梶井基次郎は、大正末期から昭和初期にかけて作品を発表した小説家です。
小説家としての知名度は、太宰治や芥川龍之介に比べるとさすがに劣っていると言わざるを得ません。けれども「桜の木の下には死体が埋まっている」という都市伝説的に語り継がれる文言を生み出した作家として、実は梶井のことを知らずとも、彼の遺した言葉を聞いたことがある方は数多く存在しています。
彼の作品は現在で言うところの「青春小説」のようで若者の心にダイレクトに引っかかるような作品が多く、若者の文学入門にはぴったりともいえる作品なのです。
梶井の描いた、感覚と知識が融合した独特の文章は、井伏鱒二や川端康成など多くの有名作家から高い評価を受け、当時の文壇の中でも「新しい文章ではないが、他に類例がない」という、かなり特殊な立ち位置にある文章として評価されました。
しかしそのような評価は、ほとんど全て梶井の死後に贈られたものであり、生前の梶井の文学に関する評価は、中々に手厳しいものが多かったと伝わっています。梶井はそういう意味では、時代を先取りしすぎた作家であったのかもしれません。
そのように青春小説の元祖を生み出し、他に類例のない独自の立ち位置を形成した梶井基次郎という作家。この記事では、そんな梶井の作品の美しさに触れ、作家としてではなく個人としての梶井基次郎に興味を持った筆者がまとめていきたいと思います。
この記事を書いた人
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フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。
梶井基次郎とはどんな人か
名前 | 梶井基次郎 |
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誕生日 | 1901年2月17日 |
没日 | 1932年3月24日(享年31歳) |
生地 | 大阪府大阪市西区 土佐堀通5丁目34番地屋敷 (現在の土佐堀3丁目3番地) |
没地 | 大阪府大阪市住吉区 王子町2丁目13番地 (現在の阿倍野区王子町2丁目17番29号) |
配偶者 | なし |
埋葬場所 | 大阪市中央区中寺・常国寺2丁目・日蓮宗常国寺 |
代表作 | 『檸檬』『Kの昇天』『櫻の樹の下には』『交尾』など |
好んだもの | レモン、音楽、贅沢品、友人との交流 |
梶井基次郎はどんな人物か?
早世の天才・梶井基次郎の生涯をハイライト
梶井基次郎は1901年2月17日に大阪で生まれました。父・宗太郎は貿易運送会社で重役についている人物でお金はあったのですが、遊び好きで家にお金を入れなかったため、梶井家の家計は厳しいものでした。母・ヒサは子どもたちを連れて身投げしようと考えたこともあったようです。
父の転勤によって東京・三重と引っ越しを繰り返しました。1913年には祖母が結核で亡くなり、孫の基次郎たちにも初期症状が表れ始めます。15歳で大阪に戻り中学校に進んだ梶井は17歳ごろから文学に目覚め、なかでも夏目漱石の影響を大きく受けました。
1920年に第三高校に入学したころには、結核がだいぶ進行していました。失恋や異母妹の存在が発覚してショックを受けたこともあり、このころは酒に酔った末の奇行が目立っています。荒れた生活を繰り返しながら、1922年には『檸檬』の初稿を執筆しました。
1925年に満を持して『檸檬』を発表したのですが文壇からは反応をもらえず、焦って『Kの昇天』を続けて発表しましたがこちらも無反応に近いものでした。梶井の作品が評価を受け始めたのは1931年の『交尾』発表ごろからでした。けれども病状は重いもので、1932年に31歳でこの世を去りました。
梶井基次郎、大阪に生まれる
基次郎は1901年の2月17日に、貿易会社の軍需品輸送業の仕事に就いていた父・宗太郎と、保母をしていた母・ヒサの次男として生まれました。
基次郎が誕生した当時、日本は日露戦争によってかつてない好景気(いわゆる特需)に湧いている状況。とりわけ軍需品の貿易運送業は、その影響を最も受ける業種だったため、梶井家はとても裕福な状態であり、基次郎の父である宗太郎は、仕事もそこそこに茶屋にこもって放蕩生活を送っていたといいます。
母であるヒサに関しては、とても教育熱心な人であったことが伝わっており、幼かった基次郎やその兄弟たちに、『古今和歌集』『源氏物語』『南総里見八犬伝』などの読み聞かせをしていたことが記録されています。ヒサは文学に関する造詣も深く、与謝野晶子や岡本かの子など、後に名を残す女性作家の世話をしていたこともあるそうです。
しかし幼い基次郎が、裕福で何不自由のない暮らしを送ったのかといえば実はそうではなく、むしろ生活状況は、家庭を顧みずに放蕩三昧の父の影響で困窮していたようです。その貧しさは深刻で、ヒサは幼い子供たちと共に自殺することを考えるほどだったと伝わっています。
そのような両親の状況を見ていると、成長した基次郎にも彼らに通じるところがあるのが一目瞭然なのですが、その辺りは年表で解説させていただきます。
梶井基次郎は「良くも悪くも番長気質」
梶井の人物像を一言で表すならば、「良くも悪くも番長気質」というところに集約されるでしょう。友人思いで子供や女性にも優しく、同人作家時代の仲間たちの中では、まとめ役を務めていたと記録されています。
作家仲間の間で喧嘩があればそれを仲裁し、同人作家仲間に入りたいという相談を受けたときには、自身が参加していない雑誌相手にも関わらず手紙を送り面倒を見てやることもありました。交流のあった温泉宿の主人の子供の面倒をよく見てやり、その子の友人たちとも親しく交流していたなど、彼の男らしい優しさを示すエピソードは数多く残されています。
一方で、こだわりが強く内弁慶気質だったところも記録からは読み取れます。
彼はとりわけ、食べ物に強いこだわりを持っており、バターは小岩井農場のもの、紅茶はリプトンのグリーン缶など、当時としては最高級品だったものを惜しげもなく飲み食いする高級志向のグルメだったようです。また、それらの飲食代はほとんど両親が出しており、社会人としての梶井は、一般的に言って「クズ」だといわれても仕方ない人物だったともいえるでしょう。
梶井基次郎という人物の人物像については、近代の人物であることもあり非常に多くの記録が残っています。そのため彼には様々なエピソードも残っているため、詳しくは後の具体年表と絡めて解説させていただきます。
梶井基次郎の文学的流派って…?
おそらく梶井基次郎のファンの方からすると、この質問をされるのが1番困るかと思います。しいてあげるならば「私小説作家」というのが一番近い気もしますが、実際のところ私小説では範囲が広すぎ、「梶井の文学的流派」とするには少々不適切さが残ります。
ともかく、そのような流派の説明にすら迷いが生まれるほどに、梶井の文学の流派は「○○派」という枠組みでくくり切れないほど特異なものなのです。
梶井の描いた作品には、大きな事件や大きな動きというものはほとんど存在しておらず、むしろ、あまりにも小さな、心の微妙な揺れ動きを扱った文学作品がほとんどです。後のトピックで解説させていただく『檸檬』はその典型であり、読みながらその場面を想像しても、その絵面からは全く盛り上がりを感じません。
あるいはそんな場面の静かさこそが、梶井が太宰や芥川並みの有名作家になれなかった理由なのかもしれません。
しかし、梶井の作品は絵的には静かですが、心情描写については太宰や芥川をはるかに凌ぐ冴えを見せています。単純な喜怒哀楽の表現だけでなく、「喜から楽へ移る際の一瞬の心の揺らぎ」や「涙を流すほどの哀ではないが、喜でも怒でも楽でもない感情」など、言葉にすると混乱するような、けれど確かに存在する微妙な感情を、梶井は端的な言葉でピタリと定義し、文学として遺しているのです。
まさに「微に入り細を穿つ」文体が特徴の、梶井基次郎の作品。ともすれば、太宰や芥川らの絵的にも文章的にも派手な作品よりも、よほど純粋な文学らしい作品だと言えるかもしれません。
梶井基次郎の代表作『檸檬』とは?
梶井基次郎の代表作としては、やはり『檸檬』の名が真っ先にあがるでしょう。「桜の木の下には死体が埋まっている」という文言を作った『櫻の樹の下には』や、文壇における出世作である『交尾』も次点で名前が上がりますが、やはり「梶井の文学」と言えば『檸檬』という点に、疑いを挟める余地はありません。
『檸檬』は梶井の作品の中でも、とりわけ私小説的な部分が強く出ている作品であり、病気に蝕まれていることに対する漠然とした不安や、心の中によどむ「えたいの知れない不吉な塊」、そしてレモンによって少しばかり癒されるという倒錯した心理が丁寧かつ端的な言葉で描かれ、梶井基次郎らしさが丹念に詰め込まれた作品となっています。
現在でこそ多くの作家に支持され、「青春文学の最高峰」とも呼ばれる『檸檬』ですが、実は1925年の発表当時には文壇から見向きもされず、一部の同人仲間から「すごい作品だ!」と評価を受ける内輪ウケの作品にとどまっていました。
そんな『檸檬』が文壇から評価され始めたのは、刊行から6年が経った1931年。梶井がこの世を去る1年前のことでした。この評価については凄まじく詳細な記録が残っており、「印税が75円手に入った」「印税は困窮していた梶井家の生活費に消えた」という事まで克明に記録されています。
梶井には、作品としての『檸檬』だけでなく、果物のレモンとの関わりもあるのですが、その辺りは後のトピックで解説させていただきます。
梶井基次郎と京都
梶井基次郎は第三高校(現在の京都大学)に入学すると、大阪を出て学校周辺に部屋を借りています。そのため、梶井の作品には京都を舞台にした作品があります。『檸檬』と『ある心の風景』です。
『檸檬』に登場する丸善は、作品当時は麩屋町三条にあったのですが現在は河原町蛸薬師にリニューアルオープンしています。また中京区にあった「八百卯果物店」は主人公がレモンを買ったお店のモデルで、2009年まで営業していました。
『ある心の風景』では、主人公は遊郭から八坂神社や花街を眺める場面があります。鴨川の光景も美しく描写されています。この作品は見つめるモノや事物に自分を重ねることで、情景と内面が一体化した「心の風景」が作り出されている描写を中心にしたもので、梶井自身の第三高校時代の体験がもとになっているといわれています。
多くの小説家・詩人に影響を与えた
梶井基次郎の作品は目新しさを強調するタイプのモノではなりません。当時の文学青年の多くと同じように、漱石や鴎外、白樺派や大正期の退廃的な作風の作家の影響を受けたものです。けれどもその詩人的な側面から、彼の作品はその後の多くの小説家・詩人に影響を与えました。
井伏鱒二や吉行淳之介、川端康成や三島由紀夫…挙げれば限りがありません。特に三島由紀夫は梶井作品への評論を多く残していて、梶井の文章を「現実に関する関心を積極的に捨て、作品の1つひとつを象徴詩の高さにまで高めている」「日本では珍しく感覚的なものと知的なものを融合した文体」としています。
梶井基次郎の代表的な作品一覧
小説
- 檸檬 -1925年
- 城のある町にて -1925年
- Kの昇天 -1926年
- 櫻の樹の下には -1928年
習作・試作
- 小さき良心 -1922年
- 秘やかな楽しみ〈檸檬の歌〉 -1922年
- 太陽と街 -1924年
- 凧 -1925年
キャラクターモチーフとしての登場作品
- 文豪ストレイドッグス(漫画)
- 文豪とアルケミスト(ゲーム)
- ラヴヘヴン(ゲーム)
梶井基次郎の功績
功績1「異常なほどの言語化センス」
「小説家なんだから、言語センスが優れているのは当たり前」。このトピックタイトルを見てそう思った方は、是非とも梶井基次郎の作品をお読みになってください。
小説家なら言語センスが優れているのは当たり前。確かにその通りですが、梶井の言語センス――もとい「言語”化”センス」は、凡百の作家はもとより、一般的に天才とされる作家たちを明らかに凌ぐほどのセンスであることを、否応なく理解してしまうことでしょう。
「心の中にあるもやもやとした不安」のことを、「えたいの知れない不吉な塊」と表現し、「漠然とした不安の原因」を「桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像」するという空想で表現するという、どんな生活すればこんな表現が頭の中に生まれるんだという言葉のオンパレード。
一目で「梶井ワールド」だとわかる表現ではなく、現実世界に息づくものを、誰もが持ち合わせる共通の言葉で表現することに心血を注いだ梶井基次郎。「小説」ではなく「文学」の神髄を掴むには、梶井基次郎の作品を読むことが何よりの近道なのかもしれません。
功績2「優れた短編を数多く残した」
梶井基次郎は病身で早く亡くなってしまったこともあり、長編小説を残していません。それはとても残念なことですが、彼の短編小説は日本文学史上で独特の光を放っています。
『檸檬』などは読みやすい小説なので、近代文学や純文学に慣れていない人にもおすすめです。読みなれている人でも、画集の上に置いたレモンを爆発させるという鮮やかな色彩のイメージは「こんな小説もあるんだ」という発見になるかもしれません。
功績3「鋭い感受性で『孤独』を描いた」
梶井が描く主人公は多くが病身で、孤独を抱えています。孤独を描いた小説家はたくさんいますが、梶井ほど描き方にバリエーションのある作家は珍しいです。孤独にも種類があるんだな、と実感させられます。
完全に一人ぼっちの孤独もあれば、人がそばにいるからこそ感じる孤独もあります。デビュー作の『檸檬』と晩年の作品『のんきな患者』では孤独の描き方が違うように、梶井はさまざまな形の孤独を描きました。彼が長生きしていたらどんな孤独を描いてみせてくれただろう、とつい考えてしまいます。
梶井基次郎は一体何がすごいのか?
すごさ1.「生来の感覚の鋭さ」
梶井基次郎は、文学的なセンスだけでなく、五感についても優れていたことが記録されています。
- 一丁離れた場所にある花の匂いで、その花の名前を当てた
- 手紙や新聞がポストに投函される音や足音だけで、その時の配達員の感情を理解した
- 汁物にほんの少しだけ混ざってしまった砂糖を判別した
など、その感覚の鋭さは多くのエピソードとして記録されています。
また、優れた聴覚のためかモノマネも達者だったらしく、ミンミンゼミの鳴き真似を宴会での持ちネタとしていた時期もあったようです。
文学的なセンスだけでなく、生来の感覚も優れていたという梶井。その優れた五感から得た情報を文章としていたからこそ、彼の文学は現在でも不変の高評価を得ているのかもしれません。
すごさ2.「意地による病気との戦い」
10代半ばで結核を発病し、医者からは静かに養生することを命じられていた梶井。しかし彼は医者の言うことを聞かずに普通の青年と変わらないように振る舞い、重病を患っていることを周囲に悟らせないようにしていたと記録されています。
友人が病に倒れたときは、自分の方がよほど重病なのにもかかわらず、人力車に乗って見舞いに駆けつけ、病床の友人から「帰って養生しろ」と怒られる、町の子供たちに混ざって川に入って釣りをし、後に高熱を出すなどのエピソードは、そんな梶井の闘病を最もよく表したエピソードでしょう。
また、周囲から病人扱いされたり哀れまれたりすることを嫌っていたとも記録されており、友人に「ワインを見せてやる」と言って、自分の吐いた血を入れたグラスを差し出したり、晩年に「結婚するなら看護師さんだ」と冗談を言ったりと、自身の病状をネタにした冗談も多く残っています。
ブラックジョーク、ブラックユーモアは現在でも数多く見聞きすることができますが、自分の死、それもほどなく訪れる死をネタとして昇華できるあたり、梶井の病魔に対する強い抵抗の意志が読み取れるエピソードだと言えるでしょう。
梶井基次郎の名言は?
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。
少し変だったことは少し変だった。
この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。
課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている
結局は私を生かさないであろう太陽。しかもうっとりとした生の幻影で私を瞞そうとする太陽。
私にもなにか私を生かしそしていつか私を殺してしまう気まぐれな条件があるような気がしたからであった。
萩原朔太郎の『本質的な文学者』という小話には「梶井君のやうな男は、友人としてはちよつとやりきれない男である。やりきれないといふのは、こつちが神經的に疲れてしまふのである。」とあります。もしかしたらミズウミさんが梶井基次郎を好きになれないのは、こういう梶井の性格なのかもしれないですね。