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大谷吉継は何の病気だった?原因は?数々の噂から真相を解明

若い時分より豊臣秀吉に仕え、江戸幕府の初代将軍である徳川家康からも高い評価を受けながら、親友との友情を優先して関ヶ原に散った義勇の名将・大谷吉継。

そのエピソードの清廉なカッコよさから、戦国時代好きからの人気は非常に高く、戦国時代マニアからの人気は、かの信長・秀吉・家康の三英傑にも決して劣らない人物です。

そんな吉継の代名詞と言えば、やはり顔全体を覆う白い頭巾。「大谷吉継」という名前を知らずとも、「石田三成とよく一緒にいる、白い頭巾の武将」と言えば、ドラマなどで思い当たる人も多いのでは?

とはいえ、その白い頭巾は決して「おしゃれ」を目的としたものではありませんでした。

白い頭巾は、吉継にとって「なくてはならないもの」であり、同時に「忌み嫌うべきものの象徴」――――「病によって崩れてしまった顔を隠すためのもの」だったのです。

では、そんな吉継の病気は、一体どんな病気だったのか。

この記事では、大谷吉継の病気について、様々な説から深掘りしていきたいと思います。

大谷吉継の生涯・歴史年表まとめ【病気の真相や三成との関係も解説】

大谷吉継は何の病気だった?

大谷吉継の肖像画

「大谷吉継の病気は何だったのか」については、非常に多くの説が存在して、現在もはっきりとした結論は出ていません。

通説はいくつか存在していますが、そもそも大谷吉継という人物の記録自体が、さほど多いわけではないため、資料自体にも虚実が入り乱れ、信ぴょう性が疑問視されている状況なのです。

そもそも、大多数の方が「大谷吉継」からイメージするだろう「白い頭巾で顔を隠していた武将」という記述も、江戸時代に書かれた資料に由来するイメージのため、もしかすると「白い頭巾の武将」というイメージ自体も、後世の創作である可能性があります。

というわけで、ここでは「どの病気だった」という結論を出すのではなく、一般的に語られる通説を三つほど紹介していきたいと思います。

最も有力な説は「ハンセン病」

まずは、吉継の病に関する記録や説を簡単に整理しましょう。

大谷吉継が白い頭巾で顔を隠したのは、「病によって崩れてしまった顔を隠したかったから」という説が一般的です。他にも、石田三成との友情を示す「吉継の顔から”膿が落ちた”お茶を、三成が気にせずに一息に呷った」というエピソードも有名でしょう。

白い頭巾を被った吉継

こういったエピソードを纏めると、吉継の病は「顔の変形と、顔の化膿と膿の噴出を伴う病である」ということになります。

そして、以上のエピソードの状況証拠から考えるに、吉継がり患していた病は「ハンセン病」であると言う説が、現在における通説です。

実際、その説を補強するエピソードとして、病を負った吉継に対して「吉継が”業病”の治療のために、夜な夜な城下の領民を切り殺して食べている」という噂が立っていたという記録も残っています。

当時の俗信として、「業病(当時で言う”ハンセン病”)は、病を負った部位と同じ部位を食べることで完治する病気である」というものがあり、そんな噂や俗信が存在していたことも、「吉継の病=ハンセン病」という説を強める原因となっています。

しかし、その辻斬りのエピソード自体も出所や年代がはっきりとはわかっておらず、創作の可能性も否定しきれません。

ですので、この説は有力ではありますがあくまでも”通説”であり、まだ”真実”とは言い難い状況にあると言えるでしょう。

「梅毒」だったという説も

「ハンセン病説」に対する異説として、「吉継の病は”梅毒”だった」という説も根強く残っています。「顔かたちが崩れ、化膿と膿の噴出を伴う病」という意味では、確かに否定できない説だと言えるでしょう。

実際、吉継はかなりのイケメンかつプレイボーイであったとも言われているため、性交を通じて感染する梅毒にり患していてもおかしくは無いかと思われます。

とはいえ、歴史書に「梅毒に罹った」ということを示唆する記述は存在していないため、説としての信ぴょう性は「業病」という記載が存在している「ハンセン病説」に一歩譲るというのが現状です。

しかし、肖像画では失った目が描かれている伊達政宗のような例もあるため、文書における記録も、事実とは異なる部分がある可能性は否定できないでしょう。

実は単なる「目の病気」だった?

「ハンセン病説」「梅毒説」はともに有力な説ではありますが、共に創作の可能性の高いエピソードを参考としている部分があるため、決め手に欠けるのが現状です。

ですので、吉継に近い文書記録だけを信用するなら、吉継の病は「なんらかの”目”に関わる病気」ということになります。

「白い頭巾で顔を隠していた」というのが創作の可能性があることは前に示した通りですが、「病で視力が落ちていて、少なくとも崩し文字を書ける状況ではなかった」「関ヶ原の戦いにも、輿に乗って参戦した=体力が著しく衰えていた」ということは、記録上に明確に記載、あるいは証拠として残されています。

ですので、エピソードではなく記録だけを頼るなら、吉継の病は「”視力の低下”と”体力の衰え”を伴う病」ということになります。

ハンセン病と梅毒もこの条件は満たすため、一概にその2説が間違いだとは言えませんが、そういった症状の病が数多く存在するのもまた事実。

「吉継の病はハンセン病だ!」「梅毒だ!」と一概に言い切るのではなく、広い視野を持って冷静に記録を分析することが、「吉継の病の正体」という歴史上の謎を解明することには最も重要なのではないでしょうか。

大谷吉継の病気に対する周囲の反応は?

吉継の主君・豊臣秀吉と、親友・石田三成の像

ともかく、将来を有望視される有能な若手の官僚だったにもかかわらず、なんらかの病を負って前線を退くことになってしまった吉継。

そんな吉継に対し、周囲の同僚や友人、あるいは主君や領民はどんな反応を示したのでしょうか?

多くの”噂”に苦しめられた吉継

病を負って前線を退くことになった吉継は、やはりと言うべきか、数々の心ない噂に苦しめられることになります。その辺りの悪質さは、今も昔も変わりませんね。

とりわけひどかったのが、前項でも少しだけ触れた「城下の辻斬りの噂」。

吉継が病で前線を退いたのと同じ時期に、間の悪いことに大阪城下では辻斬り事件が頻発。この事件に対して「主犯は、自分の業病を治したい大谷だ」という噂が立ってしまったのです。

この辻斬り事件は後に解決し、犯人は処刑。噂を流した反大谷派の同僚たちも、この一件で秀吉の怒りを買って処分されたようですが、この噂に吉継がどれだけ心を痛めたかは、現在の我々でも想像に難くはありません。

事実として、この噂が経ってから数年の間、大谷吉継の名前は歴史上の記録から著しく少なくなっています。元々あまり記録に残らないタイプの武将ではありましたが、ここまで一気に名前が見られなくなるのは、やはり異常というほかありません。

心無いゴシップが人を傷つけるのは、今も昔も変わりません。インターネットが発達し、情報通信網が発達した現在だからこそ、今一度考える必要があるエピソードかもしれませんね。

同僚からの反応は様々

吉継の病に対し、同僚からの反応は様々。というより、良くも悪くもさほど変わらなかったようです。

元々「若手ながら文武に優れた優秀な人物」「秀吉から目を掛けられ、信頼もかなり厚い」というポジションにいた吉継にとって、同僚から嫉妬されるのはある意味で日常茶飯事。

嫉妬に駆られた同僚が表立って物言いをつけてくるようになったこと以外は、さほど吉継の日常は変わりなかったようです。少なくとも記録上は、「友人関係が変わった」「同僚が急に冷たくなった」という記載は見つけられません。

しかし、病気を負った吉継は次第に療養生活に入り、大阪城への出仕が少なくなってしまったため、その影響で同僚との付き合いはやはり減少。元々は交友関係の広い人物だったようですが、少々遠巻きにされるような部分は、やはり出てきてしまっていたようです。

主君・秀吉からは変わらず厚遇され、友人たちも温かかった

病を負って、仕方ないとはいえ遠巻きにされることが増えてしまった吉継ですが、主君である豊臣秀吉や、幼い頃からの友人であり同僚でもある石田三成、加藤清正たちは、変わらず吉継と付き合い続けたとされています。

特に秀吉は、病を負った吉継の事をたいそう心配していたらしく、自身が傷を負った時に湯治していた秘湯を紹介し、そこでの療養を命じるなど、吉継の事をとても慮っていたことが記録されています。

この時期になると、いわゆる「老害モード」に入りかけていた秀吉ですが、吉継に対しては親身な姿勢を最後まで続けており、秘湯での療養の後は京都での休養を命じています。その京都の屋敷にも度々吉継の様子を見に行き、珍しいお菓子のプレゼントや、土産話に花を咲かせていたと記録が残っているため、秀吉は本当に親身になって、吉継の事を慮っていたのでしょう。

ほかにも、徳川家康からは政策に対する相談を受けたり、加藤清正、福島正則からも病状を心配される手紙を送られたり内政などの相談をされたりと、病を負ってなお、心配し頼ってくれる友人が数多くいたこともわかっています。

石田三成との友情を示す茶会のエピソードが特に有名ですが、他にも友人が多く、半ば隠居の身に追い込まれてからも、多くの有能な武将たちに親しまれ、また頼りにされた大谷吉継。

「類は友を呼ぶ」と言いますが、優秀な人格者だった吉継の周りには、やはり優秀な人格者たちが集まっていたと言えるのかもしれません。

大谷吉継の病気に関するまとめ

病によって前線を退くも、その人格と優秀な能力を周囲から評価され、多くの同僚や主君からも頼りにされ続けた大谷吉継。

その生涯や生きざまから学べることはとても多く、ともすれば信長や秀吉よりも、現在の我々が教わるべきことが多い武将だとも言えるでしょう。優秀な頭脳を持ちながら、最後は友とも友情を選んで撒けるとわかった戦に赴いた清廉さは、いつの時代であっても、本当なら誰もが持ち続けなければならない精神性だと思えます。

現在でも、「一般的」とは異なる要素を持った人への差別感情は、様々なところに影を落としています。吉継の辿った生涯を見るに、それは今も昔もさほど変わってはいません。

こうして、この記事で「大谷吉継の苦しみ」を知った皆さんが、この後どのようにこの記事の学びを活かすか。それこそが、「歴史を学ぶ」という行為の中で本当に大事なものなのではないでしょうか?

それでは、本記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました!