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【閲覧注意】エリザベート・バートリとはどんな人?血の伯爵夫人の生涯年表まとめ

エリザベート・バートリは、16世紀から17世紀の初めに生きた、ハンガリー王国の貴族の女性です。日本ではさほど有名な人物ではありませんでしたが、近年、歴史や神話を多く扱っているゲーム作品『Fateシリーズ』にキャラクターとして登場したことで、作品のファン層を中心に名を知られるようになりました。

エリザベートが歴史上に名を刻むきっかけとなったのは、そのあまりにも惨たらしい生涯によるところが大きくなっています。「アイアン・メイデン(鉄の処女)の開発者」と聞けば、ゲームや漫画、あるいはサスペンス好きの方なら、その生涯について、なんとなく想像できるかもしれません。

エリザベート・バートリ

前述のアイアンメイデンの逸話が特に有名なエリザベートですが、彼女の行った所業の惨たらしさは、それだけにとどまらず、現在にも歴史書によって多くの記録が残されています。

その内容はあまりに凄惨なものなので、このトピックで書くことは差し控えさせていただきますが、イギリスの連続殺人鬼・ジャック・ザ・リッパー、童話『青髭』のモデルとなったフランスの元帥・ジル・ド・レ、ワラキア公国の「串刺し公」・ヴラド・ツェペシュらと並び、残酷さによって歴史に名を刻まれるあたりに、その生涯の凄惨さは想像していただけるかと思います。

本記事では、そんな血に塗れた凄惨な生涯を送った殺人鬼、エリザベート・バートリの生涯について、追って行きたいと思います。

前述の『Fateシリーズ』からエリザベート・バートリという人物を知り、史実の彼女の所業にドン引きしつつも強い衝撃を受けた筆者が、この記事を担当させていただきます。長い記事になりますが、お付き合いいただけると幸いです。

※扱う人物の性質上、文中にショッキングな表現が含まれる可能性があります!!ご注意ください!!

エリザベート・バートリの来歴は?

名前エリザベート・バートリ
別称バートリ・エルジェーベト、エリザベス・バソリー
誕生日1560年8月7日
生地トランシルヴァニア公国サボルチ県
ニールバートル群
ニールバートル村
没日1614年8月21日(享年:54歳)
没地ハンガリー王国ニトラ県
ヴァーグーイヘイ群
チェイテ村
(現在のスロバキア共和国)
配偶者ナーダシュディ・フェレンツ2世
埋葬場所不明

エリザベート・バートリの生まれは?

ポーランド王だったステファン・バートリ

前述した通り、エリザベートはトランシルヴァニア公国の貴族の家系、バートリ家に生まれました。バートリ家は、偉大なポーランド王として名が知られるステファン・バートリの家系であり、エリザベートの従兄弟がトランシルヴァニア公や、ハンガリー王国の宰相を務めているなど、政治分野に優秀な人材を多く輩出する、有力な貴族の家系として知られていました。

エリザベートは、前述の偉大なポーランド王・ステファンの姪にあたり、母国語だけでなくラテン語やギリシャ語の読み書きにも優れ、夫であるフェレンツ2世が領地を留守にしている際は、自分から率先して領地の経営を行う。また、外国へ留学を希望する学生たちの援助を積極的に行うなど、教養豊かで教育熱心な女性であったというエピソードが残されています。

しかしその優秀さの一方、バートリ家の者たちは、そのエキセントリックな性格でも有名でした。一説では、エリザベートの叔父は悪魔崇拝に取り憑かれていた、エリザベートの兄弟は色情狂だったとも囁かれています。そのような性質の人物がバートリ家に多発した理由については、バートリ家がその血筋の優秀さや、その莫大な財産を維持するために、近親婚や血縁婚を繰り返していたからだとされています。

そんな、紛れもなく優秀でありながらエキセントリックな家系に生まれたエリザベート。家系に根差したその性格は、エリザベートについても例外ではなかったようで、彼女もまた、感情の起伏が極端に激しく、エキセントリックな性格を有していたと言われています。

紛れもなく優秀で、教養豊かな貴婦人の性質を持ちながら、バートリ家特有のエキセントリックさも持ち合わせてしまったエリザベート。

そんな彼女の人生は、夫との出会いによって、後の破滅へと突き進んでいくこととなるのです。

エリザベート・バートリの夫や子供は?

ナーダシュディ・フェレンツ2世

エリザベートの夫となったのは、ハンガリー王国の貴族である、ナーダシュディ・フェレンツ2世でした。結婚当時、エリザベートは15歳、フェレンツ2世は20歳でした。フェレンツ2世の父親は、ハンガリー王国の副王を務めた人物でしたが、家系としてはバートリ家の方が上の身分に当たったため、エリザベートは結婚後も、実家の姓である「バートリ」を名乗り続けたとされています。

フェレンツ2世は、ハンガリー王国軍の指揮官としてオスマン戦争で多大な戦果を挙げ、英雄として名を上げた人物でしたが、同時にその残虐な気質でも有名でした。

そんなエリザベートとフェレンツ2世の夫婦仲は、意外というべきか、気質が似ているから当然というべきか良かったらしく、フェレンツ2世は、彼女の浪費癖や、彼女が男女を問わず複数の愛人を抱えることも寛容に許し、彼女が残虐な行為に耽っていたことについても、そのことで彼女を咎めることはなかったそうです。また、エリザベートの残虐な趣味については、フェレンツ2世によって教えられたものであるとも言われています。

また、エリザベートとフェレンツ2世は、遠縁ではありますが親戚として血縁関係があったらしく、彼女らの婚姻もまた、バートリ家の慣習に基づく血縁婚であったことがわかっています。

エリザベートとフェレンツ2世は、3男3女の子供を設けており、長女であるアンナは、クロアチアの政治的指導者である二コラ6世・ズリンスキ伯爵に嫁ぎ、二女のカタリンは、ホモンナイ=ドルゲド・ジョルジ(日本語で記載された資料がなく、名前以外不明です!申し訳ありません)に嫁いでいます。また、エリザベートの死後、彼女が統治していた領地は子供たちに相続されたようですが、アンナとカタリン以外の子供たちが、その後にどのような人生を歩んだかは、歴史書にはほとんど記載が残っていません。

エリザベート・バートリの残虐行為の理由とは?

女性たち、とりわけ少女に対しての、口にするのもためらわれる残虐な行為の数々によって、歴史にその名を残したエリザベートですが、その行為の発端となったのは、現在の私たちにも通じる、ある欲求であったと言われています。

その欲求というのは、端的に言うと「美しくなりたい」という欲求。

一見すると残虐な行いとは結び付かない欲求ですが、その欲求と残虐行為が結びついてしまったのは、エリザベートが粗相を働いた侍女を折檻した際の出来事が始まりであると言われています。

折檻された侍女の血が、偶然にもエリザベートの手の甲に付いてしまい、それをふき取ったところ、そのふき取った肌が、とても美しくなったようにエリザベートの目には見えたのだそうです。もちろん科学的な根拠などない話ではありますが、その肌を見たエリザベートはこう思いました。

処女の血を浴びることができれば、私は美しくなれる

飛躍した考えですが、その考えに取り憑かれてしまったエリザベートは、侍女たちに対する残虐行為をエスカレートさせていきます。後に侍女がいなくなると、今度は領地から若い女性を連れてきて。それすらもいなくなれば、今度は自身と同じ貴族の娘にすら手を付け始めたと言われています。

一般的な感性からすると理解しがたい、変態的で残虐な行為をはたらいた殺人鬼、エリザベート。しかし彼女がそんな行為に走った理由は、今の我々も多かれ少なかれ抱く、「美しくなりたい」という欲求が原因だったのです。

エリザベート・バートリとアイアン・メイデンの関係は?

※少々惨たらしい描写が含まれます。苦手な方は読み飛ばしていただけると幸いです。

エリザベートと言えば、多少彼女について聞きかじっている方であれば「アイアン・メイデン(鉄の処女)」をセットで思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

アイアン・メイデン

上記の画像を見ても分かる通り、聖母マリア像を模ったその拷問・処刑器具は、見た目にもインパクトの強い代物です。内部に人を閉じ込め、扉の後ろに張り付けた棘でめった刺しにするという、想像だけでも痛々しい拷問器具ですが、現在でも多くの漫画やゲームで取り上げられ、拷問具の代表のように扱われることもあります。

そして、そんな悪名高い「アイアン・メイデン」を作り上げたのは、一説によるとエリザベートであると言われているのです。

エリザベートが「処女の血」に関して、異常なほどの渇望を持っていたことは前のトピックをお読みいただければ察していただけると思いますが、そんなエリザベートが「効率的」に、処女の血を集めるために考案した拷問・処刑器具こそが、アイアン・メイデンであるとされているのです。

アイアン・メイデンを作らせたエリザベートは、天井に吊るしたそれの下に浴槽を置き、そこから滴ってくる生き血に入浴したという話も残っています。一説では、「大量虐殺」を意味する英語「bloodbath」の語源は、エリザベートが行ったこの行為であるとも言われています。単語を分解すると「blood=血の」「bath=浴槽」となるため、そうあり得ない説ではありません。

もっとも、「ブラッドバスを作るためにアイアン・メイデンを用いたかどうか」については諸説が存在しています。しかし、「血で満たした浴槽に入浴した」というのは、史実としての信ぴょう性があることらしく、エリザベートの異常な行動と、その美意識の異様な高さをうかがい知ることができます。

エリザベート・バートリと「女吸血鬼・カーミラ」の関係は?

カーミラのモデル説があるエリザベート・バートリ

エリザベート・バートリと言うと、アイアン・メイデンのほかには、「女吸血鬼・カーミラ」とセットで語られることも多いです。実際、日本でエリザベートの名を広めるきっかけとなった『Fateシリーズ』では、「エリザベート(作中では10代中頃の少女として登場します)の成長した姿が、女吸血鬼カーミラである」という解釈がとられています。

カーミラとは、アイルランドの作家である」ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュが1872年に発表したホラー小説『カーミラ』に登場する女吸血鬼の事です。作品としての『カーミラ』は、現在の我々が抱く吸血鬼の代表、「ドラキュラ」に多大な影響を与えており、「貴族的」「整った顔立ち」「棺桶で睡眠をとる」などの要素は、この作品によって作られています。ある意味で、我々が抱く吸血鬼像の元祖とも言えるかもしれません。

そんなカーミラとエリザベートの関係性ですが、実は公式的に「関係がある」「モチーフにした」等と述べられたことはありません。カーミラとエリザベートに関係性があるというのは、あくまでもエリザベートの行った残虐な行為、とりわけ「処女の血を飲んだ」「処女の血で満たした浴槽に入浴した」などの逸話が、「吸血鬼にふさわしい」と後世に評価されたからにすぎません。

しかし、エリザベートの所業が吸血鬼にふさわしいというのはその通りですし、『カーミラ』の後に発表される、ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』が、実在の人物であるヴラド・ツェペシュをモチーフにしていることも考えると、「エリザベート=カーミラのモデル」という説にも、さほどの不思議はないように思えます。

エリザベート・バートリの残虐行為は?

※このトピックには、残酷で惨たらしい表現が数多く含まれます。苦手な方、あるいはそのような表現に耐性の無い方は、このトピックを読み飛ばしてください。

前述のアイアン・メイデンの逸話など、その残虐さで歴史に名を刻まれた彼女ですが、その残虐行為は夫であるフェレンツ2世の死後になると、より過激さを増していったと言われています。

アイアン・メイデンの逸話に関してはもとより、少女たちの指を切り落とし、その苦しむ表情を見て笑いながら性的に興奮する。使用人に命じて少女たちの皮膚を剥ぐ。少女たちの膣や内臓を取り出して眺めるなど、記録に残る残虐行為は、文章として読むだけでも気分が悪くなるようなものがほとんどです。

残虐行為に性的に興奮するエリザベートの寝台の周りには、流れ落ちた血を吸わせるための灰が常に撒かれていたとされており、また、彼女は体調が悪くなると、手近な少女たちの顔や乳房に噛みつき、その肉を食べていたとも言われています。

その被害者の数は、後にエリザベートの裁判で認定されただけでも80人。それだけでも規格外に多い人数ですが、裁判当時のハンガリー王に宛てられた手紙では300人とされているほか、エリザベート本人の記録によると、なんと650人にものぼるそう。随分と数に開きがあるように見えますが、当時の裁判において、農民や侍女などの平民階級の人々の命が重要視されていなかったことを考えると……。

これらの残虐行為の被害者の死体は、エリザベートの居城であったチェイテ城のあちこちに埋められていたそうです。チェイテ城は現在は取り壊されていますが、現在も跡地が残っています。ただし、当時はハンガリー王国領でしたが、現在ではスロバキア領となっているため、訪れる際には国を間違えないよう、注意が必要になっています。

また、この場合は当然と言うべきですが、チェイテ城は心霊スポットとしても有名になっている場所のため、軽はずみに観光気分で近づくべき場所ではないかもしれません。訪れる際にはくれぐれも自己責任でお願いいたします。

エリザベート・バートリの最期は?

幽閉されたエリザベートの最期とは

数多くの少女たちをその毒牙にかけながら、バートリ家という名門の庇護によってその罪を長らく裁かれずにいたエリザベート。その凶行は約6年にもわたって続けられていましたが、その行いにも、ついに裁きが下る日がやってきます。

最初は自身に仕える侍女、次に自身が治める民たち、そして最後には貴族の女性たちまで手にかけたエリザベートですが、貴族の女性を手にかけたことによって、いよいよエリザベートの凶行はハンガリー王家の中でも重く見られる事態となります。

それに追い打ちをかけるように、1610年にはエリザベートに監禁されていた少女が脱走。いよいよチェイテ城に捜査の手が入ることになり、エリザベートとその侍女、従僕たちは、揃って裁判にかけられることとなります。

裁判において、エリザベートの従僕や侍女たちは、拷問の末に残虐行為について自白。エリザベート自身は一切の殺人についてを否認していたようですが、彼女によって、80人の殺人が行われたことが認定されました(ただし前述のとおり、実際の被害者数はもっと多かっただろうことがわかっています)。

そうして彼女の残虐行為は暴かれ、彼女に協力したとされる従僕は斬首刑に、侍女は火刑に処されました。本来であればエリザベートも死刑に処されるところでしたが、有力な貴族の家系であった彼女は死刑を免れ、漆喰によって窓や扉を塞いだ、真っ暗なチェイテ城の寝室へと生涯幽閉されることが決まりました。

彼女が幽閉されてから、チェイテ城の屋上には絞首台が置かれ、「エリザベートが本来であれば死刑が相応の罪人である」ことを広く知らしめていたとも伝えられています。

エリザベートが幽閉された、漆喰でふさがれた寝室は、何の光も差し込まない暗闇の部屋であり、外の世界とのつながりは、粗末な食事が1日に1回だけ差し入れられる小窓のみだったとされています。しかしそんな環境の中でも、エリザベートは約3年半もの間生き続けていたそうです。

そして、1614年の8月。彼女の食事が減っていないことや、部屋や残った食事から漂う悪臭に気付いた見張りの兵士が室内を確認したことで、エリザベートの死が確認されました。享年は54歳でした。

「美しくなりたい」という欲求に取り憑かれ、あまたの残虐行為を行った殺人鬼の末路は、皮肉なことに、光の当たらない部屋の中で誰にも看取られずに死ぬという、あまりにも無残で惨めなものだったのです。

エリザベート・バートリにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1 カーミラとドラキュラ?串刺し公ヴラド・ツェペシュとの関係性

エリザベートが「女吸血鬼・カーミラ」のモデルとなったという俗説については、先のトピックで書いた通りですが、エリザベートには、彼女と同じく吸血鬼のモデルとなった人物である、「串刺し公」ヴラド・ツェペシュと血縁があったという噂も存在しています。

結論から先に書かせていただくと、ヴラドとエリザベートの間に血縁関係があったという説は、あくまで俗説・噂の領域を出ないものとなっています。ヴラドがかつて治めていたワラキア公国と、エリザベートの生家であるバートリ家に関係性があったことや、互いに後の世で、吸血鬼のモデルにされたと言う事が接点となって、このような説が生まれたのでしょう。

しかし、万が一本当にエリザベートとヴラドに血縁があったのだとすると、その家系からは「二人の吸血鬼」が輩出されたと言う事になります。けっして賞賛できることではありませんが、そのように考えてみるのも、創作などの観点で見ると少し面白いかもしれません。

都市伝説・武勇伝2 ロシアのエリザベート!?ダリヤ・ニコラエヴナ・サルトゥイコヴァ

あまりにも凄惨な残虐行為が記録に残るエリザベートですが、実は彼女の死後、その120年ほど後のロシア帝国には、あまりにも彼女と酷似した女性殺人鬼が登場しています。

ダリヤ・ニコラエヴナ・サルトゥイコヴァ

殺人鬼の名前は、ダリヤ・ニコラエヴナ・サルトゥイコヴァ。26歳の若さで夫を失い、継承した夫の領地で、多くの少女を拷問にかけて殺害したシリアルキラーです。

ダリヤとエリザベートは、その凄惨で残虐な行いだけでなく、末路までとても似ています。ダリヤもエリザベート同様、自らのコネクションだけでは罪を隠しきることができなくなり、そうしてかけられた裁判では死刑ではなく無期刑を求刑されています。

しかし、ダリヤの場合は「美しさへの欲求」が根底にあったのではなく、残虐行為の理由は、単に彼女が常軌を逸したサディストであったこと。死刑に処されなかったのも、単にロシア帝国で死刑が廃止されていたことに由来するなど、細かい点でエリザベートと異なっています。

しかし、漆喰でふさがれた寝室で生涯を終えたエリザベート同様、ダリヤも修道院の地下室での無期刑に処され、そこでその一生を終えているなど、やはりその末路に至るまでの類似点は、数多く見受けられます。

エリザベート・バートリの略歴年表

1560年
バートリ家にその生を受ける
エリザベートは、名門貴族の家系であるバートリ家にその生を受けました。優秀ながら奇人の多いバートリ家に違わず、彼女もまた感情の起伏の激しい、エキセントリックな性格の持ち主だったと言われています。
1575年
ハンガリー王国の貴族、ナーダシュディ・フェレンツ2世と結婚
ハンガリー軍の指揮官を務める、ナーダシュディ・フェレンツ2世と結婚します。互いに残虐な性質の持ち主ではありましたが、夫婦仲は良かったようです。

また、戦争によって留守がちなフェレンツ2世に代わり、エリザベートがその所領の管理をしていたという記録も残され、エリザベートが単に残酷なだけの人物ではなく、貴族として優秀な能力を持っていたことを示す資料にもなっています。

1604年
夫・フェレンツ2世の死と、チェイテ城への転居
この年に、夫であるフェレンツ2世が死去。エリザベートは後の悲劇の舞台となる、チェイテ城へと居を移します。そしてこの頃より、エリザベートの残虐な趣味は一層過激さを増し、以降6年ほどの間、彼女は自らの「美」のために、多くの少女たちを手にかけることになるのです
1610年
凶行の終わり
この年に、エリザベートに捕らえられていた一人の少女が、命からがらチェイテ城より脱走。この時期、エリザベートが貴族の娘にまでその毒牙を伸ばしていたこともあり、これまでバートリ家を恐れて見て見ぬふりをしていた役人たちも、ようやく重い腰を上げます。

これによって、6年にもわたった凶行には終止符が打たれ、捕らえられたエリザベートは、翌年の初めに裁判にかけられることとなるのです。

1611年
裁判と幽閉
裁判にかけられたエリザベートは、自身の罪に関しては否認しますが、エリザベートの従僕や侍女たちが、拷問の末に多くの殺人への関与を自白。

エリザベートは、バートリ家の庇護によって死刑は免れますが、扉と窓を塞いだ、真っ暗なチェイテ城の寝室に、生涯幽閉されることが決まります。

1614年
惨めな死
8月21日。食事が減っていないことや、漂う悪臭を不審に思った見張りの兵士によって、エリザベートの死が確認されました。享年は54歳。残虐な行為に手を染めてまで美を求めた彼女にとっては、あまりにも皮肉で、あまりにも無残な死でした。

エリザベート・バートリの具体年表

1560年 – 0歳「名門貴族・バートリ家に生を受ける」

エリザベート・バートリの誕生

1560年8月7日。トランシルヴァニア公国の名門貴族であるバートリ家に、エリザベートは生を受けました。父はエチェディ=バートリ・ジェルジ、母はショムヨーイ=バートリ・アンナです。

エリザベートの叔父には、現在も語り継がれている偉大なポーランド王であるステファン・バートリがおり、彼女の従兄弟たちも、トランシルヴァニア公やハンガリー王国の宰相を務めるなど、まさに「名門中の名門貴族」とも言うべき家系が、エリザベートの生家であるバートリ家でした。

バートリ家の闇

政治に高い能力を示し、統治者としては間違いなく一流の家系であったバートリ家でしたが、その一方で「奇人が多く生まれる」という一面も持っていました。

それは単純な偶然によるものではなく、バートリ家がその優秀な血筋や財産を残すために、近親婚や親族婚を繰り返してきたことによる弊害だったと言われています。

実際、エリザベートに近しい親族の中には、悪魔崇拝者であると噂され、謎の発狂死を遂げたと言われる叔父や、色情狂であると噂された兄弟など、バートリ家の闇の部分を受け継いでいると思われる人物が散見されます。

感情の起伏が激しい性格だった

エリザベートもまた、バートリ家特有のエキセントリックな性格を受け継いでしまっていたらしく、幼い頃の彼女は、よく癇癪を起こすなど、感情の起伏が異常に激しい子供だったと言われています。また、無邪気な残酷さを持った子供でもあったようで、後に「血の伯爵夫人」として恐れられる片鱗は、この頃から確かに彼女に宿っていたと言えそうです。

1575年 – 15歳「ハンガリー王国の貴族、ナーダシュディ・フェレンツ2世と結婚」

ナーダシュディ・フェレンツ2世と結婚。ハンガリー王国の貴族の妻に

この年、エリザベートはハンガリー王国軍の指揮官である、ナーダシュディ・フェレンツ2世と結婚。ハンガリー王国の貴族となります。

フェレンツ2世の家系は、彼の父がハンガリー王国の副王を務めるなど、それなりに位の高い家系でしたが、それでもバートリ家の方が家格が高かったため、エリザベートは結婚後も、実家の姓である「バートリ」の名前を名乗り続けています。

フェレンツ2世は、オスマン戦争において多くの要地を攻め落とすことに成功するなど、若いながら優秀な指揮官でした。しかし、気に入らないことがあるとすぐに癇癪を起こし、失態を犯した部下にはすぐに鞭で懲罰を加えるなど、横暴で暴力的な人物でもあったようです。敵対者に対しては特に厳しく、残虐な処刑方法を好んだことから、「黒騎士」というあだ名もつけられています。

また、エリザベートとフェレンツ2世は、かなり遠い縁ではありますが血がつながっていたことが明らかになっており、二人の結婚もまた、バートリ家の闇のしきたりに則ったものであったと言えそうです。

残虐夫婦の夫婦生活(光)

夫婦の光

残虐な軍指揮官のフェレンツ2世と、まだ開花しきっていないとはいえ、後の残酷さの片鱗を見せているエリザベート。そんな彼らの夫婦生活は、さぞ荒れただろうと思う方もいらっしゃると思いますが、意外なことに夫婦仲は悪くないものだったと伝わっています。

エリザベートが嫁いだころ、ハンガリー王国はオスマン帝国との戦争中。軍の指揮官であるフェレンツ2世も、当然領地を空けることが多くなります。

エリザベートはそんな中、夫の代わりに領主代行として活躍。元来政治に長けた家系の生まれであり、母国語のみならずラテン語やギリシャ語の読み書きまで行えるエリザベートは、女性の身でありながら立派に領地の管理をしていたと記録されています。

またエリザベートは、領地に住まう学生に対して、留学援助事業を行っていたことが記録されており、そのあたりの記録からは、ただの残虐な殺人鬼ではなく、エリザベートの優秀な統治者としての一面を見ることが出来ます。

また、フェレンツ2世とエリザベートの間には、3男3女の子供が設けられています。長女であるアンナと二女のカタリンに関しては、家を出た後の記録が残っていますが、他の4人に関しての記録はほとんど残っていません。

エリザベートの死後、「エリザベートの子供たちは、その領地の継承を許された」という記載があるため、少なくともエリザベートの死後に至るまで、4人のうちの誰かは生存していたことがわかりますが、それ以上の記録は残っていないようです。

残虐夫婦の夫婦生活(闇)

夫婦の闇

戦争で忙しい夫の代わりに領地の経営を行うなど、優秀な一面も見せるエリザベートでしたが、やはり後の殺人鬼である部分は、このあたりでも色濃く見せています。一説では、晩年のエリザベートの凶行は、フェレンツ2世の影響によるものであるとも言われているのです。

また、エリザベートはフェレンツ2世が領地を留守にしている間、浪費と不倫に耽っていたとも言われています。不倫の相手は男性だけでなく、女性も数多く含まれており、エリザベートがレズビアン、もしくはバイセクシャルだったという説の根拠ともなっています。

また、この頃からエリザベートには、暴力的な側面や異様なほどへの美への執着が顕在化していたようです。ささいな粗相を犯した侍女を鞭で叩黄、その血と苦痛の表情を見て興奮するなど、常軌を逸した部分が見えるようになっていた事が記録されています。しかし、侍女への折檻はフェレンツ2世によって教えられたものであるという説も存在するため、少なくともこの時期のエリザベート本人が、自身の欲求に基づいて折檻を行っていたのかは、わからなくなっています。

ともかく、徐々に常軌を逸した面を見せ始めるエリザベートでしたが、夫のフェレンツ2世は、その凶行の全てを寛容に許したと言われています。

良い夫婦仲を示すエピソードにも見えますが、フェレンツ2世の生家よりもエリザベートの生家の方が家格が高かったことを考えると、単純な夫婦仲の良さだけでは収まらない可能性も見えてきます。一説では、生家の家格の違いによって、実質的な家や領地の経営権はエリザベートが、ひいてはバートリ家が握っていたとすら囁かれているのです。

とんでも説にすぎない説ではありますが、この時期のエリザベートがわがまま放題に暮らしていたことは確かな記録として残っています。

1604年 – 44歳「フェレンツ2世の死と、チェイテ城への転居」

夫・フェレンツ2世の死

この年、エリザベートは夫であるフェレンツ2世を失います。フェレンツ2世の享年は49歳。その死についての記録は残っておらず、死因についてはわかっていません。

また、夫の死に際してエリザベートが何を考えたのかについても、資料は全くと言っていいほど残っておらず、エリザベートとフェレンツ2世の夫婦仲がどのようなものだったのか、本当のところを知ることを難しくする一因となっています。

チェイテ城への転居

フェレンツ2世の死後、エリザベートは夫から与えられていた自身の居城・チェイテ城へとその居住地を移します。

転居の理由についても資料は残っておらず、わかっていません。通説である「エリザベートとフェレンツ2世の夫婦仲は良かった」という説から考えると、「夫との思い出の地に留まって、悲しみに暮れていることを嫌がったから」だと見られなくもありませんが、結局その真相は、エリザベート本人しか知りえません。

悲劇の始まり

悲劇の始まり

チェイテ城へと転居した頃、エリザベートは既に44歳。現代であっても、そろそろ様々な部分に衰えが見え隠れし始める時期です。

しかし、自らの美しさに執着するエリザベートは、そのように衰えていく自分が許せなかったのでしょう。この頃のエリザベートの美への執着は、若い頃の比ではなかったと伝わっています。

そしてそんな折、粗相をした侍女を折檻していたエリザベートは、その血を手の甲に受けてしまいます。そしてその血こそが、後の悲劇の始まりであり、エリザベートの殺人鬼としての目覚めでした。その血を受けた手の甲が、エリザベートには若々しい輝きを取り戻したように見えたのです。

「処女の血を浴びれば、私は美しさを保つことができる」

現在の基準からすると、あり得ない程に飛躍しきった考え方ですが、エリザベートにはそれが真実であるように見えたのでしょう。余談ですが、当時のヨーロッパでは入浴の習慣がなかったため、血の付いた場所をふき取ったことで、血と一緒に垢が落ち、たまたまその部分の肌が綺麗になって見えたのだろうと思われます。

以降6年間、チェイテ城はエリザベートの美を保つための拷問場として、多くの惨たらしい行為の舞台となります。その犠牲者となったのは、まだ年若い少女たちであり、その6年間が終わるころには、チェイテ城の近辺に”生きた”少女はいなくなっていたと伝えられています。

チェイテ村に駐在するルター派の牧師は、その事態を重く見て、たびたび役人に対して直訴を繰り返していましたが、当の役人たちはエリザベートの犯行を察しつつも、バートリ家の権勢を恐れてだんまりを決め込んでしまっていたようです。

エリザベートに裁きが下るのは6年後。その間に殺害された少女たちの数は、エリザベート本人が付けていた記録によると、なんと650人にも及んでいます。

1610年 – 50歳「悲劇の終わり」

ハンガリー王家で、エリザベートの所業が噂に

約6年にもわたり少女たちを拷問し、自らの美の糧として食いつぶしてきたエリザベート。

この頃になると、エリザベートの侍女にも、チェイテ村にも若い少女はいなくなってしまい、エリザベートは今度は貴族の娘に手を付け始めます。

しかし、これが命取りになりました。当時の価値観として「平民は貴族の所有物である」という価値観は一般的でした。これはつまり、身も蓋もなく言ってしまうと「エリザベートが平民の娘たちを殺すのは、現在の我々が、自分の持っている割り箸をへし折るのと同じこと」ということです。平民がどれだけ殺されようと、それは貴族の間では黙認されることだったのです。

しかし、貴族の娘に手を出すことに関しては、それとはわけが違いました。いかにバートリ家の家格が高いとは言っても、同じ身分である貴族、つまりは”人間”を殺しているエリザベートの所業は、ハンガリー王国を治めるハプスブルク家の中でも噂となっていきました。

そして、そんなエリザベートに追い打ちをかけるように、ある決定的な事件が起こります。

チェイテ城からの脱出者

決定打となった少女の脱出

王家の中でも、エリザベートの所業が噂となっていた頃。その噂を確定させるように、エリザベートの元から一人の少女が脱出します。

この少女の証言が決定打となり、バートリ家を恐れていた役人たちも、いよいよチェイテ城の捜査を開始。城の中からは多くの惨たらしい死体と、数人ほどの衰弱しきった少女たちが発見されたそうです。また、チェイテ城の庭からは、多くの死体が掘り返されたことも記録に残っています。

こうして犯行を暴かれたエリザベートは、侍女や従僕たちと共に裁判にかけられることに。

余談ですが、チェイテ城の捜査の指揮とエリザベートの裁判を担当したのは、エリザベートの娘・アンナの夫の従兄であり、ハンガリー王国の副王でもある、トゥルゾー・ジュルジ伯爵であったそうです。

1611年 – 51歳「裁判と収監」

裁判、そして収監

裁判にかけられたエリザベート

裁判にかけられたエリザベートは、自身にかけられた容疑の全てについて否認していたようです。

しかし、エリザベートに協力していたとされる従僕や侍女たちが、拷問の末に罪を自白。彼らが多くの残虐行為を認めたことで、エリザベートもまた裁かれることになりました。

裁判の結果として、エリザベートの協力者と目された従僕1名が斬首。侍女2名が火刑に処されました。エリザベートも本来であれば、侍女たちと同様に火刑に処されるところでしたが、生家であるバートリ家の庇護によって、死刑は免れました。

死刑を免れたエリザベートに下されたのは、「漆喰で窓と扉を塞いだ、チェイテ城内の自身の寝室への幽閉」という罰。一見すると現在で言う無期懲役のように見えますが、「光も、外とのつながりも絶たれた部屋に生涯幽閉される」と考えると、ある意味死刑よりも恐ろしい罰かもしれません。

エリザベートが幽閉された後、チェイテ城の屋上には絞首台が置かれ、エリザベートが本来であれば死刑に処されるべき罪人であることを、広く知らしめていたことも伝わっています。

幽閉されたエリザベートが外の世界と関われるのは、1日に1回、小窓から差し入れられる粗末な食事のみ。常人であれば1年も持たずに発狂するだろうその空間の中で、エリザベートは約3年と半年にわたって生き続けたとも伝えられています。

1614年 – 54歳「「血の伯爵夫人」、その惨めな死」

8月24日、その死が確認される

エリザベートの死

1614年8月24日。エリザベートが寝室に幽閉されてから、約3年と半年が経過した頃。扉を見張る兵士は、ある異変に気が付きます。

部屋からの異臭。そして、差し入れた料理が減っていない。

そのことを不審に思った兵士が、扉につけられた小窓から部屋の中をのぞいたことで、エリザベートの死が確認されました。享年は54歳。あまたの少女たちを手にかけてまで、自らの美しさに執着した殺人鬼の最期は、誰に看取られることもなく、真っ暗な寝室の中で孤独に事切れるという、あまりにも惨めで、美に執着した彼女にとって皮肉極まりない最期でした。

彼女の死後、その所領は子供たちが継承することを許されていますが、エリザベートの子供たちがその後どうなったのかについては、長女と次女以外は記録が残っておらず、不明となっています。

エリザベート・バートリの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

血の伯爵夫人 (1) (文学の冒険シリーズ)

エリザベートの生涯を追った小説作品です。1998年出版のため、若干描写や翻訳が古臭く感じるところはありますが、「エリザベート・バートリ」という美に執着した殺人鬼の生涯を追うのに、これ以上の作品はないかと思います。

描写が若干グロテスクなため、苦手な方はご注意ください。

Fate/EXTRA CCC VOID LOG:BLOOM ECHO 1 フェイト/エクストラ CCC シナリオ集 (TYPE-MOON BOOKS) Kindle版

筆者がエリザベートに興味を持った作品のシナリオをまとめた書籍です。ゲームをプレイした方が面白いとは思うのですが、必要なゲーム機がPSPと若干古いことや、ゲーム自体の難易度が高く、苦手な方にはプレイするのが厳しいため、こちらのシナリオ集を紹介いたします。

「エリザベート・バートリ」という史実の殺人鬼を現代的、ゲーム的にアレンジし、日本で一躍人気キャラへと仕立て上げた作品です。エリザベートは敵キャラとしての登場ですが、かなり出番の多いキャラクターとなっています。

一見すると「名前だけ借りているようで、ちっともエリザベートらしくない」キャラではありますが、読み進めるうちにエリザベートに関する新たな解釈などが加えられ、シナリオライターの深い知見に驚かされる作品になっています。

絵柄やキャラクター性、あるいはストーリーなど、間違いなく人を選ぶ要素の多い作品ではありますが、是非とも読む、もしくはプレイしていただきたい作品となっています。

女吸血鬼カーミラ

記事の初めの方で触れた、「エリザベートがモデルと囁かれる」作品です。

いわゆる「吸血鬼もの」の大家である『ドラキュラ』に影響を与えた作品なだけに、吸血鬼というキャラクター性はかなり秀逸に練りこまれています。エリザベートがモデルだとされるのは、その所業の惨たらしさというよりも、淫靡さが漂うカーミラの雰囲気によるものかもしれません。

展開そのものは若干駆け足で、トリックも単純ですが、古典としての面白さが詰まった作品となっています。厳密にはエリザベートとは無関係の作品ですが、是非とも妄想をはばたかせて読んでいただきたい作品です。

おすすめの動画

【ゆっくり歴史解説】黒歴史上人物「エリザベート・バートリ」

エリザベートについて、非常にわかりやすく音声付きで解説してくれています。

機械音声によるナレーションのため、少々合わない方もいるかもしれませんが、解説自体はかなり詳細で、それを5分ほどでまとめてくれているため、あまり時間をかけて見る必要もありません。

若干駆け足な点も見受けられますが、エリザベートの生涯を時間をかけずに追いたい方にお勧めの動画です。

おすすめの映画

血の伯爵夫人

そのタイトルが示す通り、エリザベートを主役に据えた映画作品です。

ホラー要素の強い作品が多いエリザベートですが、この作品は「美に執着する女性の愛」を主題として描かれており、スプラッタホラーの要素もありながら、愛に溺れる女性を描いた恋愛映画としても楽しむことができる、エリザベートを描いた作品の中では少々異色の作品となっています。

エリザベートについての新たな解釈を知ることのできる、紛れもない名作なのですが、現在Amazonでは権利の関係で購入不可となっているため、日本での視聴は少々難しいようです……。

関連外部リンク

エリザベート・バートリについてのまとめ

650人もの少女たちを、自らの欲望のために惨たらしく殺害した稀代の殺人鬼・エリザベート・バートリ。

イギリスの殺人鬼・ジャック・ザ・リッパーを筆頭に、歴史に名を残す殺人鬼というのは意外と多く存在していますが、殺害した人数だけを見ると、エリザベートはそんな殺人鬼たちの中でも、文字通り桁が違うように感じます。

この記事を読んで、史実の彼女を「好きになる」という人はあまりいないのではないかと思いますが、彼女の生涯は今の我々にとって、反面教師として覚えておくべきなのではないかな、と筆者は思います。何事もほどほどが大事です。何事も節度を持って生きなければなりませんね。

それでは、長い時間をこの記事にかけてくださり、誠にありがとうございました。この記事が皆さんにとって、何かの学びとなってくれれば光栄です。

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