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九鬼周造ってどんな人?人柄や両親、代表的な著作まとめ

九鬼周造(くきしゅうぞう)は、日本の伝統的な美的理念である「いき」を考察したことで有名な哲学者です。彼の残した業績は多々ありますが、その素晴らしい点を一言でまとめると「庶民の文化を哲学の対象にした」ということになるでしょう。

若き日の九鬼周造

哲学というのは堅苦しいイメージがあると思いますが、庶民の美意識である「いき」のような題材を取り上げていると、身近な感じがしますよね。つまり、「庶民のありのままの生活」をテーマにし、それを哲学的にわかりやすく説明したことが九鬼周造の功績なのです。

その他、九鬼周造がどんな人物だったのかという点をダイジェストでまとめてみましょう。

  • 戦国武将を先祖に持つ、エリートの生まれ
  • ハイデガー、ベルクソンといった著名な哲学者にも認められた存在
  • 東京大学卒業
  • 「女好き」の大学教授

明治、大正、江戸時代と3時代を生きた九鬼周造は、絶えず「色の世界」に身をおいた人物でもありました。当記事では、彼の人間的魅力に魅せられ、大学院で日本文化の研究を行なっていた私が九鬼周造の全てを解説。ぜひご一読ください。

九鬼周造とはどんな人物か

名前九鬼周造
誕生日明治21年(1888年)2月15日
没日昭和16年(1941)5月6日
生地東京市芝区芝公園
没地京都府
配偶者九鬼縫子
埋葬場所京都府左京区鹿ヶ谷法然

九鬼周造の考察した「いき」とは?

九鬼が構想した日本的美意識の直六面体

九鬼周造の代名詞的な著作である、『「いき」の構造』。そこでは、日本の伝統的な美意識である「いき」について、哲学的な論考が行われています。

簡単にまとめると、九鬼周造は「いき」の性質として以下3つの要素が挙げられると述べています。

  • 媚態
  • 意気地
  • 諦め

ちょっと難しく感じるかもしれないので、ひとつずつ詳しく説明していきましょう。

媚態

まず、「媚態」とは、「異性を自分のものにしたい!」と思った時に表れる態度のことを指します。簡単に言えば、「色っぽさ」と言い換えても良いかもしれません。つまり、「いき」というのは異性との関係性を前提にした概念だということですね。

意気地

次に、「意気地」というのは、「自分の決めたことは貫き通す心意気やプライド」を指します。曲がった事が大嫌いで、筋を必ず通す江戸っ子をイメージすればよいでしょう。先ほど述べた「媚態=色っぽさ」だけではなく、「いき」であるためにはこのような反骨精神も必要とされたのです。

諦め

そして、最後に「諦め」です。「諦め」と「意気地=自分の決めたことを貫き通すこと」は、一見反対のことのように思えるかもしれません。しかし、ここでいう諦めというのは、「現世に対する執着を捨てること」を指します。つまり、「何が何でもあの異性を自分のものにしたい!」という力みなどを捨て、「人生は思うようにいかないものだ」と運命を受け入れる心を持つということです。

このように、一口に「いき」と言っても、細かく分析してみるといくつもの要素が含まれていることがわかりますね。たとえば、3つ目の「諦め=現世への執着を捨てること」を見てみると、仏教(禅宗)の思想が日本人の考え方の中に色濃く反映されていることがわかります。

このように、日本人の生活の中の美意識を丁寧に解き明かしていったのが九鬼周造の功績というわけです。

九鬼周造の両親は?

九鬼周造の父、隆一

九鬼周造の父は九鬼隆一、母は星崎はつという人物です。九鬼隆一は、文部省に勤める高級官僚。エリート街道まっしぐらで、男爵の爵位も授かっていました。

九鬼周造の生まれる前、隆一とはつはワシントンに在住していましたが、体調不良を機にはつが緊急帰国。隆一ははつの体調を気遣って、仲の良かった思想家である岡倉天心を同行させます。しかし、なんとそこで岡倉天心とはつが道ならぬ恋に落ちてしまうという事態に発展してしまいます。

それがきっかけとなり、結局隆一とはつは離婚。このことは、九鬼周造の青年時代に暗い影を投げかけることになります。

九鬼周造が影響を受けた人は?

岡倉天心

九鬼周造に最も影響を与えた人物のひとりとして、岡倉天心が挙げられます。上述した通り、岡倉天心と周造の母は不倫関係にありました。

青年期の周造は、岡倉天心のことを非常に憎んでいました。というのは、九鬼周造の母は離婚がきっかけとなって心の病にかかって病死してしまったからです。

ただ、歳を重ねるにつれ、九鬼周造は岡倉天心に対し純粋な尊敬の念を抱くようになります。研究者の中では、岡倉天心にまつわる体験がのちに彼の代表作『偶然性の問題』を執筆するきっかけになったのではないか、という見解もあるほど。

このように、岡倉天心は九鬼周造の生涯に最も影響を与えた人物といって過言はないでしょう。

※参考:安立衣津美『九鬼周造における<偶然性>の研究』

九鬼周造の女性事情は?

京都の花街

九鬼周造は、兄の未亡人であった縫子と結婚していました。しかし、妻帯者の身であるにも関わらず、留学中には多くのフランスの高級娼婦と関係を持っていました。

また、帰国後、京都大学の教授になってからも花街に足繁く出入りしていたようです。誤解を恐れずにまとめると、「女好きの大学教授」といったところでしょうか。大学教授が公然と女遊びをしているというのは、現代の感覚からすると驚くべきことですね。

九鬼周造の死因や晩年は?

九鬼周造と中西きくえ

晩年も九鬼周造の女性好きは変わらず、頻繁に色街に出入りしていたようです。その結果、九鬼周造は妻縫子と離婚し、祇園の芸妓であった中西きくえという人物と再婚します。

しかし、九鬼周造はその後病気にかかり、昭和16年(1941年)にその生涯を終えることになります。その最期を看取ったのも、2人目の妻である中西きくえでした。

九鬼周造の功績

功績1「身近な題材を学問の対象として取り入れた」

たくさんの学術書

みなさんは、「遊郭」と聞くとどのようなイメージを持つでしょうか。「男性と女性が遊ぶ場所」「江戸時代の吉原」など、様々なイメージがあると思いますが、「遊郭が学問の対象になる」と考える人は少ないと思います。

九鬼周造のすごさは、遊郭における美意識「いき」を哲学の枠組みで学術的に論じたこと。ふつうの人であれば、哲学と遊郭を結び付けようなんて思いませんよね。

庶民に身近な題材を学問の対象として取り入れたこと、それこそが九鬼周造のすごさのひとつであると言えるでしょう。

功績2.「日本の美意識を西洋的な枠組みで論じた」

西洋哲学

九鬼周造はドイツやフランスに留学していたこともあって、西洋哲学に深い知見を持っていました。特に、ハイデガーやフッサール、ベルグソンなど、著名な哲学の巨人たちの思想に関心を抱いていたようです。

そして、その時の経験を生かし、ドイツ哲学の枠組みから日本的な美意識「いき」の解明を目指しました。その結果、当時の哲学界で盛んに試みられていた、「感覚的なものを概念化する」ことに見事に成功したのです。

日本と西洋、どちらにも深い知見があった九鬼周造だからこそこのような成果を得ることができたのだと言えるでしょう。

九鬼周造の名言

思出のすべてが美しい。明りも美しい。陰も美しい。誰れも悪いのではない。すべてが詩のやうに美しい。『九鬼周造全集:第5巻』岩波書店

母の不倫相手だった、岡倉天心について振り返る文脈の中で生まれた言葉。詩のようなリズムの文体に、彼自身の人生観がきらりと光る名文です。

軽い笑は真面目な陰鬱な日常生活に朗かな影を投げる。『九鬼周造随筆集』岩波書店

背筋も凍るような「ダジャレ」についての論考における一文です。確かに、落ち込みがちな毎日でも、くだらないことで笑えれば一気に人生が明るくなりますよね。時代を超えて生き続ける名言です。

運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である。『「いき」の構造』岩波書店

九鬼周造の「いき」に対する論考がぎゅっと凝縮された名文。日本的概念について考えるためのエッセンスが、この一文に集約されているといっても過言ではありません。

九鬼周造にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「花街から出勤して遅刻!?」

京都の人力車

九鬼周造は女性好きで、よく京都の花街に出入りしていました。現代の感覚からすると、「教授が花街に出入りしている」というだけで良からぬ噂が立ちそうですが、九鬼周造にはもっとすごい逸話があります。

なんと、九鬼周造は祇園の花街で遊んだ後、人力車を使って直接京都大学に出勤したのだとか。しかも、時間通りというわけではなく遅刻してしまったそうです。こんな彼の自由奔放な性格も、日本や西洋といった枠組みを飛び越えるような研究を生み出したひとつの要因だったのかもしれませんね。

参考:(京ものがたり)祇園に遊んだ哲学者・九鬼周造 「いき」な生き方、自ら追い求めた

都市伝説・武勇伝2「色の世界に身を置き続けた宿命」

京都の旧遊郭

九鬼周造が女性好きであったということはすでに述べきた通りですが、彼はどうしてこれほどまでに遊郭に関心を抱いていたのでしょうか。

実は、彼のルーツを辿ってみると、九鬼周造の母は祇園の元芸妓。つまり、彼の出生自体が色の世界と関係するものだったのです。こう考えると、彼が生涯色の世界と深い関わりを持ち続けていたことに、宿命的なものを感じますね。

九鬼周造の年表

1888年 – 0歳「東京都の芝にて誕生」

芝区芝公園、地図

エリート官僚の息子として、東京に生まれる

九鬼周造は、明治21年(1888年)、東京都の芝区にて誕生しました。父は文部科学省に勤めるエリートで、駐米特命全権大使にもなった九鬼隆一です。また、家系を遡ると祖先は九鬼水軍を率いた戦国武将であったらしく、九鬼周造は由緒正しき名家の生まれだったと言えるでしょう。

1909年 – 22歳「東京大学入学」

昭和期の東京大学

東京大学に入学し、哲学を学ぶ

青年になった九鬼周造は、東京帝国大学に入学。そこで哲学の基礎を学び始めます。

東大時代の同期としては、日本文化論として有名な『風土』という書籍を執筆した、和辻哲郎という人物がいます。

1921年 – 34歳「ヨーロッパ渡航」

1920年代、フランスのモンマルトル

ヨーロッパに留学し、哲学を学ぶ

34歳になった九鬼周造は、ヨーロッパに留学し、8年間西洋哲学を学びました。滞在したのは主にフランスとドイツですが、フランス語で論文を執筆するなど、ヨーロッパでも多くの業績を残しています。たとえば、彼の『時間論』という書籍はフランスで出版されたものです。

また、九鬼周造のすぐれた才能を裏付ける逸話として、ハイデガーやベルクソンといった著名な哲学者たちが彼の才能を評価したという話もあります。

1929年 – 42歳「京大に就任」

京都帝国大学

京都帝国大学に就任し、数々の著作を発表

昭和4年(1929年)、留学から帰国した九鬼周造は、京都帝国大学(現在の京大)に教員として招かれます。そして、そこで『「いき」の構造』や『偶然性の問題』など、数多くの著書を発表することになります。

1941年 – 53歳「死没」

九鬼周造のお墓

京都府にて、腹膜炎が原因で死亡

53歳の九鬼周造は、京都府にて腹膜炎で病死します。死後は、京都府鹿ケ谷にある法然院に埋葬されました。

ちなみに、法然院というのは数々の著名人が埋葬されているお寺で、有名な小説家である谷崎潤一郎や、東洋史の巨人である内藤湖南なども埋葬されています。

九鬼周造の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

「いき」の構造

日本の美的理念である「いき」という言葉は誰しも耳にしたことがあるのではないでしょうか。『「いき」の構造』は九鬼周造の代表作で、「いき」を哲学的に説明することを試みた良書。六面体に図示化された「いき」の構造を見たとき、その説明の鮮やかさに鳥肌が立つこと間違いありません。

なお、「難しい言葉が多すぎる!」という人は、『「いき」の構造』を読むという本も出版されているので、そちらも併せて読むことをオススメします。

偶然性の問題

こちらも九鬼周造の主著で、生涯のテーマであった「偶然と必然」について論じたもの。運命と偶然の違いについての興味深い論考も展開されていますよ。『「いき」の構造』よりもやや文章が難解なので、哲学の基礎知識がある方にオススメです。

関連外部リンク

九鬼周造についてのまとめ

いかがだったでしょうか?この記事では、九鬼周造の生涯や著作、その魅力について解説してきました。

九鬼周造は、ハイデガーやベルクソンといった知の巨人たちに認められるほどの秀才でありながら、「生涯を通じて女性好き」という人間的な魅力に溢れる人物でもありました。その魅力は、彼の著作にも十二分に表れています。私自身、研究の参考文献として彼の著作を何作か読みましたが、読み返せば読み返すほどに味わいの出てくる書籍ばかりです。

はじめは「哲学なんてとっつきにくい」という印象を持つ方もいるかもしれませんが、時間をかけて読むだけの価値は絶対にありますよ。青空文庫で読めるものもあるので、興味のある方はぜひチャレンジしてみてくださいね!

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