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坂本龍馬の妻、おりょう(楢崎龍)の生涯とは?出会いや結婚生活、末路を紹介

おりょうとは、言わずと知れた日本史上の大英雄・坂本龍馬の妻として有名な女性です。

彼女が龍馬の障害に与えた影響は大きく、特に坂本龍馬を語るうえで外せない「寺田屋事件」では、彼女の機転が無ければ龍馬はそこで歴史から退場していたと思われます。そういう意味では、日本の近代化の立役者となった功績の一端はおりょうにあると言ってもいいのかもしれません。少なくともそう言われても不思議ではない、明治維新の縁の下の力持ちこそが、おりょうという女性なのです。

おりょう

おりょうは龍馬にベタ惚れされるほど美しい女性だったようで、龍馬と敵対していた新撰組の局長・近藤勇も、おりょうに好意を抱いて度々贈り物をしていたと伝わっています。

このように、幕末の歴史を語るうえで外すことはできない女性ではありますが、その一方、おりょうという人物個人に対しての情報は「坂本龍馬の妻」という段階で止まっている方が殆どだと思います。

そこで本記事では、”おりょう”という女性がどのように坂本龍馬と知り合い、別れ、その末にどんな人生を歩んだのかまで、なるべく深掘りして記していきたいと思います。

おりょう(楢崎龍)とはどんな人物だったのか?

引用元:大河ドラマネタバレ感想日記より
名前楢崎龍(ならさきりょう)
(通称:おりょう)
別名西村ツル
誕生日1841年7月23日
没日1906年1月15日(享年64歳)
生地京都府・富小路六角付近
没地神奈川県横須賀市
配偶者坂本龍馬 → 西村松兵衛
埋葬場所横須賀市大津・信楽寺

おりょうとはどんな人?

おりょうは、1841年に京都富小路六角付近に住んでいた医師・楢崎将作と、その妻の貞(夏という説もあり)の間に、長女として生まれました。父は皇族の侍医を務めるほどの優秀な医師だったらしく、楢崎家はかなり裕福な家だったそうです。

そのため、おりょうは幼い頃から生け花や香道、茶の湯などに触れながら育っていたらしく、当時の女性の中でもかなり上位に位置する教養を身に着けていたようです。

しかしその一方で、炊事は壊滅的に苦手な、いわゆる”メシマズ”だったとも記録されています。

龍馬との出会いは?

坂本龍馬

裕福だった楢崎家ですが、時は激動の幕末期。裕福な家庭事情は、ある日突然一変します。

皇族の侍医であったこともあり、勤皇運動に傾倒していた父でしたが、そんな彼は安政の大獄で捕らえらてしまします。これにより楢崎家は困窮。更に、拷問死こそ免れた父ですが、牢の悪辣な環境が祟ったのか、釈放からほどなくして病死。

これによって困窮した楢崎家を支えるため、おりょうは旅館「扇岩」で働くことになったと記録されています。

しかし、その没落こそが、おりょうと坂本龍馬をつなげる縁となりました。

当時の「扇岩」の付近には、土佐出身の攘夷志士たちの隠れ家が存在していたらしく、そこでおりょうは、後の夫である坂本龍馬と出会うことになります。おりょうの名前に”龍”の字が使われていることを知った龍馬が「儂と一緒じゃ」と笑ったこと。それが、二人が夫婦となるまでの最初の縁となったのだそうです。

おりょうの性格は?

”あの”坂本龍馬の妻として知られる人物なだけに、おりょうもまた型破りな性格の持ち主だったと記録されています。

困窮した生活の中、妹たちが遊女として売られることを知るや否や、刀を持って男二人相手に大立ち回りを演じた、龍馬と共に訪れた霧島山で、山頂に突き刺さった天の逆鉾(神様を封じているとされる神具)をイタズラで引き抜いたなど、「あぁ、龍馬の妻だわ」と感じるエピソードは、枚挙にいとまがありません。

その一方「頑固者」「夫の権威を笠に着ることが多かった」等のエピソードも伝わっているため、実際の彼女は創作の中で見えるような「肝の据わった賢い女性」ではなかった、と考えるのが妥当だと思われます。

しかし龍馬は、姉に宛てた手紙の中でおりょうのことを「まことにおもしろき女」と評しています。型破りな行動と、どこか垣間見える茶目っ気。そして接する人によって評価の分かれる人柄。

もしかすると二人は、たいそう似たもの夫婦だったのかもしれません。

おりょうと龍馬は日本初の新婚旅行に行った?

引用元:竜馬街道

おりょうと龍馬のエピソードとしてよく言われる事柄ではありますが、これは「半分正しく、半分間違っている」と言える事柄です。

龍馬とおりょうが結婚後に温泉旅行に行ったのは本当ですが、その目的は龍馬が負った刀傷を癒すための湯治の旅であり、彼らは新婚旅行を目的として旅に出たわけではありません。

この旅行が”新婚旅行”と位置付けられたのは、明治期の学者・坂崎紫瀾が、龍馬を紹介した著作である『汗血千里駒』で「ホネー・ムーン(ハネムーン)」と結びつけてこの旅行のエピソードを紹介したことに由来します。

とはいえ、旅行中に一緒に登山をするなど、ただの湯治ではなく観光旅行の意味があったこともわかっているため、この旅行を「日本初の新婚旅行」と表現するのも、決して間違いではないかと思われます。

おりょうと海援隊の面々の関係は?

海援隊

坂本龍馬と言えば、やはり”海援隊”は切っても切れないトピックだろうと思います。龍馬が作り上げた一大組織である海援隊ですが、そのメンバーとおりょうの関係性はどうだったのでしょうか?

これについては、率直に言うと「あまりいい関係性ではなかった」という説が圧倒的です。

海援隊のメンバーだった安岡金馬の子・安岡重雄はおりょうについて「海援隊の隊士からは嫌われていた」「龍馬の妻であることを笠に着て、隊士を見下す部分があった」と。

また、土佐藩士の佐々木高行はおりょうについて、「たいそうな美人だったが、賢い女性ではなく、善にも悪にもなる女だった」と評価する言葉を残しています。

実際、おりょうは龍馬の事業についてはほとんど理解しておらず、龍馬が成した偉業をおりょうが知ったのは、龍馬の死後に明治政府から説明を受けた時だったそうです。

おりょうと龍馬の姉・乙女との関係は?

龍馬の姉・坂本乙女

おりょうと、龍馬の姉であり育ての親代わりでもあった姉・乙女は、不仲だったと語られることが多いです。また、その説と合わせて、晩年のおりょうが落ちぶれたのは乙女との不仲のせいだと語られることが多々あります。

実際、龍馬を失った後のおりょうは、3か月ほどで坂本家を出ることになっているため、坂本家とおりょうの関係があまり良くなかったのは事実だろうと思われます。事実として、龍馬の後に坂本家の家督を継いだ坂本直は、困窮して援助を求めるおりょうを冷たく追い返したとも伝わっています。

しかしその一方で、乙女について晩年のおりょうは「乙女さんには親切にしてもらいました」と語っているため、実際におりょうと不仲だったのは、”乙女”個人ではなく”坂本家”だったと見るのが、現在では通説となっています。

龍馬が死んでしまった後のおりょうの生活とは?

晩年のおりょう

皆さんも知っての通り、坂本龍馬は近江屋事件であっけなくこの世を去ることになります。

近江屋事件の際におりょうが何をしていたのかについては、記録が残っておらずわかっていません。
小説などの創作では「龍馬のために好物の軍鶏肉を買いに行っていた」と描かれることもありますが、実際に軍鶏肉を買いに行っていたのは別の人物であり、おりょうは近江屋事件が勃発した際に、京都にはいなかったため、このエピソードは創作によるものです。

龍馬を喪い未亡人となったおりょうは、数か月ほど龍馬の知己である三吉慎蔵と行動を共にした後、坂本家に送り届けられました。しかし、義兄である権平夫妻と反りが合わず、3か月ほどで坂本家を出奔。

その後は妹夫婦の下に身を寄せますが、義弟の留学にあたってその家にもいられなくなり、土佐を出ることになってしまいます。また、土佐を出る際におりょうは、龍馬からの手紙を全て焼却処分してしまったらしく、現在龍馬がおりょうに宛てた手紙は、わずか一通しか残っていません。

その後は寺田屋のお登勢や西郷隆盛を頼って、京都や東京を転々としますが、そのどこにも長く居つくことはなく、再婚するまでの間は各地を放浪するような、若いころ以上に困窮した生活を送っていたようです。

おりょうは再婚していた?

龍馬を喪って以後、困窮した生活を送っていたおりょうは、1875年に昔なじみの西村松兵衛と再婚。名前を西村ツルと改めたと伝わっています。

松兵衛との結婚生活については、殆ど記録が残っていませんが、松兵衛の家業が傾いていたことの再婚だったこともあり、あまり裕福な結婚生活ではなかったと考えるのが一般的です。事実、晩年のおりょうと松兵衛の住まいは、横須賀の狭い貧乏長屋だったと記録されています。

しかも、晩年のおりょうはアルコール依存症を患っていたらしく、酔っぱらっては「自分は坂本龍馬の妻だ」と夫の松兵衛に絡む厄介者だったそうです。

また、松兵衛と別の女性(おりょうの妹だという説が一般的)が内縁関係となったことで、結婚生活も1897年ごろには終わってしまい、一人で長屋に取り残された晩年のおりょうは、退役軍人の工藤外太郎に保護されて余生を送ったと伝わっています。

また、日露戦争の頃になると”坂本龍馬”の名前は多くの人に知られるものになっていたようで、困窮するおりょうへの募金なども多少集まるようになっていたようです。

そして1906年、おりょうは66歳で生涯を終えました。墓は横須賀の信楽寺に建立され、後に妹と松兵衛が建立した墓碑には『贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓』という言葉が刻まれ、”坂本龍馬の妻・おりょう”がそこに眠っていることを示しています。

おりょうの略歴年表

1841年「京都の医師の家、楢崎家に生まれる」

おりょうは、皇族の侍医を務める医師・楢崎将作と、その妻の間に長女として生まれました。没落した武士の家系でしたが、父の医師としての腕のおかげで、楢崎家はかなり裕福だったそうです。

1862年「父の死により楢崎家が没落」

家計を支えていた父が病死したことで、楢崎家はたちまち困窮。おりょうは旅館「扇岩で働き始めることになります。

1864年「坂本龍馬との出会いと、池田屋事件」

この年、おりょうは「扇岩を訪れた坂本龍馬と出会うことになります。名前の”龍”の字繋がりもあって、おりょうに惚れた龍馬はそのままプロポーズ。この年の8月には内祝言をあげるほどのスピード結婚だったようです。

一方で、この年には池田屋事件も勃発。楢崎家は困窮を深めていくことになりました。

1866年「薩長同盟、寺田屋事件、ハネムーン」

1月に薩長同盟が締結し、その翌日に寺田屋事件が勃発。

襲撃に気付いたおりょうは龍馬を逃がすために、裏戸を塞いでいた重い漬物樽を持ち上げ、彼らの逃げ道を作ったそうです。これによって龍馬たちは退路を確保しつつ刺客に応戦し、手傷を追いつつも逃走に成功しました。

そしてその手傷を癒すため、西郷の勧めもあって二人は薩摩に湯治の旅へ。この旅が、日本で初めての新婚旅行として知られています。

1867年「坂本龍馬、暗殺」

11月15日、近江屋事件が勃発し、龍馬はあっけなく帰らぬ人となってしまいます。

この頃のおりょうは、下関の海援隊拠点に身を寄せていたらしく、おりょうが龍馬の訃報を知ったのは、12月に入ってからだったそうです。

1868年「坂本家、妹夫婦の家を転々とする」

龍馬を喪ったおりょうは、坂本家に身を寄せますが、龍馬の兄・権平夫婦との不仲で坂本家を出奔。

その後は妹夫婦の家に身を寄せますが、夫婦の海外留学が決まったことから、そこにもいられなくなってしまい、土佐を出て放浪生活を送ることになってしまいます。

1869年「京都を経て東京へ」

寺田屋のお登勢や西郷などの伝手を頼りに、おりょうは京都や東京を転々とする暮らしを送ります。

暮らしは困窮していましたが、坂本家や妹夫婦とは不仲だったらしく、おりょうを援助する親族は全くと言っていいほどいなかったようです。

1875年「西村松兵衛と再婚」

顔なじみの大道商人である、西村松兵衛と再婚します。

この結婚については様々な説が存在し、”松兵衛と再婚した”という事実以外は不明瞭な部分が多いですが、おりょうの困窮を見かねたお登勢や西郷が再婚の世話をした、という説が一般的です。

1883年「『汗血千里駒』がベストセラーに」

龍馬について描かれた伝記小説『汗血千里駒』がベストセラーとなり、坂本龍馬の名が一躍世に知らしめられました。

しかしおりょうは『汗血千里駒』について、「間違いが多くて口惜しいと語っており、作品についてはあまり評価していなかったようです。

1906年「困窮の内にこの世を去る」

年の始まりに危篤状態に陥ったおりょうは、そのまま帰らぬ人となります。享年は66歳。アルコール依存に陥り、再婚した夫にも半ば見放された状況での孤独な死でした。

墓所は横須賀市大津の信楽寺に存在するほか、龍馬の眠る京都霊山護国神社にも分骨されているそうです。

おりょうに関するまとめ

『維新の英雄・坂本龍馬の妻』という肩書から、様々な創作で非常に多くの側面が描かれているおりょう。

多くの作品では「陰日向に龍馬を支える賢い妻」として描かれている彼女ですが、実際の彼女は「先端を行く賢い女性」というよりも、「時代の波に翻弄されて身を持ち崩す、変革の犠牲者」としての側面が強いように感じました。彼女自身にも性格的な問題があったとはいえ、晩年に至るまでの転落を見ると、時代の皮肉を感じるところです。

とはいえ、晩年のアルコール依存状態にあっても「私は坂本龍馬の妻だ」としきりに口にするあたり、彼女が龍馬に深い愛情を持っていたことは、疑いようのない事実だろうと思われます。

「一途な愛」と文字にすると陳腐に映ってしまいますが、「英雄」である坂本龍馬を「夫」であり「人間」として見たあたり、もしかすると彼女は、相当な大器だったのかもしれません。

それでは、この記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました。新たな情報があり次第、随時更新していく予定ですので、ちょくちょく覗きに来ていただけると嬉しいです!