白洲正子の生涯年表
1910〜1928年 – 1〜18歳「伯爵家の「不機嫌な」少女」
末っ子正子
正子は1910年1月7日、伯爵であった樺山愛輔と常子の次女として生まれました。16歳も離れた泰子という姉と、9歳上に兄として丑二がいました。
幼少期は富士の裾野にある御殿場の別荘で多くの時を過ごします。ここで野山の植物を愛でるようになり、晩年に家で身近な花々を活けて生活を彩る習慣はこの頃培われたようです。
能との衝撃的な出会い
1913年に学習院女子部幼稚園に入園します。人見知りがひどく、一人でいることが好きな少女で、自伝では「不機嫌な子供であった」と書き残しています。
1914年、靖国神社で梅若万三郎と六郎の兄弟が「猩々」を舞う姿に衝撃を受け、能を習うようになります。はじめは女性の先生に手ほどきを受け、1921年から梅若六郎(後の五十四世梅若六郎)に能を習い始めます。1924年、「土蜘」で初めて女性として能舞台に立ちました。
1916年、学習院女子初等科に入学します。ここで終生の友となった松平節子(後の秩父宮勢津子妃殿下)と出会いました。
アメリカの学校に留学
1924年9月より、アメリカのニュージャージー州にある全寮制女子校、ハートリッジ・スクールに入学します。そのままアメリカの大学で学ぶつもりで入学試験も受かっていましたが、1927年に日本で起きた金融恐慌の影響で帰国を余儀なくされました。
「次郎さん」に一目惚れ
1928年、金融恐慌の煽りを受けてイギリス留学から帰国していた白洲次郎と出会います。お互いに一目惚れでした。次郎が「お嬢さんを頂きます」と正子の父に話し、小切手を取り交わしただけで結婚を決めます。次郎26歳、正子18歳でした。
1929〜1940年 – 19〜30歳「白洲次郎の妻になる」
次郎と結婚
1929年、次郎と結婚し白洲正子となります。結婚祝いに次郎の父が贈ってくれた「ランチア」というイタリア車でハネムーンを楽しみました。
3人の子供を出産
正子は20代で3人の子供を出産していますが、この間何度か生死を彷徨う大病に冒されます。長男を出産後は産褥熱にかかり、次郎の仕事の関係でヨーロッパ滞在中には子宮外妊娠で卵管破裂、腸捻転と二度の手術を受けました。
1941〜1972年 – 31〜62歳「第二の人生が始まる」
鶴川に疎開
1940年から正子初の著作「お能」の原稿を書き始めます。1941年に太平洋戦争が勃発し、1942年には東京での空襲が始まったことから、以前購入していた鶴川村能ヶ谷(現在の町田市能ヶ谷)の皮葺屋根の農家に移り住みました。「お能」が刊行されたのは1943年です。
韋駄天お正の誕生
鶴川に移住した頃までは、正子曰く「まだ何者でもない女」でした。そんな彼女が ”何者か” になろうとするきっかけとなったのが、文士たちとの出会いです。
正子は戦前に軽井沢の別荘で隣人であった河上徹太郎と知り合っていました。文芸・音楽の評論家として知られる河上との繋がりから、正子は戦後、小林秀雄や青山二郎ら文士との交流が始まるのです。
彼らの集いは「青山学院」と呼ばれていました。互いに全力で向き合い、親密な関係であるからこその鋭い言葉で批評し合いました。相手を泣かせるのは日常茶飯事で、正子は胃潰瘍になって吐血するほどでした。それでも彼らの深い人間関係に憧れ、一員になろうと正子は通い続けたのです。
この頃には文筆家になりつつあった正子でしたが、青山には原稿を半分以上削られることもありました。「辛くても楽しい」日々だったようで、青山は駆けずり回っている正子に ”韋駄天お正” というあだ名をつけていました。
骨董
骨董の目利きが天才的だった青山二郎との出会い以降、正子は骨董の世界に没頭していきます。高価な骨董ですが、飾っておくのではなく、日常で使って味わうのが正子の骨董の愛し方でした。
正子にとって、本気で見た時に自分が好きで気に入ったものが全てでした。ただし、青山二郎や小林秀雄の意見だけは別物で、彼らに散々に罵られると気落ちし、悔しがり、今度こそ鼻をあかしてやろうとまた更に骨董の深みへ自ら沈んでいきました。
「こうげい」の経営者
1955年、銀座の染織工芸店「こうげい」の開店に協力し、翌年からは経営者となります。仕事を通して、柳宗悦の甥にあたる織物の大家であった柳悦博や、まだ当時大学生の三宅一生とも交流がありました。
着物を扱う店であったこともあり、40代の正子は和装がほとんどでした。襟を抜かないで着こなすのが正子流で、半幅帯を好み、自分に ”似合う” 着物を纏いました。
骨董と同様、着物選びも自分の美意識に叶うかどうかが全てでした。そして、和装は調和が重要だと考え、着物と帯との兼ね合いを大切にしていました。和装のコーディネートのお手本として、正子の着物の着こなしは現在でも参考にされる方が多くいます。
女に能はできない
幼少期から始めた能は40代まで稽古に励み、1960年には免許皆伝も授かります。しかし1959年に五十四世梅若六郎が他界して以降、能の世界から徐々に遠ざかるようになりました。正子は自伝で、「女には能はできないと悟った」と書いています。
ただし、能に対する関心は薄れることがなく、能面を訪ねて全国を歩き回り「能面」という解説書を出版しています。1963年に刊行されたこの本は小林秀雄に絶賛され、第15回読売文学賞を受賞しました。
巡礼の旅
1964年、東京オリンピックが開催されて日本中が盛り上がったこの年、正子はそんな喧騒をよそに西国三十三ヶ所観音巡礼の旅に出ます。この旅で近江が日本文化の発祥の地であると感じ、近畿の村里を訪ね歩くようになりました。
その旅の結晶が1971年に出版された「かくれ里」です。1972年、正子はこの作品で第24回読売文学賞を受賞しました。
1973〜1998年 – 63〜88歳「親しい人たちを見送る晩年」
文筆家として大成
1970年、正子は「こうげい」の経営を知人に譲り、執筆活動に専念するようになります。これまで得た経験、知識、思考の数々が、60代以降の作品で一気に花開きました。
能、骨董、着物はもとより、巡礼の旅で感じた日本文化の魅力、アメリカ留学時代から親しんできた古典文学の世界についても作品を発表しています。人物論も多く、中でも70代に出会った平安後期の歌人西行には深い思い入れを持って、足跡を辿り続けました。
夫や友人たちの死を乗り越えて
一方、正子を支え、ある意味 “白洲正子” を共に作り上げてきたとも言える親しい人々との別れも巡ってきました。1979年には青山二郎が、1983年には小林秀雄が亡くなります。
そして1985年11月28日、次郎が息を引き取りました。「葬式無用、戒名不用」という次郎の遺言は有名ですが、正子はその通り遺族だけで酒盛りをして次郎を見送ったのです。
かつて青山二郎は正子に、「あんたは白洲次郎がいないと、糸の切れた凧のようにどこに飛んでいくかわからなくなる。決して白洲次郎から離れてはいけないよ」と説教したと言われています。
次郎が亡くなってからも正子は次郎の握っていた凧糸を感じながら生き続けたのでしょう。次郎亡き後も旺盛な執筆活動は止まることを知らず、迷うことなく晩年まで走り続けました。
正子の最期
1998年6月、多田富雄の著作「ビルマの鳥の木」の解説執筆が最後の仕事となりました。12月26日、入院していた日比谷病院で肺炎のために息を引き取りました。享年88歳でした。
白洲正子の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
白洲正子自伝
正子が人生を回想している本ですが、あちこちに話が逸れたり、面白いエピソードを品よく取り入れたり、正子の信念が垣間見られたりと、とても魅力的な自伝本です。
白洲正子のすべて
正子自身の写真はもちろん、愛した骨董や近江の風景、遺品、手紙、そして次郎との貴重な写真などもふんだんに取り入れられて、正子の世界が目で楽しめます。
遊鬼ーわが師わが友
正子が魂でぶつかって交流した人々について書いたエッセイです。青山二郎や小林秀雄など、生き方自体が面白い人たちのことなので、題材だけでも興味深いですが、それを正子が簡潔に、魅力的に書いています。人との出会いが人生を形作ることを教えてくれる良書です。
おすすめの動画
ハイビジョン特集 白洲正子が愛した日本
正子が暮らした武相荘で、正子と交流があった文化人たちが語る生前の正子の姿は、ただただ潔くてかっこいい女性です。
→ 動画をみる
白洲正子の世界ーかくれ里ー
正子の名著「かくれ里」に出てくる貴重な寺社や仏像を、落ち着いた音楽とナレーションをつけて映像化したものです。映像がつくことで、正子が「かくれ里」で感じたことがよりリアルに立ち上ってきます。
おすすめの映画
宝塚歌劇 宙組 宝塚大劇場公演 黎明の風
白洲次郎を主人公にしたミュージカルです。正子との出会いのシーンも描かれます。戦争や憲法など重たいテーマを扱っていますが、見やすく仕立てているあたりはさすが宝塚ですね。
おすすめドラマ
NHKドラマスペシャル 白洲次郎
『るろうに剣心』の監督大友啓史が製作したこのドラマは、音楽も演出も白洲夫妻のスタイリッシュなイメージに合った素晴らしい作品で、文化庁芸術祭賞優秀賞を受賞しました。配役も見事で、次郎役の伊勢谷友介と正子役の中谷美紀は出で立ちもさることながら、流暢な英語も披露しています。
負けて、勝つ〜戦後を創った男・吉田茂〜
『カルテット』などの脚本で知られる坂元裕二が書いたドラマで、主演の渡辺謙が吉田茂を演じています。白洲次郎と吉田茂の関わりも描かれていて、戦後史が理解しやすい作品です。
関連外部リンク
白洲正子についてのまとめ
婚約時、次郎が正子に贈ったポートレートにはこんなメッセージが添えられています。
“You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals.” (君こそ僕の発想の源であり究極の理想だ。)
結婚・出産の後に好きなことを極めようと正子は第二の人生を歩むようになります。次郎は婚約時から、正子は信念を持って生きることができる女性だという片鱗を見出していたのでしょう。
何事にも筋を通す次郎にとって、それは何より大事なことであり、そんな正子の素質を伸ばすことが夫としての役割だと考えていたのかもしれません。正子は恵まれすぎた人生だと自伝で書いていましたが、次郎との出会いが正子の世界の扉を開く鍵だったように思えます。
この夫婦を見るにつけ、互いに凭れかかるのではなく、それぞれが自らの意思できちんと立ちつつも見守ることのできる関係が夫婦の究極の理想であると感じます。自らの生き方を諦めずに邁進することがよりよい夫婦関係につながるということを、次郎と正子は教えてくれているのです。