岩倉具視と鉄道

岩倉具視は岩倉使節団から帰国した後急速な日本の近代化を目指すべきだと主張していましたが、特に力を入れていたのが日本に鉄道を普及させることでした。

1872年にはもうすでに新橋〜横浜間が開通していましたが、西南戦争などの内乱も起こり続け政府は非常に貧乏となってしまい鉄道なんて作っている暇や金などありませんでした。

そこで岩倉具視は「国が作れないなら民間が作ればいいではないか!」として政府内の政治家の寄付や実業家の協力を得て1881年に日本鉄道を設立。

日本鉄道は今のJR東日本の東北本線、山手線、常磐線、高崎線の元となり特に鉄道の開設の恩人として今に伝えられています。

ちなみに、上野にある鉄道学校の岩倉高等学校は鉄道の普及に携わった彼の名前が由来となっており、その校章も岩倉具視の家紋である笹竜胆がモチーフとなっているのです。

岩倉具視の思想

岩倉具視の思想は時代が変わるにつれて柔軟に対応していました。

例えば幕府からの要望があれば和宮を徳川家茂に嫁がせるために奔走し、長州藩や薩摩藩などの要望があれば倒幕に傾き王政復古の大号令を発令したり。

また、明治維新後もヨーロッパへの来訪で近代化を推進していくようになり、また元々憲法制定に反対していたのに、伊藤博文に重要性を説かれると憲法制定を承認するなどかなり思想が変わっていたことがわかります。

思想がコロコロ変わることは悪いことだと思われがちなんですが、時代に合わせて柔軟に対応する能力があることは岩倉具視の一つの才能であり、このおかげで明治時代になっても公家なのにもかかわらず重鎮として活躍できたのではないかと思います。

岩倉具視と500札

岩倉具視は明治時代に入り近代化を推進したり、重鎮して活躍していたこともあってか1951年から印刷が開始された500円札の肖像画に選ばれました。

今ではあまり馴染みがありませんですが平成時代初期までは500円玉よりも遥かに流通しており、非常に馴染みが深いお札だったのです。

もしかしたらこの肖像画を見て岩倉具視のことを知った人もいるかもしれませんね。

岩倉具視の死因

岩倉具視は咽頭がんであり、当時お雇い外国人として東京帝国大学で教授をしていたエルヴィン・フォン・ベンツによって診断を受けてしまいました。

ちなみに、日本で初めてガンだと診断されたのは彼が日本で初めてのこと。

岩倉具視からしたらかなり複雑な思いを抱いたとは思いますが、亡くなった後は日本初の国葬となっているのでかなり慕われていたことがわかりますね。

岩倉具視にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「岩倉具視とちょんまげ」

岩倉具視が岩倉使節団のリーダーとしてアメリカに渡った頃。この時岩倉具視には一つ不満に思うことがありました。

それが周りのみんなが簡単にまげを落としてざんぎり頭にしたこと。

江戸時代までの日本にとってまげというものは魂にも近いものがあり、断髪令が出された時には日本中が大もめになったこともあったのです。

そのため公家出身の岩倉具視は頑なにまげを落とそうとはしませんでした。

しかし、岩倉具視がアメリカに到着して歓迎されていたと思っていたのが、実はまげが珍しく見世物状態になっていたことに息子から教えられて気づくとこのままじゃ舐められるということで断髪を断行。

帰国した時には明治天皇にもまげを落とすことを奨励するにまで変わっており、岩倉具視と明治天皇がまげを落としたことによって断髪令に対する不満はピシャリと止んだのでした。

都市伝説・武勇伝2「岩倉具視とビスマルク」

岩倉使節団一行はアメリカを経てヨーロッパへ。この道中の途中に立ち寄ったのが当時日本と同じく分裂していた状態からようやく統一を果たしたばかりのドイツ帝国でした。

ドイツ帝国の首相はヨーロッパ随一の政治家であるビスマルク。

岩倉具視や岩倉使節団一行は晩餐会に参加した時にビスマルクに対して日本は国際法を遵守するべきかどうかを相談していました。

ビスマルクはそれに対して「国際法を守ったとしてもイギリスやフランスが守ってくれるかは保証できない。ドイツは日本に対して手出しはしないからまずは日本が強くなるのが大切だ」とアドバイスを送りました。

これを受けて岩倉使節団一行は不平等条約を改正する以前に日本の富国強兵に努めなければいけないと思うようになり、岩倉具視の思想にも影響を与えたのでした。

岩倉具視の略歴年表

1825年
岩倉具視誕生

岩倉具視は1825年に従二位権中納言であった堀河康親の次男として京都に生まれました。幼名は周丸であったそうです。

岩倉具視は一応公家としての身分でしたが、あまり公家らしさはなく、周りからは岩吉と言われていましたが、朝廷お抱えの儒学者は彼の才能に気づき、岩倉家への養子を推薦。

岩倉家はあまりいい家柄ではありませんでしたが、この養子縁組が彼の人生を大きく変える第一歩となりました。

1858年
八十八卿列参事件

岩倉具視が下級公家であったものの、彼が鷹司家との関係を深めていくと徐々に政治に参加していくようになりました。

その一つである八十八卿列参事件では日米修好通商条約の調印に反対して公卿88人とともに居座り抗議したそうです。

これによって朝廷はしばらくの間条約を拒否し続けることになります。

1861年
岩倉具視が失脚する

こうして政治運動を始めていった岩倉具視でしたが、この頃になると周りの公家から陰口を叩かれるようになり、さらには和宮の結婚を取り仕切ったことから孝明天皇の意向に背く不届きものとして糾弾される事態に追い込まれてしまいます。

岩倉具視はこのことをじっと受け止めて5年間の謹慎を余儀なくされてしまいました。

1868年
岩倉具視、政府の実力者へ

岩倉具視が謹慎している間、日本は大きく動き始めていました。1868年には大政奉還によって幕府は崩壊。江戸幕府は滅び、新しく明治新政府が置かれることになります。

この時に大活躍した岩倉具視は明治新政府の要職に就任。

廃藩置県が行われた後は外務卿(外務大臣)に就任し、政府の実権を支配するようになったのです。

1871年
岩倉使節団がヨーロッパに来訪

外務卿になった岩倉具視が最初に行ったことが外国との外交交渉とヨーロッパの法律の勉強でした。

岩倉具視は伊藤博文や大久保利通らとともに岩倉使節団としてヨーロッパに来訪。

アメリカやヨーロッパ諸国を歴訪し、ヨーロッパの法制度を学んで日本に生かそうとしました。

1883年
岩倉具視死去

明治政府として活躍を遂げていった岩倉具視でしたが、1883年に咽頭がんによってこの世を去りました。

岩倉具視の具体年表

1825年 – 0歳「岩倉具視生まれる」

京の下級公家に生まれる

岩倉具視は1825年に権中納言を務めた堀川康親の次男として生まれました。幼名は周丸と呼ばれていました。

岩倉具視は1838年に岩倉家にようしにはいることになりましたが、岩倉家は江戸時代に生まれたばかりの新しい公家でありあまりえらくはありませんでした。

公家というのは日本の中でも特に縦社会として知られており、一番上の摂関家と下級公家の間には天と地の差ほどの格差がありました。

摂関家とのコネ作り

ではどうして岩倉具視は公家の代表格として活躍できたのかというと、そこにはやっぱりコネというものがありました。

岩倉具視は摂関家の一つである鷹司家出身で関白を務めた公家のトップでもある鷹司政通に歌道入門を果たします。

ここで岩倉具視は政通に対してコネを行なったり、政治的な内容の建白を提言するなど政治的な行動を取っていくようになりました。

また、岩倉具視は学習院(今の学習院大学)の充実や実力主義の登用を目指しましたが、これは岩倉具視が身分の差をなんとかして無くしていきたかったという思いからきていたとされています。

1858年 – 33歳「八十八卿列参事件」

徹底的な締結反対の姿勢を見せる

鷹司政通を通じてどんどん政治に介入していくようになった岩倉具視でしたが、そんな彼が始めて表立った行動を起こしたのが1858年の八十八卿列参事件でした。

この事件の前に幕府はアメリカとの貿易を開始するために日米修好通商条約の締結を朝廷に対して伺いを立てていたのですが、孝明天皇がは外国人が大嫌い。

関白であった九条尚忠は条約を締結しようと働きかけるのですが、これに反発した岩倉具視は下級公家を集めて条約締結反対を訴えかけます。

これによって朝廷では条約を締結を認めない方針で行くことになり、これは外国船が兵庫を攻撃するまで続けられることになるのでした。

安政の大獄と岩倉具視

1858年6月19日、幕府の大老であった井伊直弼はこのままではアメリカが脅しをかけると判断し朝廷の裁可もなく独断で日米修好通商条約を締結。

これを知った孝明天皇は激怒し、朝廷と幕府の中は最悪なものとなってしまいました。

岩倉具視はこのことを大変に危惧しており、井伊直弼が安政の大獄の時に朝廷の公家に対して弾圧を行った時には幕府の役人に対して朝廷と幕府の対立はデメリットしかないと必死に説得し、これ以上仲違いを起こさないようにしました。

1861年 – 36歳「皇女和宮徳川家茂に嫁ぐ」

和宮が幕府に降嫁

1860年に桜田門外の変によって井伊直弼が暗殺。その後、安藤信正が老中首座となり朝廷と幕府が手を組んで難局を乗り越えようとする公武合体派が盛り上がっていくようになりました。

その一環として当時幕府の将軍であった徳川家茂と孝明天皇の妹である和宮が結婚するべきという案が強まっていき、このことは朝廷でも議論の話題となっていくようになります。

当時和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約を結んでいましたが、岩倉具視はこのことは朝廷と幕府の対立を解消する唯一の方法だと説得し、幕府に孝明天皇の要望である攘夷の実行を条件に和宮を家茂に嫁がせることを認めました。

岩倉具視は和宮の婚約のお膳立てを行なっていき、無事に和宮と徳川家茂は結婚。

しかし、その直後に坂下門外の変が起こり安藤信正が失脚すると公武合体は頓挫することになるのです。

岩倉具視失脚する

安藤信正が失脚したことで公武合体は頓挫してしまいましたが、この公武合体政策の一つである和宮の婚約を進めていった岩倉具視は三条実美らを始めとした攘夷派の公家から煙たがれるようになります。

長州藩と薩摩藩が対立状態となり、にわかに戦争の兆しが見えていく中、三条実美は岩倉具視ら公武合体を進めていった公家を朝廷の敵として糾弾。

最終的には孝明天皇までもが岩倉具視のことを疑うようになり、岩倉具視は謹慎と辞官を命じられるまでに至ってしまいました。

岩倉具視はこれを受けて朝廷から去り、政治には関わらなくなったのです。

失脚中の岩倉具視

こうして失脚してしまった岩倉具視。

岩倉具視は謹慎中も武市半平太ら強硬派の尊王攘夷志士から標的にされてしまい、寺院を転々としていきます。

その後、八月十八日の政変が起こり、三条実美が長州藩に逃げる(七卿落ち)ことになりますが、岩倉具視は結局王政復古の大号令の発令の直前まで表舞台には立つことはありませんでした。

しかし、第二次長州征伐以降、岩倉具視は倒幕派に傾くようになり、薩摩藩らと連携を強めていくようになります。

1868年 – 43歳「王政復古の大号令」

幕府から天皇へ

岩倉具視は政治の表舞台に立つことはありませんでしたが、時代の流れは大きく変わっていくことになります。

第二次長州征伐以降、幕府の権威は失墜。

さらに徳川家茂や孝明天皇が次々と亡くなり朝廷では明治天皇が即位、将軍には一橋家の徳川慶喜が就任しました。

そして1868年に大政奉還によって幕府は崩壊。

この時に岩倉具視は影ながら徳川家のお取り潰しを画策し、辞官納地を慶喜に迫るのですが、これが原因となり戊辰戦争が開幕。

岩倉具視は戊辰戦争の一つである鳥羽伏見の戦いにおいて官軍の象徴である錦の旗を掲げさせ、徳川家を朝敵と仕立て上げて新政府軍の勝利を導くなど活躍し、ついには朝廷の代表格にまで上り詰めたのでした。

日本の中枢へ

戊辰戦争が続いている最中、岩倉具視は行政官の輔官という国内の行政を管理するという実質的な国のリーダーに就任しました。

岩倉具視は朝廷の改革を断行し、これまでの朝廷の慣習を次々と無くしていきましたが、天皇が東京に遷都した直後に病気を理由に辞職。

病気が治るまでしばらく休むことになりました。

1871年 – 46歳「岩倉使節団のリーダーとしてヨーロッパへ来訪」

岩倉使節団リーダーとして

休養をしっかりとったことで病気から回復した岩倉具視は政府に復帰し、外務大臣に当たる外務卿に就任することになります。

この当時、日本には日米修好通商条約からの課題である不平等条約の改正が重くのしかかっており、外務卿であった岩倉具視はこの条約をなんとかしなければならないと強く思っていました。

そんな中、1872年まで条約の交渉ができないことになっていたため、外務卿の岩倉具視らをリーダとして使節をヨーロッパやアメリカに派遣することに決定。

不平等条約の改正は締結の根拠となっている日本の法整備が不十分という点から見たら不可能に近いものでしたが、その他にもこの使節はヨーロッパの法律や制度などのを学び、日本が文明開化することを外国に伝えるという任務を負っていました。

こうして岩倉具視をリーダーとした岩倉使節団は1871年に横浜から出発し、アメリカに向かったのです。

ヨーロッパのカルチャーショック

岩倉使節団は一年半もの間ヨーロッパやアメリカの文化を見ていきましたが、ヨーロッパの文化は日本の文化とは全く違い、さらにはヨーロッパは日本なんかとは比べ物にならないほど発展していることをまざまざと体感させられることになりました。

特に岩倉具視がカルチャーショックを受けたのが工場の制度と鉄道の普及。

岩倉具視が鉄道の施設を進めていったのはこのことがきっかけとなっており、また食べ物であるチョコレートやビスケットなどが工場で大量生産され、それが世界各地に輸出されることは大国であるヨーロッパの技術の賜物であり、これを日本に逐一取り入れなければ世界に取り残されると痛感したのでした。

明治六年の政変

こうして一年半もの長旅を終えて日本に帰国した岩倉具視一行。

ヨーロッパでの技術に圧倒されたのを知っていた岩倉具視は直ちに内政の充実を政府に訴えかけます。

しかし、外国に行かなかった西郷隆盛や板垣退助などは鎖国体制を続けている朝鮮に対して出兵するべきであり、内政は後回しにすべきという考えを持っていました。

岩倉具視は大久保利通とともに内政の充実を先に行うべきだと主張し、太政大臣であった三条実美に対して主張を認めるように願い出ますが、そんな最中三条実美が心臓病に倒れてしまいます。

岩倉具視は当時外務卿兼右大臣となっており、左大臣はおらず実質的なナンバー2でした。

三条実美が倒れたことによって代理となった岩倉具視は西郷隆盛の意見を退け内政の充実を決定。

岩倉具視はこの決断を不服とした士族たちによって襲撃される事件に巻き込まれてしまい怪我を負ってしまいますが、この決断があったからこそ日本の近代化は直ちに行われることになったのでした。

1876年 – 51歳「華族会館の館長となる」

華族制度の確立

岩倉具視が日本の近代化の次に行ったのが公家の整理でした。

日本は明治時代に入ると公家は華族として特権が認められるようになりましたが、岩倉具視は公家というものは天皇を補佐するためだけにあるものだとし、華族をヨーロッパのような貴族に生まれ変わらせるようにしたのです。

岩倉具視は華族会館の館長となり、華族の風紀引き締めを断行。

華族としての行いがなっていない家は直ちに罰することとなり、華族たちの資金も国立十五銀行(華族銀行)に預けられることになりました。

立憲問題

自由民権運動が活発化していた1875年。

明治天皇は立憲政体の詔書を出し、国会を開き憲法を制定することを国民に約束することを行いました。

岩倉具視は憲法を制定することにはせっかく作った政府の構造をガラリと変えてしまう可能性があるとして猛反発。一時期政府をやめるという騒動が起こるほど憲法の制定に反対したと言われています。

しかし、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、憲法の制定に賛成であった伊藤博文が主導権を握ったり、ヨーロッパへの体験などで憲法を制定することが日本を近代化に導く近道だということを思い出した岩倉具視は憲法の制定を行うべきだと転換。

岩倉具視はドイツの憲法を手本にするべきと主張した伊藤博文の意見を取り入れて憲法の制定を行い始め、伊藤はヨーロッパへ向かいました。

1883年 – 59歳「岩倉具視死去」

天皇の見舞いの翌日に死去

日本の近代化がどんどんなされていき、憲法の制定も間近に迫ってきている中、岩倉具視は政府での激務に倒れてしまいました。

岩倉具視は咽頭がんを患っていることを東京大学の医学部の教授であったエルヴィン・ベルツから宣告され、治療は不可能だといわれてしまいます。

それでも岩倉具視は最後の力を振り絞り公家や朝廷の遺産である京都御所の整備を行い保存を行います。

しかし、病状は徐々に悪化していき明治天皇自ら見舞いを行いましたが、その翌日である1883年7月20日に亡くなりました。

日本初の国葬に

下級公家から日本を動かす存在となった岩倉具視。

この訃報は政府の重鎮にも重く受け止められ、7月25日に国葬が営まれることになりました。

日本において国葬が執り行われたのはこの時が初めて。岩倉具視がいかに日本に影響を与えた人物だったということが伺えます。

その後岩倉具視が亡くなってから7年後に最後の課題であった大日本帝国憲法が施行。

日本はこうして岩倉具視が思い描いていた立派な国家へと成長を遂げることになったのです。

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岩倉具視 (幕末維新の個性)

この本は岩倉を謀略の宰相というだけではなく、幕末から明治時代初期のその交渉力と調整能力を高く評価している評価している本です。

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言葉の皮を剥きながら 岩倉具視

岩倉具視が主役となっている小説が読みたいのであればおすすめなのがこの本。

著者であるNHKの大河ドラマの原作者として活躍した永井路子さん。

岩倉具視がいかにして下級公家に生まれクーデターの画策などで何度も追放されながら、いかに権力の中枢にのし上がったのか。とても内容が濃く面白いので一度手に取ってみたらいかがでしょうか?

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この動画は岩倉具視のゆかりの地や遺髪が納められている碑石などを紹介しています。京都旅行の時に是非とも使ってみてはいかがでしょうか?

関連外部リンク

岩倉具視についてのまとめ

幕末〜明治をかけて日本のことを思い奔走し続けた岩倉具視。

岩倉具視の柔軟な考え方や決断力があったからこそ日本の近代化がスムーズに進められていき、日本の富国強兵や憲法制定などが成し遂げられていくようになります。

ドラマなどではよくいいイメージでは書かれることがありませんが、これを機に岩倉具視の新しい一面に触れてもらえると嬉しいです。

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