大谷吉継は何の病気だった?原因は?数々の噂から真相を解明

大谷吉継の病気に対する周囲の反応は?

吉継の主君・豊臣秀吉と、親友・石田三成の像

ともかく、将来を有望視される有能な若手の官僚だったにもかかわらず、なんらかの病を負って前線を退くことになってしまった吉継。

そんな吉継に対し、周囲の同僚や友人、あるいは主君や領民はどんな反応を示したのでしょうか?

多くの”噂”に苦しめられた吉継

病を負って前線を退くことになった吉継は、やはりと言うべきか、数々の心ない噂に苦しめられることになります。その辺りの悪質さは、今も昔も変わりませんね。

とりわけひどかったのが、前項でも少しだけ触れた「城下の辻斬りの噂」。

吉継が病で前線を退いたのと同じ時期に、間の悪いことに大阪城下では辻斬り事件が頻発。この事件に対して「主犯は、自分の業病を治したい大谷だ」という噂が立ってしまったのです。

この辻斬り事件は後に解決し、犯人は処刑。噂を流した反大谷派の同僚たちも、この一件で秀吉の怒りを買って処分されたようですが、この噂に吉継がどれだけ心を痛めたかは、現在の我々でも想像に難くはありません。

事実として、この噂が経ってから数年の間、大谷吉継の名前は歴史上の記録から著しく少なくなっています。元々あまり記録に残らないタイプの武将ではありましたが、ここまで一気に名前が見られなくなるのは、やはり異常というほかありません。

心無いゴシップが人を傷つけるのは、今も昔も変わりません。インターネットが発達し、情報通信網が発達した現在だからこそ、今一度考える必要があるエピソードかもしれませんね。

同僚からの反応は様々

吉継の病に対し、同僚からの反応は様々。というより、良くも悪くもさほど変わらなかったようです。

元々「若手ながら文武に優れた優秀な人物」「秀吉から目を掛けられ、信頼もかなり厚い」というポジションにいた吉継にとって、同僚から嫉妬されるのはある意味で日常茶飯事。

嫉妬に駆られた同僚が表立って物言いをつけてくるようになったこと以外は、さほど吉継の日常は変わりなかったようです。少なくとも記録上は、「友人関係が変わった」「同僚が急に冷たくなった」という記載は見つけられません。

しかし、病気を負った吉継は次第に療養生活に入り、大阪城への出仕が少なくなってしまったため、その影響で同僚との付き合いはやはり減少。元々は交友関係の広い人物だったようですが、少々遠巻きにされるような部分は、やはり出てきてしまっていたようです。

主君・秀吉からは変わらず厚遇され、友人たちも温かかった

病を負って、仕方ないとはいえ遠巻きにされることが増えてしまった吉継ですが、主君である豊臣秀吉や、幼い頃からの友人であり同僚でもある石田三成、加藤清正たちは、変わらず吉継と付き合い続けたとされています。

特に秀吉は、病を負った吉継の事をたいそう心配していたらしく、自身が傷を負った時に湯治していた秘湯を紹介し、そこでの療養を命じるなど、吉継の事をとても慮っていたことが記録されています。

この時期になると、いわゆる「老害モード」に入りかけていた秀吉ですが、吉継に対しては親身な姿勢を最後まで続けており、秘湯での療養の後は京都での休養を命じています。その京都の屋敷にも度々吉継の様子を見に行き、珍しいお菓子のプレゼントや、土産話に花を咲かせていたと記録が残っているため、秀吉は本当に親身になって、吉継の事を慮っていたのでしょう。

ほかにも、徳川家康からは政策に対する相談を受けたり、加藤清正、福島正則からも病状を心配される手紙を送られたり内政などの相談をされたりと、病を負ってなお、心配し頼ってくれる友人が数多くいたこともわかっています。

石田三成との友情を示す茶会のエピソードが特に有名ですが、他にも友人が多く、半ば隠居の身に追い込まれてからも、多くの有能な武将たちに親しまれ、また頼りにされた大谷吉継

「類は友を呼ぶ」と言いますが、優秀な人格者だった吉継の周りには、やはり優秀な人格者たちが集まっていたと言えるのかもしれません。

大谷吉継の病気に関するまとめ

病によって前線を退くも、その人格と優秀な能力を周囲から評価され、多くの同僚や主君からも頼りにされ続けた大谷吉継

その生涯や生きざまから学べることはとても多く、ともすれば信長や秀吉よりも、現在の我々が教わるべきことが多い武将だとも言えるでしょう。優秀な頭脳を持ちながら、最後は友とも友情を選んで撒けるとわかった戦に赴いた清廉さは、いつの時代であっても、本当なら誰もが持ち続けなければならない精神性だと思えます。

現在でも、「一般的」とは異なる要素を持った人への差別感情は、様々なところに影を落としています。吉継の辿った生涯を見るに、それは今も昔もさほど変わってはいません。

こうして、この記事で「大谷吉継の苦しみ」を知った皆さんが、この後どのようにこの記事の学びを活かすか。それこそが、「歴史を学ぶ」という行為の中で本当に大事なものなのではないでしょうか?

それでは、本記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました!

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