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クリストファー・コロンブスの生涯・年表【航路や性格、死因、名言についても紹介】

クリストファー・コロンブスは、15世紀に活躍した探検家であり航海者です。

白人として初めてアメリカ大陸を発見し、ヨーロッパ世界とアメリカ大陸を結ぶきっかけを作った偉業は広く知られており、まさに現在の世界の礎を作った人物の一人だと言っても良いでしょう。「コロンブスの卵」として残る、彼の柔軟な発想を示すエピソードも有名です。

クリストファー・コロンブス

しかし、そんな偉業を成し遂げた人物ではあるのですが、コロンブスに対する評価は人によってまちまちとなっています。その評価の間の溝は深く、「コロンブスは偉大な人物だ!」という人もいれば「コロンブスは最悪の人物だ!」と評価する人もいるなど、ほとんど対極の評価があると言えるほどです。

そのような対極の評価が生まれる理由としては、ヨーロッパとアメリカを結びつけるという偉業を成し遂げた一方で、そのアメリカ大陸の先住民に対し、数々の略奪や強姦、虐殺を行ったためでしょう。事実、アメリカ合衆国で祝日と位置付けられている「国際コロンブスデー」では、毎年のように反対デモが起こっています。

世界史に残る偉業を成し遂げた一方で、「最低の虐殺者」とまで呼ばれ、数百年の後も忌み嫌われる蛮行をも成したクリストファー・コロンブスという人物。

この記事では、そんな対極の評価を持つクリストファー・コロンブスについて、彼の二つの側面を知り、未だに評価についての答えを出せていない筆者が執筆いたします。なるべく中立的に執筆いたしますので、よろしくお願いいたします。

クリストファー・コロンブスとはどんな人物か?

名前クリストファー・コロンブス
(別名:クリストーフォロ・コロンボ)
誕生日不明
1451年ごろという説
生地不明
イタリア・ジェノヴァ近郊という説
没日1506年5月20日
没地カスティーリャ王国・バリャドリッド
配偶者フェリパ・ペレストレリョ・エ・モイス
ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナ(内縁)
埋葬場所セビリアの修道院
→サントドミンゴの大聖堂

クリストファー・コロンブスの生まれは?

ワインやチーズ、毛織物を売る家に生まれる

クリストファー・コロンブスの生まれについては、正確なことは何もわかっていません。通説として、イタリア・ジェノヴァの近郊で、1451年8月~10月の間に生まれたとされていましたが、その裏付けとなる資料も存在していないようです。

ジェノヴァ出身だという通説によると、コロンブスは商家の生まれであり、決して裕福ではない幼少期を送っていました。父は毛織物業とワイン、チーズの販売業を営む、ドミニク・コロンボ。母はスサナ・フォンタナローサという人物だったとされています。

その一方、コロンブスの生まれには様々な異説が存在し、中でも「コロンブスはユダヤ人である」という説と、「コロンブスはポーランドの王子である」という説が、俗説としては有名です。

どちらも確たる証拠はなく、あくまでもトンデモ説の範疇を出ない説ではありますが、コロンブスの生まれが不透明である以上、完全に否定もしきれない説になっています。

クリストファー・コロンブスの海との関わりは?

10代のころから船乗り

航海者として名が知られるコロンブスは、やはり若いころから海に親しんでいたようです。

コロンブスは10代のころから、父の業務を手伝う形で船に乗船。20代前半の頃には、フランス貴族から敵対船拿捕の命を受けた船に乗船し、外国にも渡っていたようです。1475年には、ジェノヴァの貴族であるチェントリオーネ家に雇われ、乳香の取引に携わっていたことも、航海日誌によって明らかになっています。

しかし1476年には、乗り込んでいたジェノヴァ商人団の船が、敵対するフランス艦隊からの砲撃を受けて沈没するという災難にも見舞われます。コロンブスは櫂に掴まってなんとか泳いで脱出し、ポルトガルのラゴスに泳ぎ着くことで命を取り留めたとされており、コロンブスと海との関わりが、決して順風満帆なものではなかったことがわかるでしょう。

しかしその一方で、上記のコロンブスの生還エピソードは、コロンブスがフランスの私掠船(国家公認の海賊船)に乗っていた時のエピソードであるとの説も存在しています。その場合、1476年当時にコロンブスが乗っていたのもフランスの船という事になり、コロンブスは同郷であるジェノヴァの者たちから略奪を働いたという事になります。さすがに同郷の商人から略奪を働くことには良心の呵責を覚えたコロンブスが、自身の航海日誌を改ざんしたというのが、異説を唱える識者の主張です。

記録に照らすと俗説に過ぎない説ではありますが、後に語らせていただくコロンブスの人物像を見ると、そこまで無理のある説でもありません。そのため1476年のエピソードは、クリストファー・コロンブスという人物への評価が難しくなる一因ともなっています。

クリストファー・コロンブスの性格は?

出版されているコロンブスの航海日誌

コロンブスの性格については、第三者目線や友人目線での評価資料が少なく、その実像が掴みがたくなっています。

しかし、コロンブス自身が残した航海日誌や、彼の様々な行動などから考えると、コロンブスは「非凡な発想力と、粘り強い精神力を有していた」「カリスマ性はさほど高くなく、功利主義の守銭奴だった」と考えられます。

発想力や精神力については、後述する「コロンブスの卵」のエピソードや、コロンブスが成した業績から。カリスマ性や功利主義性については、コロンブスが航海中に船員から反乱を起こされかけたことや、後に年表で書かせていただく、新大陸の発見に関するスペイン女王との契約の内容などから読み取ることができるでしょう。

以上のことから考えるに、コロンブスは”偉人”と呼ばれるような超越的な性格の人物ではなく、割合現在の我々とも近しい、人間的な二面性を持った人物だったとも言えそうです。

「コロンブスの卵」とは?

引用元:Wikipedia

コロンブスのエピソードとして有名なものに、「コロンブスの卵」と呼ばれるエピソードがあります。

コロンブスの新大陸発見を祝うパーティの最中、「インドへの航路を発見したといっても、結局海を西に進んだだけだ」「そんな事は誰にでもできる」と難癖をつけてきた貴族たちに、コロンブスが「では、このゆで卵を立ててみてください」と応じたというエピソードです。

実際にやってみていただければわかるように、ゆで卵を立てるという事は凄まじく難しい事です。コロンブスから反論を受けた参加者も当然諦めてしまうのですが、コロンブスはゆで卵の底を割って、それから卵を立てるという形で「卵を立てる」という難題を解決します。

当然「そんな事は誰にでもできる」と反論が上がりますが、コロンブスは反論に対して「誰にでもできることであっても、最初にそれを行うことは知恵と勇気がいるもの」「私の航海も同じことです」と見事に反論したと伝わっています。

コロンブスの柔軟な発想力が描かれたエピソードですが、実はこのエピソードも「コロンブスのものではない」という説が存在し、現在でも議論の種となっています。

コロンブスは何故嫌われている?

大量虐殺者としての一面をもつ

アメリカ大陸とヨーロッパ世界を繋ぐという偉業を成し遂げているコロンブスですが、記事の序文で少し書かせていただいたように、現在でも広く評価が分かれる人物でもあります。

「偉大な探検家」という評価から「最低の虐殺者」「世界最古の奴隷商人」という評価まで、その評価の差はあまりにも広く、コロンブスという人物はとても一面的には判断できない人物であるといえるでしょう。

では何故、コロンブスはそこまで嫌われているのでしょうか?その評価の原因は、アメリカ大陸上陸後の彼の行いにありました。

アメリカ大陸に上陸した彼は、先住民族であるインディアンから歓迎を受け、多くの品物を受け取ります。水や食料、武器や宝物などを送ってきたインディアンに対して、コロンブスは安価なガラス玉などを返礼として渡すだけであり、挙句の果てにはその島で略奪や拉致などを行います。

また、コロンブスは初めて見たインディアン達に対して、航海日誌で「彼らは無知で愚かだ」「体は均整がとれていて、素晴らしい奴隷になる」とも書き残しており、この時にコロンブスによってスペインに連行されたインディアンもいたようです。

そうして一度本国に戻ったコロンブスは、(勘違いですが)インドへの航路を発見した功績を讃えられ、すぐに2度目の航海に出ます。そして再びアメリカ大陸に降り立った彼は、インディアン達に対して、今度は更に惨たらしい略奪と虐殺を繰り広げることになるのです。

インディアンの集落からは、黄金や宝石などの金目のものはもとより、奴隷として労働力となる男性、性奴隷となる女性は皆拉致され、老人や子供はスポーツのように虐殺されました。残った家や作物は燃やされ、村の有力者は拷問に掛けられて、別の集落や黄金の隠し場所を白状させられたと記録されています。

コロンブスの軍勢によるインディアンの犠牲者は、少なく見積もっても数千人以上に上り、彼によって持ち込まれた疫病もあって、合計の犠牲者は優に5万人を超したようです。コロンブスの軍勢が行った虐殺のモデルは「コンキスタドール(スペイン語で征服者)」と呼ばれ、後にスペインが繰り返す虐殺の方法の元祖ともなっています。コロンブスはこれらの虐殺については「我々の神が、我々に与えてくださった恩恵である」と、神を引き合いにして正当化する発言を残しています。

アメリカ大陸をヨーロッパ世界と結んだということがコロンブスの業績であることは、たしかにその通りです。しかし、コロンブスの業績の中の闇の部分を知ってしまうと、コロンブスを嫌う人々の考えも、確かに理解できる正当なものだと感じられます。

クリストファー・コロンブスの死因は?

イザベル1世

コロンブスの最期は、意外と言うべきか相応と言うべきか、惨めなものであったことが伝わっています。

前述した2度目の航海の後に、コロンブスは黒人奴隷をスペイン王室に献上します。しかしコロンブスの航海を支援していた女王・イザベルはこれを送り返し、反対にコロンブスの統治に対する調査委員を派遣する事態となります。そしてこれが、コロンブスの転落の始まりとなりました。

最初の調査委員派遣の時にこそ、コロンブスは罪に問われませんでした。しかし3度目の航海でアメリカ大陸に渡った際、その地を治めていたコロンブスの弟・バルトロメウの統治や、食糧不足などへの不満が爆発し、反乱が勃発。その責任を問われる形で今度こそ逮捕されたコロンブスは、投獄こそされませんでしたが、提督の地位を初めとする、社会的地位のほとんどを失ってしまうことになります。

提督の地位を失ったコロンブスでしたが、彼は諦めずに4度目の航海を企画。しかし王室からコロンブスに与えられたのは小型のボロ船4隻だけであり、既にスペイン王室がコロンブスを見限りかけていたことが分かります。

それでも出航したコロンブスはあえなく難破。この失敗と、コロンブスに対してかなり好意的だったイザベル女王の死が重なったこともあり、スペイン王室からコロンブスへの信頼は、もはや完全に失墜することとなりました。

そのように富も地位も名誉も、あっという間に失ったコロンブスは、4度目の航海に出た4年後、1506年5月に持病の痛風の悪化によってこの世を去ったと伝わっています。享年は、通説通りの生まれであれば54歳でした。

偉業と蛮行を同時に成し、現在でも大きく評価が分かれる人物であるコロンブス。そんな彼に対する議論が終わることは、どうやらまだ先の話になりそうです。

クリストファー・コロンブスの名言は?

0から1を創るのは、難しい。1から2を作ることは、易しい

完璧を怖れる必要はない。決してそこには到達しないから

コロンブスが開拓した航路と発見した大陸

クリストファー・コロンブスの開拓した「西廻り航路」とは?

「コロンブスはスペインから西廻り航路で航海を行い、アメリカ大陸を発見した」

教科書にも載るような、コロンブスの有名な業績です。アメリカ大陸をヨーロッパの人物として初めて発見したことも偉業ではありますが、当時として画期的だったのは、むしろ「西廻り航路」の存在でした。

引用元:https://julius-caesar1958

当時のヨーロッパにおいて、アジアに向かう航路の開拓は進んでおらず、ヨーロッパの人々がアジア由来の品物を手に入れるためには、イスラム系の商人から高額で手に入れるしかありませんでした。ヨーロッパ全体の財政難も手伝い、ヨーロッパの国全体が航路開拓に乗り出してはいましたが、最も進んでいるのはポルトガルが開拓している東廻りの航路。大西洋を横断する西廻りの航路には不確定な要素が多いとされて開拓が進んでおらず、一般的に西廻りでのアジアへの航海は「現実的なものではない」とされていました。

しかしコロンブスは、友人であるパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリとの議論や、マルコ・ポーロの『東方見聞録』から着想を得て、西廻りでの航海の現実性を主張。元々『東方見聞録』に描かれる「黄金の国・ジパング」に強い憧れを持っていたコロンブスは、西廻りでのインド航路の開拓と、ジパングの発見のために、資金やパトロン集めに奔走します。つまり、コロンブスが西廻り航路を開くことで目指していたのは、実はアメリカという新大陸の発見ではなく、アジア、とりわけインドへの新たな航路の開拓だったのです。

結果として、コロンブスが発見したのはアジアへの航路ではなく、全く別の大陸への航路だったのですが、コロンブスはその新大陸について、「ここがアジアである」と誤解していたことがわかっています。その誤解は彼の生涯を通じて解けることが無く、つまり彼は、自分が成した偉業の本質を知らないままに、この世を去っていったということになるのです。

「ヨーロッパ世界を広げる」という世界史に残る偉業を残しつつ、当初の目的を果たしたと勘違いしながら生涯を終えたコロンブス。その姿を「間が抜けている」と見るか「新航路の開拓よりもすごい偉業を成した」と見るかで、彼に対する評価は更に変わってきそうです。

クリストファー・コロンブスの発見した新大陸とは?

サンサルバドル島

コロンブスの発見した新大陸が、現在で言う「アメリカ大陸」であることは、前述したとおりです。一般常識としても広く知られる事柄のため、「コロンブス=アメリカ大陸発見」というイメージを持つ方も多いでしょう。

実際、アメリカ大陸とヨーロッパ世界を初めて繋いだ人物がコロンブスである、ということは疑いようがなく、1492年の「コロンブスの船団によるサンサルバドル島への到着」こそが、アメリカ大陸が一般的な世界史上に名を表す最初の出来事となっています。

しかしその一方、ヨーロッパでは長い間、「コロンブスはアメリカ大陸の発見者ではない」とされてきました。

というのも、ヨーロッパ世界で広く知られたドイツの地理学者、マルティン・ヴァルトゼーミュラーによる世界地図において、南米大陸の発見者が「アメリゴ・ヴェスプッチ」というイタリアの探検家にされてしまったからです。

これにより、コロンブスの発見した新大陸の名称は、アメリゴから名を取って「アメリカ大陸」に。この誤解は18世紀末ごろまで解けず、アメリカの地名にコロンブスが与えた影響は、誤解が解けて以降に呼称されるようになった「コロンビア」という通称にとどまっています。

マゼラン、バスコ・ダ・ガマとの航路の違い

引用元:https://mayuppy1123.hatenablog.com/?page=1558694280

クリストファー・コロンブスとマゼランの違いは?

マゼラン

コロンブスと似た功績を上げている人物には、マゼランが存在しています。

マゼランはポルトガル人の航海者であり、世界一周を成し遂げた「マゼラン艦隊」の名前が有名な人物です。マゼランはコロンブスが西廻り航路を開拓した後、1519年にスペインから、西廻り航路を通って出航。南米大陸南端の「マゼラン海峡」を発見し、ヨーロッパで初めて太平洋を横断した人物です。

西廻り航路を通り、大西洋を横断してから太平洋を渡ったことを考えると、マゼラン艦隊の成した世界一周という偉業の下地には、コロンブスの偉業が存在するといってもよさそうです。

後述のバスコ・ダ・ガマとの違いも合わせて、しっかり区別をつけて覚えておきたい人物となっています。

クリストファー・コロンブスとバスコ・ダ・ガマの違いは?

バスコ・ダ・ガマ

バスコ・ダ・ガマは、コロンブスやマゼランと同じ、大航海時代に生きた航海者の一人です。マゼランと同様にポルトガル人の航海者であり、コロンブスが目指していたインドに到達した航海者として有名です。

バスコ・ダ・ガマとコロンブスの出航はほとんど同時期でしたが、若干コロンブスの出航の方が早く、当時の考え方では、コロンブスの方が先にインド(実際にはアメリカ大陸)に到達したことになっていました。当時折り合いの悪かったスペインに、先に西廻り航路でインドにたどり着かれてしまったポルトガルは、アフリカ経由の航路でインドを目指すことを選択。その航路開拓船団のリーダーに任命されたのが、バスコ・ダ・ガマだった、というのが、コロンブスとガマが真逆の航路を取った理由です。

ポルトガル王室から「アフリカ経由での」インド航路開拓を任じられたガマは、アフリカの南端である喜望峰を通って東進。約10カ月の航海を経て、インドのカリカットにたどり着いたのでした。

当初の目的を果たし、ポルトガルがヨーロッパに名を轟かすきっかけとなったバスコ・ダ・ガマと、目的こそ違いましたが、ヨーロッパ世界に新たな大陸を持ち込み、世界を大きく広げたコロンブス。

成したことや航路こそ違いますが、互いに偉大な業績を成した人物であることは間違いありません。

クリストファー・コロンブスにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ほぼ綱渡り?コロンブス最初の航海」

地球平面説が信じられていた時代

コロンブスの最初の航海は、中々に波乱万丈、というよりも綱渡りの色が濃い航海であったと伝わっています。

当時の世界観として、「地球が球体である」という考えは広まりつつありましたが、旧来の「地球は平面であり、西進すると巨大な崖に落ちる」という考えも広く根付いていました。そのため、「西に進めばアジアにたどり着く」と主張するコロンブスの考えに、反感や不審を持つ部下もそれなりにいたようです。

そのような部下たちの存在や、計算よりも長期化した航海に対する不満の蓄積によって、実際にアメリカ大陸上陸直前に、船内で小規模な反乱が起こったことも記録されています。コロンブスも長期化する航海に、態度にこそ出さなかったようですが不安を覚えていたことが、航海日誌からも読み取れます。

その反乱に対してコロンブスは「流木が発見されたから、近くに陸地がある」「あと3日で陸地が見つからなければ引き返す」と説得。先見の明や観察力があるというべきか、それとも単に口が上手いくて悪運が強いというべきか……。コロンブスに対する評価は、このエピソードでもどうにも定めにくくなっています。

都市伝説・武勇伝2「『芸術家と航海者』ダ・ヴィンチとコロンブスの関わり?」

レオナルド・ダ・ヴィンチ

コロンブスと同じ時代、15世紀を代表する天才であるレオナルド・ダ・ヴィンチの日記の中に、こんな記述があります。

ジェノヴァ人の船乗りと地球について話す

先述の通り、コロンブスの出身地は、通説によればジェノヴァ。更に、地球について話す必要がある程、当時の一般常識からかけ離れた航海を企画していた人物と言えば……。

そのような観点から、ダ・ヴィンチとコロンブスの間には、面識があったのではないかという説が存在しています。説の根拠となるのは、ダ・ヴィンチの日記の中にある上記の文章だけであり、通説とするには根拠の弱さは否めません。

しかし、その時代を代表する偉業を成した二人に、実は関係性があったと考えるのも面白く、想像を掻き立てる考え方であると思います。

クリストファー・コロンブスの早見年表

1451年
イタリア・ジェノヴァ近郊で誕生したとされる

1451年の8月から10月の間に、クリストファー・コロンブスは誕生したとされています。生地についてはイタリアのジェノヴァとするのが通説でしたが、確定的な資料がないため厳密には不明とされています。

1472年
個人として船に乗ってチュニスへ
以前より父の仕事の手伝いで船に乗っていたコロンブスですが、この年には父とは関係ない個人として船に乗り、チュニジアの首都であるチュニスに向かったことがわかっています。
1475年
チェントリオーネ家に雇われる
ジェノヴァの貴族であるチェントリオーネ家に雇われ、ヒオス島に渡って乳香の取引に携わっていたことが、航海日誌に記されています。
1476年
商船隊に参加し、難破を経験
乳香取引のために商船隊に参加したコロンブスでしたが、敵国であったフランス艦隊による砲撃で船が撃沈。コロンブスは命からがら、櫂に捕まって岸に泳ぎ着くことで一命をとりとめました。
1477年
ポルトガル・リスボンへ移住
リスボンへ移住したコロンブスは、リスボンで地図製作業を営んでいた弟・バルトロメと共に地図の販売を行いつつ、航海にも携わっていたようです。

また、この年の2月にはアイスランドへ向かったこともわかっています。理由については不明ですが、アイスランドには「ヴィンランド伝説」が存在するため、その伝説に影響を受けたのではないかとも言われています。

1479年
フェリパ・ペストレリョ・デ・モイスと結婚
この年、コロンブスは貴族の女性であるフェリパ・ペストレリョ・デ・モイスと結婚しました。コロンブスは商人の家の生まれであり、身分違いの婚姻でしたが、フェリパの生家が没落しかかっていたことや、コロンブスがそれなりの成功を収めていたことなどから、婚姻が認められたようです。
1481年
アフリカへの航海
コロンブスはこの年、ディオゴ・デ・アザンプージャのエルミナ城建造のための航海に同行し、ギニアやゴールドコーストに赴いています。ラス・カサスの記した『インディアス史』によると、この時の航海が、コロンブスに西周り航路を発想させるきっかけとなったようです。
1484年
ポルトガル王に航海の援助を求める
西周りでのアジアへの航海が可能であると確信を得たコロンブスは、ポルトガル王であるジョアン2世に航海の援助を求めに行きます。ジョアン2世は、コロンブスの提案には興味を示しましたが、コロンブスが求めた援助費用や、航路開拓の成功報酬が過剰すぎると判断。コロンブスの提案は否決されてしまいました。
1485年
失意の中、スペインへと移住
コロンブスは再度、王室へ航海の援助を求めますが、これも失敗。時を同じくして妻のフェリパも病に倒れて他界してしまい、コロンブスは失意の中、スペインへ移住します。
1486年
イサベル1世との謁見
スペイン王であるイサベル1世と謁見したコロンブスは、イサベル1世から興味を持たれ、スペイン王室内でコロンブスへの援助に対する議論が起こります。しかし議会などの様々な機関の間で議論は紛糾。コロンブスへの援助の決定は、長い間先送りにされることとなりました。
1491年
紆余曲折の末、コロンブスへの援助が決定
この年、枢機院によってコロンブスへの援助が否決。またも援助を断られたコロンブスは、弟を頼ってフランスに渡ろうとしますが、スペインの財務長官であるルイス・デ・サンタンヘルによって状況が一転。コロンブスに対するスペインからの援助が決定します。この援助に関する契約は「サンタ・フェ契約」と呼ばれています。
1492年
第1次航海「アメリカ大陸を発見する」
スペインからの援助を受けたコロンブスは、いよいよ西周りでのインド航路を開拓すべく出発。2カ月ほどの航海を経て、サンサルバドル島にたどり着くこととなります。
1493年
スペインへの帰還の後、すぐに2度目の航海へ
スペインに帰還したコロンブスは、すぐに2度目の航海の準備に取り掛かります。ローマ法王からの勅書の存在もあり、すぐに資材や金銭を集めることに成功したコロンブスは、今度は植民を目的とした2度目の航海に踏み出しました。
1494年
現地インディアンに対する虐殺を指揮する
再び新大陸に渡ったコロンブスは、現地住民に対する略奪を開始。組織化された無慈悲な略奪や虐殺は「コンキスタドール」と呼ばれて体系化され、後のスペイン軍による虐殺のモデルとなりました。
1498年
3度目の航海
3度目の航海に出たコロンブスは、南寄りの航路でベネズエラのオリノコ川に上陸。この時に「実はここはインドではなく、別の大陸なのでは?」という疑問が多くの船員から出たようですが、コロンブスはそれでも「ここはアジアだ」と言い張ったそうです。
1500年
逮捕され、提督の地位を剥奪される
三度新大陸に降り立ったコロンブスでしたが、現地では入植者たちによる反乱が勃発中。その責任を問われる形で逮捕されたコロンブスは、投獄こそされませんでしたが、提督の地位を初めとした社会的地位を剥奪されることになってしまいます。
1502年
ボロ船で4度目の航海へ
王室からの信頼を失いかけたコロンブスは、名誉挽回とばかりに4度目の航海を企画しますが、王室からの援助はボロ船4隻のみと言う有様。諦めずに航海に出るコロンブスでしたが、最終的には船が難破。救助されてスペインに戻ることとなります。
1506年
スペイン・バリャドリッドで死去
救助されてスペインに戻ったコロンブスは、予てより患っていた痛風に倒れてしまい、そのまま帰らぬ人となりました。享年は54歳。看取るものもない孤独な死であったと伝えられています。

クリストファー・コロンブスの年表

1451年 – 0歳「イタリア・ジェノヴァ近郊で生まれたとされる」

イタリア・ジェノヴァ

航海者の生誕

1451年の8月から10月の間に、コロンブスは誕生したとされています。生地に関してはイタリアのジェノヴァ近郊だとされていますが、裏付けとなる資料は存在していないため、厳密に生地がわかっているわけではありません。

ジェノヴァに生まれたという通説によれば、コロンブスは裕福ではない毛織物業社である父、ドミニコ・コロンボと、母であるスサナ・フォンタナローサの間に生まれたとされ、決して裕福ではない家系を手伝うために、10代のころから船に乗って父の手伝いをしていたとされています。

兄妹も多かったらしく、彼は7人兄弟の3番目だったようですが、兄二人は幼くして亡くなっていたようで、記録が全く残っていません。弟には、コロンブスの生涯に度々名前が登場するバルトロメと、17歳年の離れたジャコモ。妹は二人いたようですが、ピアンチネータという1人の名前が残るだけで、細かい記録は残っていません。

航海者の生誕(異説)

コロンブスの生誕は、その状況が不透明であるためか、多くの異説が存在しています。特に有名なのは「ユダヤ人説」と「ポーランド王子説」でしょう。

「コロンブスがユダヤ人である」と言う説の根拠は、1492年にスペイン王室が発布した「ユダヤ人国外追放令」です。

スペイン王室は追放令で「8月2日を期限とし、ユダヤ人をスペインから追放する」としていました。そして、その期限の翌日である8月3日に、コロンブスは初めての航海に出港。このことから、コロンブスはユダヤ系の生まれであり、航海の真の目的は「ユダヤ人たちの移住先の確保」だったと、その説を支持する識者は述べています。

「ポーランド王子説」に関しては、根拠となる資料も存在していませんが、近年になってアメリカの歴史研究家が唱えるようになった説となっています。

どちらも根拠は薄く、俗説や都市伝説の類ではありますが、コロンブスの生まれが不透明なままである以上、明確に否定はしきれない説となっています。

1472年 – 21歳「個人として船に乗り、チュニスへ」

チュニジアの首都・チュニス

個人として海に関わる

1472年に、コロンブスは父の手伝いとしてではなく、個人として船に乗って外国に渡っていたことが記録に残っています。

この時の航海は、アンジュ―公ルネによって敵対船拿捕の命令を受けた船に相乗りする形で行われたとされ、コロンブスがその船に乗っていた目的については明確にされていません。

一説では、この敵対船拿捕の指揮を執っていたのはコロンブスだったともされていますが、この時のコロンブスは21歳であり、船長を務めるには若すぎること。その根拠となっている手紙の記述に、多くの不審な点が見受けられることから、現在ではその説は下火になっています。

1475年 – 24歳「チェントリオーネ家に雇われ、乳香の取引に携わる」

乳香は香水の原料として使われる樹脂

乳香の取引に携わる

この年に、コロンブスはジェノヴァの貴族であるチェントリオーネ家に雇われ、多くの商業目的の航海に携わったとされています。

コロンブスが携わっていたのは、乳香(マスチック香)の取引であったらしく、コロンブスはロクサーナ号と言う船に乗り、乳香の産地であるエーゲ海のヒオス島をたびたび訪れていたようです。

当時、乳香は宗教儀式に用いられていたほか、現在もアロマセラピーやナチュラル系の歯磨き粉などに使用されています。

1476年 – 25歳「商船隊に参加し、難破を経験」

コロンブスがたどり着いたポルトガル・ラゴス

ジェノヴァ商船団に参加

この年の5月、コロンブスはジェノヴァの商人連合に雇われ、乳香取引と輸送のための商船団に参加します。

ベカッラ号という船に乗り込んだコロンブスでしたが、航海が進んだ8月ごろにフランス艦隊からの砲撃を受ける事態になってしまいます。商船団が掲げていたのはブルゴーニュの旗であり、それによって当時ブルゴーニュと敵対していたフランスからの攻撃を受けることになったのです。

砲撃を受けた商戦は難破。コロンブスは海に投げ出されてしまいますが、近くに浮かんでいた櫂に捕まったまま、命からがら泳いで海域を離脱。なんとかポルトガルのラゴスにたどり着き、一命をとりとめたようです。

初めての難破は嘘?

25歳で初めて難破を経験し、命の危機を味わったとされるコロンブスですが、このエピソードに関しても「コロンブスの作った嘘である」と言う説が存在しています。

その「嘘」説を主張する識者は、「難破して、櫂に掴まってて逃げのびた」というエピソードは、コロンブスがフランス・カタルーニャ連合の私掠船(国家公認の海賊船)に乗っていた時のエピソードであり、1476年当時のコロンブスは、実はフランス側の、つまりはジェノヴァ商船団から略奪を働く側の人物だったと主張しています。

その識者によれば、ジェノヴァ商船団を襲ったコロンブスでしたが、同郷の船を襲った事による良心の呵責には流石に耐え兼ね、航海日誌を別のエピソードの内容に改ざんした、とのことです。

若干荒唐無稽で、コロンブスに対しての批判的な目が濃すぎるように感じる主張ですが、歴史の中でも度々見える、コロンブスの暗い側面を鑑みると、完全に嘘だとも言い切れない主張に感じられます。

1477年 – 26歳「ポルトガル・リスボンに移住する」

ポルトガル・リスボン

アイスランドへの航海

この年の2月に、コロンブスはイギリス、アイルランドを経てアイスランドへ向かっています。

その目的については定かではありませんが、アイスランドには11世紀ごろに北米に植民地を開いたという「ヴィンランド伝説」が残っていたため、その噂を聞いてアイスランドに興味を持ったからだとも噂されています。

ポルトガル・リスボンへ移住

アイスランドへの航海から帰国後の春に、コロンブスはジェノヴァからポルトガル・リスボンへと移住したとされています。

リスボンにはコロンブスの弟であるバルトロメが住んでいたため、コロンブスは弟と共に地図の作成や販売を行いながら、航海にも携わっていたようです。

1479年 – 28歳「貴族の女性・フェリパ・ペレストレリョ・エ・モイスと結婚」

貴族の女性と結婚

貴族の女性・フェリパを妻として娶る

この年の年末ごろに、コロンブスは貴族の女性であるフェリパ・ペレストレリョ・エ・モイスと結婚したと記録されています。

商人の生まれであるコロンブスとは身分違いの婚姻でしたが、修道院のミサで彼女を見初めたコロンブスが、熱心に口説き落としたこと。フェリパの生家であるペレストレリョ家が没落しかけていたこと。フェリパ自身が25歳と、当時としては晩婚であったこと。コロンブスが航海視や地図職人として社会的に成功を収めていたことなど、幾つもの要因が重なったことにより、コロンブスは見事彼女を娶ることに成功しました。

コロンブスとフェリパの夫婦仲は良く、二人で旅行に行くこともあった他、翌年には長男に当たるディエゴにも恵まれています。家庭人としてのコロンブスは、この頃に絶頂期を迎えていたと言ってもいいでしょう。

1481年 – 30歳「アフリカへ赴き、西廻り航路への着想を得る」

『インディアス史』を書いたラス・カサス

アフリカへの航海で、西周り航路を着想

この年、コロンブスはディオゴ・デ・アザンプージャによるエルミナ城建造のための航海に同乗し、アフリカ大陸まで赴いています。

ラス・カサスの『インディアス史』によると、このアフリカ大陸で、コロンブスに西周り航路を着想させる事件があったようです。

コロンブスがマデイラ島に滞在している時、彼は白人の漂流者を発見して救助します。ポルトガルの交易船に乗っていたというその人物は、船が難破したことでキューバに流されるも、修理した船で東に出港し、なんとかマデイラ島にたどり着いたと証言したそうです。つまり、白人漂流者の言葉によると、ヨーロッパから西に漕ぎ出したとしても、少なくとも修理したボロ船でなんとかマデイラ島にたどり着ける距離に島が存在する、という事になります。

コロンブスの航海日誌にこの事件に関する記述はなく、あくまでもラス・サカスによる記載が残るだけの事件ですが、もしこの事件が本当にあったことなのだとすれば、コロンブスが西周り航路を発送するのも、決して不可能とは言えないと思われます。

西周り航路開拓の準備

『東方見聞録』

アフリカから帰国したコロンブスは、西廻り航路の開拓のために、様々なことを学んだようです。

スペイン語やラテン語と言った言語はもとより、天文学や地理学、最新の航海術を学びつつ、天文学者であるパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリと手紙のやり取りで、西廻り航路の可能性について議論を行っていたことも明らかになっています。

パオロとの議論の中で、コロンブスは西廻り航路でのアジアへの航行が可能であることを確信。当時からマルコポーロの『東方見聞録』に描かれた「黄金の国・ジパング」に憧れを持っていたコロンブスは、西廻りでも公開が可能な理由として、下記の5つの事柄を上げています。

  • 地球は球体なのだから、西に進めば東の端にたどり着く。
  • 地球の中で未知の部分は、アジア東端からベルデ岬諸島より西のみとなった。
  • 2世紀のギリシア人地理学者のマリヌスは、ヨーロッパからアジアまでは地球の15/24に当たるという。したがって未知の領域は9/24=約1/3となる。
  • マリヌスの認識に基づくアジアは(当時認識されていたという意味で)現在のアジア東端までに比べれば狭い。つまり未知の領域はさらに狭くなる。
  • 9世紀のイスラム人天文学者アルフラガヌスは経度1度=約56.6マイルと計算した。したがって未知の領域は56.6×360/3=約6800マイル。しかもこれは赤道上であり、北寄りの航路なら距離はさらに縮まる。

現在の基準で言うとかなり無理のある論説であり、実際の航海では通用しない部分もあったこの5つの根拠でしたが、コロンブスはこの根拠に自信を持ち、西廻り航路開拓のためのパトロンと資金集めに奔走することとなるのです。

1484年 – 33歳「ポルトガル王室に航海の援助を求める」

ジョアン2世

ポルトガル王室に資金援助を求める

西廻り航路の実現可能性に確信を得たコロンブスは、航路開拓のための資金援助を、ポルトガル王であるジョアン2世に援助を求めました。

ジョアン2世は、コロンブスの自信満々な態度と弁舌に興味を覚えたそうで、彼からコロンブスに対する心証は、さほど悪いものではなかったようです。

しかしこれに気を大きくしてしまったコロンブスは、航路開拓の費用だけでなく、航路開拓による成功報酬も王室に要求。その成功報酬は、高い地位と大きな権利、そして航路開拓によってもたらされる収益の10パーセントという、あまりにも過大なものでした。

これが彼に対する心証を悪くし、王室の数学委員会で彼の提案は否決。これまでの大西洋航路開拓の失敗や、アフリカ航路では喜望峰到達が目前だったことも、この議決に影響したと言われています。

1485年 – 34歳「失意の中でポルトガルを去る」

移住先のスペイン・パロス

再びの否決

コロンブスは前年に否決された提案を再びポルトガル王室に上奏しますが、これも失敗に終わってしまいます。

ジョアン2世は「自費による航海であれば認める」としましたが、コロンブスには自費で公開できるほどの財産が無く、むしろ借金すら抱えていたため、彼の夢見た西廻り航路の開拓は、ここで一度頓挫してしまうこととなりました。

妻・フェリパの死により移住を決意

コロンブスの夢がとん挫したのとほとんど時を同じくして、彼の愛した妻・フェリパが病によって他界。コロンブスは5歳の息子であるディエゴを抱えるシングルファーザーとなってしまいました。

度重なる不幸に打ちのめされたコロンブスは、スペインへの移住を決意するとすぐに実行。夏ごろにはスペインのパロスに移り住み、息子を修道院に預けると、再び西廻り航路開拓のための資金とパトロンを探し始めます。

1486年 – 35歳「カトリック両王と謁見」

カトリック両王

スペイン貴族から好感触を得る

スペインに移り住み、再び西廻り航路の開拓のための資金とパトロン集めを始めたコロンブスは、スペインの貴族であるメディナ・シドニーア公のドン・エンリケ・デ・グスマン、メディナ・セリ公のドン・ルイス・デ・ラ・セルダと接触します。

この接触により、メディナ・セリ公がコロンブスの語る西廻り航路に興味を抱き、船と食料の提供を約束。さらに、王室の許可を取るべくメディナ・セリ公が王に当てて書簡を送ったことで、当時のスペインを治めていたカトリック両王の一角であるイサベル1世がコロンブスの計画に関心を示すことに。

これによりコロンブスは、カトリック両王に謁見する機会を得ることになりました。

カトリック両王との謁見

メディナ・セリ公の紹介でカトリック両王と謁見したコロンブスは、自身の考える西廻り航路の実現可能性と、それによってもたらされる利益を両王にプレゼン。両王の一角であるフェルナンド2世からは興味を持たれませんでしたが、もう一方のイサベル1世が計画に強い興味を抱いたことで、コロンブスの計画は王室の諮問委員会に欠けられることが決定されます。

諮問委員会は1486年内だけでも2度開かれていたようですが、コロンブスが算出した「西廻り航路でのアジアへの距離」が疑問視され、結論は持ち越されることとなりました。

諮問委員会が結論を出せずにいる中、コロンブスは貴族や王室関係者などとのコネクション作りに尽力。イギリスやフランスの王室にも計画をプレゼンし、様々な方向性から航路開拓への道筋を模索しますが、それらの取り組みが実を結ぶことはありませんでした。

内縁の妻との結婚

この頃、コロンブスは小作人の娘であるベアトリス・エンリケス・デ・アラーナと内縁関係を結んでいます。

ベアトリスに関してはさほどの記録は残っていませんが、2年後の1488年には長男を設けていることが記録されています。

1491年 – 40歳「紆余曲折の末、コロンブスへの資金援助が決定」

財務長官 ルイス・デ・サンタンヘル

コロンブスへの援助が否決

1490年に、コロンブスの提案への援助が正式に否決。これによってスペインにも見切りをつけたコロンブスは、息子を引き取りにラ・ラビダ修道院へと向かいました。

しかし、ラ・ラビダ修道院のペレス院長がコロンブスを慰留し、イサベル1世の側近とのコネクションを用いて、王室に提案の再検討を依頼しました。王室はこれを受けて、コロンブスの提案への再検討を開始することとなります。

提案の再検討の結果、コロンブスの提案への判断は上位機関である枢機院に移されることとなり、コロンブスは出頭命令を受けて再び王室に赴くこととなりました。

紆余曲折の末、資金援助が正式決定

枢機院での再検討の末、コロンブスの提案に下されたのは否決の判断。万策尽きたコロンブスは、弟のバルトロメが住まうフランスへ向かうことを決意します。

しかしコロンブスが知らないところで、枢機院の提案に待ったをかけた人物がいました。その人物は、スペインの財務長官を務めるルイス・デ・サンタンヘル。彼は「コロンブスの提示した条件は、航路開拓による収入で十分にリターンを得られるものである」「レコンキスタによって、スペインには財政的な余裕が生まれている」「他に必要な費用は、自分自身が都合をつける」として王室を説得。

この説得によって、イサベル1世がコロンブスの計画を承認。女王の伝令がフランスに出発したコロンブスを追いかけ、ピノス・プエンテ村の橋で彼に追いついたとされています。

1492年 – 41歳「第1次航海「新大陸の発見」」

新大陸発見を描いた絵画

サンタ・フェ契約

この年の4月、計画の追認を得たコロンブスは、王室と「サンタ・フェ契約」を結びます。

サンタ・フェ契約とは、西廻り航路開拓が成功した際にコロンブスへ与えられる恩賞を確約させたもので、主な内容は以下の通りです。

発見した新たな陸地における、相続可能な提督(統治者)の地位。
発見された土地における、各行政区分の統治者を、コロンブスが決めること。
発見された土地における利益の10パーセントをコロンブスの財産とすること。
発見された土地との取引に関する裁判権は、コロンブスが持つとすること。
コロンブスが今後行う航海にかかった費用が10パーセントだった場合、航海によってもたらされた利益の10パーセントをコロンブスの財産とすること。

ポルトガル王室に持ち込んだ条件とほとんど同じものでしたが、スペイン王室はこの契約を認め、ここにサンタ・フェ契約が結ばれました。

普通であれば結べないような破格の条件であることから、コロンブスが西廻り航路の開拓に自信を持っていたことや、コロンブスが少々強欲な人物であったことが窺える契約だと言えるでしょう。

第1次航海

大西洋とカリブ海

8月3日にスペインのパロス港を出港したコロンブスは、一旦カナリア諸島に立ち寄って準備を整えた後、一気に西へと舵を切りました。第1次航海におけるコロンブスの艦隊は、ニーニャ号、ピンタ号、サンタ・マリア号の3隻。乗組員数は90人程だったと言われています。

現在もそうであるように、大西洋は島が少ない海域のため、陸地が見えない航海は船員に大きな不安を植え付けていたようです。コロンブスが当初考えていた、ヨーロッパとアジアの距離についても、少なく見積もり過ぎていたことが分かり、コロンブス自身も航海日誌に不安な心の内を書き残しています。

そして、航海開始から2カ月が過ぎた10月6日には、船内で小規模な反乱が勃発。船員たちはコロンブスに詰め寄り、「あと3日で陸地が見つからなければ引き返す」事を約束させると言う事態にまで発展しました。

このようなエピソードから見るに、コロンブスの最初の航海は順風満帆なものとはとても言えず、コロンブスに関しても、さほどのカリスマ性を持っていたわけではなさそうです。

サン・サルバドル島の発見と、略奪の開始

10月11日、船員たちのコロンブスへの不信がピークに達し始めた頃、ピンタ号の水夫が陸地を発見。その島に上陸したコロンブスは、その島をサン・サルバドル島と名付け、インディアン達から歓待を受けることとなります。

コロンブスはインディアン達について、「無知で愚か」「体つきは良く、良い奴隷になる」「キリスト教を教え込むため、数人を連行した」などと航海日誌に記しており、現代におけるコロンブスに対する否定的な評価の根拠となっています。他にも、サン・サルバドル島で略奪を行っていたことも記録されており、コロンブスと言う人物の悪い側面が、このあたりから色濃く記録に残され始めることとなるのです。

略奪の末にサン・サルバドル島を後にしたコロンブスは、フアナ島(現在のキューバ島)を訪れ、ここでも略奪を行います。その後12月6日にはイスパニョーラ島を発見し、座礁したサンタ・マリア号の残骸を用いて入植のための拠点を建造。翌年の1月16日に、コロンブスはスペインへと帰還すべく出航しました。

1493年 – 42歳「スペインに帰還後、すぐに第2次航海へ」

多くの恩賞が与えられた

帰還と第2次航海

3月にスペインに帰還したコロンブスには、サンタ・フェ契約に基づいた、高い地位と多くの恩賞が与えられました。また、陸地を発見した水夫に与えられるはずだった恩賞も、コロンブスは「先に自分が陸地を発見した」と言い張って、恩賞を横取りしています。

「コロンブスの卵」のエピソードが生まれたのもこのあたりだと思われますが、そのエピソードも1410年代のイタリアの建築家・フィリッポ・ブルネレスキの言葉の盗用であるともされており、本当にコロンブス自身の言葉なのかは疑問視されているようです。

ともかく、西廻り航路の開拓によって地位と実績を得たコロンブスは、すぐに植民を目的とした第2次航海を企画。ローマ法王からスペインに対する勅書や、人々からの関心の高まりにも後押しされる形で、コロンブスは帰還からわずか半年後の9月に、2度目の航海に出発しました。

第2次航海における船の数は17隻、人員は1500人ほどと、第1次航海とは比べ物にならない大所帯での航海でした。

1494年 – 43歳「インディアンへの虐殺を指揮」

虐殺を展開、奴隷を連れ去った

インディアンへの虐殺を指揮する

再び新大陸にたどり着き、植民を開始したコロンブスの一行でしたが、植民地での貧しい生活には、入植者たちから多くの不満の声が上がっていました。さらに悪いことに、インディアンから白人に対する鬱憤も、いつ爆発してもおかしくないほどには高まっていたようです。

これに対してコロンブスは、インディアンに対する略奪と虐殺を展開。金銀財宝だけでなく、作物や人に至るまで、目に映る物全てを奪い去っていくコロンブス達の凶行は、やがてスペイン軍による略奪のモデルである「コンキスタドール」と呼ばれることとなります。

もちろんインディアン達も抵抗を試みますが、少しの慈悲もないコロンブス達の侵攻と、彼らがスペインからもたらした疫病の蔓延によって、まともな抵抗はほとんどできずに次々と虐殺されて行ったようです。コロンブス達の襲来をきっかけとしたインディアンの死者は、万単位に上ると見られています。

イサベル1世に”奴隷”を贈る

インディアンへの虐殺と、カリブ海諸島における黄金探しを一段落させたコロンブスは、捕えたインディアンを奴隷としてイサベル1世へと送ります。

コロンブスはこれを「喜ばれる」と思っていたようですが、イサベル1世はこの奴隷を送り返し、コロンブスの統治に対する調査団を派遣することを決定します。

これに驚いたコロンブスはスペイン本国へと帰還し、イサベル1世に向けて釈明。その時こそコロンブスは罪に問われませんでしたが、このあたりのエピソードに見られる王室との噛み合いの悪さと、コロンブスの増長は、後に彼の首を大きく絞めることとなるのです。

1498年 – 47歳「第3次航海」

南米大陸第3の大河・オリノコ川

3度目の航海

5月、6隻の船団で3度目の航海に臨んだコロンブスは、今度は南寄りの航路を航行。オリノコ川の河口に上陸することとなります。

この時、オリノコ川の水が全て真水であることから、コロンブスは自身が発見した場所が島ではなく大陸であることを認めなければならなくなります。この頃になると、ヨーロッパの有識者たちからは「コロンブスの発見した島は、アジアではないのでは?」という疑いの声が出始めていました。

それを裏付けるようにオリノコ川の真水を目の当たりにするコロンブスでしたが、彼は最期まで「自分の発見したのはアジアである」と主張し続けたと言われています。

1500年 – 49歳「転落の始まり」

反乱の鎮圧に失敗

植民地にて暴動が発生

植民地についたコロンブスが目の当たりにしたのは、反乱によって荒れ果てた植民地の実態でした。反乱の原因は、コロンブスの代わりに統治者として植民地に残っていた弟・バルトロメの統治の悪さや、植民地の生活環境の悪さ、とりわけ食料の不足だったと言われています。

コロンブスはこの反乱に対し、入植者たちの説得に乗り出しますが、この説得も失敗。挙句、反乱がおきていることがスペイン本国に知れ渡ってしまいます。

前述の奴隷の一件から、コロンブスの統治に疑いを持っていた王室は、本国から査察官を派遣。コロンブスとバルトロメは逮捕され、本国で裁判にかけられることとなりました。

地位と財産を失う

本国で裁判にかけられたコロンブスは、これまでの功績を必死に訴えることで罪に問われること自体は回避することが出来ました。しかしコロンブスの統治の残虐さは王室内でも噂になっていたらしく、完全に無罪放免とはならなかったようです。

コロンブスに下されたのは「全ての地位の剥奪」という処分。投獄こそは免れたものの、西廻り航路の開拓における鉱石の全てと、王室からの信用を彼は失うこととなったのです。

1502年 – 51歳「4度目の航海」

半年間の航海の末、難破

4度目の航海

功績と信用、そして地位を失ったコロンブスは、名誉挽回のために4度目の航海を企画し、王室に援助を願い出ます。しかし王室がコロンブスに与えたのは、使い古されたボロ船4隻のみ。提督時代に行った多くの残虐な行いによって、王室からコロンブスに対する信頼は、ほとんどゼロに近くなってしまっていたのです。

それでもコロンブスは諦めず、ボロ船に乗って4度目の航海に出発。しかし、やはりボロ船での大西洋横断は無謀でしかなかったようで、コロンブスはパナマ周辺を半年間さまよった末に難破。救助されてスペインにとんぼ返りさせられるという失態を演じています。

それと時を同じくする1504年には、コロンブスの支持者だったイサベル1世が死去。これによって王室への最大のコネクションを失ったコロンブスは、更に冷遇されることとなってしまいました。

1506年 – 54歳「スペイン・バリャドリッドにて死去」

コロンブスの墓

惨めな晩年

4度目の航海に失敗し、文字通り全てを失ったコロンブス。4度目の航海の失敗後も航海の計画は立てていたようですが、全てを失い「虐殺者」の汚名だけが残った彼に出資する者はおらず、結局彼は病に倒れてしまいます。

そしてそのまま、患った病によってコロンブスはこの世を去ってしまいました。1506年5月20日、スペイン・バリャドリッドの自宅での、看取るものもいない孤独な死だったと伝わっています。死因となった病については、かねてより患っていた痛風の悪化だと言われています。

遺骨はセビリアの修道院に収められたのち、1542年にサントドミンゴの大聖堂に移されたとされています。

クリストファー・コロンブスの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

コロンブス航海誌

コロンブスの最初の航海――つまり、アメリカ大陸発見時の航海の記録です。

筆者がコロンブス本人であるため、後世の筆者による主観や解釈などが入っておらず、読者がニュートラルな観点からコロンブスという人物について考えることができます。

コロンブスという人物について、自分なりに考えたい方にお勧めの1冊となっています。

1493〔入門世界史〕

コロンブスの功績についてクローズアップした本です。「コロンブスがアメリカに到達したことによって、世界がどのように変化したのか?」という観点で世界史を学ぶことができます。

負の側面のインパクトが凄まじいコロンブスですが、これを見ると彼の行ったことは、良かれ悪しかれ現代にまでつながっていることが理解できるかと思います。

社会的な側面から歴史を見たい方にお勧めの1冊です。

コロンブスの不平等交換 作物・奴隷・疫病の世界史

コロンブスの負の側面である、先住民族との不平等な取引や、それがもたらした社会的な悪影響についてを取り上げた1冊です。

コロンブスによってヨーロッパにもたらされた利益を認めたうえで、商業や経済的な側面だけでなく、労働の側面にも着目して、多角的にコロンブスのもたらした悪影響を語っています。

幅広い観点を扱っているため、少々難しい本ではありますが、コロンブスという人物を隅から隅まで知るためには、欠かすことのできない1冊だといえるでしょう。

おすすめの映画

1492コロンブス

コロンブスという人物を映画として描いた作品の中では、これが最も適切かつ中立的な観点で描いている作品だと思います。

一見するとコロンブスを美化しているように見えるのですが、その裏には中立的で冷静な視点が見え、見れば見るほどに新たな視点から考えさせられること請け合いの傑作です。

世界史の教材としても使えるほどの作品ですので、本が苦手な方はまずこちらからコロンブスについて触れてみてください。

コロンブス 永遠の海

コロンブス本人についての映画ではなく、コロンブスに憧れる青年とその妻の物語です。

何より映像が美しく、話の内容そのものよりも、映像だけで見入れてしまえる作品となっています。いささかコロンブスを美化しすぎているところはありますが、コロンブスにまつわる史跡も数多くストーリー中で描かれるため、「コロンブスを巡る旅行」の参考なんかにもなるかもしれません。

関連外部リンク

クリストファー・コロンブスについてのまとめ

偉大な探検家の側面を持ちながら、最低の虐殺者の側面を持つ人物である、クリストファー・コロンブス。彼の成した偉業も蛮行も、どちらも本当に起こったことである以上、彼がどのような人物であるかの評価を定めることは、著しく困難になっています。

しかし、実はそれはどんな人物についても同じこと。江戸幕府を開き、長きにわたる戦の無い時代を作った徳川家康は、見方を変えれば豊臣秀吉の治世に対する謀反人です。坂本龍馬や西郷隆盛といった「明治維新」の英雄も、後の歴史を見ると「第2次世界大戦における日本の暴走の原因を作った」とも言えるかもしれません。

このように、歴史上の出来事や人物の正当性は、立場によって簡単に変わってしまうもの。コロンブスはある意味、そう言った歴史の面白さを知るには絶好の人物であるとも言えるのではないでしょうか。

それでは、長い時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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