【史実】蒙恬の生涯・年表まとめ【功績や逸話、死因まで解説】

蒙恬は、春秋戦国時代に活躍した、戦国七雄の一国である秦の将軍です。秦の中華統一にも大きく関わっており、その活躍から始皇帝の厚い信頼を受けていた人物でもあります。統一後は、北方の匈奴討伐において功績をあげ、後には万里の長城の築城に携わった人物として名を残しています。

蒙恬 肖像画

紀元前221年に秦が中華統一を果たしますが、最後の斉討伐において蒙恬は将軍となり、斉を破り斉王建を捕虜として捕えます。この功績により「内史」という役職に任命されました。その後北方の匈奴を強大な軍事力で制し、北方からの侵入を防ぐ目的で長城の築城に携わりました。

また、蒙恬は若い頃から刑法を学んでおり、将軍になる前には文官として訴訟や裁判に関わる文書を取り扱う役職についていました。始皇帝からの信頼を受けていましたが、文官と武将両方の才能を持つこともその信頼に繋がっていたのでしょう。

人気の漫画「キングダム」で蒙恬に興味を持ち、史実ではどのような人物であったのか蒙恬の生涯を追ううちに、その魅力に憑りつかれてしまった筆者が紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

蒙恬とはどんな人物か

名前蒙恬
誕生日不明
没日紀元前210年 日付未定
生地
没地
配偶者不明
埋葬場所陝西省綏徳県

蒙恬の生涯をハイライト

秦の国のために生涯を捧げた

蒙恬とはどのような生涯を送ったのか、はじめに蒙恬の生涯を簡単にご説明します。

蒙恬は、代々秦に仕える武将の家系に生まれます。祖父、父ともに名高い武将で、弟も始皇帝に仕えた文官として活躍するエリート一家であったと言えます。しかし、蒙恬は最初から武将として活躍したのではなく、最初は文官として宮廷に仕えていました。

武将の家柄であることから、秦が中華統一するにあたって最後の一国であった斉の討伐で、将軍に任命され見事に打ち破り統一に大きく貢献しました。このことが評価され、内史という役職につくことになります。

中華統一後さらなる功績を残した蒙恬ですが、秦にとって北方の脅威であった匈奴を討伐し、万里の長城の建築の指揮を取りました。これらの功績が始皇帝から認められ絶大な信頼を置かれる存在となり、始皇帝が自身の長男を蒙恬のもとに送るなど、蒙氏は秦において強大な力を持つようになります。

始皇帝の死をきっかけに蒙恬への風向きも変わり、王朝の権力を巡り蒙恬の力を恐れた人たちによって、最後は自殺という悲劇の死を迎えました。

蒙恬の家族構成や家系

蒙恬は偉大な祖父、父のもとに生まれた

蒙恬は武将の家系に生まれ育ち、祖父である蒙驁から代々秦の国に仕えてきました。

祖父の蒙驁は、秦の昭王から始皇帝まで4代の王のもとで、長く活躍した将軍として有名です。昭王のもとで上卿という筆頭家老、その後将軍として中華統一に向けて重要とされる城を落とし、秦の領土を広げてきました。もともとは斉の出身で、秦に場所を移してから数々の武功を上げています。

父の蒙武も将軍として活躍し、蒙恬が大敗した楚との戦いの翌年、王翦と共に楚を攻めて楚王を捕えて滅ぼしています。弟の蒙毅は、秦の中華統一後に始皇帝から文官として信頼を置かれる存在になり、上卿として活躍しました。代々続く蒙家の家柄によって、蒙恬が将軍として戦に出ることにも繋がっていくのです。

蒙恬に影響を与えた人物

秦の首都があった咸陽の博物館

蒙恬に影響を与えた人物として挙げられるのは、祖父である蒙驁、そして始皇帝ではないでしょうか。蒙恬は、自らの死の前に祖先と始皇帝に対する感謝と、秦への忠誠を語っています。

蒙驁は秦に移り住み、誰よりも多くの戦いを経験した老将として戦国時代に名を残しました。蒙氏の基盤を築いた人物であり、秦の歴史においても重要な戦を経験してきた蒙驁の活躍は、蒙恬にも影響を与えていたに違いありません。

始皇帝は、蒙恬の功績と三代に渡り秦に仕えてきたことで、中華統一後は蒙恬・蒙毅兄弟に逆らうものはいないと言われるほど絶大なる信頼を寄せていました。蒙恬もまた、始皇帝からの期待に応えようと尽力をつくします。初めて中華統一を成し遂げた始皇帝の考えや行動は、蒙恬にも大きな影響を与えたことでしょう。

蒙恬の死因や最期

蒙恬の墓

秦の中華統一後の活躍で、始皇帝からも厚い信頼を受けていた蒙恬ですが、始皇帝の死と蒙恬の死は深く関わっています。紀元前210年、巡幸に出ていた始皇帝が病気により崩御しました。始皇帝の死を利用し、権力を握ることを考えた趙高は、李斯、始皇帝の末子胡亥とともに謀略を企てます。

趙高は、始皇帝の遺言を書き換え、蒙恬とその元にいた始皇帝の長男扶蘇に自殺を命じます。扶蘇はその命令に従い、蒙恬も一度は命令を疑い抵抗しましたが、胡亥が二世皇帝に即位すると再度自殺の命令を受けるのです。

蒙恬は最期に、「わたくしは天にいかなる罪を得、過ちもないのに死ななければいけないのか。わたくしの罪が死に当たるのも無理はない。臨洮から遼東につらねて長城を築くこと万余里、その中間で地脈を絶ったことがないとは言えないだろう。これこそ私の罪である。」と語りました。死を嘆き、長城を築く上で土地の脈絡を絶ったことは罪に当たるとして、自ら毒を飲み最期を迎えますが、蒙恬の最期は悲劇の死として語り継がれています。

蒙恬の功績

功績1「斉を滅ぼし、秦の中華統一に貢献」

始皇帝像 始皇帝のもとで中華統一に貢献

秦は紀元前221年に中華統一を果たします。戦国七雄と呼ばれた国の中で、秦が最後に攻め入ったのが斉です。蒙恬は、この斉討伐で代々秦に仕えてきた家柄により将軍となり、李信、王賁と共に斉に攻め入ります。

斉王建は戦わずに降伏し、これによって秦の統一が完成しました。蒙恬はこの功績を高く評価され、始皇帝より内史という役職に任命されます。蒙恬は統一後の活躍が多く記録に残されていますが、この斉討伐から始皇帝のもとで様々な功績を残していくことになります。

功績2「30万の軍を率いて匈奴討伐」

匈奴は遊牧民族でモンゴル高原を中心に勢力を持っていた

始皇帝は中華統一後、蒙恬に北方の匈奴討伐を命じます。匈奴とはモンゴル高原を中心に勢力を持っていた騎馬民族で、秦や趙、燕などの国境の接する国から恐れられていました。中華を統一し敵国のなくなった秦は、匈奴討伐に乗り出します。

蒙恬は、30万の軍を率いて北方へと向かいました。圧倒的な軍事力で、匈奴をさらに北へ追いやることに成功し河南の土地を手に入れます。匈奴の人々は蒙恬の名を聞くと震え上がるほどその存在は脅威となり、蒙恬の討伐によって秦は匈奴の侵略から守られたのです。

功績3「万里の長城の建設を指揮 」

世界遺産で多くの人が訪れる万里の長城

匈奴討伐後、蒙恬は万里の長城の建築を指揮することになります。河南の土地を手に入れたことをきっかけに、中華統一より前に各国が匈奴からの侵略を防ぐために築いた城壁を繋げて、現在の万里の長城が完成します。臨洮を起点として遼東まで約5千キロにも渡る長城となりました。

蒙恬は河南を攻める途中でも、黄河に沿って四十四の県城を連ねた城塞を作ったとも言われており、万里の長城以外にも城塞や道路の整備を指揮していました。

万里の長城は、後の王朝によっても修理や移転が行われ、現存するものは秦の時代のものとは違う場所にあるとされています。

蒙恬の名言

わたくしは天にいかなる積みを得、過ちもないのに死ななければいけないのか

蒙恬が二世皇帝として即位した胡亥から自殺の命令を受けた時、自殺する最後に語った一言です。一度は命令に疑問を持ち抵抗するも、二度も自殺の命令を受け、最後は自ら毒を飲んで亡くなります。始皇帝に仕え、最後まで忠誠を誓った蒙恬の嘆きが込められています。

殺されることを必定と知りながら、なお自ら大義を守るのは、祖先の教えを辱しめず、ひいては先帝の恩を忘れないからであります。

こちらも、二世帝王から自殺の命令を受けた時の言葉です。蒙恬率いる30万の軍事力をもってすればこの命令に背くこともできるが、それをしないのは名立たる武将であった祖先や、自分を信頼してくれた始皇帝のためであると、祖父の代から三代にわたって秦に仕えてきた蒙恬の深い感謝の気持ちが読み取れます。

俺にとってはあなたが一番の英雄でしたよ、蒙驁大将軍

漫画キングダムの中の蒙恬の一言で、史実とは違うかもしれませんが、祖父であり秦の大将軍であった蒙驁の亡きあとに語りかけた言葉です。かつて六大将軍と言われた秦の英雄たちよりも、蒙恬にとっては祖父である蒙驁が常に輝いて見えていたのでしょう。

蒙恬の人物相関図

漫画「キングダム」の人物相関図です。史実と違う点もありますが、この相関図から蒙恬の家族構成や関わりのあった人物が分かります。

蒙恬にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「蒙恬が初めて毛筆を作った?」

蒙恬が毛筆を作ったと言われるが真実はいかに

蒙恬が、初めて毛筆を作ったという逸話が残されています。匈奴を攻めるために北方に遠征していた時に獣の毛を集めて筆を作り、その筆を始皇帝に献上したことが始まりとされています。秦の時代以降、筆で書かれた文字が一般的になったことも、蒙恬が作ったという説を後押ししているのかもしれません。

この逸話には諸説あり、戦国時代の遺跡から筆が発見されていることや、それ以前の殷の時代にはすでに発明されていたという説もあります。そのため、現在では蒙恬は筆を改良した人物として伝えられることが多いようです。

都市伝説・武勇伝2「蒙恬は武将ではなく文官だった?」

かつては宮廷に文官として仕えていた

中華統一に向けての戦や、匈奴討伐などの武功を上げている蒙恬ですが、武将になる前は文官として宮廷に仕えていました。若くから刑法を学び、訴訟や裁判に関わる文書を取り扱う役職についていたと言われています。文官と武将、賢さと強さを持つ人物であったことが想像できます。

漫画「キングダム」でも、蒙恬は軍師学校を卒業しており、軍師として才能のある特別軍師許可を持つ人物として描かれています。武将としての強さだけでなく、頭の良さが際立つエピソードが多いことからも、史実上の蒙恬も多才な人物であったということなのではないでしょうか。

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