日露戦争の連合艦隊司令長官である東郷平八郎の参謀として活躍した秋山真之。彼を一言で表すと「日露戦争の作戦面における天才参謀」と言える人物です。秋山真之は日本の存亡をかけた日露戦争において、旅順の封鎖作戦の立案や敵の艦隊を見つけるための索敵法を作り出したりしています。
また秋山真之は戦術面でも優れていた人材ですが、文学面でも素養が高く近代文学において大きな影響を及ぼした正岡子規の友人であり、子規から高く評価された人でした。
今回は天才として戦術面で日露戦争に寄与し、文学面でも素養の高い秋山真之について紹介していきたいと思います。
この記事を書いた人
秋山真之とはどんな人?
名前 | 秋山真之(幼名淳五郎) |
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誕生日 | 1868年4月12日 |
没日 | 1918年2月4日 |
生地 | 神奈川県小田原市 |
没地 | 伊予国松山(現愛媛県松山市) |
配偶者 | 妻秋山すゑ、長男秋山大、次男秋山固、三男秋山中、四男秋山全、長女秋山少子、次女秋山宜子 |
埋葬場所 | 鎌倉霊園 |
秋山真之の生まれは?
秋山真之の生まれは伊予国松山です。江戸時代の伊予国松山は文学を重んじていた国で、漢学が盛んな国でした。そのため明治時代、文学が得意な人が多く、正岡子規や高浜虚子、河東碧梧桐などが伊予国松山出身です。
秋山真之も彼らと同じく文学が得意で、日本海海戦で活躍した連合艦隊の解散式に読まれた東郷平八郎の訓示を執筆。この文章は多くの人々に読まれることになり、当時アメリカの大統領であったゼオドア・ルーズベルトが全文をコピーして愛読した名文として知られています。
秋山真之の家族構成は?
秋山真之は妻と6人もの子供に恵まれました。特に仲がよかったのは母親で、東京に住み始めると自宅に母親を招いて一緒に住み、家に帰ると母に優しい言葉をかけたりするなど、母親思いの優しい人でした。
また秋山真之は日本海海戦でロシア艦隊に完全勝利をした後、母親が亡くなったとの電報を受け取ります。すると真之は大声を上げて一日中泣いて、悲しんでいたそうです。変人であり、戦術の天才であった秋山真之ですが、母親思いの孝行息子と言う意外な側面を持った人でした。
秋山真之は無頓着な性格だった
秋山真之は優れた軍人でしたが、マナーについてはほとんど無頓着に近い状態でした。例えば秋山真之は家の近くにある大きな桜へ海軍の軍服のまま立ち小便を堂々としていたそうです。
またアメリカに留学していた時、フィラデルフィアの郊外にある植え込みの中へ立ち小便をして一緒についてきていた人を驚かせています。他にも秋山真之は第一次世界大戦視察へパリに行った際、パリの淑女と話している最中に靴下を脱いで足の指を拭きながら話していたそうです。
このように無頓着を通り越して変人に近い行動をしていた秋山真之でした。
秋山真之の死因やお墓の場所は?
秋山真之は49歳という若さで亡くなってしまいます。彼の死因は一体どのような病気だったのでしょうか。秋山真之の死因は虫垂炎と腹膜炎の併発によって亡くなってしまいます。
秋山真之の追悼式は死後四ヶ月が経過してから東京の芝の青松寺で行われます。彼のお墓の場所は東京港区の青山墓地に埋葬されましたが、その後鎌倉霊園へ移されることになります。
秋山真之の名言・名文は?
本日天気晴朗なれども波高し
流血の少ない作戦こそ最良の作戦である
人間の頭に上下などない。要点をつかむという能力と、不要不急のものは切り捨てるという大胆さだけが問題だ
秋山真之は一体何がすごいのか?
すごさ1「バルチック艦隊撃破作戦の立案と先見性」
日露戦争に日本が勝利するための条件としてロシア艦隊に対して完全勝利をしなければなりませんでした。このロシア艦隊に対して完全勝利の作戦を作り上げたのは秋山真之で彼の凄い所と言えるでしょう。
秋山真之は日本海海戦において七段構えの作戦を立案し、連携機雷作戦、艦隊決戦、魚雷作戦などの作戦案を盛り込んだ作戦を作り上げます。この日本海海戦では秋山真之の作戦案が採用され、バルチック艦隊に対して完全勝利を得ることに成功。
また秋山真之はまだ戦闘機が活躍していない日露戦争終結後に戦闘機や潜水艦が今後戦闘の主力になってくるであろうと予言。秋山真之の予言通り、戦闘機や潜水艦は第一次世界大戦で活躍し、先見性にも優れた人物でした。
すごさ2.「優れた教育者」
秋山真之は学生に対しての教育者としても優れ、海軍大学校の教官として先生の立場になると学生たちへ「百回の講座を聞いて丸暗記した物よりも兵書を読んで考えに考えた物が良く、自分で研究して会得した物が実践に役に立つ」と助言。
秋山真之は上記のアドバイス通りの教育方法を実践し、学生たちが自分で物事を考え、自主的に行動できる人材を育成することに力を入れていました。
秋山真之にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「豆が大好き」
秋山真之の好物は豆です。真之は上着のポケットの中に年がら年中豆を入れて貪り食っていたほどで、アメリカへ行ってもイギリスへ行ってもボリボリと食べていたそうで、豆がなくなると大量に豆を家から仕送りしてもらっていたそうです。
また秋山真之は日露戦争の時に連合艦隊の参謀になった時も、軍服のポケットに豆をいっぱい入れてボリボリと参謀室で食べていたそうです。これほどまでに豆を愛していた秋山真之ですが、傍から見たら変人と思われていたのではないでしょうか。
都市伝説・武勇伝2「外国人からイカサマ博打で負けたお金を取り返す」
秋山真之が第一次世界大戦の視察の帰りに事件は起きました。外国の人から軽い感じでポーカーに誘われて博打を行うことに。何度も勝負を続けていくうちに真之は持っていたお金をすべて取られてしまいます。
秋山真之は外人がイカサマをしていることに気づき、お金を取り返すために起死回生の作戦に出ます。秋山真之は外国人のボスと思しき人物に声をかけて部屋へ呼び入れるといきなり胸ぐらをつかんで、ドスの聞いた声で短答を突きつけて脅迫。
秋山真之に脅迫された外国人はポーカーで奪ったお金をすべて返却し事なきを得ます。作戦の天才と呼ばれる秋山真之ならではなの起死回生の奇襲作戦と言えるのではないでしょうか。
秋山真之の略歴年表
秋山真之は1868年(明治元年)に伊予国松山(現愛媛県松山市)で誕生。幼少期の真之はガキ大将として街の子供たちを率いてケンカに明け暮れていたそうです。
秋山真之は正岡子規とともに東京に上京すると帝国大学を目指してもう勉強を開始。しかし秋山真之は途中で兄秋山好古からのアドバイスに従って海軍兵学校へ入校することになります。
秋山真之の入学当初の成績はあまり良くありませんでしたが、一年生が終わる頃には主席に登り、卒業までずっと主席の地位を守り通し、頭もいい学生でした。
1904年に日本は朝鮮半島を巡ってロシア都の関係が悪化。日本はロシアに対して宣戦布告を行います。日本海軍はロシア海軍に勝利するため連合艦隊を編成。
日本は連合艦隊司令長官に東郷平八郎を任命し、連合艦隊司令部の参謀長に島村速雄、先任参謀に有馬良橘など優れた人材が終結します。連合艦隊司令部の参謀の中に秋山真之も加わることになります。
秋山真之は連合艦隊司令部の参謀に加わると旅順港閉塞作戦に加わって活躍。日本海海戦ではバルチック艦隊を迎え撃つために長年温めてきた七段構えの布陣を提案し、日本海海戦での勝利に大きく寄与しています。
秋山真之は1917年虫垂炎と腹膜炎を併発したことが原因で亡くなってしまいます。享年49歳でした。彼は亡くなった後、東京の青山墓地に埋葬されますが、後に鎌倉霊園に移されることになります。日露戦争で日本海軍に勝利をもたらした天才は若くして亡くなってしまうのでした。