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【年表付】アン・ブーリンとはどんな人?生い立ち〜処刑の生涯を紹介


アン・ブーリン(以下、アン)は、イングランド・テューダー朝の王、ヘンリー8世の二番目の王妃で、悲劇の王妃と言われると同時に、悪女としても有名です。1500年頃イングランド王国にて、新興貴族であるブーリン家の次女として生まれました。

思春期をフランスで過ごした後帰国したアンは、イングランド王妃キャサリンに仕えました。この頃、後に夫となるヘンリー8世と出会います。ヘンリー8世もまた、聡明で有能な国王でありましたが、王妃を追放したり、王妃を二人も処刑するなどその残虐性も有名です。

ヘンリー8世は、王妃キャサリンと無理やり離婚をして、愛するアンと結婚します。しかし、アンとヘンリー8世の結婚生活はわずか3年でした。新しい相手ジェーン・シーモア(三番目の王妃)に心変わりしたヘンリー8世によって無実の罪をきせられ、ロンドン塔で処刑されました。

アン・ブーリン

前王妃キャサリンからヘンリー8世を奪い結婚したアンですが、自らも夫の新しい恋人の存在によって王妃の座から転落してしまいました。アンは、ヘンリー8世から求愛される前、婚約者がいたと言われています。国王に目を付けられなければ、その恋人と幸せな結婚生活を送れていたかもしれませんね。

アン・ブーリンに関するドラマをみたことがきっかけで、すっかりアンの魅力にはまり、様々な本や映画、ドラマを見漁った私が、アン・ブーリンの生涯について解説します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

アン・ブーリンの来歴は?

名前アン・ブーリン
誕生日1500年頃
没日1536年5月19日
生地イングランド王国ノーフォーク
没地イングランド王国ロンドン ロンドン塔
配偶者ヘンリー8世
埋葬場所ロンドン塔 セント・ピーター・アド・ヴィンキュラ礼拝堂

アン・ブーリン生まれは?

現在のノーフォーク

アン・ブーリンは、1500年ごろ、イングランド王国ノーフォークで生まれました。駐仏大使であったトマス・ブーリンを父に、ノーフォーク侯爵の娘であったエリザベスを母に、3人兄弟の末っ子として生まれます。

姉のメアリーは、金髪、色白でふくよかな美しい容姿を持つ美人であったのと対照的に、アンは黒髪、色黒、痩せ型と対象的な容姿で、幼い頃はよく比べられていたと言われています。家族仲良く、ブーリン家の居城であるヒーバー城で暮らしていました。

ブーリン家は、4代前までは平民(農民)でしたが、アンの曾祖ジェフリーはロンドン市長まで昇りつめた人物で、次の祖父ウィリアムの代で国王リチャード3世よりサーの称号を受け、貴族となりました。

アン・ブーリンの結婚の経緯は?

ヘンリー8世

アン・ブーリンが、夫となるイングランド王ヘンリー8世と出会ったのは20歳の頃でした。既に妻がいるヘンリー8世は、自分の愛人になるように求めましたが、アンは愛人ではなく正式な妻となることを求めます。ヘンリー8世はアンとの結婚のため、王妃と離婚しようとしますが、ローマ教会では離婚が禁じられていたため王妃との離婚は思うように進みません。

ついに、ヘンリー8世はローマ教会から離脱し自らイギリス国教会を設立すると、妃キャサリンとの離婚を強引に成立させ、アンと結婚しました。国民の間で人気があった王妃キャサリンからヘンリー8世を奪ったアンに対する国民の目は厳しく、アンとヘンリー8世の結婚は、国民から祝福されなかったと言われています。

アン・ブーリンが処刑となったいきさつは?

ジェーン・シーモア

ヘンリー8世が王妃キャサリンと離婚してアンと結婚した理由の一つは、アンなら世継ぎを産んでくれるのではないかというものでしたが、アンが産んだのは女の子で、その後も妊娠するものの、流産、死産と続きます。落胆したヘンリー8世は、アンの侍女ジェーン・シーモアに心変わりをすると、今度はアンが邪魔になってきました。

男児を死産した3か月後、アンは、ヘンリー8世とその側近たちの策略により、兄を含む5人の男との不義密通、国王の命を狙っているという反逆罪を着せられ、ロンドン塔に送られました。そして、1536年アンはロンドン塔にて斬首刑となりました。死の直前までアンは自らの潔白を訴えていましたが、最後は夫ヘンリー8世を称え、王妃らしく毅然として亡くなったと言われています。

アン・ブーリンの魅力とは?

バッキンガム宮殿

アンの容姿は肖像画でも分かる通り、黒に近い髪の色で、黒い瞳、肌もどちらかというと黒いほうで、当時の美女の条件とは反対であったようです。しかしアンは、当時流行の最先端をいくフランス宮廷で、マナーやファッションセンス、優雅な立ち居振る舞いを身に着け、会話も上手く自分の欠点をうまく隠すのにたけていたようです。

幼いころは美しい姉メアリーの影にかくれ目立たなかったアンですが、イングランドに帰国した時は別人のように輝き、イングランドの宮廷では数多くの青年貴族たちを翻弄したと言われています。そして何よりも聡明で、自身に満ちた勝気な態度が王であるヘンリー8世の心を捉えたのではないでしょうか。

アン・ブーリンは一体何がすごいのか?

すごさ1「国王からの求愛を拒絶」

最初は求愛を断っていたアン

ヘンリー8世と結婚し王妃の座を手に入れたアン・ブーリンですが、最初はヘンリー8世からの求愛を拒絶していました。当時、誰も逆らうことができない国王に対し、その求愛を拒絶するとは、なかなかできることではありません。

ヘンリー8世には王妃キャサリンがいましたが、王妃の侍女に手を出し、実際にアンの姉メアリーもヘンリー8世の愛妾となっていました。アンの姉メアリーは、ヘンリー8世の愛妾として2年間過ごしますが、最後は捨てられてしまします。

そんな不憫な姉の姿をみていたアンは、ヘンリー8世からの求愛をあっさりと断ります。しかし、拒絶されたことのない王ヘンリー8世は、怒るどころか簡単に振り向かないアンに増々夢中になります。その結果、アンは愛人ではなく王妃というポジションを獲得しました。

すごさ2.「娘は後のエリザベス1世」

アン・ブーリンの娘、エリザベス1世

ヘンリー8世と結婚し2番目の王妃となったアン・ブーリンは、結婚後わずか3年で2歳半の娘を残し、処刑されます。この残された遺児こそ、後のエリザベス1世です。

当時世継ぎである男児を切望したヘンリー8世は、さらに若く魅力的な恋人と結婚するため、男児を産めないアンに無実に罪をきせ、処刑させます。この後、ヘンリー8世は男児(後のエドワード6世)を儲け、エリザベスは庶子とされ王位継承から外されてしましました。しかし、その王子も15歳の若さで夭折します。

ヘンリー8世の願いは叶わず、最終的にイングランドの頂点に立ち、イングランドを治めたのは、アンが産んだ娘エリザベスでした。エリザベスは、女王としてイングランドの一時代を築き、誰もが知っている女王エリザベス1世として歴史に名を残しました。

アン・ブーリンの名言は?

その仰せには従いかねますわ。私は王妃になるには身分が低すぎますが、そうかと申し上げて愛人になるには、誇りが高すぎます。

執行人は腕がいいのでしょ?私は首が細いから大丈夫ね。(処刑が決まった際に)

神が王を守り、良き統治が続きますように。(処刑直前のスピーチで)

夫は良き人で、優しい方でした。もしも私のことで誰かが裁かれるようなことがあったなら、どうか最善の判断をしてくださいますように。(処刑直前のスピーチで)

最後にどうか、私のために祈ってください。(処刑直前のスピーチで)

アン・ブーリンの人物相関図は?

アンブーリンの人物相関図

アン・ブーリンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ロンドン塔に出るアン・ブーリンの幽霊」

ロンドン塔

イギリスのロンドンにあるロンドン塔は、11世紀に建てられて以来多くの人が処刑されました。世界遺産であると同時に、心霊スポットとしても有名です。特に、1536年に処刑されたアン・ブーリンの幽霊が出ることで有名で、ロンドン塔の勤務簿には、何月何日にどこでアンの幽霊が出たか記録されているほどだと言われています。

1536年、ヘンリー8世の妻アンが、数々の無実の罪を着せられ処刑されると、翌日からアンの幽霊が出るようになりました。斬首刑であったアンの幽霊は、首から上がなく、頭を両手で抱えた状態でロンドン塔内を歩いていることが多いようです。

数多くの目撃情報があるアンの幽霊ですが、中にはカメラに納めようとチャレンジしたカメラマンもいたようです。しかし、そのカメラマンは目の前にいるアンの幽霊の写真を撮ろうとしたものの、その時のフィルムは、現像すると全て真っ白であったとのことです。

都市伝説・武勇伝2「メイズ・オブ・オナー・タルトの由来はアン・ブーリン?」

メイズ・オブ・オナー・タルト

メイズ・オブ・オナー・タルトは、イングランドの伝統的な焼き菓子で、薄いパイ生地にバターシロップをつけ、中に甘味のあるチーズカードなどクリームを入れたタルトです。直径6cmほどの大きさで、由緒ある食べ物とされています。

このタルトの歴史は、テューダー朝ヘンリー8世の時代までさかのぼると言われています。「メイズ・オブ・オナー」とは、女王や王妃に仕える侍女のことで、ヘンリー8世の二番目の王妃アン・ブーリンと侍女たち(メイズ・オヴ・オナー達)が、よくこのタルトを食べていたことに由来するとのことです。

王妃たちがこのタルトを食べているところを見て、自らも食べたいと所望したヘンリー8世が女官たちにちなんだ名をつけたと言われています。そして、タルトを気に入ったヘンリー8世は、レシピを取り寄せ、保管したそうです。

アン・ブーリンの略歴年表

1500年
アン・ブーリン誕生
駐仏大使でのちにオーモンド伯爵となったトマス・ブーリンを父に、第2代ノーフォーク公の娘エリザベス・ハワードを母に、イングランド王国ノーフォークに生まれました。ブーリン家は元は平民(農民)の家系でしたが、アンの曾祖父の代で財を成し、リチャード3世よりサーの称号を受けました。
1507年
フランスに留学
イングランド王ヘンリー7世の王女メアリー王女がフランスに嫁ぐ際に、侍女の一人として姉メアリーと共にフランスに渡りました。メアリー王女が帰国した後も、フランス宮廷に残り、宮廷マナーをはじめ、リュートやダンスなどを学びました。
1522年
イングランド王国に帰国
フランスで9年程過ごした後、イングランド王国に帰国します。帰国後は、ヘンリー8世の最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となりました。
1533年
ヘンリー8世と結婚する
1533年キャサリン王妃との結婚の無効の宣言されると、同年6月1日に戴冠式が行われ、アンが正式な王妃と宣言されます。同年9月、長女エリザベス1世を出産しました。
1536年
ロンドン塔にて処刑される
1536年、男児を流産したことをきっかけに、夫ヘンリー8世との仲は悪化します。そして、ヘンリー8世に見限られたアン・ブーリンは、流産からわずか3か月後、反逆、姦通、近親相姦、魔術などの罪による死刑判決を受け、ロンドン塔で処刑されてしまいました。
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