坂本龍馬の死因、それは「暗殺」です。道半ばにして何者かに暗殺され命を断つ事になってしまいます。
この坂本龍馬暗殺事件を「近江屋事件(おうみやじけん)」と言いますが、彼は果たして誰になぜ暗殺されたのでしょうか?
この記事では、
- 近江屋事件
- 5つの暗殺”説”
- 最も有力な説
- 暗殺された理由
- 暗殺時の流れ
- 暗殺後の影響
について解説していきます。
坂本龍馬が暗殺された「近江屋事件」とは
江戸幕府が終わりを告げ、新しい「明治」の世が始まった大政奉還から15日後の1867年12月10日(慶応3年11月15日)、幕末を駆け抜けた大政奉還の立役者・坂本龍馬が暗殺されました。
この坂本龍馬が暗殺された事件を「近江屋(おうみや)事件」といいます。龍馬の用心棒だった山田藤吉、そして陸援隊の中岡慎太郎の3名が、何者かに殺されてしまいます。
龍馬は、独自の信念を持ち討幕の先頭に立ちました。しかし、龍馬は知恵も働き、剣術も「皆伝」を取得するほどの腕の持ち主にもかかわらず、いともあっさりと暗殺されていることも、大変奇妙です。
いくら先頭に立っていたとはいえ、幕末当時の状況は単純ではありませんでした。
尊王攘夷派、佐幕派、討幕派、勤王派、公武合体派など、さまざまな考え方の志士たちが活動し、各々の方法で討幕を行っています。そのため、いくら龍馬が穏健派だったとしても、敵に囲まれた状況にあったのです。
坂本龍馬の暗殺者5大説
1.京都見廻り組説
京都見廻り組とは、京都の治安維持組織、現在の警察と同じ役割を果たした組織です。京都見廻り組には、佐幕派と呼ばれる大政奉還に反対を唱えていた幕府の補佐に回っている人物が多くいます。
龍馬を暗殺したのは、当時の見廻り組のメンバー佐々木只三郎(ささきたださぶろう)を筆頭にした数名が関与しているとしていました。見廻り組は佐幕派の下に置かれていた組織であることから、龍馬が幕府を倒そうとしている動きに敏感で、龍馬を暗殺するには格好の組織だと言われています。
しかし、あくまで人づてにより聞いた話が多いというだけでなく、佐々木只三郎よりも上にいる人物ではないかなど、情報が定かではないことから、有力な説であるものの、確証が得られていません。
2. 新選組元隊員、伊東甲子太郎と一部の新選組メンバー説
続いて挙がるのが、新選組元隊員の伊東甲子太郎(いとうかしたろう)と彼の派閥に属する新選組元隊員らによる暗殺説です。
この説は当時、かつて真っ先にとりだたされた暗殺の理由でした。
しかし龍馬暗殺の半年前、新選組の参謀であった伊東甲子太郎が新選組を離脱し、独自に薩摩藩士の護衛を名目として勤皇派の御陵衛士を結成。龍馬の同胞の中岡慎太郎に近づき、新選組が龍馬を暗殺するという忠告をしたとされています。
龍馬は、いきなり佐幕派から勤王派に転じた甲子太郎を信用に足らないと判断し、聞き入れず。自分の忠告を無視され、立腹した甲子太郎が、龍馬暗殺を企てたのでは?というものです。
3.土佐藩の上級武士説
龍馬と同郷の、土佐藩士による龍馬暗殺説も有力です。
龍馬はもともと、土佐藩の下級武士の出身です。しかし、江戸城開城に奔走する下級武士の龍馬の姿を疎ましく思う勢力がいました。それこそ、同じ土佐藩の上級武士たちです。
特に上級武士であり土佐藩の家老・後藤象二郎は、かねてより龍馬と因縁の関係にあったことから、彼と手を組んだ土佐藩の下級武士らに、龍馬は襲撃されたのではないかとされているのです。
さらに、龍馬たちを襲撃した犯人は、土佐なまりの言葉を発したという証言もあることから、有力視されています。
4.薩摩藩説
薩摩藩の藩士、西郷隆盛と大久保利通ら武力討幕派による説もあります。この説は、龍馬を題材とするテレビ番組や小説で良く採用される説なので、知っている人も多いのではないでしょうか?
武力による討幕をを目指していた薩摩藩は、西郷隆盛と大久保利通らが先陣を切って活動をしていました。
一方龍馬は、大政奉還を皮切りに、新体制への路線変更を柔軟に行いながら、最後の江戸幕府将軍の徳川慶喜を残す方向で考えていました。
このことから、討幕派の薩摩藩からしてみれば、龍馬は邪魔な存在になってきてしまい、暗殺を企てたのではないか?というものです。
しかし、龍馬自身も抜かりなく幕府とも談合を行っていたこと、西郷隆盛との仲を上手く取り持ってきたこと、龍馬と近江屋で同席していた中岡慎太郎も武力討幕派の人物だったということなどからも、西郷隆盛らが龍馬暗殺を目論んだと決定づけるには早いのではないかとも考えられています。
5.紀州藩士説
紀州藩士が、「いろは丸事件」の敗訴による恨みで龍馬を暗殺したという説も考えられています。
1867年に大政奉還が行われていた裏側で、龍馬率いる海援隊の所有船「いろは丸」と、紀伊藩の船「明光丸」の衝突事件が起こっています。
結果は、海援隊側の勝訴で終了するものの、この裁判に不服だった紀伊藩藩士が、龍馬の暗殺を企てたと言うものです。現場には紀伊藩士が良く使っていた鞘が残されていたということも相まって、信ぴょう性が高くなりました。
特に紀伊藩は徳川御三家と言われる、将軍家の次に偉い身分にありました。そのプライドを踏みにじられて犯行に及んだのではないか?という説です。
さらに面白い見解として、龍馬が暗殺された日に紀伊藩から海援隊に巨額のお金が動いていたという話も浮上!新たな説として取り立たされているのです。
龍馬暗殺の最も有力な説は「京都見廻組」
一般的に龍馬暗殺当時に最も有力な説として語られているのが、最初に紹介した佐々木只三郎が指揮する「京都見廻り組」による龍馬暗殺説です。
これは、学術的にもほぼ確定している有力な説で、当時の京都見廻り組の人数と、実際に暗殺実行犯の人数が同じ数だったなどという点からしても、非常に有力な暗殺説です。
実は見廻り組隊士だった今井信郎が、最初は佐々木只三郎の指示の元、7名で近江屋に向かい、佐々木只三郎ら4名が龍馬暗殺を実行したと証言しています。
さらに、今井は「暗殺ではなく幕府の命令による職務だった」とも話しています。このように今井信郎の証言は、最終的に1912年(大正元年)に文献として収録されているのも事実です。
しかし、今井信郎の証言は後に龍馬暗殺に関する証言が取材陣により誇張されたり、他の存命者との証言の食い違い訂正したこともあり、本当に京都見廻り組の犯行が正しいのかは、現在でも確証は得られていないのもまた事実です。
なぜ坂本龍馬は暗殺されなければならなかったのか?
土佐藩を脱藩し、自らの信念の元、大政奉還まで導き江戸幕府を開城させた立役者として、時代を作ってきました。
比較的平和的に国家を改造したいと考え、動くことは、並大抵のことではありませんし、成し遂げるに至るのなら、周りから慕われるのが当然です。 そんな龍馬ですが、なぜ暗殺されなければならなかったのでしょうか?
龍馬は、所属する土佐藩を二度脱藩しています。藩を抜けるということは、簡単にいうと会社を辞めて独立したフリーランスと同じです。
フリーランスの人物が、自ら会社に働きかけて、大きな仕事を得たということと考えれば、とてもわかりやすいですよね。
さらに龍馬は、独立した立場でありながら、明治維新の立役者だった中心人物とも繋がっていただけでなく、公家や脱藩した土佐藩、幕府や長州藩、薩摩藩と強いパイプを持っていました。強いパイプを使うことで、大政奉還に向けて様々な活動をしてきました。
彼らは、大政奉還を目前としている江戸末期、自分たちが政治を奪取するべきだと考えていてもおかしくありませんし、その上で龍馬が邪魔になってくる可能性も考えられます。
それに幕府は幕府で、自分たちの政治を脅かす龍馬という存在が恐ろしい存在です。つまり、独立しながらも龍馬は多方面から狙われる存在になってしまったのです。
また、龍馬は用心深い性格だったということでも有名で、常にピストルを懐に差していたことでも有名です。これは、龍馬自身も「いつ誰に襲われてもおかしくない」ということを表しています。
坂本龍馬が暗殺された時の詳しい流れ
坂本龍馬、滞在先を近江屋に移す
坂本龍馬は、これまでの滞在先だった薩摩藩お抱えの寺田屋が襲撃されたことを契機に、滞在先を近江やへ移すことになります。これが俗にいう、「1866年1月13日の寺田屋事件」です。
龍馬は立場上、命を狙われていることを自分自身も承知していただけでなく、龍馬を助ける周囲の人たちも周知の事実でした。
当初は、もともと属していた土佐藩の藩邸や、協力者だった西郷隆盛らがいる薩摩藩の藩邸に身を隠すようにすすめられていました。
しかし、二度の土佐藩脱藩経歴がある龍馬を受け入れることに良い顔を示さなかった土佐藩の家老のこと、自らが土佐藩出身であるからということにも遠慮したために薩摩藩邸に入ることも遠慮した龍馬は、近江屋に身を隠すことにします。
カゼを引いたため居場所を移動
近江屋事件が起きた1867年12月10日(慶応3年11月15日)、龍馬は風邪を引いていました。普段は近江屋の土蔵に身を隠していたものの、風邪が原因で母屋の2階で身をひそめていました。
風邪は引いていたものの外出はできるほどの軽いものだったそうで、2回ほど外出していることもわかっています。向かいの部屋には用心棒の元力士・山田藤吉もいたようです。
また、近江屋事件で犠牲となった中岡慎太郎と岡本健三郎が、この頃龍馬を訪ねて近江屋にやってきます。
夕方、龍馬と中岡慎太郎、山田藤吉が近江屋に残る
その後、風邪を引いて冷えた身体を温めたかったのか、龍馬は中岡慎太郎を経由して、近江主人の息子である本屋の菊谷峰吉にしゃもを買ってくるように頼みます。
この時、岡本健三郎も近江屋を出ていますので、龍馬・中岡慎太郎・山田藤吉の3名が近江屋に残る形となります。
近江屋に不審者!山田藤吉が倒れる
龍馬と中岡慎太郎が火鉢を囲んで談笑している間、十津川郷士(松代藩士説も)を名乗る人物が近江屋を訪れます。
異変を感じなかった山田藤吉は、龍馬に取り次ごうとしたその時、いきなり背後から斬りつけられ、重症。一説では、名紙を龍馬の元へ届け、戻ってきたと頃を切られた、とも言われています。
しかし、龍馬はその異変に気が付かず、物音をふざけたのだと勘違い。土佐弁で「騒ぐな」を意味する「ほたえ!」と叫びます。これにより、龍馬が2階にいることがバレてしまうのです。
龍馬と中岡慎太郎、襲撃される
居場所がバレてしまった龍馬。ふすまを開けて部屋に侵入してきた刺客(3人説もある)が彼らを襲います。
侵入した後すぐに斬られた説や、「龍馬先生?」と尋ねられた説、浪士が名紙を渡してからいきなり斬られた説など、様々な説が今でも語られています。
いずれにせよ、龍馬は刺客に応戦する間もなく額を斬られて絶命します。一緒に居た中岡慎太郎も重傷を負い、一命を取り留めたものの、事件の2日後に亡くなります。
坂本龍馬が暗殺されたのちの影響
龍馬と同席の中岡慎太郎が暗殺されたことは、特に打倒幕府を掲げる討幕派にとって大きな衝撃を与えた事件でした。
討幕派の公家や志士らは、悲しみにふけったと言われています。特に岩倉具視は「我らの両腕を失った」と嘆き、三条実美は睡眠や食を摂ることも忘れるほど泣き叫んだと言われています。
また、当時大軍事力を持っていた薩摩と長州の動きを抑えこんでいた龍馬の存在は非常に大きいものでした。
龍馬がいたからこそ、薩長両国の武力による幕府制圧を延ばしていましたが、龍馬が居なくなったことで結局、薩摩と長州は予定通り武力を以て幕府を倒す計画を進めてしまうのでした。
結果、政治クーデターの「王政復古の大号令」があり、赤報隊による幕府への挑発行動が起きます。そして、坂本龍馬と仲のよかった赤報隊の組織に関わった西郷隆盛は西南戦争で絶命し、戊辰戦争が勃発してしまうのです。
まとめ
龍馬の考えていた武力を投じない政権交代は、残念ながら叶うことはありませんでした。
幸運にも、天皇の権威を生かしながら国民が参加できるように変化した欧米型の政治形態の展開に新明治政府が成功したのは、少なからず龍馬の活躍や、龍馬の構想に賛同していた者たちの考えが会ったからといえます。
それだけでなく、龍馬の育てた人材や、海援隊も後に近代化していく日本を支える重要な柱となったことも、龍馬の偉大な功績のひとつです。
それだけ存在が大きかった人物にもかかわらず、残念ながら、今でも坂本龍馬暗殺事件の謎は解明されていません。ですが本記事をきっかけに、あなたの考える龍馬暗殺を想像するのも、面白いかもしれません。