コロンブスとは何した人?生涯・年表まとめ【航路の功績から性格や死因も紹介】

クリストファー・コロンブスは、15世紀に活躍した探検家であり航海者です。

白人として初めてアメリカ大陸を発見し、ヨーロッパ世界とアメリカ大陸を結ぶきっかけを作った偉業は広く知られており、まさに現在の世界の礎を作った人物の一人だと言っても良いでしょう。「コロンブスの卵」として残る、彼の柔軟な発想を示すエピソードも有名です。

クリストファー・コロンブス

しかし、そんな偉業を成し遂げた人物ではあるのですが、コロンブスに対する評価は人によってまちまちとなっています。その評価の間の溝は深く、「コロンブスは偉大な人物だ!」という人もいれば「コロンブスは最悪の人物だ!」と評価する人もいるなど、ほとんど対極の評価があると言えるほどです。

そのような対極の評価が生まれる理由としては、ヨーロッパとアメリカを結びつけるという偉業を成し遂げた一方で、そのアメリカ大陸の先住民に対し、数々の略奪や強姦、虐殺を行ったためでしょう。事実、アメリカ合衆国で祝日と位置付けられている「国際コロンブスデー」では、毎年のように反対デモが起こっています。

世界史に残る偉業を成し遂げた一方で、「最低の虐殺者」とまで呼ばれ、数百年の後も忌み嫌われる蛮行をも成したクリストファー・コロンブスという人物。

この記事では、そんな対極の評価を持つクリストファー・コロンブスについて、彼の二つの側面を知り、未だに評価についての答えを出せていない筆者が執筆いたします。なるべく中立的に執筆いたしますので、よろしくお願いいたします。

この記事を書いた人

Webライター

ミズウミ

フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。

クリストファー・コロンブスとは?生涯をダイジェスト

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名前クリストファー・コロンブス
(別名:クリストーフォロ・コロンボ)
誕生日不明
1451年ごろという説
生地不明
イタリア・ジェノヴァ近郊という説
没日1506年5月20日
没地カスティーリャ王国・バリャドリッド
配偶者フェリパ・ペレストレリョ・エ・モイス
ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナ(内縁)
埋葬場所セビリアの修道院
→サントドミンゴの大聖堂

コロンブスは、1451年頃にイタリアのジェノヴァで生まれました。ジェノヴァはイタリアでも海運業が盛んで、若いころから海に親しんでいたと考えられます。20代前半ころ、コロンブスはポルトガルにわたりました。

ポルトガルが開拓したインド航路

このころ、スペインとポルトガルはインド航路の開拓を目指していました。インドから香辛料を輸入するためです。この競争はアフリカ最南端に先に達したポルトガルがリードしていました。

コロンブスはイタリア人学者トスカネッリが唱える「地球球体説」に基づき、ポルトガルとは逆の西廻りでインド航路を開拓で生きると主張しスペインを支配していたカトリック両王(フェルディナント2世とイサベル1世)を説得し探検航海に出資させました。

帰国したコロンブスを迎えるカトリック両王

1492年にカリブ海のサンサルバドル島に到達し西廻り航路の開拓に成功。インドには到達できませんでしたが、コロンブスの西廻り航路開拓をきっかけとして、スペインは中南米に領土を拡大しました。

コロンブスは「発見」した土地を軍事力で征服します。彼は住んでいたインディオたちを虐殺、奴隷化し、スペインの植民地としました。しかし、彼は植民地の統治に失敗し、折角手にした総督の地位を失います。そして、1506年にこの世を去りました。

コロンブスの生まれから性格、死因

商家に生まれたコロンブス

ワインやチーズ、毛織物を売る家に生まれたコロンブス

クリストファー・コロンブスの生まれについては、正確なことは何もわかっていません。通説として、イタリア・ジェノヴァの近郊で、1451年8月~10月の間に生まれたとされていましたが、その裏付けとなる資料も存在していないようです。

ジェノヴァ出身だという通説によると、コロンブスは商家の生まれであり、決して裕福ではない幼少期を送っていました。父は毛織物業とワイン、チーズの販売業を営む、ドミニク・コロンボ。母はスサナ・フォンタナローサという人物だったとされています。

その一方、コロンブスの生まれには様々な異説が存在し、中でも「コロンブスはユダヤ人である」という説と、「コロンブスはポーランドの王子である」という説が、俗説としては有名です。

どちらも確たる証拠はなく、あくまでもトンデモ説の範疇を出ない説ではありますが、コロンブスの生まれが不透明である以上、完全に否定もしきれない説になっています。

コロンブスは海に親しみながら育った

10代のころから船乗り

航海者として名が知られるコロンブスは、やはり若いころから海に親しんでいたようです。

コロンブスは10代のころから、父の業務を手伝う形で船に乗船。20代前半の頃には、フランス貴族から敵対船拿捕の命を受けた船に乗船し、外国にも渡っていたようです。1475年には、ジェノヴァの貴族であるチェントリオーネ家に雇われ、乳香の取引に携わっていたことも、航海日誌によって明らかになっています。

しかし1476年には、乗り込んでいたジェノヴァ商人団の船が、敵対するフランス艦隊からの砲撃を受けて沈没するという災難にも見舞われます。コロンブスは櫂に掴まってなんとか泳いで脱出し、ポルトガルのラゴスに泳ぎ着くことで命を取り留めたとされており、コロンブスと海との関わりが、決して順風満帆なものではなかったことがわかるでしょう。

しかしその一方で、上記のコロンブスの生還エピソードは、コロンブスがフランスの私掠船(国家公認の海賊船)に乗っていた時のエピソードであるとの説も存在しています。その場合、1476年当時にコロンブスが乗っていたのもフランスの船という事になり、コロンブスは同郷であるジェノヴァの者たちから略奪を働いたという事になります。さすがに同郷の商人から略奪を働くことには良心の呵責を覚えたコロンブスが、自身の航海日誌を改ざんしたというのが、異説を唱える識者の主張です。

記録に照らすと俗説に過ぎない説ではありますが、後に語らせていただくコロンブスの人物像を見ると、そこまで無理のある説でもありません。そのため1476年のエピソードは、クリストファー・コロンブスという人物への評価が難しくなる一因ともなっています。

粘り強く功利主義たる気性の持ち主

功利主義の守銭奴だったとされているコロンブス

コロンブスの性格については、第三者目線や友人目線での評価資料が少なく、その実像が掴みがたくなっています。

しかし、コロンブス自身が残した航海日誌や、彼の様々な行動などから考えると、コロンブスは「非凡な発想力と、粘り強い精神力を有していた」「カリスマ性はさほど高くなく、功利主義の守銭奴だった」と考えられます。

発想力や精神力については、後述する「コロンブスの卵」のエピソードや、コロンブスが成した業績から。カリスマ性や功利主義性については、コロンブスが航海中に船員から反乱を起こされかけたことや、後に年表で書かせていただく、新大陸の発見に関するスペイン女王との契約の内容などから読み取ることができるでしょう。

以上のことから考えるに、コロンブスは”偉人”と呼ばれるような超越的な性格の人物ではなく、割合現在の我々とも近しい、人間的な二面性を持った人物だったとも言えそうです。

「コロンブスの卵」とは?

コロンブスの行動力を物語る逸話「コロンブスの卵」

コロンブスのエピソードとして有名なものに、「コロンブスの卵」と呼ばれるエピソードがあります。

コロンブスの新大陸発見を祝うパーティの最中、「インドへの航路を発見したといっても、結局海を西に進んだだけだ」「そんな事は誰にでもできる」と難癖をつけてきた貴族たちに、コロンブスが「では、このゆで卵を立ててみてください」と応じたというエピソードです。

実際にやってみていただければわかるように、ゆで卵を立てるという事は凄まじく難しい事です。コロンブスから反論を受けた参加者も当然諦めてしまうのですが、コロンブスはゆで卵の底を割って、それから卵を立てるという形で「卵を立てる」という難題を解決します。

当然「そんな事は誰にでもできる」と反論が上がりますが、コロンブスは反論に対して「誰にでもできることであっても、最初にそれを行うことは知恵と勇気がいるもの」「私の航海も同じことです」と見事に反論したと伝わっています。

コロンブスの柔軟な発想力が描かれたエピソードですが、実はこのエピソードも「コロンブスのものではない」という説が存在し、現在でも議論の種となっています。

虐殺者のような一面があったコロンブス

大量虐殺者としての一面をもつコロンブス

アメリカ大陸とヨーロッパ世界を繋ぐという偉業を成し遂げているコロンブスですが、記事の序文で少し書かせていただいたように、現在でも広く評価が分かれる人物でもあります。

「偉大な探検家」という評価から「最低の虐殺者」「世界最古の奴隷商人」という評価まで、その評価の差はあまりにも広く、コロンブスという人物はとても一面的には判断できない人物であるといえるでしょう。

では何故、コロンブスはそこまで嫌われているのでしょうか?その評価の原因は、アメリカ大陸上陸後の彼の行いにありました。

アメリカ大陸に上陸した彼は、先住民族であるインディアンから歓迎を受け、多くの品物を受け取ります。水や食料、武器や宝物などを送ってきたインディアンに対して、コロンブスは安価なガラス玉などを返礼として渡すだけであり、挙句の果てにはその島で略奪や拉致などを行います。

また、コロンブスは初めて見たインディアン達に対して、航海日誌で「彼らは無知で愚かだ」「体は均整がとれていて、素晴らしい奴隷になる」とも書き残しており、この時にコロンブスによってスペインに連行されたインディアンもいたようです。

そうして一度本国に戻ったコロンブスは、(勘違いですが)インドへの航路を発見した功績を讃えられ、すぐに2度目の航海に出ます。そして再びアメリカ大陸に降り立った彼は、インディアン達に対して、今度は更に惨たらしい略奪と虐殺を繰り広げることになるのです。

インディアンの集落からは、黄金や宝石などの金目のものはもとより、奴隷として労働力となる男性、性奴隷となる女性は皆拉致され、老人や子供はスポーツのように虐殺されました。残った家や作物は燃やされ、村の有力者は拷問に掛けられて、別の集落や黄金の隠し場所を白状させられたと記録されています。

コロンブスの軍勢によるインディアンの犠牲者は、少なく見積もっても数千人以上に上り、彼によって持ち込まれた疫病もあって、合計の犠牲者は優に5万人を超したようです。コロンブスの軍勢が行った虐殺のモデルは「コンキスタドール(スペイン語で征服者)」と呼ばれ、後にスペインが繰り返す虐殺の方法の元祖ともなっています。コロンブスはこれらの虐殺については「我々の神が、我々に与えてくださった恩恵である」と、神を引き合いにして正当化する発言を残しています。

アメリカ大陸をヨーロッパ世界と結んだということがコロンブスの業績であることは、たしかにその通りです。しかし、コロンブスの業績の中の闇の部分を知ってしまうと、コロンブスを嫌う人々の考えも、確かに理解できる正当なものだと感じられます。

コロンブスの死因は持病の痛風

イザベル1世

コロンブスの最期は、意外と言うべきか相応と言うべきか、惨めなものであったことが伝わっています。

前述した2度目の航海の後に、コロンブスは黒人奴隷をスペイン王室に献上します。しかしコロンブスの航海を支援していた女王・イザベルはこれを送り返し、反対にコロンブスの統治に対する調査委員を派遣する事態となります。そしてこれが、コロンブスの転落の始まりとなりました。

最初の調査委員派遣の時にこそ、コロンブスは罪に問われませんでした。しかし3度目の航海でアメリカ大陸に渡った際、その地を治めていたコロンブスの弟・バルトロメウの統治や、食糧不足などへの不満が爆発し、反乱が勃発。その責任を問われる形で今度こそ逮捕されたコロンブスは、投獄こそされませんでしたが、提督の地位を初めとする、社会的地位のほとんどを失ってしまうことになります。

提督の地位を失ったコロンブスでしたが、彼は諦めずに4度目の航海を企画。しかし王室からコロンブスに与えられたのは小型のボロ船4隻だけであり、既にスペイン王室がコロンブスを見限りかけていたことが分かります。

それでも出航したコロンブスはあえなく難破。この失敗と、コロンブスに対してかなり好意的だったイザベル女王の死が重なったこともあり、スペイン王室からコロンブスへの信頼は、もはや完全に失墜することとなりました。

そのように富も地位も名誉も、あっという間に失ったコロンブスは、4度目の航海に出た4年後、1506年5月に持病の痛風の悪化によってこの世を去ったと伝わっています。享年は、通説通りの生まれであれば54歳でした。

偉業と蛮行を同時に成し、現在でも大きく評価が分かれる人物であるコロンブス。そんな彼に対する議論が終わることは、どうやらまだ先の話になりそうです。

コロンブスの功績

功績1「”西廻り航路”を開いた」

コロンブスはアフリカ伝いの東回り航路とは別に、大西洋を横断する西廻り航路の開拓に成功しました。当時、地球の形は”平面”なので海の果ては滝のようになっていると考えられていたため、多くの船乗りは島影のない西への航海を恐れます。

コロンブスによる大西洋横断

コロンブスはトスカネリの「地球球体説」を信じ、地の果ての滝など存在しないと考えます。そして、ポルトガルと逆方向の西回りに航海すれば、かならず、インドにたどり着けると信じました。彼の開いた西廻り航路はスペインに莫大な利益をもたらします。

功績2「スペインの領土を広げた」

コロンブスは中南米をスペインの領土とするきっかけを作りました。彼自身も植民地の総督に任命され、中南米各地を征服。最初の上陸地であるサンサルバドル島をはじめ、キューバやエスパニョーラ島を探検し、これらの島々を西インド諸島と名付けます。

インカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロ

コロンブスの成功を知った人々は、我先にと中南米に乗り込み各地を征服します。その代表がインカ帝国を滅ぼしたピサロやアステカ王国を滅ぼしたコルテスです。彼らは征服者という意味の「コンキスタドール」とよばれます。彼らの活動によりスペインは領土を大きく拡大し、莫大な金銀を手に入れました。

コロンブスとマゼラン、バスコ・ダ・ガマとの航路の違い

大航海時代

コロンブスとマゼランの違いは?

マゼラン

コロンブスと似た功績を上げている人物には、マゼランが存在しています。

マゼランはポルトガル人の航海者であり、世界一周を成し遂げた「マゼラン艦隊」の名前が有名な人物です。マゼランはコロンブスが西廻り航路を開拓した後、1519年にスペインから、西廻り航路を通って出航。南米大陸南端の「マゼラン海峡」を発見し、ヨーロッパで初めて太平洋を横断した人物です。

西廻り航路を通り、大西洋を横断してから太平洋を渡ったことを考えると、マゼラン艦隊の成した世界一周という偉業の下地には、コロンブスの偉業が存在するといってもよさそうです。

後述のバスコ・ダ・ガマとの違いも合わせて、しっかり区別をつけて覚えておきたい人物となっています。

コロンブスとバスコ・ダ・ガマの違いは?

バスコ・ダ・ガマ

バスコ・ダ・ガマは、コロンブスやマゼランと同じ、大航海時代に生きた航海者の一人です。マゼランと同様にポルトガル人の航海者であり、コロンブスが目指していたインドに到達した航海者として有名です。

バスコ・ダ・ガマとコロンブスの出航はほとんど同時期でしたが、若干コロンブスの出航の方が早く、当時の考え方では、コロンブスの方が先にインド(実際にはアメリカ大陸)に到達したことになっていました。当時折り合いの悪かったスペインに、先に西廻り航路でインドにたどり着かれてしまったポルトガルは、アフリカ経由の航路でインドを目指すことを選択。その航路開拓船団のリーダーに任命されたのが、バスコ・ダ・ガマだった、というのが、コロンブスとガマが真逆の航路を取った理由です。

ポルトガル王室から「アフリカ経由での」インド航路開拓を任じられたガマは、アフリカの南端である喜望峰を通って東進。約10カ月の航海を経て、インドのカリカットにたどり着いたのでした。

当初の目的を果たし、ポルトガルがヨーロッパに名を轟かすきっかけとなったバスコ・ダ・ガマと、目的こそ違いましたが、ヨーロッパ世界に新たな大陸を持ち込み、世界を大きく広げたコロンブス。

成したことや航路こそ違いますが、互いに偉大な業績を成した人物であることは間違いありません。

コロンブスにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ほぼ綱渡り?コロンブス最初の航海」

地球平面説が信じられていた時代

コロンブスの最初の航海は、中々に波乱万丈、というよりも綱渡りの色が濃い航海であったと伝わっています。

当時の世界観として、「地球が球体である」という考えは広まりつつありましたが、旧来の「地球は平面であり、西進すると巨大な崖に落ちる」という考えも広く根付いていました。そのため、「西に進めばアジアにたどり着く」と主張するコロンブスの考えに、反感や不審を持つ部下もそれなりにいたようです。

そのような部下たちの存在や、計算よりも長期化した航海に対する不満の蓄積によって、実際にアメリカ大陸上陸直前に、船内で小規模な反乱が起こったことも記録されています。コロンブスも長期化する航海に、態度にこそ出さなかったようですが不安を覚えていたことが、航海日誌からも読み取れます。

その反乱に対してコロンブスは「流木が発見されたから、近くに陸地がある」「あと3日で陸地が見つからなければ引き返す」と説得。先見の明や観察力があるというべきか、それとも単に口が上手いくて悪運が強いというべきか……。コロンブスに対する評価は、このエピソードでもどうにも定めにくくなっています。

都市伝説・武勇伝2「『芸術家と航海者』ダ・ヴィンチとコロンブスの関わり?」

コロンブスと同じ時代、15世紀を代表する天才であるレオナルド・ダ・ヴィンチの日記の中に、こんな記述があります。

ジェノヴァ人の船乗りと地球について話す

先述の通り、コロンブスの出身地は、通説によればジェノヴァ。更に、地球について話す必要がある程、当時の一般常識からかけ離れた航海を企画していた人物と言えば……。

そのような観点から、ダ・ヴィンチとコロンブスの間には、面識があったのではないかという説が存在しています。説の根拠となるのは、ダ・ヴィンチの日記の中にある上記の文章だけであり、通説とするには根拠の弱さは否めません。

しかし、その時代を代表する偉業を成した二人に、実は関係性があったと考えるのも面白く、想像を掻き立てる考え方であると思います。

コロンブスの名言は?

0から1を創るのは、難しい。1から2を作ることは、易しい

完璧を怖れる必要はない。決してそこには到達しないから

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