聖徳太子の死因とは?定説以外の陰謀説や嫉妬説も徹底解説

聖徳太子と言えば、飛鳥時代の政治を大きく動かした人物として有名ですよね。「憲法十七条」や「冠位十二階」など歴史的な政策が有名ですが、聖徳太子の最後についてご存じの方は少ないのではないでしょうか?

そんな聖徳太子の死因については、様々な説が語り継がれています。当時流行していた、天然痘の病に倒れたという説が定説とされていますが、近年ではこの説に異論を唱えた暗殺説や嫉妬説も浮上してきています。

一体どうして様々な説が生まれたのか、真実はどこにあるのか、謎に包まれる聖徳太子の死について迫っていきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

聖徳太子の死因とは?定説は天然痘

法隆寺金堂釈迦三尊像

聖徳太子は、定説では病死とされ「天然痘」で亡くなったとされています。

621年12月に、母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が天然痘で亡くなっており、翌年622年の2月に妻である膳部大郎女(かしわでのおおいらつめ)が亡くなります。その、翌日に聖徳太子も息を引き取りました。

当時、聖徳太子のいた斑鳩の里では天然痘が流行しており、皇族の間でも感染が広まっていました。法隆寺金堂釈迦三尊像背銘には、「聖徳太子と膳部大郎女が病気になり、釈迦像を造像し病気が治ることを願った」という趣旨の文面があります。病気になったという文面が残っていることからも、天然痘を死因とする説が定説とされてきました。

しかし、この説では、母に始まり3人が立て続けに亡くなっていること、妻と一日違いで亡くなっていることが不自然であると言われています。そういった点から、暗殺された可能性があるのではないか、と言われるようになりました。

聖徳太子の死因に2つの説が新たに浮上

叡福寺北古墳(聖徳太子墓)

説1 蘇我馬子による陰謀説

暗殺説が浮上していますが、聖徳太子を暗殺したのではないか、と言われる人物が蘇我馬子です。蘇我馬子は、推古天皇のもと聖徳太子と共に政治を執り行っていた人物で、それ以前から長く政治の中心にいました。

蘇我馬子は、聖徳太子の進める天皇が中心の政治に、一族の権力が弱まってしまうことを恐れており、崇仏派の蘇我氏にとって、仏教と神道の両方を信仰する神仏習合の考え方にも疑問を抱いていたとも言われています。実際に、聖徳太子が亡くなった後の政治は、蘇我氏中心へと変わっていきます。

暗殺説を濃厚にする出来事に、643年の山背大兄王の殺害事件があります。蘇我馬子の孫にあたる蘇我入鹿が、聖徳太子の息子である山背大兄王を殺害し、聖徳太子の一族を滅ぼした事件です。このような背景から、聖徳太子は暗殺されたのではないか、と言われています。

説2 刀自古郎女による嫉妬説

聖徳太子の墓は、大阪府の叡福寺にある磯長墓(しながのはか)で、そこは聖徳太子、母の穴穂部間人皇女、妻の膳部大郎女3人の合葬墓であるとされています。聖徳太子には4人の妻がいましたが、その中の膳部大郎女のみ墓が一緒であることから、妻の一人である刀自古郎女(とじこのいらつめ)の嫉妬説が生まれました。

刀自古郎女は、蘇我馬子の娘であり、膳部大郎女よりも先に結婚をしていました。聖徳太子の後継者である山背大兄王ら4人の子供を産んでいることや、父が蘇我馬子であることからも、4人の妻の中でも位の高い身分であったことが分かります。

平安時代に書かれた『聖徳太子伝歴』には、聖徳太子が「死後は共に埋葬されよう」と膳部大郎女に言ったと記述があり、それだけ膳部大郎女のことを信頼していました。そのことに、刀自古郎女が嫉妬し殺害を企てたのではないか、というところから嫉妬説が生まれています。

聖徳太子の死因は結局どれが本当なの?

死因について様々な説が浮上している聖徳太子ですが、「日本書紀」をはじめ歴史的書物には、聖徳太子の死については具体的な記述があるものは見つかっていません。そのため、多くの説が生まれ、現在も実際の死因については謎のままとなっています。

時代背景から見ると、飛鳥時代は遣隋使の派遣など、外交の強化も行われていました。諸外国との関わりの中で、天然痘などの疫病が日本に持ち込まれたことも考えられます。

また天然痘の流行は、当時の仏教信仰の広まりとも深く関わりがありました。聖徳太子の父である用明天皇は、自身も天然痘で亡くなっていますが、仏教の信仰によって病気の治癒を祈願していたことが分かっています。

暗殺説、嫉妬説は、聖徳太子を巡る人間関係からの考察になりますが、天然痘に関しては時代的な流行が資料などからも見て取れます。そのため、死因を「天然痘」とする説が有力である、とされるのではないでしょうか。

聖徳太子の死因に関するまとめ

聖徳太子は死因が不明であることや、歴史的な政策のすべてを行ったとは考えにくいことから、その存在が危ぶまれており、現在の教科書では厩戸王(うまやとおう)という名前に改正され、教科書から聖徳太子の名前が消えるかもしれないと言われているほど謎に包まれています。

聖徳太子の行った政治や伝説については知っていることも多くありましたが、死因については未知の部分も多く、まとめていく中でその後の歴史に続く人間関係などが見えてきてとても興味深いものでした。

現在においても、死因を巡ってこれだけの説が生まれる聖徳太子は、それだけ日本の歴史上、偉大な人物であることは間違いないのではないでしょうか。

この記事が、聖徳太子を知る一つのきっかけになって頂ければ嬉しいです。

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