坂本龍馬の妻、おりょう(楢崎龍)の生涯とは?出会いや結婚生活、末路を紹介

龍馬が死んでしまった後のおりょうの生活とは?

晩年のおりょう

皆さんも知っての通り、坂本龍馬は近江屋事件であっけなくこの世を去ることになります。

近江屋事件の際におりょうが何をしていたのかについては、記録が残っておらずわかっていません。
小説などの創作では「龍馬のために好物の軍鶏肉を買いに行っていた」と描かれることもありますが、実際に軍鶏肉を買いに行っていたのは別の人物であり、おりょうは近江屋事件が勃発した際に、京都にはいなかったため、このエピソードは創作によるものです。

龍馬を喪い未亡人となったおりょうは、数か月ほど龍馬の知己である三吉慎蔵と行動を共にした後、坂本家に送り届けられました。しかし、義兄である権平夫妻と反りが合わず、3か月ほどで坂本家を出奔。

その後は妹夫婦の下に身を寄せますが、義弟の留学にあたってその家にもいられなくなり、土佐を出ることになってしまいます。また、土佐を出る際におりょうは、龍馬からの手紙を全て焼却処分してしまったらしく、現在龍馬がおりょうに宛てた手紙は、わずか一通しか残っていません。

その後は寺田屋のお登勢や西郷隆盛を頼って、京都や東京を転々としますが、そのどこにも長く居つくことはなく、再婚するまでの間は各地を放浪するような、若いころ以上に困窮した生活を送っていたようです。

おりょうは再婚していた?

龍馬を喪って以後、困窮した生活を送っていたおりょうは、1875年に昔なじみの西村松兵衛と再婚。名前を西村ツルと改めたと伝わっています。

松兵衛との結婚生活については、殆ど記録が残っていませんが、松兵衛の家業が傾いていたことの再婚だったこともあり、あまり裕福な結婚生活ではなかったと考えるのが一般的です。事実、晩年のおりょうと松兵衛の住まいは、横須賀の狭い貧乏長屋だったと記録されています。

しかも、晩年のおりょうはアルコール依存症を患っていたらしく、酔っぱらっては「自分は坂本龍馬の妻だ」と夫の松兵衛に絡む厄介者だったそうです。

また、松兵衛と別の女性(おりょうの妹だという説が一般的)が内縁関係となったことで、結婚生活も1897年ごろには終わってしまい、一人で長屋に取り残された晩年のおりょうは、退役軍人の工藤外太郎に保護されて余生を送ったと伝わっています。

また、日露戦争の頃になると”坂本龍馬”の名前は多くの人に知られるものになっていたようで、困窮するおりょうへの募金なども多少集まるようになっていたようです。

そして1906年、おりょうは66歳で生涯を終えました。墓は横須賀の信楽寺に建立され、後に妹と松兵衛が建立した墓碑には『贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓』という言葉が刻まれ、”坂本龍馬の妻・おりょう”がそこに眠っていることを示しています。

おりょうの略歴年表

1841年「京都の医師の家、楢崎家に生まれる」

おりょうは、皇族の侍医を務める医師・楢崎将作と、その妻の間に長女として生まれました。没落した武士の家系でしたが、父の医師としての腕のおかげで、楢崎家はかなり裕福だったそうです。

1862年「父の死により楢崎家が没落」

家計を支えていた父が病死したことで、楢崎家はたちまち困窮。おりょうは旅館「扇岩で働き始めることになります。

1864年「坂本龍馬との出会いと、池田屋事件」

この年、おりょうは「扇岩を訪れた坂本龍馬と出会うことになります。名前の”龍”の字繋がりもあって、おりょうに惚れた龍馬はそのままプロポーズ。この年の8月には内祝言をあげるほどのスピード結婚だったようです。

一方で、この年には池田屋事件も勃発。楢崎家は困窮を深めていくことになりました。

1866年「薩長同盟、寺田屋事件、ハネムーン」

1月に薩長同盟が締結し、その翌日に寺田屋事件が勃発。

襲撃に気付いたおりょうは龍馬を逃がすために、裏戸を塞いでいた重い漬物樽を持ち上げ、彼らの逃げ道を作ったそうです。これによって龍馬たちは退路を確保しつつ刺客に応戦し、手傷を追いつつも逃走に成功しました。

そしてその手傷を癒すため、西郷の勧めもあって二人は薩摩に湯治の旅へ。この旅が、日本で初めての新婚旅行として知られています。

1867年「坂本龍馬、暗殺」

11月15日、近江屋事件が勃発し、龍馬はあっけなく帰らぬ人となってしまいます。

この頃のおりょうは、下関の海援隊拠点に身を寄せていたらしく、おりょうが龍馬の訃報を知ったのは、12月に入ってからだったそうです。

1868年「坂本家、妹夫婦の家を転々とする」

龍馬を喪ったおりょうは、坂本家に身を寄せますが、龍馬の兄・権平夫婦との不仲で坂本家を出奔。

その後は妹夫婦の家に身を寄せますが、夫婦の海外留学が決まったことから、そこにもいられなくなってしまい、土佐を出て放浪生活を送ることになってしまいます。

1869年「京都を経て東京へ」

寺田屋のお登勢や西郷などの伝手を頼りに、おりょうは京都や東京を転々とする暮らしを送ります。

暮らしは困窮していましたが、坂本家や妹夫婦とは不仲だったらしく、おりょうを援助する親族は全くと言っていいほどいなかったようです。

1875年「西村松兵衛と再婚」

顔なじみの大道商人である、西村松兵衛と再婚します。

この結婚については様々な説が存在し、”松兵衛と再婚した”という事実以外は不明瞭な部分が多いですが、おりょうの困窮を見かねたお登勢や西郷が再婚の世話をした、という説が一般的です。

1883年「『汗血千里駒』がベストセラーに」

龍馬について描かれた伝記小説『汗血千里駒』がベストセラーとなり、坂本龍馬の名が一躍世に知らしめられました。

しかしおりょうは『汗血千里駒』について、「間違いが多くて口惜しいと語っており、作品についてはあまり評価していなかったようです。

1906年「困窮の内にこの世を去る」

年の始まりに危篤状態に陥ったおりょうは、そのまま帰らぬ人となります。享年は66歳。アルコール依存に陥り、再婚した夫にも半ば見放された状況での孤独な死でした。

墓所は横須賀市大津の信楽寺に存在するほか、龍馬の眠る京都霊山護国神社にも分骨されているそうです。

おりょうに関するまとめ

『維新の英雄・坂本龍馬の妻』という肩書から、様々な創作で非常に多くの側面が描かれているおりょう。

多くの作品では「陰日向に龍馬を支える賢い妻」として描かれている彼女ですが、実際の彼女は「先端を行く賢い女性」というよりも、「時代の波に翻弄されて身を持ち崩す、変革の犠牲者」としての側面が強いように感じました。彼女自身にも性格的な問題があったとはいえ、晩年に至るまでの転落を見ると、時代の皮肉を感じるところです。

とはいえ、晩年のアルコール依存状態にあっても「私は坂本龍馬の妻だ」としきりに口にするあたり、彼女が龍馬に深い愛情を持っていたことは、疑いようのない事実だろうと思われます。

「一途な愛」と文字にすると陳腐に映ってしまいますが、「英雄」である坂本龍馬を「夫」であり「人間」として見たあたり、もしかすると彼女は、相当な大器だったのかもしれません。

それでは、この記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました。新たな情報があり次第、随時更新していく予定ですので、ちょくちょく覗きに来ていただけると嬉しいです!


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