源頼朝の死因とは?落馬は本当?暗殺説や吾妻鏡に記述がない理由も解説

源頼朝といえば鎌倉幕府の創設者として有名ですよね。征夷大将軍として武士の棟梁として君臨し、鎌倉を中心とした東国武士達の領地の保証を行いました。更に守護職、地頭等の官職を朝廷の代わりに武士達に与え、武士による政権を推し進めた人物です。

源頼朝が開いた幕府は室町幕府、江戸幕府と続きます。実に680年もの間武士が日本の政務を担うのです。そんな頼朝の最期、死因についてはご存知でしょうか?

幕府の成立させた頼朝ですが、その最期についてはあまり知られておらず、死因も謎に包まれています。鎌倉幕府の創設者にもかかわらず不思議な事だと思いませんか?

今回は源頼朝の死因について紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

源頼朝の死因は?

源頼朝の肖像画

源頼朝の死因は落馬説や糖尿病説、亡霊説、そして暗殺された等様々です。当時の歴史書や、貴族の日記には異なる事が書かれている為、確定できるものがないのが現状です。

最有力は落馬説

落馬と死因の因果関係は不明

源頼朝の死因の最有力候補は落馬です。1198年12月2日、頼朝は重臣の稲毛重成(妻は北条政子の妹であり、頼朝の義理の弟)が相模川に掛けた橋の落成供養に赴きます。その帰路において、頼朝は落馬したそうです。

頼朝の容態は悪化し、約2週間後の1199年1月13日に死去したと言われます。享年53歳でした。これらは鎌倉幕府の歴史書である吾妻鏡に書かれています。

死因と落馬の関係性は不明です。落馬にて頭を打つ等して頭部外傷等で亡くなった場合は落馬自体が原因になります。

しかし脳卒中等の脳血管障害による意識障害等で落馬したとするならば、落馬が原因で死去したのでなく、結果的に落馬した事になります。その経緯は不明なので、詳しくは分かりません。

糖尿病説

塩分の高い鮭の燻製を好んだ

続いて吾妻鏡以外の文献から死因について探ってみましょう。近衛家実が書き記した「猪隈関白記」には、『前右大将頼朝卿、飲水に依り重病』の記載があります。飲水による重病とは糖尿病を指すと言われます。

平安時代は糖尿病にかかる貴族が多かったのです。有名なのは藤原道長ですね。源頼朝は鮭の燻製が好物でした。燻製は塩分が高く、食べ過ぎると身体によくありません。

当時は糖尿病という病名はなく、症状の1つであった「水を飲みたがる」から「飲水の病」と呼ばれていました。糖尿病が悪化すると脳梗塞や視力低下等の症状が見られるので、その結果落馬したとも考えられます。

また飲水の病から派生して、落成供養の帰路に馬が暴れて川に落ちた際に、水を大量に飲んでしまい溺死した説もあります。

亡霊説

亡霊を見て亡くなった…?

南北朝時代に成立した「保暦間記」には落成供養の帰路に、亡霊をみて亡くなったと記載されています。

具体的には八的ヶ原で弟の源義経と叔父の源行家の亡霊を見ています。今度は稲村ヶ崎海上で若き少年であった安徳天皇の亡霊を目撃。その後に鎌倉で気を失い、ついに馬から落ちて倒れました。

加持祈祷が行われたものの、一向に容体は良くならず1199年1月13日に死去したそうです。似た記載は「承久記」にもあり、「水神に領せられて、病患頻りに催す」と書かれています。

当時は祟りや怨霊という考えは当たり前にありましたが、現在の考え方では亡霊を見て亡くなる事は死因にはなりませんね。

暗殺説

頼朝は暗殺で亡くなったのはフェイクであり、殺されたと言う説です。証拠はないものの、実はその後の鎌倉幕府の動向を見ていくと荒無稽な話ではないのです。

晩年の源頼朝の行動、息子達のその後について知ることで暗殺説について見えてきます。これより詳しく紹介いたします。

源頼朝の死因が吾妻鏡には記載されていない理由

吾妻鏡

吾妻鏡に書かれている落馬説は他の日記には書かれていないため、確実と呼べる説はありません。

そして吾妻鏡に落馬の事が書かれるのは1212年2月28日。源頼朝が死んで実に13年もの歳月が流れてからでした。

内容も「相模川の橋が壊れていて地元民が困っている。ここでは頼朝将軍が落馬し、程なく亡くなった場所で縁起が悪い」といった趣旨であり、源頼朝の死は触れる程度にしか記載がありません。更に頼朝が死ぬ前の、3年間の記録も一切がないのです。

これは源頼朝の死が幕府にとっては良いものではなく、書く事が出来なかったと考えるのが自然ではないでしょうか。

理由1:鍵は晩年の頼朝の行動

気になるのは晩年の頼朝の行動です。頼朝は幕府樹立後、長女大姫を後鳥羽天皇に嫁がせようと画策します。しかし大姫は1197年に19歳の若さで死去。病と言われますが詳しくは不明です。

頼朝は諦めず、次は次女三幡を嫁がせようと画策。妃になる事はほぼ決まっていたものの、その頃に源頼朝は死去します。その5カ月後に三幡も14歳で病死しました。

少し前に平清盛が武士達から失望を買ったのは、娘を天皇家に嫁がせる等、藤原家と同じ事をしたからです。頼朝は武士の世を作る為に幕府を樹立したものの、清盛と同じ行動をしています。

頼朝の晩年の行動は、関東に散らばる武士達から失望を買ったのは間違いないでしょう。頼朝は元々京都育ちであり、武士の世を作る事を目的とはしていたものの、貴族への憧れを捨てきる事が出来なかったのかもしれませんね。

理由2:北条家が暗殺したから

2代目の将軍は息子の頼家に決まりますが、程なく源頼家派の比企氏と、弟の実朝派の北条氏との間で対立が勃発。頼家は幽閉され、北条家に暗殺されました。3代目将軍には弟の実朝が就任します。しかし1219年には頼家の弟の公暁に暗殺され、公暁自身も実行犯として討ち取られます。

実朝に実子はおらず、頼家の子ども達も相次いで自害や謀殺されました。生き残りだった頼家の娘の竹御所も1234年に死去。源頼朝と北条政子の血筋はわずか3代で断絶したのです。

その後鎌倉幕府の実権を握ったのは、北条家でした。吾妻鏡は鎌倉幕府の公式な歴史書なのですが、北条執権体制が確立してから書かれたものです。北条家に都合の悪い事は書かれていません。

源氏の血筋が絶えた時に最も得をするのは北条家でした。頼朝の暗殺説が囁かれているのは、歴史的な背景も関係しているからです。

源頼朝の死因に関するまとめ

今回は源頼朝の死因について紹介しました。吾妻鏡には落馬と書かれているものの、不審な点も多く、確信には至っていません。糖尿病説、亡霊説等、多くの説があります。

頼朝の晩年の暗躍、血筋の断絶、その後の北条家の台頭等の歴史的な背景をみると、書物に書かれている事が全てではなく、暗殺説が囁かれるのも頷けます。今回の記事を通じて頼朝の生涯や、鎌倉幕府について興味を持っていただけたら幸いです。

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