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三島由紀夫の死因は?三島事件の経緯・背景にある思想を解説!

『金閣寺』『潮騒』など数々の名作で知られ、ノーベル文学賞の候補に挙がるなど世界的にその文学の価値が認められていた三島由紀夫。三島の作品が学校で読書感想文の推薦図書だったという人も多いのではないでしょうか?

三島由紀夫は45歳で亡くなっています。その早すぎる死を多くの人が悲しんだのですが、三島の死は海外にも報じられ、当時かなりセンセーショナルなニュースとなりました。

何がそこまで人々の注目を集めたのでしょうか?実は、三島由紀夫の死は現代の私たちから見ても凄まじいものでした。この記事では、三島由紀夫の死因について詳しく解説します。

三島由紀夫の死因は

三島由紀夫

結論から言ってしまうと、三島由紀夫は1970年に自殺しています。場所は現在の防衛庁がある当時の市ヶ谷駐屯地。「自衛隊の本部で自殺…?」と不思議に思うかもしれませんが、三島はここで切腹したのです。

切腹なんて江戸時代の武士がすることじゃないか!と驚いたかもしれません。三島の切腹自殺にいたるまでの一連の出来事を「三島事件」といいます。この記事では三島事件の詳細や、三島がなぜ切腹という方法をとったか、彼の思想などを解説していきます。

「三島事件」とは

楯の会

「三島事件」を簡単に説明すると

「三島事件」とは、1970年11月25日、三島由紀夫が隊長である「楯の会」が自衛隊の市ヶ谷駐屯地を訪れ、東部方面総監を監禁、集まった自衛隊員に向けて憲法改正のための決起を呼びかけるアジ演説を行った事件です。演説の後、総監室に戻った三島は早稲田大学の学生だった森田必勝(まさかつ)と切腹を遂げました。

世界的に評価されている小説家の起こした事件は一大センセーションを巻き起こし、後追い自殺を図る学生も現れました。海外のメディアでも大きく取り上げられ、多くの文学者たちがこのことについて書いています。三島事件の反響については後で詳しくご紹介するとして、三島が結成した「楯の会」について解説します。

三島事件の発端となった「楯の会」とは

「楯の会」とは、日本で左翼的な反乱や革命が起こった場合に備えて1968年に三島由紀夫が結成した民間防衛集団です。会員になるには1ヶ月間の自衛隊への体験入隊があり、脱落しなかった人が資格を与えられたようです。活動費はすべて三島が出していました。

楯の会が作られた経緯

1960年代の学生運動

1960年代、日本では左翼系の学生運動が盛んになっていました。急進的な考え方の左翼系学生団体に対抗しようと、アメリカ派とソ連派に世界が二分されることに反対する民族派の学生運動も活発になりました。民族派の学生たちは、戦後の右翼団体への反発から民族主義への回帰を目指し、日本人が政治や経済、文化の主体と考えていました。

一方、1960年代後半の三島由紀夫は自衛隊に体験入隊をしたいと申し出ていました。どうして三島がそのような行動をとっていたのか、その解説は後の章に譲るのですが、その三島のところへ民族派雑誌『論争ジャーナル』の万代潔が訪れ、三島は急速に民族派の学生と親しくなります。1967年には自衛隊への体験入隊も叶い、三島は真剣に民兵組織を作りたいと考え始めました。

1968年、楯の会の前身である「祖国防衛隊」が誕生しました。小指から流した血で血盟状を作り、互いの血を飲み干したといわれていますから、本当に武士の契りのようです。

祖国防衛隊は当初1万人を集めるつもりだったのですが、資金の援助を受けられなかったため規模を小さくすることになりました。少数精鋭だけを残し「楯の会」と名付けられたその団体は、世間からは遊び目的の「おもちゃの兵隊さん」と呼ばれていましたが、その内実は自衛隊顔負けの厳しい訓練が行われる洗練されたものでした。

三島事件が起こる直前のこと

1969年、楯の会の中でも日本刀で斬り込んでいける「決死隊」が結成されます。楯の会ではそれまでの学生長が退会したため、後に三島と切腹することになる森田必勝が学生長に選ばれました。もちろん決死隊のなかに森田も含まれていました。

1970年になると、三島は楯の会だけで憲法改正を迫るクーデターを起こそうと計画し始めます。それまでは、楯の会を指導していた元陸上自衛官の山本舜勝(きよかつ)を通して自衛隊を仲間に取り込み、国会へ憲法改正を迫ろうとしていました。しかし「もうクーデターの準備はできている」とする三島に対して山本は首を縦に振らなかったため、三島は自衛隊に見切りをつけることにしました。

クーデターの決行日が11月25日に決まり、運命の日を迎えることになります。

三島事件の経緯、流れ

市ヶ谷駐屯地は現在の防衛省がある場所

三島、総監を監禁する

1970年11月25日午前11時前、三島由紀夫は楯の会のメンバーとともに市ヶ谷駐屯地を訪れました。一緒に訪れたメンバーは学生長の森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩晴の4人です。事前に訪問を予約してあったため、三島たち5人はほとんど顔パスのように中に入ることができました。

総監室では、東部方面総監の益田兼利陸将が待っていました。三島は総監に「今日は楯の会の例会で優秀な4人を表彰する。1度総監にも会わせたいと思って連れてきた」というようなことを説明し、4人を紹介しました。

このとき、三島は「関孫六」という日本刀を持参していました。総監が「そんなものを持っていて警察に捕まりませんか」と聞くと、「これは日本刀を軍刀つくりに直してもらったもので…」と説明しながら鑑定書などを見せました。そして「小賀、ハンカチ」と刀身を拭くための手ぬぐいを渡すよう小賀に指示しました。

関孫六

実はこの言葉は事前に決めていた「行動開始」の合図だったのですが、総監が予想に反して机にティッシュを取りに動いたため行動がうまく始められず、小賀は三島にただ手ぬぐいを渡すだけになってしまいました。刀身を拭き、刀を総監に見せた後、三島は小賀に手ぬぐいを返すときに目で合図し、刀身を鞘に「パチ」と納めたのを機に改めて行動が開始されました。

小賀は三島から受け取った手ぬぐいで総監の口を塞ぎ、森田以外の他のメンバー3人が総監の手足を縛り、さるぐつわを噛ませ、短刀を突きつけました。総監は最初何かの冗談だと思っていたようですが、三島の真剣な表情に異変を感じ取ったようです。森田は総監室にバリケードを巡らし、警備員たちが簡単に入ってこられないようにしました。

総監室から聞こえる物音で事態に気づいた幕僚たちが集まってくると、ドアの下から要望書が差し出されました。要望をいくつか簡単にまとめると次のようになります。

  • 11時30分までに市ヶ谷駐屯地の全自衛官を本館前に集合させること。
  • 三島の演説や参加学生の名乗りをきちんと聞くこと。
  • 11時30分から2時間の間、攻撃をしないこと。攻撃しなければ楯の会メンバーも攻撃しない。
  • すべての条件が2時間守られれば、総監は無事に返す。守られないならば三島は総監を殺害し自決する。

要望書を受け取った幕僚たちは総監室のバリケードを破って室内になだれ込み、乱闘が始まりました。三島は持っていた日本刀、森田ら学生たちは短刀やそばにあった椅子などで応戦し、重傷を負った幕僚も多くいました。

幕僚たちは一度引き返し、割れた窓ガラス越しに三島と話をしました。三島はもう1度要望書を差し出し、4分後に幕僚たちは要望をのむことを決めました。時刻は既に11時30分になろうとしていたため、三島は12時に自衛官らを本館前に集めるように言いました。

バルコニーでの演説

演説をする三島由紀夫

11時55分、続々と集まってきた自衛隊員たちに森田らが「檄」と呼ばれる三島由紀夫の声明文をバルコニーから撒きました。バルコニーからは要求文を墨書きした垂れ幕も下げられています。正午を告げるサイレンが鳴ると、バルコニーに「七生報國(7回生まれ変わったとしても国に報いる)」と書かれた鉢巻を締めた三島が姿を現しました。

自衛隊員がやんややんやと騒ぐ中、三島は演説を始めました。「檄」と同じ、憲法改正のために自衛隊員の奮起を促す内容です。絶叫する三島の声に、自衛隊員から飛ぶ罵声、マスコミのヘリコプターの音が被さりました。

自衛隊員は聞く耳をもたず三島に罵声を浴びせるばかりで、さらにヘリの騒音も激しく演説は予定より早い10分ほどで切り上げられました。「諸君の中に我々と共に戦うものはいないのか」と最後に三島は問い、罵声ばかりで変わらないことが分かると、森田とともに皇居に向かって「天皇陛下、万歳!」と万歳三唱をしました。

実はこの日市ヶ谷駐屯地にいたのは、精鋭部隊ではなく通信や資材補給などを担っている自衛隊員たちのみでした。900名ほどの精鋭部隊はこの日演習場に出かけていて留守だったのです。三島はどちらかといえばこの精鋭部隊の方に訴えたかったので、この計画ミスは致命的でした。

三島、割腹自殺

森田必勝

12時10分ごろ、三島と森田は総監室に戻りました。三島は総監に向かって「総監に恨みはない。自衛隊を天皇にお返しするために仕方ないことだった」と言い、小賀が総監に突きつけていた短刀を森田の手から受けとりました。自分がもっていた日本刀を森田に渡すと、切腹の準備に入りました。

上半身裸になり、総監から少し離れた位置でバルコニーに向かうと、正座して短刀を持ちます。実は切腹した後に血文字で色紙に「武」と書くことになっていたのですが、三島は色紙を差し出す小賀を断りました。代わりに腕につけていた腕時計を小賀にあげ、「うーん」と気合を入れた後、「ヤッ!」と掛け声をかけて腹を一文字に切りました。

切腹には「介錯」という、切腹した人に控えの人が首を切断してとどめを刺すことが必要です。三島の介錯は森田が行うことになっていたのですが、次に自分の切腹が控えていたからか、尊敬している三島が死ぬことへのためらいがあったからか、森田はうまくとどめを刺すことができませんでした。代わりを頼まれた古賀は首の皮を1枚残して切り、最後に小賀が三島の腹を刺していた短刀で首を完全に切断しました。

次は森田の番です。森田は三島の隣に正座して切腹、介錯は小賀が行いました。残された3人は三島と森田の遺体を仰向けにし、2人の首を並べました。

3人は総監の縄を解きながら、自衛隊のところまで総監を護衛すると言いました。三島と森田の遺体の前で涙を流す3人に総監は思い切り泣くように言い、自分も2人に合掌をしました。12時20分過ぎ、3人は総監を自衛官に引き渡し、逮捕されました。

三島事件の影響

三島由紀夫の声明文「檄」

ノーベル文学賞も噂されていた世界的な作家のクーデターへの呼びかけと割腹自殺は、国内外のメディアで大きく取り上げられました。当時、防衛庁長官だった中曽根康弘や総理大臣だった佐藤栄作は「非常に遺憾」「常軌を逸している」と批判しました。2人はそれまで、三島由紀夫を自衛隊のPR材料として好意的に見ていたのですが、三島事件以降は政治的な立場としてコメントしています。

事件後、東京近郊に住む自衛隊員に行われたアンケートでは、「三島の『檄』の考え方に共鳴する」という答えが多くありました。三島や楯の会のメンバーが体験入隊をしていた滝ケ原駐屯地には、追悼碑が作られました。警察が三島とかかわりのあった若い自衛官に事情聴取すると、三島の考えに共鳴し日本の防衛問題を真剣に考えている人が多かったそうです。

日本の新聞では「三島事件は狂気、反民主主義的な行動は許されない」とする論調がほとんどでした。しかし海外のメディアでは、三島の行動を「狂気の沙汰」として一蹴することはできず、後の世代に大きな影響をもつと報じるものが多くありました。

国内外の文化人からも多くのコメントが寄せられました。三島の友人や思想が近かった作家らは、三島の死を「諫死(目上の人に命をかけて注意を促すこと)」と考え、離れた思想をもつ作家も、才能ある小説家の死を純粋に惜しみました。一方で、反天皇論など反対の思想をもつ人や日本の軍国主義化を警戒する文化人からは、三島の行動を愚行とする反対意見も多く聞かれました。

三島由紀夫の葬儀

三島由紀夫の墓

事件翌日の11月26日、三島由紀夫と森田必勝の遺体は司法解剖を終え、首と胴をきれいに縫い合わされた状態で家族に引き渡されました。三島は遺言どおり、楯の会の軍服を着せられ軍刀をしっかり握りしめた姿で棺に納められていました。三島の納められた棺は、警察が先導するなか15時30分ごろに自宅に運ばれ、16時ごろ出棺となりました。

密葬には川端康成や石原慎太郎など、三島と親しかった人たちが集まりました。三島の家にあったアポロンの像には、真っ赤なバラが30本ほど投げ込まれていたそうです。棺には原稿用紙と愛用の万年筆も納められ、三島の遺体は18時すぎに火葬されました。

三島は生前、自分の戒名には「文」の字はいらないから「武」は入れてほしいと言っていました。ですが遺族が「小説家として生きてきたのだから」と「文」を入れることを決め、戒名は「彰武院文鑑公威居士」となりました。

翌年の1月24日、川端康成が葬儀委員長を務めるなかで葬儀・告別式が行われました。文学界や演劇界から数々の著名人が参列し、武田泰淳ら8人が弔辞を読みました。警察官らが200人近く警備にあたるなか8200人以上のファンが押しかけた三島の葬儀は、文学者の葬儀では過去最大のものだったとされています。

三島由紀夫の思想

身体を鍛えていた三島由紀夫

自衛隊について

三島由紀夫がバルコニーでの演説のときに示した「檄」には、第二次世界大戦後の民主主義と日本国憲法への批判、そして日米安保条約が結ばれた当時の自衛隊の存在意義が問われていました。そのうえで三島は自衛隊の決起を促し、憲法第9条の改正による自衛隊の国軍化を目指していました。

1967年の評論家・福田恆存との対談では、憲法第9条の第2項(戦力の不保持)がある限り、自衛隊は「憲法を侵している存在」と考え、憲法を改正しないまま解釈を変えることによって自衛隊を合憲の存在とすることに疑問を呈していました。しかし、憲法を改正するには「国会の3分の2」そして「国民投票の過半数」で賛成を得なければなりません。法的手続きの難しさもあって、三島は憲法改正はクーデターによって行われるしかない、と考えていたようです。

自決について

事件前年に国会議事堂前で焼身自殺が起こった

三島由紀夫に自決を促した要因の1つとして、1969年の建国記念日に国会議事堂前で焼身自殺をした青年・江藤小三郎の存在があります。世の中を覚醒させるための「覚醒書」という遺書を残して自殺した江藤に三島は大きな感銘を受けたようで、「江藤の本気に政治への強烈な批評を読んだ」というような文章を残しています。

また、「武士」「大和魂」にも大きな関心をもっていたようでした。最後の演説の中でも、自衛隊員に「君たちは武士だろう」「武士ならば、自分たちを否定する憲法をなぜ守るのか」と問いかけています。三島が切腹という方法をとったのは、大和魂を胸に散っていった侍や戦没者への計り知れないほどの畏敬の念からだったのかもしれません。

三島の思想や三島事件のことが分かる作品

東大全共闘の学生と向き合う三島

書籍

憂国

「憂国」は1961年発表の三島由紀夫の短編小説です。二・二六事件の外伝のような作品で、仲間からクーデターに誘われなかった新婚の中尉が立場に悩み、妻とともに切腹をとげる物語となっています。大義に生き、大義に殉ずる者の至福と美しさが耽美的に描かれています。

三島由紀夫と楯の会事件

『三島由紀夫と楯の会事件』は、昭和史を専門とする著者・保坂正康が三島事件が起こるまでの5年間を丹念に負ったルポルタージュです。どうして楯の会はクーデターに至ったのかを関係者への綿密な取材から紐解き、冷静な筆致で描き出しています。

小説三島由紀夫事件

『小説三島由紀夫事件』は、三島事件を分析するのではなく、また三島由紀夫の文学として見るのでもなく事件そのものを率直に描き出した作品です。著者の山崎行太郎は文芸評論家で、三島由紀夫や小林秀雄に関する論文が多くあります。

映画

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実

「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」は2020年3月に公開されたドキュメンタリー映画です。三島由紀夫は三島事件の1年前に東大全共闘との討論会に出席していて、この映画ではその伝説の討論会を関係者の証言を織り交ぜながら紐解いています。三島由紀夫と東大全共闘、正反対の思想をもつ両者の討論はどのような展開を見せたのでしょうか?

いやいや、この圧倒的な熱量には度肝を抜かれた。何かを表現するたびに右だの左だので喧々諤々となる昨今、ひとつ間違えば本作もその格好の餌食となりそうなものの、しかしこの映画は決してそうならない。作り手の豊島監督が証言者たちに色々教えてもらいながら当時を振り返るというスタンスゆえ、映画の視座そのものがとても観客に近い、とでもいうべきか。

映画.com

三島由紀夫の死因に関するまとめ

三島由紀夫の死因について、その核である「三島事件」のことを中心に解説してきました。いかがでしたでしょうか?

三島事件について調べていくと、事件で被害を受けた人たちが三島のことをまったく恨んでいないことに驚かされます。怪我を負った自衛官も、監禁された益田総監でさえ、三島たち楯の会を非難するような証言をしていないのです。あなたはこの事実をどう捉えますか?

この記事を読んだみなさんが、三島由紀夫の死について少しでもその意味を考えてくれると嬉しいです。

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