ガリバルディにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1 「民衆からは救世主扱い」
彼の武勇とルックスは、カリスマ性を秘めるものでした。彼の長い髪と立派な頬ひげ、痩身なスタイルに、民衆はイエス・キリストを連想し、救世主として彼を讃えたそうです。
彼の着用した赤シャツの切れ端や吸いかけの葉巻、毛髪などは、「聖遺物」のように礼拝の対象となったと言われています。20世紀に入っても、シチリア島や南部イタリア地域の農村部では、彼の肖像画は祭壇に置かれて、祈りがささげられていたそうです。
都市伝説・武勇伝2「『オールレーズン』とガリバルディ」
読者の皆様は、東ハトの「オールレーズン」というお菓子をご存知でしょうか?生地にレーズンが練りこまれたクッキーで、1972年に発売されて以来多くのファンを獲得しているロングセラー商品です。
この「オールレーズン」は、「ガリバルディ・ビスケット」(「ガリバルディ」のみで呼ばれることも)というイギリスのお菓子を参考に作られたといわれています。1864年にガリバルディはロンドンに招待され、国民から熱烈な歓迎を受けました。そのフィーバーに便乗して売り出されたのが「ガリバルディ・ビスケット」なんだそうです。
当初は保存食としての色彩が強かったようですが、現在のイギリスではクラシックなお菓子として愛されています。日本のロングセラー商品とも意外なつながりがあったようですね。
都市伝説・武勇伝3「ガリバルディの名を持つ軍艦「ジュゼッペ・ガリバルディ」
イタリア統一の英雄であるガリバルディの名は、3隻のイタリア軍艦の艦名となりました。1隻目は20世紀初頭に建造された装甲巡洋艦。2隻目は第二次世界大戦時に活躍した軽巡洋艦。そして、3隻目が現役で活躍する空母「ジュゼッペ・ガリバルディ」です。
ジュゼッペ・ガリバルディは1983年に完成した軽空母です。小型の空母のため、垂直離着陸が可能なハリアーやヘリコプターの運用に用いられています。後継艦のカヴールが完成したのちは、ヘリの運用が中心となりました。
ガリバルディの年表
1833年 – 26歳「マッツィーニ主義と出会う]
マッツィーニ主義との出会い
貸客船クロリンダ号に船乗りとして乗っていたガリバルディは、ロシアの港・タガンログに寄港します。そこで、革命家ジュゼッペ・マッツィーニが、革命組織「青年イタリア」を結成したことを知ります。彼はこの話に大きな影響を受け、マッツィーニの思想は彼の革命精神の根底を築くことになりました。彼は『回想録』にて、その時の衝撃をこのように綴っています。
「祖国に救済に専念している人を見出して、コロンブスがアメリカを発見した時でさえ感じなかった喜びを感じた」
マッツィーニとは、イタリア統一を目指した弁護士出身の革命家です。ガリバルディとカヴールに並んで「イタリア統一の三傑」の一人に数えられています。マッツィーニを理解する上で最も重要なことは、彼が熱烈な共和主義者だったことです。つまり、君主制を否定し、民主主義に基づく政治を目指す人物でした。彼は、イタリアをオーストリアから独立させ、共和制によるイタリア統一を実現すべきだと主張します。それを実現すべく結成された革命組織が「青年イタリア」でした。ガリバルディはマッツィーニに深く心酔し、彼に手紙を書いたり、購入した船に「マッツィーニ号」と名付けたりしていました。
マッツィーニとの関係性の変化
マッツィーニを深く尊敬していたガリバルディですが、1848年にミラノでマッツィーニと初めて会見すると、彼と距離を置くようになります。自らの理想にこだわり、現実的な判断ができないマッツィーニの姿に幻滅したといいます。サルデーニャ王国のガリバルディはマッツィーニとの初めての会見についてこう綴っています。
「称賛に値する共和主義思想で、私の愛と尊敬を集めた人物であったが、率直に言って、彼と会い、話を聞きながら、彼への尊敬の念を失った」
しかし、マッツィーニ主義はガリバルディの思想的源流となり、サルデーニャ王国からもガリバルディは共和主義者として認識されることとなります。ただ、自らの理想とする共和国建設を目指して独自に武装蜂起を繰り返したマッツィーニと対して、サルデーニャ王国の力量を認めてイタリア統一を託したガリバルディは現実主義者だったといえるでしょう。
1859年 – 52歳「第二次イタリア統一戦争」
1850年代~ サルデーニャ王国の台頭
1859年に第二次イタリア統一戦争が勃発、サルデーニャ王国はフランスの支持を取り付けて、強国オーストリアを排除しようと動き出します。ガリバルディは義勇軍を率いてこの戦いに参加しました。
しかし、なぜサルデーニャ王国はイタリア統一の主役になれたのでしょうか。第一次イタリア統一戦争前までさかのぼります。統一運動(リソルジメント)が高まる中で、1846年に自由主義的な教皇ピウス9世が就任し、教皇を中心にイタリアを統一しようという機運が高まりました。これを「新教皇主義」と言います。
しかし、サルデーニャ王国がオーストリアに宣戦し、第一次イタリア統一戦争が勃発すると、教皇はオーストリアとの全面衝突を恐れて、中立を宣言、国民を大いに失望させました(さらに、身の危険を感じた教皇は両シチリア王国に逃亡、新教皇主義は完全に消失しました)。
これにあわせて、両シチリア王国も戦線を離脱し、足並みがそろわなくなったイタリア連合軍は敗北、サルデーニャ王カルロ・アルベルトは退位に追い込まれました。
しかし、サルデーニャ王国は新国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の下で敗戦後も憲法を保持し、首相カヴールの下で経済的な発展を遂げていきます。
1856年のクリミア戦争に参加し、戦勝国となったサルデーニャは国際的な地位を高め、フランスとの協力関係も構築しました。さらに、1850年代後半に入ると、本来君主制を否定する共和主義者の中にもサルデーニャ王国による統一事業を支持する者が現れ始めます。その筆頭がガリバルディでした。マッツィーニのような個人の蜂起によらず、発展するサルデーニャ王国に味方するほうが、イタリア統一は現実的だと考えたのです。
サルデーニャ側も、支持を表明したガリバルディら共和主義者と協力関係を築いていきます。こうして、イタリア統一の主人公は、教皇からサルデーニャ王国にシフトし、その流れにガリバルディら共和主義者たちが協力していったのです。
第二次イタリア統一戦争勃発!しかし…
1859年、オーストリアの宣戦によって第二次イタリア統一戦争が発生します。サルデーニャはフランスと連合して戦いに臨みました。最大の激戦となったソルフェリーノの戦いでは、両軍合わせて4万人以上の死者を出すことになりました。大きな犠牲を払いながらもサルデーニャはこの戦いに勝利し、北部イタリアの一部であるロンバルディアを獲得しました。さらに戦後、中部イタリアの諸国がサルデーニャへの合併を希望してきました。
サルデーニャはこの申し出に応じて中部イタリアを併合しようとします。しかし、当時の中部イタリアにはフランス軍が駐屯していたため、不用意に軍を出すとフランスを刺激しかねません。そこで、首相カヴールは、サルデーニャ王国の領土だったサヴォイアとニースをフランスに割譲することを引き換えに中部イタリアの併合を交渉します。この取引は成功し、中部イタリアはサルデーニャの手に落ちました。
しかし、フランスに割譲されたニース出身だったガリバルディはカヴールの外交戦略に激怒、彼はサルデーニャ王国から離れ、義勇軍として単独で行動するようになります。ただ、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を裏切るつもりはなく、「カヴールは信用できない!カヴールに代わって、俺が国王のためにイタリア統一を成し遂げる!」という考えでした。ここから歴史に残る「赤シャツ隊」の活躍に繋がっていくのです。
1860年 -53 歳「テアーノの握手」
ガリバルディ、両シチリア王国を征服する
1860年、シチリア島で民衆の反乱が発生します。これを好機ととらえたガリバルディは、義勇軍「赤シャツ隊」(千人隊)を組織し、シチリア島の制圧をもくろみます。シチリア島のマルサーラから上陸した赤シャツ隊は、カラータフィーミの戦いで両シチリア王国軍を破りました。この勝利は、シチリア島の民衆を大いに勇気づけ、反乱はますます勢いづくことになりました。さらに、民衆の支持を受けながらパレルモ入城を成功させ、1860年7月25日にシチリア東部のメッシーナを制圧し、ガリバルディはシチリア全土を手中に収めました。
シチリア島を制圧したガリバルディは、自らの手でイタリアを統一しようという思いを強くします。まずは、南部イタリアに上陸し、両シチリア王国の制圧を完了させたのちに、ローマ・ヴェネツィアを手中に収めてイタリア統一を完成する計画を描いていました。ビジョン通りに、ガリバルディは1860年8月18日にメッシーナからイタリア本土に向けて出港します。上陸後、破竹の勢いで攻め上ぼり、9月7日にはナポリに入城しました
ガリバルディの大活躍は「悪夢」だった?
このガリバルディの活躍は、サルデーニャ王国首相のカヴールにとっては、まさに「悪夢」でした。ガリバルディがイタリア南部に共和主義の政権を樹立すれば、サルデーニャ王国のイタリア統一にとって重大な脅威となります。特に、ガリバルディがフランス軍の駐屯するローマに進軍するようなことがあれば、フランスとの同盟関係が悪化し、これまでの統一事業が崩れる可能性がありました。カヴールは一刻も早くイタリア南部をサルデーニャに併合しようと、ガリバルディへの妨害工作を行いましたが、なかなかうまくいきません。
そこで、カヴールはナポリとシチリアで「サルデーニャ王国による併合を欲するか、否か」という住民投票を行い、賛成多数で併合を可決してしまいます。ガリバルディもこの住民投票の結果を無視することはできません。彼のローマ進軍は頓挫し、サルデーニャ王国によるイタリア統一をやむなく認めるしかありませんでした。ガリバルディVSカヴールの闘争は、カヴールの政治的勝利に終わりました。
「テアーノの握手」の真相
国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルデーニャ軍は、イタリア南部併合のために南下を開始し、教皇領を通過します。そして、ヴォルトゥルノ河畔のテアーノでガリバルディと対面します。両者は握手を握手を交わすと、ガリバルディは「ここに、イタリア王がおられる!」と叫びます。周りの者もそれに合わせて「国王、万歳!」と叫びました。イタリア南部の支配権は国王に移り、ここにイタリア統一は一応の完成を見ることになります(ただ、「未回収のイタリア」などの問題は残存)。「テアーノの握手」は、ガリバルディが自ら血を流して手に入れた南イタリアを進んで献上した美談として後世に語り継がれることになります。
ただ、実際のテアーノの会談はそれほど感動的なものではなく、事務的な武装解除の話し合いに過ぎなかったそうです。ガリバルディが苦労して手に入れた領土を進んで敬愛する国王に献上する、というドラマチックの話ではなく、住民投票の結果、すでにサルデーニャのものとなったイタリア南部併合を改めて承認し、武装解除をするという淡々とした話に過ぎませんでした。サルデーニャ側からすれば、すでにイタリア南部は自国に併合されているので、ガリバルディの軍事行動はもはや意味を成していません。あとはガリバルディの武装解除を終えれば一件落着…というわけです。命令もしていないのに勝手に戦闘行動を取り、自国の統一事業を危機に陥れた訳ですから、カヴールはじめサルデーニャ側は、ガリバルディの振る舞いを好意的に見ることはできなかったでしょう。「余計なことしやがって…」というのが、カヴールの正直な感想なはずです。
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イタリアか、死か―英雄ガリバルディの生涯
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ガリバルディ – イタリア建国の英雄
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山猫
1963年公開の名作映画で、第16回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞しています。監督はルキノ・ヴィスコンティです。イタリア統一戦争のさなか、没落していくシチリア島の貴族の姿を描いた作品です。ガリバルディの赤シャツ隊も登場しますよ。
関連外部リンク
ガリバルディについてのまとめ
英雄のガリバルディの生涯を描いてきましたが、彼は必ずしも超人的な英雄とは言えない人だったと思います。軍事的な才能はありましたが、カヴールのような思考力・交渉力には欠けていました。
しかし、その勇猛さと愛国心で民衆からは絶大な支持を集め、イタリア統一のシンボル的な存在となった彼は、イタリア国民が作り上げた「完璧な英雄」と言えるのかもしれません。