【年表付】アン・ブーリンとはどんな人?生い立ち〜処刑の生涯を紹介

アン・ブーリンの具体年表

1500年 – 0歳「アン・ブーリン生まれる」

ブーリン家の居城・ヒーバー城

イングランド王国ノーフォークにアン・ブーリン誕生

外交官であった父トマス・ブーリンと第2代ノーフォーク公の娘である母エリザベス・ハワードの間にイングランド王国ノーフォークに生まれました。ブーリン家は元は平民ですが、曾祖父ジェフリー・ブーリンの代で財を成し、祖父の代で伯爵となった新興貴族でした。父トマス・ブーリンも野心家で伯爵家との縁組などで、さらに領地を増やしていったと言われています。

アンは姉であるメアリーと良く比べられたと言います。姉メアリーは、ブロンドで小柄、ふくよかな美人だったようですが、対照的に、アンは黒髪で肌も浅黒く、華奢だったとのことです。しかし、幼少のころから聡明で賢かったと言われています。

アンは、子供時代を当時ブーリン家の居城であったヒーバー城で過ごしました。こじんまりとした美しい石造りのお城は、現在はホテルとなっています。

1507年 – 7歳「アン・ブーリン、フランスへ」

姉のメアリー・ブーリン

姉メアリーと共にフランスへ

イングランド王ヘンリー8世の妹がフランスに嫁ぐことになった際、侍女としてブーリン姉妹もフランスに送られました。当時アンはわずか7歳でしたが、その後約9年間の思春期をフランス宮廷で過ごします。

ヘンリー8世の妹メアリーはルイ12世と結婚するも、ルイ12世が急逝したためイングランドに帰国します。しかしアンは、ルイ12世の長女の侍女としてそのままフランスに残りました。

フランソワ1世の時代となったフランス宮廷は、ヨーロッパで最も華やかで気品があり、洗練された場所でした。このフランス宮廷で、アンは、最先端のファッション、優雅な立ち居振る舞い、話術、教養など様々なものを身に着けたと言われています。特に、アンはリュートやダンスが得意だったようです。

1522年 – 17歳「イギリスに帰国」

ヘンリー8世との出会い

アン・ブーリン、イギリスに帰国

1522年、約9年間のフランス滞在を終えたアンは、イングランドに帰国しました。フランスの宮廷マナーを身に着け、華やかなファッションに身を包み、すっかりフランス貴婦人となったアンは瞬く間に、イングランド宮廷で羨望の的になります。

ヘンリー8世の妃に仕える

フランスから帰国したアンは、ヘンリー8世の妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女として仕えます。その頃、アンとヘンリー8世は出会ったのではないかと言われています。既に宮廷で噂になっていたアンに興味を持ったヘンリー8世は、アンにアプローチをし始めます。

ヘンリー8世からの求愛

当時、世継ぎを熱望していたヘンリー8世は、既に30代半ばになる王妃キャサリンを見限り、まだ20歳と若く魅力的なアンへのアプローチを始めました。しかし、アンはヘンリー8世の求愛を拒んだと言われ、そのことでヘンリー8世はますますアンにのめり込みます。実際にヘンリー8世がアンに送った数々の手紙が、バチカン図書館に残っているようです。

実は、ヘンリー8世はアンに求愛する前、アンよりも一足早くイングランドに帰国していた姉メアリーを愛妾にしていました。アンと同様に、メアリーもまたヘンリー8世の妃キャサリンの侍女でした。

ヘンリー8世に弄ばれた姉メアリーを近くで見ていたアンは、ヘンリー8世からのアプローチに対し慎重で、王から逃げるようにヒーバー城に帰っていたと言われています。そんな中、ヘンリー8世はアンとの結婚を考え始めました。

1533年 – 32歳「ヘンリー8世と結婚する」

愛を囁くアンとヘンリー8世、王妃の座を追われるキャサリン

アン・ブーリン、イングランド王妃となる

1533年5月、王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚は無効であると宣言がなされました。ようやく結婚できたヘンリー8世とアンは、ウェストミンスター寺院で戴冠式をおこない、アン・ブーリンは事実上のイングランド王妃となりました。

イギリス国教会の成立

アンとヘンリー8世が結婚するためには、王妃キャサリンと離婚をしなくてはいけません。しかし、当時はたとえ国王でも好き勝手に離婚することは許されませんでした。そこで、ヘンリー8世は、王妃キャサリンが元は兄の妻であった(未亡人)ことを理由に結婚は無効であると主張します。

しかし、ローマ教皇はこの主張を認めなかったため、ヘンリー8世はついにカトリック教会からの離脱を決意します。そうしてできたのが、イギリス国教会です。離婚を禁ずるカトリック教会から離脱したことで、ヘンリー8世は晴れてアンと結婚できたのでした。

エリザベスの誕生

1533年9月、アンとヘンリー8世の間に娘エリザベスが生まれます。後のエリザベス1世です。しかし男の子の世継ぎを切望していた王の落胆は大きかったようです。

その後アンは2度妊娠をしますが、一度目は流産、2度目は死産となります。世継ぎを切望していたヘンリー8世の絶望は次第に世継ぎを産めないアンへの怒りに変わっていったと言われ、アンへの愛も冷めていきます。

1536年 – 35歳「アン・ブーリン処刑される」

処刑されるアン・ブーリン

アン・ブーリンの処刑

アンとヘンリー8世の結婚生活はわずか3年間でした。1536年、アン・ブーリンは、反逆罪、姦通罪、近親相姦、魔術などの罪により、ロンドン塔で処刑されました。

これらの罪状は濡れ衣であった可能性が高いと言われています。というのも、当時ヘンリー8世は既にアンの侍女であるジェーン・シーモアに心を動かされており、アンの存在が邪魔になっていたといわれているからです。

アン・ブーリンの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

ブーリン家の姉妹

映画、「ブーリン家の姉妹」の原作です。ヘンリー8世の時代のイギリス社会がよくわかり、その中で必死に生きながらも翻弄されたブーリン家の姉妹を描いた小説です。

英国王室物語

ヘンリー8世を含めイギリス王室の歴史がよくわかる一冊。テューダー王家については上巻にのっていますが、系図などは下巻にのっているので上下巻合わせて読まれることをおすすめします。

王妃の闘い―ヘンリー八世と六人の妻たち

ヘンリー8世と6人の王妃たちについて書かれています。アン・ブーリンについての入門書としておすすめの一冊です。

おすすめの動画

アン・ブリン 処刑までの過酷な48時間 ヘンリー8世2番目の妻にしてエリザベス1世の母アン・ブーリン 【英国ぶら歩き】【読む動画・ノーナレーション】Anne Boleyn

アンが処刑される前の最後の48時間について紹介されています。アンがどのように祈ったか、そのような気持ちで処刑に望んだか、美しいロンドン塔の映像と共に紹介されています。

アン・ブリン 第1章「私の時代が来る」ヘンリー8世2番目の妻アン・ブーリン  エリザベス1世の母【英国ぶら歩き】【読む動画 ノーナレーション】Anne Boleyne

アン・ブーリンの幼少のころからヘンリー8世との出会いまでが描かれています。アンが生まれ育ったイングランドのヒーバー城の美しい映像や豪華なフランスのブロワ城の映像も一緒に紹介されています。

アン・ブリン 第2章 「千日の女王」ヘンリー8世2番目の妻アン・ブーリン エリザベス1世の母【英国ぶら歩き】【読む動画 ノーナレーション】Anne Boleyn

ヘンリー8世がアンと結婚するまでのストーリーが描かれています。前妻キャサリン妃の長女メアリーの勇敢さが素晴らしくも哀しいです。

アン・ブリン 第3章(最終章) 「急転直下」ヘンリー8世2番目の妻アン・ブーリン エリザベス1世の母【英国ぶら歩き】【読む動画 ノーナレーション】Anne Boleyn

ヘンリー8世と結婚したアンが処刑されるまでのストーリーが紹介されています。二人にゆかりのある美しいお城や処刑されたロンドン塔の映像が美しいです。

おすすめの映画

ブーリン家の姉妹

まるで絵画のように美しい映像です。ヘンリー8世に振り回されたブーリン家の姉妹が主人公ということで、ブーリン家サイドからの目線で描かれています。

おすすめドラマ

The Tudors<ヘンリー8世 背徳の王冠>

ヘンリー8世の生涯を描いたテレビドラマです。アン・ブーリンとの出会いからアンの処刑までロマンティックに描かれています。このドラマのアン・ブーリンはとても魅力的で、処刑のシーンは圧巻です。

関連外部リンク

アン・ブーリンについてのまとめ

アン・ブーリンの生涯についてご紹介しましたが、いかがでしたか?

私がアン・ブーリンに興味を持ったのは、ドラマ「The Tudors」がきっかけでした。アンは、一般的に悪女のレッテルを貼られています。しかし実際のアンは、勝気で自信家ではあるものの、教養あるチャーミングな女性だったのではないでしょうか。

まだまだ真実は謎に包まれていますが、この記事がきっかけとなり、アン・ブーリンの魅力に気付いてくれる人が増えてくれると嬉しいです。

1 2