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梶井基次郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や代表作品、名言、死因についても紹介】

梶井基次郎は、大正末期から昭和初期にかけて作品を発表した小説家です。

小説家としての知名度は、太宰治芥川龍之介に比べるとさすがに劣っていると言わざるを得ませんが、「桜の木の下には死体が埋まっている」という、都市伝説的に語り継がれる文言を生み出した作家として、実は梶井のことを知らずとも、彼の遺した言葉を聞いたことがある方は数多く存在しています。

彼の作品は現在で言うところの「青春小説」のような作品が多く、梶井の作品は若者の心にダイレクトに引っかかるような作品が多く、若者の文学入門にはぴったりとも言える作品なのです。

梶井基次郎

梶井の描いた、感覚と知識が融合した独特の文章は、井伏鱒二や川端康成など多くの有名作家から高い評価を受け、当時の文壇の中でも「新しい文章ではないが、他に類例がない」という、かなり特殊な立ち位置にある文章として評価されました。

しかしそのような評価は、ほとんど全て梶井の死後に贈られたものであり、生前の梶井の文学に関する評価は、中々に手厳しいものが多かったと伝わっています。梶井はそういう意味では、時代を先取りしすぎた作家であったのかもしれません。

そのように青春小説の元祖を生み出し、他に類例のない独自の立ち位置を形成した梶井基次郎という作家。この記事では、そんな梶井の作品の美しさに触れ、作家としてではなく個人としての梶井基次郎に興味を持った筆者が纏めていきたいと思います。

梶井基次郎とはどんな人か

名前梶井基次郎
誕生日1901年2月17日
没日1932年3月24日(享年31歳)
生地大阪府大阪市西区
土佐堀通5丁目34番地屋敷
(現在の土佐堀3丁目3番地)
没地大阪府大阪市住吉区
王子町2丁目13番地
(現在の阿倍野区王子町2丁目17番29号)
配偶者なし
埋葬場所大阪市中央区中寺・常国寺2丁目・日蓮宗常国寺
代表作『檸檬』『Kの昇天』『櫻の樹の下には』『交尾』など
好んだものレモン、音楽、贅沢品、友人との交流

梶井基次郎、大阪に生まれる

日露戦争の最中に梶井は生まれた

基次郎は1901年の2月17日に、貿易会社の軍需品輸送業の仕事に就いていた父・宗太郎と、保母をしていた母・ヒサの次男として生まれました。

基次郎が誕生した当時、日本は日露戦争に起因するかつてない好景気(いわゆる特需)に湧いている状況。とりわけ軍需品の貿易運送業は、その影響を最も受ける業種だったため、梶井家はとても裕福な状態であり、基次郎の父である宗太郎は、仕事もそこそこに茶屋にこもって放蕩生活を送っていたと言います。

母であるヒサに関しては、とても教育熱心な人であったことが伝わっており、幼かった基次郎やその兄弟たちに、『古今和歌集』『源氏物語』『南総里見八犬伝』などの読み聞かせをしていたことが記録されています。ヒサは文学に関する造詣も深く、与謝野晶子や岡本かの子など、後に名を残す女性作家の世話をしていたこともあるそうです。

貧しい幼少期を過ごす

しかし幼い基次郎が、裕福で何不自由のない暮らしを送ったのかと言えば実はそうではなく、むしろ生活状況は、家庭を顧みずに放蕩三昧の父の影響で困窮していたようです。その窮状は深刻で、ヒサは幼い子供たちと共に自殺することを考えるほどだったと伝わっています。

そのような両親の状況を見ていると、成長した基次郎にも彼らに通じるところがあるのが一目瞭然に見えてくるのですが、その辺りは年表にて解説させていただきます。

梶井基次郎は「良くも悪くも番長気質」

梶井の人物像を一言で表すならば、「良くも悪くも番長気質」というところに集約されるでしょう。

友人思いで子供や女性にも優しく、同人作家時代の仲間たちの中では、まとめ役を務めていたと記録されています。作家仲間の間で喧嘩があればそれを仲裁し、同人作家仲間に入りたいという相談を受けた時には、自身が参加していない雑誌相手にも関わらず手紙を送り面倒を見てやる。交流のあった温泉宿の主人の子供の面倒をよく見てやり、その子の友人たちとも親しく交流していたなど、彼の好漢ぶりを示すエピソードは数多く残されています。

梶井はグルメだった

一方で、こだわりが強く内弁慶気質だったところも記録からは読み取れます。

彼はとりわけ、食べ物に強いこだわりを持っており、バターは小岩井農場のもの、紅茶はリプトンのグリーン缶など、当時としては最高級品だったものを惜しげもなく飲み食いする高級志向のグルメだったようです。また、それらの飲食代はほとんど両親が出しており、社会人としての梶井は、一般的に言って「クズ」だと言われても仕方ない人物だったとも言えるでしょう。

梶井基次郎という人物の人物像については、近代の人物であることもあり非常に多くの記録が残っています。それ故に彼には様々なエピソードが残っているため、詳しくは後の具体年表と絡めて解説させていただきます。

梶井基次郎の文学ジャンルって・・?

おそらく梶井基次郎のファンの方からすると、この質問をされるのが一番困るかと思います。しいてあげるならば「私小説作家」というのが一番近い気もしますが、実際のところ私小説では範囲が広すぎ、「梶井の文学ジャンル」とするには少々不適切さが残ります。

ともかく、そのようなジャンル説明にすら迷いが生まれるほどに、梶井の文学ジャンルは「ジャンル」という枠組みで括り切れないほど特異なものなのです。

梶井の描いた作品には、大きな事件や大きな動きというものはほとんど存在しておらず、むしろ、あまりにも小さな、心の微妙な揺れ動きを扱った文学作品がほとんどです。後のトピックで解説させていただく『檸檬』はその典型であり、読みながら場面の絵面を想像しても、その絵面からは全く盛り上がりを感じません。あるいはそんな場面の静かさこそが、梶井が太宰や芥川並みの有名作家になれなかった理由なのかもしれません。

静かながら巧みな心理描写が光る

しかし、梶井の作品は絵的には静かですが、心情描写については太宰や芥川をはるかに凌ぐ冴えを見せています。単純な喜怒哀楽の表現だけでなく、「喜から楽へ移る際の一瞬の心の揺らぎ」や「涙を流すほどの哀ではないが、喜でも怒でも楽でもない感情」など、言葉にすると混乱するような、けれど確かに存在する微妙な感情を、梶井は端的な言葉でピタリと定義し、文学として遺しているのです。

まさに「微に入り細を穿つ」文体が特徴の、梶井基次郎の作品。ともすれば、太宰や芥川らの絵的にも文章的にも派手な作品よりも、よほど純粋な文学らしい作品だと言えるかもしれません。

梶井基次郎の代表作『檸檬』とは?

梶井基次郎の代表作としては、やはり『檸檬』の名が真っ先に上がることとなるでしょう。「桜の木の下には死体が埋まっている」という文言を作った『櫻の樹の下には』や、文壇における出世作である『交尾』も次点で名前が上がりますが、やはり「梶井の文学」と言えば『檸檬』という点に、疑いを挟める余地はありません。

『檸檬』は梶井の作品の中でも、とりわけ私小説的な部分が強く出ている作品であり、病気に蝕まれていることに対する漠然とした不安や、心の中に澱む「えたいの知れない不吉な塊」、そして「檸檬」によって少しばかり癒されるという倒錯した心理が丁寧かつ端的な言葉で描かれ、梶井基次郎らしさが丹念に詰め込まれた作品となっています。

現在でこそ多くの作家に支持され、「青春文学の最高峰」とも呼ばれる『檸檬』ですが、実は1925年の発表当時には文壇から見向きもされておらず、一部の同人仲間から「すごい作品だ!」と評価を受ける内輪ウケ的な作品にとどまっていました。

そんな『檸檬』が文壇から評価され始めたのは、刊行から6年が経った1931年。梶井がこの世を去る1年前のことでした。この評価については凄まじく詳細な記録が残っており、「印税が75円手に入った」「印税は困窮していた梶井家の生活費に消えた」という事まで克明に記録されています。

梶井には、作品としての『檸檬』だけでなく、果物のレモンとの関わりもあるのですが、その辺りは後のトピックで解説させていただきます。

梶井基次郎の代表的な作品一覧

小説

  • 檸檬 -1925年
  • 城のある町にて -1925年
  • Kの昇天 -1926年
  • 櫻の樹の下には -1928年

習作・試作

  • 小さき良心 -1922年
  • 秘やかな楽しみ〈檸檬の歌〉 -1922年
  • 太陽と街 -1924年
  • 凧 -1925年

キャラクターモチーフとしての登場作品

  • 文豪ストレイドッグス(漫画)
  • 文豪とアルケミスト(ゲーム)
  • ラヴヘヴン(ゲーム)

梶井基次郎は一体何がすごいのか?

すごさ1「異常なほどの言語化センス」

言語能力に秀でていた

小説家なんだから、言語センスが優れているのは当たり前。このトピックタイトルを見てそう思う方は、是非とも梶井基次郎の作品をお読みになってください。

小説家なら言語センスが優れているのは当たり前。確かにその通りですが、梶井の言語センス――もとい「言語”化”センス」は、凡百の作家はもとより、一般的に天才とされる作家たちを明らかに凌ぐほどのセンスであることを、否応なく理解させられてしまうことでしょう。

「心の中にあるもやもやとした不安」のことを、「えたいの知れない不吉な塊」と表現し、「漠然とした不安の原因」を「桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像」するという空想で表現するという、どんな生活すればこんな表現が頭の中に生まれるんだという言葉のオンパレード。

一目で「梶井ワールド」だとわかる表現ではなく、現実世界に息づくものを、誰もが持ち合わせる共通の言葉で表現することに心血を注いだ梶井基次郎。「小説」ではなく「文学」の神髄を掴むには、梶井基次郎の作品を読むことが何よりの近道なのかもしれません。

すごさ2.「意地による病気との戦い」

長きに渡った闘病生活

10代半ばの時点で結核を発病し、医者からは静かに養生することを命じられていた梶井。しかし彼は医者の言うことを聞かずに普通の青年と変わらず振る舞い、重病を患っていることを周囲に悟らせないようにしていたと記録されています。

友人が病に倒れたときは、自分の方が余程重病なのにもかかわらず、人力車に乗って見舞いに駆けつけ、病床の友人から「帰って養生しろ」と怒られる、町の子供たちに混ざって川に入って釣りをし、後に高熱を出す等のエピソードは、そんな梶井の闘病を最もよく表したエピソードでしょう。

また、周囲から病人扱いされたり哀れまれたりすることを嫌っていたとも記録されており、友人に「ワインを見せてやる」と言って、自分の吐いた血を入れたグラスを差し出したり、晩年に「結婚するなら看護師さんだ」と冗談を言ったりと、自身の病状をネタにした冗談も多く残っています。

ブラックジョーク、ブラックユーモアは現在でも数多く見聞きすることができますが、自分の死、それもほどなく訪れる死をネタとして昇華できるあたり、梶井の病魔に対する強い抵抗の意志が読み取れるエピソードだと言えるでしょう。

すごさ3.「生来の感覚の鋭さ」

五感の鋭さで周囲を驚かせた

梶井基次郎は、文学的なセンスだけでなく、五感についても優れていたことが記録されています。

一丁離れた場所にある花の匂いで、その花の名前を当てた。手紙や新聞がポストに投函される音や足音だけで、その時の配達員の感情を理解した。汁物にほんの少しだけ混ざってしまった砂糖を判別したなど、その感覚の鋭さは多くのエピソードとして記録されています。

また、優れた聴覚故かモノマネも達者だったらしく、ミンミンゼミの鳴き真似を宴会での持ちネタとしていた時期もあったようです。

文学的なセンスだけでなく、生来の感覚も優れていたという梶井。その優れた五感から得た情報を文章としていたからこそ、彼の文学は現在でも不変の高評価を得ているのかもしれません。

梶井基次郎の名言は?

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。

少し変だったことは少し変だった。

この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。

課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている

結局は私を生かさないであろう太陽。しかもうっとりとした生の幻影で私を瞞そうとする太陽

私にもなにか私を生かしそしていつか私を殺してしまう気まぐれな条件があるような気がしたからであった。

梶井基次郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「レモン大好き!」それゆえの奇行

梶井は無類のレモン好き

梶井基次郎の代表作が『檸檬』という作品なのは、先のトピックで書かせていただいた通りです。しかし梶井とレモンの関わりは作品だけではありませんでした。

先に書かせていただいた通り、高級志向のグルメだった梶井は、喫茶店に立ち寄ると必ずレモンティー、もしくはレモンを浮かべたプレーンソーダを注文し、その味を楽しんでいたそうです。

さらに、レモンの味を楽しむだけでなく、梶井はレモンを持ち歩いていたとも記録され、友人に「食べたらいかんぜ」と言いながら、手垢塗れのレモンを渡したというエピソードも残されています。ここまでくると完全に奇行ですが、梶井にとっては何か意味ある行動だったのでしょう。

作品である『檸檬』には、漠然とした不安を抱えた主人公が、レモンの美しさに慰められるという描写があるため、もしかすると梶井には、凡人には掴めないレモンの美しさが見えていたのかもしれません。

都市伝説・武勇伝2「童貞を捨てさせろ!!」暴れる梶井基次郎

先のトピックで、梶井の性格について「番長気質」と書かせていただきました。しかし20歳ごろの梶井は、「番長」というよりも「ガキ大将」めいた、年の割に幼い人物であったようです。以下が、そんな梶井の性質を示す代表的なエピソードです。

友人たちとの酒盛りの帰り道、泥酔した梶井は道の真ん中で大の字になり、大声で「俺に童貞を捨てさせろ!!」と叫びました。たまりかねた友人たちは梶井を遊郭に連れていき、そこで梶井は童貞を卒業。

行ってはみたものの繊細な梶井であった

それでめでたしかと思えば、しかし梶井は「俺はこのせいで純粋なものが分からなくなった」「堕落してしまった」と、遊郭に連れて行ってくれた友人たちを責めたと言います。件の友人である中谷孝雄も流石にこれには呆れたようで、「そうは言ってきたが、私は一切取り合わなかった」と、むべもないコメントを残しています。

他にも「焼き芋屋の屋台に牛肉を投げ入れた」「ラーメン屋の屋台をひっくり返した」などのエピソードもありますが、ここでは割愛。酒のエピソード以外にも、暴れる梶井のエピソードは多いため、その辺りは年表にて開設させていただきます。

梶井基次郎の略歴年表

1901年
大阪にて生を受ける
大阪で軍需品輸送業についている梶井宗太郎と、その妻のヒサの間に生を受けました。
1910年
東京に転居
父の仕事の都合で、東京の私立頌栄尋常小学校に転校。そこで兄とともに人気者になります。
1911年
三重に転居
またも父の仕事の都合で、今度は三重県に転居。基次郎は鳥羽尋常高等小学校に転校しました。
1913年
祖母の死
祖母のスヱが肺結核によって死去。祖母が舐めた飴を回し食いしていた基次郎たち兄弟も、後に結核に苦しめられることとなります。
1916年
中学を辞め、丁稚として1年間の奉公
異母弟が奉公に出されることを不憫に思った基次郎は、中学を辞めて丁稚奉公に出ます。しかし父が異母弟を連れ戻すことを決めたため、1年後には再び中学に復学したようです。
1918年
文学作品との出会い
兄が友人から借りていた夏目漱石全集や、兄から借りた森鴎外の作品を読みふけり、文学に親しみ始めます。翌年には谷崎潤一郎作品も読んでいたと記録されています。
1920年
結核性の病に苦しむ
この時期になると、祖母から感染した結核が進行。折角入学した高校でも、早々に落第が決定し、母からは「学問は諦めろ」と言われていたようです。
1921年
恋と酒と「幻の処女作」
汽車で出会った女学生に一目ぼれした梶井でしたが、あえなく失恋。その経験を描いた小説を執筆しますが、原稿は紛失されてしまい、梶井の処女作は幻の作品となってしまいました。また、酒色を覚えたのもこの頃で、以降梶井は度々酒に酔って問題行動を起こします。
1922年
劇研究会に入会
友人たちと共に劇研究会に入会します。『檸檬』の原型が創られたのもこの時期ですが、酒浸りの日々は続き、友人たちからは「いささか狂気じみてきた」と評されていました。
1923年
「三高の主」となる
留年した梶井は、特異な風貌や経歴もあって「三高の主」と呼ばれ、校内で有名人として扱われるようになりました。
1925年
同人誌『青空』を発刊し、『檸檬』を掲載
前年より、仲間たちと共に計画を練っていた同人誌『青空』を発刊。後の代表作である『檸檬』を創刊号に掲載しますが、反響はほとんどありませんでした。
1926年
『Kの昇天』を発表
10月『青空』の20号に『Kの昇天』を発表。しかし時を同じくして病状が悪化し、年末に湯ヶ島温泉に移って湯治を始めることになります。
1927年
『青空』が廃刊
広報活動は功を奏さず、『青空』が廃刊になってしまいます。梶井は別の友人たちから、新たな同人誌の企画に誘われますが、『青空』の再興を夢見ていた彼はこれを辞退しました。
1928年
尾崎士郎と恋の鞘当てを起こす
宇野千代という女性を巡り、その夫である尾崎士郎と大喧嘩を起こしたことが記録されています。一方で病状も深刻化し、その大喧嘩の後は一晩中血を吐いていたそうです。
1929~1930年
父の死と母の入院
1929年の年初めに、父の宗太郎が死去。翌年には母が肺炎や腎臓炎で入院するなど、梶井は自身の病状も合わせて、忙しない日々を送ります。
1931年
初めての原稿料を手にするも、病床に伏す
作品『交尾』によってようやく梶井の作品が評価されはじめ、彼は依頼を受けて『のんきな患者』を執筆。初めての印税と原稿料を手にしますが、同時に病状が悪化し、床に臥すことになってしまいます。
1932年
その生涯を終える
依頼を受けて次回作の執筆にとりかかるも、病状の悪化により寄稿を断念。その後の3月24日の午前2時に息を引き取りました。

梶井基次郎の具体年表

1901年 – 0歳「大阪に生を受ける」

梶井家の次男として誕生

日露戦争の最中に梶井は生まれた

梶井基次郎は、この年の2月17日に、大阪に生まれました。

父である宗太郎は貿易運送会社で軍需品輸送の仕事に就いている人物であり、当時の戦争特需な世相もあって、かなり裕福な状況だったようです。母のヒサは教育熱心な人物であったらしく、基次郎は幼い頃より、多くの古典文学に親しんでいたと記録されています。

しかしそんな稼ぎの多さの一方で、梶井家の生活そのものはとても困窮していました。父である宗太郎は酒食を好む刹那的な人物だったらしく、稼ぎの殆どは酒や女遊びに消え、母は幼い基次郎や兄弟たちと共に川に身を投げることを考えるほど追い詰められていたようです。

ともあれ、後に酒によって度々騒動を起こし、その後には作家として評価を受けるようになった基次郎。良くも悪くも、父と母の血を引いている事を感じさせます。

1910年 – 9歳「父の転勤により東京に転居」

東京の学校で人気者になる

紙飛行機がきっかけで学校になじんだ

父の転勤により大阪を離れた梶井一家は、東京の芝区にある仮屋へと転居。基次郎と二つ上の兄は、私立頌栄尋常小学校に転校することになりました。

頌栄尋常小学校は、当時としては先進的かつ自由な校風の学校であり、アンデルセン童話を用いた英語教育が盛んにおこなわれている学校でした。梶井作品の緻密かつ先進的な文体は、この学校で学んだことが活かされていたとも言えそうです。

梶井兄弟は当初こそ「大阪っぺ」と呼ばれて周囲からからかわれていたようですが、兄が学校に紙ヒコーキを広めたこともあって、次第に学校中の人気者としてその地位を確立していったそうです。

一方家庭では

貧しい幼少期を過ごす

基次郎と兄が学校で人気者になっている一方、梶井家の家計は悪化の一途をたどっていました。

父の酒浸りが大阪時代よりも悪化したことはもとより、ただでさえ苦しい家計であるにも拘らず、父は基次郎の異母弟一家も別宅で養い始めることを決定。これによって家系はいよいよ切迫し、母のヒサだけでなく姉の冨士も内職に励み、足りない分は質屋で賄うような暮らしを送っていたそうです。

1911年 – 10歳「三重に転居」

再びの転校

再びの引っ越し

再び父の転勤により、梶井家は三重に引っ越すことになります。基次郎は鳥羽尋常高等小学校に転入し、そこでは「重役の坊ちゃん」として多くの人に囲まれた生活を送っていたようです。

この頃の基次郎は、成績も優秀でありながら、自然に囲まれた場所で子供らしく快活に遊び回るような学校生活を過ごし、とても充実した生活を送っていたようです。

家計の方も、宗太郎が昇進したことで多少は持ち直したらしく、苦しいながらも以前ほどの困窮は見られなくなっています。

1913年 – 12歳「祖母の死」

祖父母の死

この年の2月、大阪に残っていた祖父の秀吉が死去。さらにその4か月後には同居していた祖母のスヱも、肺結核によって死去してしまいます。

歴史好きの方ならご存じの通り、当時の肺結核は死病であり、感染性のある病です。更に悪いことに、基次郎たち兄弟は、祖母と飴の回し食い等をしていたため、この頃から梶井家の子供たちは結核の初期症状や、悪化してくる病状に苦しめられることとなってしまいます。

1916年 – 15歳「中学を辞め、丁稚として奉公に出る」

大阪に戻る

第一次世界大戦のはじまり

1914年に、理由は不明ですが梶井家は大阪に戻りました。大阪府立北野中学校に転入したこの頃の基次郎は、水泳と音楽を好み、人付き合いも悪くないながら、あまり目立たない生徒であったと記録されています。

そして1915年には日本が第一次世界大戦に参戦。陸軍・海軍工廠(こうしょう)の特別指定を受けた父は、多忙な日々を送ることとなり、基次郎とは少々疎遠になっていたようです。

異母弟のためにメリヤス問屋の丁稚に

1916年、優秀な成績で中学3年を終了した基次郎は、突如として中学を退学。メリヤス問屋で丁稚として奉公を始めます。その理由は、高等小学校を出たばかりの異母弟・順三が奉公に出されてしまったことへの同情だったとされています。

順三は異母兄に気兼ねして長崎へ移住しますが、基次郎の意を汲んだ父は順三を連れ戻すことを決定。これによって丁稚奉公をする理由がなくなった基次郎も奉公を切り上げ、翌年には中学に復学しています。

また、梶井家は祖父の遺産を用いて自宅を改装し、ビリヤード屋を開業。これが繁盛したことにより、しばらくの間梶井家の家計は安定していたようです。

1918年 – 17歳「文学への目覚め」

病の進行と文学への目覚め

本の魅力にはまり始める

この頃になると、基次郎の結核症状は目に見える程度には悪化。寝込むことも増え、学校を休むこともその分増えていきました。

そんな折、基次郎は兄から森鴎外の『水沫集』という作品集と、アンデルセンの『即興詩人』を差し出され、文学に目覚めたとされています。病状がひとまず落ち着き、兄の下宿に遊びに行った際には、兄が友人から借りていた『漱石全集』を読んでいたとも記録されており、文筆かとしての基次郎は、この頃に本格的に誕生したと言えそうです。

こうして文学青年となった基次郎は、とりわけ夏目漱石に傾倒していたらしく、手紙の中に漱石の書いた失恋の詩を書き写したり、自身の署名を「梶井漱石」としたりと、中々に熱烈な傾倒ぶりが記録されています。芥川龍之介に傾倒した太宰治とよく似たエピソードだと言えるでしょう。

1920年 – 19歳「結核の進行」

第三高校に入学

1919年に第三高校(現在の京都大学総合人間学部)に入学した基次郎は、中学時代からの友人たちと共に、オペラなどの音楽に耽溺する日々を送ります。当初こそ楽しい学生生活を謳歌していた基次郎でしたが、次第に憂鬱な心情を膨らませてしまい、年末ごろにはほとんど授業に出ない状態になっていたようです。

進行する結核

病気が進行していく

1920年の9月ごろ、体調が悪化した基次郎は、医者から「肺尖カタル」と診断されます。静養が必要な病気であり、母も基次郎に「学問は諦めた方がいい」と訴えますが、基次郎は納得せずに両親と論戦を展開します。

一度は基次郎が折れ、10月に静養を開始しますが、11月には再び学校に戻り勝手に復学。その頃から基次郎は日記を書き始めており、それは現在も重要な資料とされています。

理科系の職業を志す

この頃の基次郎は、エンジニアや理科の教師を志していたらしく、彼の文才を讃えていた友人・中谷孝雄と距離を置くようになっていきます。

また、当時の基次郎の日記からは、夏目漱石の『文学論』や西田幾多郎の『善の研究』、ウィリアム・ジェームズの心理学に影響を受けたと思しき箇所が多く見られ、ある意味若者らしい、梶井の流されやすい素直な性格が読み取れます。

1921年 – 20歳「失恋と幻の処女作」

梶井の恋と「幻の処女作」

失恋を糧に幻の処女作を執筆

なんとか進級した基次郎は、通学のための記者の中で出会った同志社女子専門学校の女学生に一目ぼれ。彼女に好意を伝えるために、エリザベス・バレット・ブラウニングやキーツの詩集を破って、彼女の膝に叩きつけるという暴挙に及びます。不器用なりの愛の告白だったのでしょうが、いささか不器用すぎますね。

案の定その好意は全く伝わらず、その女子学生から嫌悪されたことで、基次郎の恋はあえなく終了。梶井は、この失恋の経験を糧として処女作『中谷妙子に捧ぐ』を執筆し、友人の中谷孝雄と、その恋人(ただし基次郎は、彼らの関係を従兄妹だと思っていました)である平林英子に見せに行きますが、全く問題にされなかったようです。

その後『中谷妙子に捧ぐ』の原稿は、平林英子にプレゼントされますが、後に英子は原稿を紛失。『中谷妙子に捧ぐ』は、梶井基次郎の処女作でありながら、幻の作品となってしまったのでした。

異母妹の存在を知り、ショックを受ける

従業員と父の不貞が発覚

進級と同時に実家に戻った基次郎は、父である宗太郎が、自身が経営するビリヤード屋の従業員に手を付け、子供を産ませていたことを知ってショックを受けます。

その後、父は突如として会社を辞めてビリヤード屋の経営に専念。退職金を使って新たな店舗を開店しますが、徐々に経営状態は悪化していき、梶井家の家計は再び苦しいものになりつつありました。

「俺に童貞を捨てさせろ!!」酒に酔った末の奇行

この頃の基次郎は、酒に酔っての奇行が多く、周囲の人々を振り回す厄介者だったようです。

前述した「俺に童貞を捨てさせろ!」の騒動はもとより、酔った末に他の団体客が宴会をしている部屋に全裸で乗り込んで喧嘩をするなど、多くのハタ迷惑なエピソードが残っています。父親の浮気にショックを受けていた基次郎ですが、このあたりのハタ迷惑さは、明らかに父譲りの一面だと言えるでしょう。

1922年 – 21歳「劇研究会に入会」

これまでの生活を反省……?

攻撃的性格を強めていく

高浜虚子の『風流懺法』、佐藤春夫の『殉情詩集』、島崎藤村の『新生』に大いに影響を受けた基次郎は、これまでの自分の暮らしぶりを反省。劇研究会に入会し、舞台に出演するようになります。

しかしその反省は長く続かず、年末には奇行がエスカレート。焼き芋屋に牛肉を投げ入れる、ラーメン屋の屋台をひっくり返すなどの狼藉を働いたほか、生活状態も再び荒れ始め、年の瀬ごろには下宿を追い出され、実家で謹慎する羽目に陥っています。

この頃の基次郎の傍若無人ぶりには、友人たちも辟易していたらしく、中谷孝雄は後にこの頃の基次郎を指して「いささか狂気じみてきた」と回想しています。

『檸檬』の草稿を執筆

反省が切れ始めた9月ごろ、基次郎は『檸檬』の草稿に当たる「秘やかな楽しみ」を執筆しています。この頃の彼は周囲に迷惑をかけることの多い人物だったため、この草稿が唯一、彼がこの時代に残した後の成功への布石だったとも言えるでしょう。

1923年 – 22歳「「三高の主」梶井基次郎」

「三高の主」梶井基次郎

これまでの傍若無人な放蕩生活が祟った基次郎は、2度目の留年。実家での謹慎を終えて学校に戻った基次郎は「三高の主」として校内で好奇の目で見られる存在となります。

この頃の基次郎の容貌は、破れてボロボロの学帽を被り、肩からも同じくボロボロのズックカバンを下げ、釣鐘マントに下駄ばきという、たしかにかなり特異なもの。さらに理科系の学生でありながら文学を好んでいるという特殊さも、「三高の主」の有名を轟かせる要素となっていたのかもしれません。

劇研究会に公演中止命令が下る

公演を準備していた基次郎ら劇研究会でしたが、10月にその公園に対する中止の命令が下ってしまいます。表向きの理由は「関東大震災後の自粛」という事でしたが、実際には同志社女子専門学校の女子生徒二人を出演させることへの反対が、中止命令の理由だったようです。

この決定に怒り狂った基次郎は、払い戻し作業を終えるや否や、仲間たちと共に「カフェ・レーヴン」で泥酔。乱痴気騒ぎを起こしたあげくに、道端の看板を壊すなどして暴れ回り警察に捕まった他、ヤクザと喧嘩をしてビール瓶で殴られ気絶するという醜態をさらしています。

1925年 – 24歳「同人誌『青空』を創刊」

同人誌『青空』

同人誌の刊行

前年に当たる1924年に、基次郎は5人の文筆仲間と共に同人誌の創刊を企画します。

基次郎は当初、同人誌のタイトルについて「『薊』がいい」と主張していましたが、最終的には平林英子が中谷孝雄に提案した『青空』に決定。基次郎もこれには反対せず「良い名前だ」と賞賛していたと言われています。

基次郎はこの創刊決定の際に、中谷と共に月見を行い、そこで作家として生きていく決意を語ったそうです。

『青空』創刊号に『檸檬』を発表

この年の1月に、同人誌『青空』が創刊。その創刊号に掲載された作品こそが、後の梶井基次郎の代表作となる『檸檬』でした。

しかし発刊された『青空』は全く話題にならず、掲載された『檸檬』についてもほとんど反響がない状況でした。その理由としては、梶井が「文壇の作家と言えど、本は金を払って読む義務がある」と主張し、湯治は当たり前に行われていた文壇作家への寄贈を拒否したからだと言われています。

しかしここまでの反響の無さは流石に想定外だったのか、彼は以降しばらくの間、神経衰弱にも似た焦りに突き動かされながら生きていくことになってしまいます。

1926年 – 25歳「『Kの昇天』を発表」

焦りの中で『Kの昇天』を発表

『青空』への反響の無さに焦りを覚えた梶井は、悪化する体調を抱えつつも『青空』の広報活動を行い、10月には『Kの昇天』を発表。『青空』第20号に掲載しました。

この頃の梶井には、思ったような反響の無さに対しての焦りだけでなく、悪化する結核と自身の寿命への焦りもあったらしく、かなり忙しなくあちこちを動いていた様子が記録されています。

病状の悪化により伊豆へ向かう

川端康成

焦りに突き動かされての無理がたたった梶井は、病状が悪化。特に喀血が酷くなり、「卒業証書を貰うよりも文学で身を立てた方がいい」という三好達治の言葉もあって、伊豆での療養を決意します。

しかし伊豆へと向かう道すがら気が変わった梶井は、川端康成のいる湯ヶ島温泉へ進路を変更。そこでしばらく療養をしながら、川端の『伊豆の踊子』の校正などに携わっていたようです。

1927年 – 26歳「『青空』が廃刊」

『青空』の廃刊が決定

この年の6月、『青空』のメンバー3名が相次いで同人からの脱退を表明。これにより『青空』は廃刊となることが決定されてしまいます。

梶井は別の同人誌『糧道時代』を創刊するという企画に誘われますが、『青空』に愛着を持っていた彼はこの誘いを辞退。『青空』の再興を夢見ていた梶井でしたが、残念ながらその夢が叶うことはありませんでした。

1928年 – 27歳「宇野千代をめぐり、尾崎士郎と対決する」

宇野千代に恋をする

宇野千代

1927年6月、『青空』が廃刊した直後、川端康成が湯ヶ島に呼び寄せた友人たちと交流を持った梶井は、その中の一人である宇野千代という女性に惹かれることになります。宇野はとても魅力的な女性だったらしく、梶井だけでなく多くの文士から好意を持たれていたようです。

しかし宇野は既に尾崎士郎と結婚しており、梶井は一方的に尾崎のことを敵視していたようです。

そして1928年の1月には、梶井の挑発によって尾崎との大喧嘩が勃発。殴り合いの寸前まで事は悪化しましたが、同席していた三井勝人の仲裁で、なんとか場は収まったと記録されています。

そしてその日の夜、興奮が体に障ったのか、梶井は一晩中血を吐き続けたと言います。梶井の死まであと4年ほど。彼を蝕む病魔は、いよいよ取り返しのつかないところまで彼を侵しつつありました。

1929~1930年 – 28~29歳「父の死と母の入院――道徳的呵責――」

父の死により生活を反省

身内も自身にも病魔が襲いかかる

1月4日に、父の宗太郎が死去。基次郎の贅沢な暮らしのために退職金が底をついたことを知り、その悲しみから逃れるための飲酒を続けた末の死でした。

父の死を受け、基次郎はようやく自身の生活態度を反省。この時の自身の感情のことを、彼は「道徳的呵責を痛感した」と表現しています。

しかし基次郎の体調も、父のことを言っていられないほどに重篤化。この頃の基次郎の肺には、既に卵ほどの大きさの穴が空いていたほか、毎日のように血痰を吐くような状況だったと伝わっています。

母の入院

父の死の翌年に当たる1930年2月には、今度は母のヒサが肺炎や腎臓炎で入退院を繰り返す事態になってしまいます。基次郎は自身も高熱や呼吸困難に苦しみながら、毎日のように見舞いに行っていました。

この頃の基次郎は、胃炎や痔疾などの多くの疾患を抱えながら、「僕のその日暮しの生活をそのまゝ書いて見たく思つてゐる」と、次回作の構想を練っていたようです。

1931年 – 30歳「作品が評価され始める」

『交尾』により評価を受け始める

初めての原稿料を受け取った

雑誌『作品』に掲載された『交尾』が、井伏鱒二によって高く評価されたことにより、ようやく梶井の作品が世間的に認められ始めます。『交尾』は井伏だけでなく、宇野千代を巡って争った尾崎士郎からも好評を受け、梶井はそれに手ごたえを感じていたそうです。

しかし、そんな評価の高まりとは裏腹に、梶井の体調は加速度的に悪化。高熱や呼吸困難が続き、ほとんど布団から起き上がれないような状態になりつつありました。

初めての印税と原稿料

『交尾』で好評を得た後の5月、創作集である『檸檬』が刊行。これによって梶井は、初めて印税を手にすることになりました。印税の金額は75円、そのほとんどが梶井家の生活費に消えたという事まで、その使い道は細かく記録されています。

『交尾』と創作集『檸檬』によって名を挙げた梶井には、ようやく原稿の依頼が舞い込むようになりました。これ幸いにと、彼は次々と作品を発表。11月ごろには依頼原稿である『のんきな患者』を脱稿し、これによって初めての原稿料、240円を手にしました。

1932年 – 31歳「悟りの末の死」

悟りの末に旅立つ

病に倒れる

この年の2月ごろになると、病状はいよいよ末期化。喋ることどころか呼吸すらままならなくなり、顔は2倍ほどの大きさまで腫れあがってしまっていたと記録されています。

それでも執筆を続けようとした梶井でしたが、3月中旬にはいよいよ日記の記述も途絶えています。寝たきりの状態のまま、顔を覆う浮腫や呼吸困難に苦しむ彼に、母は「まだ悟りというものが残っている。悟れたならその苦痛は無くなるだろう」と声を掛けたそうです。

母のその言葉を聞いた梶井は「悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と合掌。母や弟に迷惑をかけたことを詫びながら目を閉じ、そのまま翌日の午前2時に帰らぬ人となりました。享年は31歳。遺体は日蓮宗常国寺の梶井家代々の墓に葬られています。

梶井基次郎の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

檸檬

「梶井基次郎と言えばこの作品!」という不朽の名作です。

文学的でありながら、どこか刹那的な享楽性やくだらなさを感じる、梶井らしさ全開の作品。読む人によって感じ方の違う、梶井ワールドの入門にはぴったりな作品だと言えるでしょう。

桜の樹の下には

「桜の木の下には死体が埋まっている」

そんな衝撃的な書き出しの作品です。何故桜の木の下に死体が埋まっているのか?哲学的なようで単純。単純なようで哲学的な問いを、美しい文体で表現した紛れもない名作の一つです。

Kの昇天

「梶井基次郎」という人物を知るためには、『檸檬』や『櫻の樹の下には』よりもこちらを呼んだ方が良いかと思われます。

夏目漱石への憧憬や、自身の病状に対する不安などが作品世界にちりばめられ、梶井が抱いていた「死」へのイメージなどが克明に記された一作です。少々難解ではありますが、読むだけの価値は間違いなくある本だと思います。

交尾

当時の文壇における、梶井の出世作です。

現在の価値観でこそ茶化す人も多そうなタイトルですが、内容は茶化す隙のない程に美しい自然の描写に満ち溢れた作品となっています。「死」が身近過ぎたが故に見える、美しい「生」の描写。当時の文壇で評価されたことが頷ける、筆者個人としては梶井作品の最高傑作と思える作品です。

文豪ストレイドッグス(2)

少々変化球ですが、梶井基次郎をモチーフにしたキャラクターが登場しているためご紹介。

文豪をキャラクター化した、昨今流行りの「擬人化もの」作品の一つです。史実に則しているとは正直言い難い作品ですが、キャラクターの濃さや独特の世界観は、それぞれの作品に興味を持つには丁度いいかと思います。

この作品での梶井は、なんとマフィア所属のテロリスト!「キャラ付けにしてもやりすぎだろ!」と怒る方もいらっしゃるかもしれませんが、一度『檸檬』を読んでから本作を読むと、少しその見方が変わるかもしれません。

上記の本以外にも、さらに詳しく梶井基次郎の書いた作品を以下の記事で紹介しているので、読んでみてください。

梶井基次郎のおすすめ本・小説9選【代表作品から東京時代、湯ヶ島時代まで】

おすすめドラマ

BUNGO-日本文学シネマ- 檸檬

『檸檬』をドラマ化し、少々ストーリー要素を加えた作品です。とはいえ話の主軸は全くぶれていないため、原作ファンや末読者でも楽しめる作品となっています。

主演を務めるのは佐藤隆太さん。熱血漢の印象が強い俳優さんですが、ナイーブな主人公を見事に演じ、人気俳優としての実力を発揮してくれています。

関連外部リンク

梶井基次郎についてのまとめ

正直なことを言うと、筆者は梶井基次郎があまり好きではありません。

「ここまで書いておいて何を言うんだ記事の信ぴょう性下がるだろうが」と思った方、懸念は最もですが、そういうことを言いたいわけではありません。

最初の文章を正確に言うなら、「私は梶井基次郎の”人間性”があまり好きではありません」です。

基本的に「クズ」と呼ばれるような生活を送り、周囲に迷惑をかけながらも、その生活ぶりを貫き通せるほど覚悟が決まりきってもいない。太宰レベルにひどすぎる人間性であれば、むしろ好きになれたのですが、やはり梶井の妙なところの冷静さや人間臭さは、どうにも好きにはなれません。

しかし翻って、梶井の作品自体の美しさには、たまらなく感じ入るところがあります。筆者も一応は文章書きの端くれという事にはなるのですが、梶井の生み出し多くの美しい言葉は、私からは逆立ちしても出てきそうにありません。文章表現という意味では、梶井基次郎は憧れの人物でもあります。

つまり何が言いたいかというと、皆様にもぜひ「梶井基次郎の作品を読んでほしい」ということです。この記事だけを読んで遠ざけるにはもったいない、美しい文学の世界がそこには確かに存在しています。

それでは長い記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました!

1 COMMENT

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萩原朔太郎の『本質的な文学者』という小話には「梶井君のやうな男は、友人としてはちよつとやりきれない男である。やりきれないといふのは、こつちが神經的に疲れてしまふのである。」とあります。もしかしたらミズウミさんが梶井基次郎を好きになれないのは、こういう梶井の性格なのかもしれないですね。

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