坂本龍馬はだれになぜ暗殺された?5つの有力説ついて徹底解説

坂本龍馬の死因、それは「暗殺」です。道半ばにして何者かに暗殺され命を断つ事になってしまいます。

この坂本龍馬暗殺事件を「近江屋事件(おうみやじけん)」と言いますが、彼は果たして誰になぜ暗殺されたのでしょうか?

この記事では、

  • 近江屋事件
  • 5つの暗殺”説”
  • 最も有力な説
  • 暗殺された理由
  • 暗殺時の流れ
  • 暗殺後の影響

について解説していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

坂本龍馬が暗殺された「近江屋事件」とは

江戸幕府が終わりを告げ、新しい「明治」の世が始まった大政奉還から15日後の1867年12月10日(慶応3年11月15日)、幕末を駆け抜けた大政奉還の立役者・坂本龍馬が暗殺されました。

この坂本龍馬が暗殺された事件を「近江屋(おうみや)事件」といいます。龍馬の用心棒だった山田藤吉、そして陸援隊の中岡慎太郎の3名が、何者かに殺されてしまいます。

近江屋事件

龍馬は、独自の信念を持ち討幕の先頭に立ちました。しかし、龍馬は知恵も働き、剣術も「皆伝」を取得するほどの腕の持ち主にもかかわらず、いともあっさりと暗殺されていることも、大変奇妙です。

いくら先頭に立っていたとはいえ、幕末当時の状況は単純ではありませんでした。

尊王攘夷派、佐幕派、討幕派、勤王派、公武合体派など、さまざまな考え方の志士たちが活動し、各々の方法で討幕を行っています。そのため、いくら龍馬が穏健派だったとしても、敵に囲まれた状況にあったのです。

坂本龍馬とはどんな人?何をした人?わかりやすく解説

坂本龍馬の暗殺者5大説

1.京都見廻り組説

佐々木只三郎

京都見廻り組とは、京都の治安維持組織、現在の警察と同じ役割を果たした組織です。京都見廻り組には、佐幕派と呼ばれる大政奉還に反対を唱えていた幕府の補佐に回っている人物が多くいます。

龍馬を暗殺したのは、当時の見廻り組のメンバー佐々木只三郎(ささきたださぶろう)を筆頭にした数名が関与しているとしていました。見廻り組は佐幕派の下に置かれていた組織であることから、龍馬が幕府を倒そうとしている動きに敏感で、龍馬を暗殺するには格好の組織だと言われています。

しかし、あくまで人づてにより聞いた話が多いというだけでなく、佐々木只三郎よりも上にいる人物ではないかなど、情報が定かではないことから、有力な説であるものの、確証が得られていません。

2. 新選組元隊員、伊東甲子太郎と一部の新選組メンバー説

伊藤甲子太郎の肖像画

続いて挙がるのが、新選組元隊員の伊東甲子太郎(いとうかしたろう)と彼の派閥に属する新選組元隊員らによる暗殺説です。

この説は当時、かつて真っ先にとりだたされた暗殺の理由でした。

しかし龍馬暗殺の半年前、新選組の参謀であった伊東甲子太郎が新選組を離脱し、独自に薩摩藩士の護衛を名目として勤皇派の御陵衛士を結成。龍馬の同胞の中岡慎太郎に近づき、新選組が龍馬を暗殺するという忠告をしたとされています。

龍馬は、いきなり佐幕派から勤王派に転じた甲子太郎を信用に足らないと判断し、聞き入れず。自分の忠告を無視され、立腹した甲子太郎が、龍馬暗殺を企てたのでは?というものです。

3.土佐藩の上級武士説

龍馬と同郷の、土佐藩士による龍馬暗殺説も有力です。

龍馬はもともと、土佐藩の下級武士の出身です。しかし、江戸城開城に奔走する下級武士の龍馬の姿を疎ましく思う勢力がいました。それこそ、同じ土佐藩の上級武士たちです。

特に上級武士であり土佐藩の家老・後藤象二郎は、かねてより龍馬と因縁の関係にあったことから、彼と手を組んだ土佐藩の下級武士らに、龍馬は襲撃されたのではないかとされているのです。

さらに、龍馬たちを襲撃した犯人は、土佐なまりの言葉を発したという証言もあることから、有力視されています。

4.薩摩藩説

西郷隆盛

薩摩藩の藩士、西郷隆盛と大久保利通ら武力討幕派による説もあります。この説は、龍馬を題材とするテレビ番組や小説で良く採用される説なので、知っている人も多いのではないでしょうか?

武力による討幕をを目指していた薩摩藩は、西郷隆盛と大久保利通らが先陣を切って活動をしていました。

一方龍馬は、大政奉還を皮切りに、新体制への路線変更を柔軟に行いながら、最後の江戸幕府将軍の徳川慶喜を残す方向で考えていました。

このことから、討幕派の薩摩藩からしてみれば、龍馬は邪魔な存在になってきてしまい、暗殺を企てたのではないか?というものです。

しかし、龍馬自身も抜かりなく幕府とも談合を行っていたこと、西郷隆盛との仲を上手く取り持ってきたこと、龍馬と近江屋で同席していた中岡慎太郎も武力討幕派の人物だったということなどからも、西郷隆盛らが龍馬暗殺を目論んだと決定づけるには早いのではないかとも考えられています。

5.紀州藩士説

海援隊の「いろは丸」とみられる絵図

紀州藩士が、「いろは丸事件」の敗訴による恨みで龍馬を暗殺したという説も考えられています。

1867年に大政奉還が行われていた裏側で、龍馬率いる海援隊の所有船「いろは丸」と、紀伊藩の船「明光丸」の衝突事件が起こっています。

結果は、海援隊側の勝訴で終了するものの、この裁判に不服だった紀伊藩藩士が、龍馬の暗殺を企てたと言うものです。現場には紀伊藩士が良く使っていた鞘が残されていたということも相まって、信ぴょう性が高くなりました。

特に紀伊藩は徳川御三家と言われる、将軍家の次に偉い身分にありました。そのプライドを踏みにじられて犯行に及んだのではないか?という説です。

さらに面白い見解として、龍馬が暗殺された日に紀伊藩から海援隊に巨額のお金が動いていたという話も浮上!新たな説として取り立たされているのです。

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