ジュゼッペ・ガリバルディの生涯・歴史まとめ【名言や功績、年表も紹介】

ガリバルディは19世紀に活躍したイタリアの軍人です。いくつもの小国に分かれていたイタリアの統一に貢献し、カヴ―ル、マッツィーニと並び「イタリア統一の3傑」の1人とされてます。現在のイタリア国内では知らない人はいないほど有名で、イタリアの町にはガリバルディの名前を冠した通りや広場が必ずと言っていいほどあります。

さらに、ローマ・ミラノ・ジェノヴァ・ナポリなどの主要都市の駅前や中心部にも巨大なガリバルディの銅像が建てられています。まさにイタリアにおける「国民的英雄」といえるでしょう。

彼は、1849年のローマ共和国攻防戦にて圧倒的な兵力のフランスを相手に激戦を繰り広げ、さらには1860年の第二次イタリア統一戦争で両シチリア王国を滅ぼして、イタリア統一に大きく貢献します。イタリアの新たな指導者となってもおかしくない存在でしたが、彼は占領した領地をサルデーニャ王に無条件に献上しイタリア統一を完成させたのです。自らの地位ではなく国家の統一を優先したこの行動は、美談として後世広く伝わることになりました。

さらに、イタリアでの革命行動を本格化させる以前は、南米で抑圧された人々のために革命活動を展開していました。南米とイタリアそれぞれで功績をあげたことから、ガリバルディは「二つの世界の英雄」とも呼ばれています。

今回は、小学校2年生の時に世界史人物事典でガリバルディを知り、「英雄」としての彼を尊敬していた筆者がお送りいたします。ただ、「英雄・ガリバルディ」と実際のガリバルディには少しギャップがありましたので、その部分も楽しんでいただけると嬉しいです。

ガリバルディの来歴は?

ガリバルディの基本情報は?

名前ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)
誕生日1807年 7月4日
没日1882年 6月2日
生地フランス ニース
没地イタリア カプレーラ島
配偶者アニータ・ガリバルディ、ジュゼッピーナ・ライモンディ
埋葬場所イタリア カプレーラ島

ガリバルディの残した功績は?

彼は軍人として様々な功績を残しましたが、やはり「イタリア統一」に貢献したことがハイライトでしょう。19世紀後半になると、イタリア北部のサルデーニャ王国が台頭し、イタリアの統一に乗り出します。しかしサルデーニャがイタリアを統一するには、隣国のフランス・オーストリアの介入を防ぎながら、これら小国を統合するという高難度な事業を完遂する必要がありました。

ガリバルディは、イタリア南部の両シチリア王国を滅ぼし、統一事業に多大な貢献をしました。さらに得た領地をサルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に無条件で献上し、自身は引退してしまいます。

実は、ガリバルディはサルデーニャの正規軍ではなく「義勇軍」としてこの戦いに参加していたので、彼はイタリア南部の支配者として振る舞い、独自の統一活動を進めることもできる立場でした。しかし、自身の地位や理想の実現ではなく、自身の母国イタリア統一を優先させたのです(実際は、カヴールの策略によるものでしたが…)。

この話は「テアーノの握手」という名の美談として広く伝わることになりました。ただ、実際のテアーノの会談はそれほど感動的なものではなく、事務的な武装解除の話し合いに過ぎなかったそうです。

ガリバルディの参加した戦争は?

彼は生涯の多くを戦いに費やしました。1835年に、ブラジルに渡ってから本格的な革命闘争を開始し、1841年からはウルグアイに拠点を移して、抑圧された民衆のために戦いました。

1848年にイタリアに帰国すると、2度のイタリア統一戦争を戦い、母国の統一に大きく貢献しています。さらに、1866年の普墺戦争にも参加し、イタリア王国のヴェネツィア回収にも貢献しました。

通算戦績は、53戦34勝15敗4分だそうです。

ガリバルディの「赤シャツ隊」とは?

ガリバルディの義勇軍は「赤シャツ隊」という名で非常に有名です。その名声はイタリア中に轟き、後の独裁者ムッソリーニもこれを真似て、「黒シャツ隊」という部隊を作っています。第二次イタリア統一戦争で赤シャツ隊は勇ましい戦いぶりを見せ、イタリア南部の両シチリア王国を滅ぼしました。

さらに、その領地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、イタリア統一に大きく貢献しました。なお、構成人数が約1000人だったことから「千人隊」とも呼ばれています。

制服である赤シャツは、ガリバルディがウルグアイで義勇軍を率いていた時に生まれたものでした。戦争のために出荷できずに倉庫に積んであった食肉加工用の赤いシャツを安く買い取り、義勇軍の制服にしたそうです。

ただ、イタリア統一戦争時には、赤シャツ隊全員のユニフォームだったわけではなく、着ていたのはガリバルディ含めほんの一部だった模様。また、ガリバルディの赤シャツは戦場では非常に目立って敵の標的となったので、隊員は彼の前に立ち、身を挺して彼を守ったそうです。

ガリバルディのルックスは?

サルデーニャ海軍に入隊した時の記録によると、身長は166センチ、髪はブロンドで目は栗色をしていたそうです。数々の武勲を残したガリバルディですが、意外にも小柄な体型でした。

また、彼と親交があった作家のグエルツォーニによると、いわゆる「イケメン」ではなかったそうですね。ただ年を重ねると、長い髪と立派なひげを蓄え、威厳のある佇まいを見せていきます。その姿を民衆はイエス・キリストに重ねたそうで、イケメンというよりも人を惹きつけるオーラを持っていた人だったのでしょう。

ガリバルディの特技は?

ガリバルディは船乗りをしていたこともあり、語学に秀でていました。ニース出身だった彼はイタリア語とフランス語が母語の出自でしたが、航海中に英語とドイツ語を覚え、南米にわたってからはスペイン語とポルトガル語を勉強していたそうです。

また、イタリア統一後にカプレーラ島で暮らしていた時も、英語とフランス語の新聞を読みこなし、ヨーロッパの政治情勢には精通していたそうです。当時は識字率でさえ高くない時代だったので、彼の語学力は相当のものだったといえるでしょう。

ガリバルディは一体何がすごいのか?

すごさ1「ゲリラ戦術の名手」

ガリバルディは「ゲリラ戦術」の達人として知られています。ゲリラ戦術とは、小規模の部隊を活用して、奇襲や待ち伏せなどによって敵を攻撃・攪乱する戦術のことです。

彼は南米にわたって革命活動を展開する中で、このゲリラ戦術を身に付けていきました。1846年のサン・アントーニオ・デル・サルトの戦いでは、少数の部隊でアルゼンチンの騎馬隊を破り、大きな武勲をあげたこともあります。その後も、彼はこの戦術を用いて、物量では劣る相手に何度も勝利を収めました。彼のゲリラ戦術は、あのチェ・ゲバラも参考にしたといわれています。

すごさ2「世界中を駆け巡ったガリバルディの名声」

英雄ガリバルディの名声は、世界中を駆け巡りました。ロシアの無政府主義者バクーニンは、シベリアに流刑されていた時、「いつかガリバルディが救ってくれる」と老婆が話すのを聞いたといいます。

明治期の日本でもガリバルディは注目される存在で、彼に関する書物が複数出版されていました。明治期を代表するジャーナリストの三宅雪嶺は、西郷隆盛と比較してその人物像を論じています。歌人・与謝野鉄幹も「人を恋ふる歌」の歌詞にガリバルディを登場させています。

ガリバルディの名言は?

酒の神は、海の神よりもずっと多くの人間を溺死させた。

我々が何処に退こうとも、戦う限りローマは存続する

ガリバルディにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1 「民衆からは救世主扱い」

彼の武勇とルックスは、カリスマ性を秘めるものでした。彼の長い髪と立派な頬ひげ、痩身なスタイルに、民衆はイエス・キリストを連想し、救世主として彼を讃えたそうです。

彼の着用した赤シャツの切れ端や吸いかけの葉巻、毛髪などは、「聖遺物」のように礼拝の対象となったと言われています。20世紀に入っても、シチリア島や南部イタリア地域の農村部では、彼の肖像画は祭壇に置かれて、祈りがささげられていたそうです。

都市伝説・武勇伝2「『オールレーズン』とガリバルディ」

読者の皆様は、東ハトの「オールレーズン」というお菓子をご存知でしょうか?生地にレーズンが練りこまれたクッキーで、1972年に発売されて以来多くのファンを獲得しているロングセラー商品です。

この「オールレーズン」は、「ガリバルディ・ビスケット」(「ガリバルディ」のみで呼ばれることも)というイギリスのお菓子を参考に作られたといわれています。1864年にガリバルディはロンドンに招待され、国民から熱烈な歓迎を受けました。そのフィーバーに便乗して売り出されたのが「ガリバルディ・ビスケット」なんだそうです。

当初は保存食としての色彩が強かったようですが、現在のイギリスではクラシックなお菓子として愛されています。日本のロングセラー商品とも意外なつながりがあったようですね。

ガリバルディの生涯歴史年表

ガリバルディの早見年表

1807年
ニースで生まれる
父ドメニコと母ローザとの間の第三子として誕生しました。父親は地中海の沿岸都市を廻る船乗りをしていました。当時のニースはフランス帝国領だったので、ガリバルディはフランス人として生まれたことになります。
1833年
マッツィーニ主義との出会い
船乗りになっていたガリバルディは、ロシアの港・タガンログに寄港します。そこで、革命家ジュゼッペ・マッツィーニが、オーストリアからの独立と共和制によるイタリア統一を目標とする「青年イタリア」という組織を結成したことを知りました。

彼はこの話に多大な影響を受け、以後イタリアの自由のために身を投じていきます。

1834年
海軍を脱走し、死刑判決を受ける
マッツィーニ主義者がジェノヴァで革命行動を起こす日に、ガリバルディはこれに参加すべく海軍を脱走しました。しかし、現地の向かう途中で決起の失敗を知り、そのまま逃亡したようです。逃亡先のマルセイユで自分に死刑判決が下っていることを知りました。
1835年
1835年にガリバルディはブラジルに亡命し、1848年までの13年間を南米で過ごすことになり、その間にゲリラ戦を中心に戦闘経験を積んでいきます。

1837年から、王国からの独立運動を展開していたリオ・グランデ・ド・スール共和国を支援し、私掠(しりゃく)船を使った革命活動を行いました。

1841年
ウルグアイに活動の拠点を移す
ブラジルでの戦いに苦戦していたガリバルディは、ウルグアイのモンテビデオに拠点を移します。後に「大戦争」と呼ばれるウルグアイ内戦に参加し、アルゼンチン軍とたたかいました。

1846年のサン・アントーニオ・デル・サルトの戦いでは、少数の部隊でアルゼンチンの騎馬隊を破り、大きな武勲をあげました。彼の活躍は母国イタリアにとどまらず欧州中に知れ渡りました。

1848年
イタリアに帰国
1848年にオーストリアとフランスで革命が発生したことを受けて、第一次イタリア独立戦争が発生しました。これを聞いたガリバルディは1848年6月に帰国、革命の英雄として迎えられ、オーストリア軍と戦うことになります。
1849年
ローマ攻防戦
1849年2月、マッツィーニの指導の下、ローマ共和国が生まれます。すると、ローマ教皇の救援依頼を受けたフランス軍がローマ共和国へ軍事干渉を開始しました。

ガリバルディはこの戦いに参加し、ジャニーコロの丘にてフランス軍を敗走させる奇跡的な勝利をあげましたが、結局は圧倒的な兵力差の前に敗戦。アメリカ・ニューヨークに亡命し、その後1855年にカプレーラ島を購入し、再起の時を待ちます。

1859年
第二次イタリア統一戦争
1859年、オーストリアの宣戦によって第二次イタリア統一戦争が勃発しました。ガリバルディは義勇軍を率いてサルデーニャ王国軍に加勢し、オーストリア軍を打ち破りました。
1860年
5月 両シチリア王国を征服する
イタリア統一戦争のさなか、ブルボン家が支配する両シチリア王国で悪政に耐えかねた民衆が反乱を起こしました。ガリバルディはこの反乱に加勢し、『赤シャツ隊』を組織します。

ガリバルディ率いる『赤シャツ隊』はシチリアを制圧し、さらにはナポリへの入城を果たします。イタリア南部は完全に彼の手に落ちました。

1860年
10月 テアーノの会見

ガリバルディはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と会見し、手に入れたイタリア南部の領地を献上すすることを表明しました。ここにイタリア統一事業は一応の完成を見ることとなり、1861年にイタリア王国が成立しました。

1866年
普墺戦争に参加する
ガリバルディは普墺戦争にプロイセン側として参加し、オーストリア軍を撃破しています。戦いはプロイセンが勝利し、サルデーニャはヴェネツィアの回収に成功しました。
1882年
死去

隠居生活を送っていたカプレーラ島で亡くなりました、享年74歳。家族葬をしてから死を公表するように言い残していましたが、政府は遺言に反して盛大な国葬を執り行いました。

ガリバルディの具体年表

1833年 - 26歳

マッツィーニ主義との出会い

貸客船クロリンダ号に船乗りとして乗っていたガリバルディは、ロシアの港・タガンログに寄港します。そこで、革命家ジュゼッペ・マッツィーニが、革命組織「青年イタリア」を結成したことを知ります。彼はこの話に大きな影響を受け、マッツィーニの思想は彼の革命精神の根底を築くことになりました。彼は『回想録』にて、その時の衝撃をこのように綴っています。

「祖国に救済に専念している人を見出して、コロンブスがアメリカを発見した時でさえ感じなかった喜びを感じた」

マッツィーニとは、イタリア統一を目指した弁護士出身の革命家です。ガリバルディとカヴールに並んで「イタリア統一の三傑」の一人に数えられています。マッツィーニを理解する上で最も重要なことは、彼が熱烈な共和主義者だったことです。つまり、君主制を否定し、民主主義に基づく政治を目指す人物でした。彼は、イタリアをオーストリアから独立させ、共和制によるイタリア統一を実現すべきだと主張します。それを実現すべく結成された革命組織が「青年イタリア」でした。ガリバルディはマッツィーニに深く心酔し、彼に手紙を書いたり、購入した船に「マッツィーニ号」と名付けたりしていました。

マッツィーニとの関係性の変化

マッツィーニを深く尊敬していたガリバルディですが、1848年にミラノでマッツィーニと初めて会見すると、彼と距離を置くようになります。自らの理想にこだわり、現実的な判断ができないマッツィーニの姿に幻滅したといいます。サルデーニャ王国のガリバルディはマッツィーニとの初めての会見についてこう綴っています。

「称賛に値する共和主義思想で、私の愛と尊敬を集めた人物であったが、率直に言って、彼と会い、話を聞きながら、彼への尊敬の念を失った」

しかし、マッツィーニ主義はガリバルディの思想的源流となり、サルデーニャ王国からもガリバルディは共和主義者として認識されることとなります。ただ、自らの理想とする共和国建設を目指して独自に武装蜂起を繰り返したマッツィーニと対して、サルデーニャ王国の力量を認めてイタリア統一を託したガリバルディは現実主義者だったといえるでしょう。

1859年 - 52歳
第二次イタリア統一戦争

1850年代~ サルデーニャ王国の台頭

1859年に第二次イタリア統一戦争が勃発、サルデーニャ王国はフランスの支持を取り付けて、強国オーストリアを排除しようと動き出します。ガリバルディは義勇軍を率いてこの戦いに参加しました。

しかし、なぜサルデーニャ王国はイタリア統一の主役になれたのでしょうか。第一次イタリア統一戦争前までさかのぼります。統一運動(リソルジメント)が高まる中で、1846年に自由主義的な教皇ピウス9世が就任し、教皇を中心にイタリアを統一しようという機運が高まりました。これを「新教皇主義」と言います。

しかし、サルデーニャ王国がオーストリアに宣戦し、第一次イタリア統一戦争が勃発すると、教皇はオーストリアとの全面衝突を恐れて、中立を宣言、国民を大いに失望させました(さらに、身の危険を感じた教皇は両シチリア王国に逃亡、新教皇主義は完全に消失しました)。

これにあわせて、両シチリア王国も戦線を離脱し、足並みがそろわなくなったイタリア連合軍は敗北、サルデーニャ王カルロ・アルベルトは退位に追い込まれました。

しかし、サルデーニャ王国は新国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の下で敗戦後も憲法を保持し、首相カヴールの下で経済的な発展を遂げていきます。

1856年のクリミア戦争に参加し、戦勝国となったサルデーニャは国際的な地位を高め、フランスとの協力関係も構築しました。さらに、1850年代後半に入ると、本来君主制を否定する共和主義者の中にもサルデーニャ王国による統一事業を支持する者が現れ始めます。その筆頭がガリバルディでした。マッツィーニのような個人の蜂起によらず、発展するサルデーニャ王国に味方するほうが、イタリア統一は現実的だと考えたのです。

サルデーニャ側も、支持を表明したガリバルディら共和主義者と協力関係を築いていきます。こうして、イタリア統一の主人公は、教皇からサルデーニャ王国にシフトし、その流れにガリバルディら共和主義者たちが協力していったのです。

第二次イタリア統一戦争勃発!しかし…

1859年、オーストリアの宣戦によって第二次イタリア統一戦争が発生します。サルデーニャはフランスと連合して戦いに臨みました。最大の激戦となったソルフェリーノの戦いでは、両軍合わせて4万人以上の死者を出すことになりました。大きな犠牲を払いながらもサルデーニャはこの戦いに勝利し、北部イタリアの一部であるロンバルディアを獲得しました。さらに戦後、中部イタリアの諸国がサルデーニャへの合併を希望してきました。

サルデーニャはこの申し出に応じて中部イタリアを併合しようとします。しかし、当時の中部イタリアにはフランス軍が駐屯していたため、不用意に軍を出すとフランスを刺激しかねません。そこで、首相カヴールは、サルデーニャ王国の領土だったサヴォイアとニースをフランスに割譲することを引き換えに中部イタリアの併合を交渉します。この取引は成功し、中部イタリアはサルデーニャの手に落ちました。

しかし、フランスに割譲されたニース出身だったガリバルディはカヴールの外交戦略に激怒、彼はサルデーニャ王国から離れ、義勇軍として単独で行動するようになります。ただ、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を裏切るつもりはなく、「カヴールは信用できない!カヴールに代わって、俺が国王のためにイタリア統一を成し遂げる!」という考えでした。ここから歴史に残る「赤シャツ隊」の活躍に繋がっていくのです。

1860年 -53 歳
テアーノの握手

ガリバルディ、両シチリア王国を征服する

1860年、シチリア島で民衆の反乱が発生します。これを好機ととらえたガリバルディは、義勇軍「赤シャツ隊」(千人隊)を組織し、シチリア島の制圧をもくろみます。シチリア島のマルサーラから上陸した赤シャツ隊は、カラータフィーミの戦いで両シチリア王国軍を破りました。この勝利は、シチリア島の民衆を大いに勇気づけ、反乱はますます勢いづくことになりました。さらに、民衆の支持を受けながらパレルモ入城を成功させ、1860年7月25日にシチリア東部のメッシーナを制圧し、ガリバルディはシチリア全土を手中に収めました。

シチリア島を制圧したガリバルディは、自らの手でイタリアを統一しようという思いを強くします。まずは、南部イタリアに上陸し、両シチリア王国の制圧を完了させたのちに、ローマ・ヴェネツィアを手中に収めてイタリア統一を完成する計画を描いていました。ビジョン通りに、ガリバルディは1860年8月18日にメッシーナからイタリア本土に向けて出港します。上陸後、破竹の勢いで攻め上ぼり、9月7日にはナポリに入城しました

ガリバルディの大活躍は「悪夢」だった?

このガリバルディの活躍は、サルデーニャ王国首相のカヴールにとっては、まさに「悪夢」でした。ガリバルディがイタリア南部に共和主義の政権を樹立すれば、サルデーニャ王国のイタリア統一にとって重大な脅威となります。特に、ガリバルディがフランス軍の駐屯するローマに進軍するようなことがあれば、フランスとの同盟関係が悪化し、これまでの統一事業が崩れる可能性がありました。カヴールは一刻も早くイタリア南部をサルデーニャに併合しようと、ガリバルディへの妨害工作を行いましたが、なかなかうまくいきません。

そこで、カヴールはナポリとシチリアで「サルデーニャ王国による併合を欲するか、否か」という住民投票を行い、賛成多数で併合を可決してしまいます。ガリバルディもこの住民投票の結果を無視することはできません。彼のローマ進軍は頓挫し、サルデーニャ王国によるイタリア統一をやむなく認めるしかありませんでした。ガリバルディVSカヴールの闘争は、カヴールの政治的勝利に終わりました。

「テアーノの握手」の真相

国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルデーニャ軍は、イタリア南部併合のために南下を開始し、教皇領を通過します。そして、ヴォルトゥルノ河畔のテアーノでガリバルディと対面します。両者は握手を握手を交わすと、ガリバルディは「ここに、イタリア王がおられる!」と叫びます。周りの者もそれに合わせて「国王、万歳!」と叫びました。イタリア南部の支配権は国王に移り、ここにイタリア統一は一応の完成を見ることになります(ただ、「未回収のイタリア」などの問題は残存)。「テアーノの握手」は、ガリバルディが自ら血を流して手に入れた南イタリアを進んで献上した美談として後世に語り継がれることになります。

ただ、実際のテアーノの会談はそれほど感動的なものではなく、事務的な武装解除の話し合いに過ぎなかったそうです。ガリバルディが苦労して手に入れた領土を進んで敬愛する国王に献上する、というドラマチックの話ではなく、住民投票の結果、すでにサルデーニャのものとなったイタリア南部併合を改めて承認し、武装解除をするという淡々とした話に過ぎませんでした。サルデーニャ側からすれば、すでにイタリア南部は自国に併合されているので、ガリバルディの軍事行動はもはや意味を成していません。あとはガリバルディの武装解除を終えれば一件落着…というわけです。命令もしていないのに勝手に戦闘行動を取り、自国の統一事業を危機に陥れた訳ですから、カヴールはじめサルデーニャ側は、ガリバルディの振る舞いを好意的に見ることはできなかったでしょう。「余計なことしやがって…」というのが、カヴールの正直な感想なはずです。

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ガリバルディについてのまとめ

英雄のガリバルディの生涯を描いてきましたが、彼は必ずしも超人的な英雄とは言えない人だったと思います。軍事的な才能はありましたが、カヴールのような思考力・交渉力には欠けていました。

しかし、その勇猛さと愛国心で民衆からは絶大な支持を集め、イタリア統一のシンボル的な存在となった彼は、イタリア国民が作り上げた「完璧な英雄」と言えるのかもしれません。